第四十七話 勇者さま、ベルを置いていこうとする
朝から、小雪は荷物をまとめていた。
山の家の中は、いつもと変わらない。
屋根から落ちる雪解け水が、ぽたり、ぽたりと軒下を叩き、窓の外では水量を増した川が流れている。
火床の近くには、昨日使った蜜蝋の甘い匂いがまだわずかに残っている。
作業台の奥には、ベルが作った小箱があった。
中に入っているのは、昨日完成したばかりのコイルである。
小さな釘をほんの少しだけ動かした、魔法ではない力の始まりだった。
小雪はその箱を持ち上げると、棚のさらに奥へ移した。
揺れにくい場所を選び、下には柔らかな布を敷く。
箱を戻したあとも、蓋がきちんと閉じていることを確かめるように指先で一度だけ押さえた。
「……ここなら、大丈夫ですね。」
誰に言うでもなく呟いてから手を離し、今度は作業台の上へ散らばっていた記録用紙を集めた。
水車の軸へ油を差す時期、銅線の保管方法、蜜蝋を火へ近づけすぎないこと、巻き取り機を使う際の注意。
書きかけだった項目を追加して紙をまとめ、見つけやすい場所へ置いておく。
それからようやく、床に置いていた鞄へ向き直った。
着替え、水筒、保存食、記録用紙、小さな薬包。必要なものを順番に入れ、最後に小さな鈴を手に取る。
その時だけ、小雪の手が止まった。
山の家で何度も鳴らした鈴だった。雨の日も、夜中でも、眠っていても、鳴らせばベルが来た。
小雪はしばらくその鈴を見てから、鞄の中へ入れようとした。
「何してんだ。」
背後から声がした。
振り返ると、ベルが立っていた。片腕には薪を抱え、もう片方の手には朝の水を汲んだ桶を持っている。短い金髪にはまだ少し寝癖が残り、上着の襟もわずかに曲がっていた。
いつもの朝のベルだった。
小雪は鈴を鞄へ入れ、そのまま蓋を閉じた。
「旅支度です。」
「見れば分かる。」
ベルは眉を寄せ、抱えていた薪と桶を床へ下ろした。そのまま小雪の足元にある鞄へ視線を落とす。
「どこ行く気だ。」
「王都です。」
「王都?」
「はい。」
「何しに。」
「確認です。」
返事を聞いたベルの表情が、わずかに変わった。
「何の。」
「魔物の凶暴化と、魔素の流れについて。」
今度こそ、ベルは完全に動きを止めた。
少しの間、小雪を見ていたが、やがて改めて室内を見回す。
いつもよりきれいに片づけられた作業台、棚の奥へ移されたコイルの小箱、まとめられた記録、床に置かれた鞄。
そして、荷物を積める小雪。
「それ、今日行くつもりだったのか。」
「はい。」
「俺に言わずに?」
「今、言いました。」
「出る直前に言うのは、言ったうちに入らねぇだろ。」
「そうですか。」
「そうだ。」
ベルは小雪の正面まで来た。朝の寝癖は残ったままだが、目だけはもう完全に覚めている。
「で、王都で何する気だ。」
「王城の転移装置を使います。」
「転移装置?」
「はい。行き先を固定した大型の魔導具です。個人で自由に転移できるのは、移動系の固有スキル保持者くらいですから。」
「へえ。」
ベルは一度頷いた。
「それで、どこへ飛ぶ。」
「旧魔王領方面です。」
その言葉を聞いた瞬間、ベルの顔が変わった。
「旧魔王領?」
「はい。」
「魔王城の方か。」
「近くです。そこからは歩きます。」
「ちょっと待て。」
ベルは片手を上げ、小雪の説明を止めた。
「王都へ行きます。王城の転移装置を使います。旧魔王領まで飛びます。そこから歩きますって、朝飯前に言う話じゃねぇだろ。」
「朝食後ならよかったですか。」
「そういう話じゃねぇ。」
「では、朝食中。」
「違う。」
ベルは額を押さえ、しばらくそのまま黙っていた。
やがて大きく息を吐き、小雪を見直す。
「おまえ、一人で行く気だったな。」
「はい。」
「はいじゃねぇ。」
小雪は首を傾げた。
「ベルは来てはいけません。」
「何でだよ。」
「危険です。」
「旧魔王領なら、まあ危険だろうな。」
「はい。」
「だから一人で行くのか。」
「はい。」
「理屈がおかしい。」
ベルは腕を組んだ。少し寝癖が残ったままなので、真剣な顔をしていても少しだけ迫力が足りない。
「危険なら、なおさら俺も行くだろ。」
「ベルは補填されません。」
「知ってる。」
「怪我をします。」
「しねぇようにする。」
「魔物がいます。」
「剣を持ってる。」
「魔族領です。」
「俺は強いって、おまえも認めてただろ。」
「未知の魔素異常があります。」
小雪がそう言うと、ベルはほんの一瞬だけ考えた。
「それは剣じゃどうにもならねぇかもしれないけど、荷物くらいは持てる。」
「荷物は軽いです。」
「そういう話じゃねぇって、何回言わせる気だ。」
ベルはまた大きく息を吐いた。
小雪は、そんな彼を静かに見ていた。
ベルが怒ることは分かっていたし、着いていくと言うことも、たぶん分かっていた。
だから、出る直前に言った。
それでも、少し遅かったらしい。
「ベル。」
「何だ。」
「今回の調査は、普通の魔物討伐ではありません。」
「だろうな。」
「何があるか、分かりません。」
「だから行く。」
「危険です。」
「それは、もう聞いた。」
「ベルには。」
小雪は少しだけ視線を逸らした。
「山の家にいてほしいです。」
ベルは黙った。
小雪はそのまま作業台へ目を向ける。
「水車を見ていてください。コイルを壊さないでください。銅線を曲げないでください。蜜蝋も火に近づけすぎないでください。」
「壊さねぇし、曲げねぇし、分かってる。」
「髪を整える約束も、まだです。」
ベルの声が、思ったより低くなった。
「だったら、帰ってこい。」
小雪はベルを見た。
「帰る予定です。」
「予定?」
「はい。」
ベルの眉間に、はっきりと皺が寄った。
「その言い方が気に入らねぇ。」
「では、帰る努力をします。」
「もっと悪い。」
「言い方が難しいです。」
「難しくしてるのは、おまえだ。」
ベルは小雪の鞄を指した。
「おまえが、魔物の凶暴化について何か知ってるのは分かる。王城の転移装置を使うってことは、王にも何か話が通じるんだろ。旧魔王領まで行く必要があるってことは、相当まずいんだろ。」
小雪は一つずつ頷いた。
「はい。」
「だったら、俺も行く。」
小雪は少し間を置いた。
「なぜですか。」
ベルは、本当に分からないのかという顔をした。
「だから、危ないからだ。」
「危ないから、来てはいけません。」
「危ないから、行くんだよ。」
「ベルは補填されません。」
「おまえは補填されるからって、無茶するだろ。」
小雪は黙った。
ほんの少しだけだった。
けれど、ベルは見逃さなかった。
「ほらな。」
「ほらとは。」
「俺がいないと、おまえはすぐ自分を道具にする。」
「必要なら、します。」
「するな。」
「必要なら。」
「必要にするな。」
ベルは小雪の前へ一歩出ると、指を一本立てた。
「俺は助手。」
もう一本。
「オカン。」
さらに一本。
「チワワ。」
小雪は頷いた。
「はい。」
「なら、止めるのも仕事だ。」
「チワワは止めますか。」
「吠える。」
「なるほど。」
「そこで納得するな。」
ベルは腕を下ろした。
「荷物を持つ。飯を作る。寝る場所を見る。魔物が出たら前に出る。おまえが補填を使いそうになったら怒鳴る。」
「怒鳴るのですか。」
「怒鳴る。」
「魔物に気づかれます。」
「じゃあ、小声で怒鳴る。」
「難しそうです。」
「俺がやる。」
小雪は少しだけ首を傾げた。
「ベル。」
「何だ。」
「どうして、そこまで来ようとするのですか。」
「おまえが行くからだろ。」
「私は勇者です。」
「知ってる。」
「ベルは公爵家次男です。」
「知ってる。」
「無関係です。」
「関係あるだろ。」
「どこに。」
ベルは作業台を指した。
「水車。」
次に棚を見る。
「銅線。」
その奥にある小箱へ視線を向ける。
「コイル。」
小雪は黙った。
「おまえ一人で作ったわけじゃねぇ。」
「はい。」
「俺も作った。ガドさんも、ロイさんも、村の連中も関わってる。それで、その調査が魔素だの魔物だの、俺たちが今まで作ってきたものにつながってるなら、俺にも関係ある。」
小雪は何も言わなかった。
「それに。」
ベルは、今度は指折り数え始めた。
「おまえが一人で行ったら、たぶん飯を抜く。」
「抜きません。」
「寝ない。」
「寝ます。」
「床で寝る。」
「地面かもしれません。」
「ほらな。」
「旅では地面もあります。」
「そういうところだ。」
ベルは腕を組んだまま、部屋の隅に置いてあった自分の鞄を小雪の隣へ置いた。
小雪は、それを見た。
「準備済みですか。」
「途中だ。」
「いつから。」
「昨日から。」
小雪は黙った。
ベルは少しだけ口元を歪める。
「予想通りだ。」
「ベルは、本当によく見ています。」
「見てるよ。」
ベルは自分の鞄を軽く蹴った。
「おまえが遠くを見てる時の顔は、もう分かる。」
小雪は返事をしなかった。
「だから、行く。」
「許可していません。」
「許可を取る気がねぇ。」
「困ります。」
「困れ。」
「横暴です。」
「三下だからな。」
「公爵家次男では。」
「今日は三下優先だ。」
「騎士のあなたは?」
「荷物持ち兼護衛に使え。」
「便利そうですね。」
「そうだろ。」
ベルは少し笑った。
いつもの明るい顔だった。
小雪は思わず黙った。
いつものように明るく、温かい。
すぐに怒り、すぐに赤くなるくせに、決して諦めない。
鈴を鳴らせば来てくれて、いつも隣にいてくれた。
昨日は、小雪の笑顔を心に記録するとまで言った。
その人を、あんな場所へ連れていく。
魔物がいる。
魔族がいる。
魔素の異常がある。
それだけなら、まだいい。
それだけではないから、小雪は置いていこうとした。
知れば、絶対に今のままではいられなくなる。
けれど、それは言えない。
言えば、もう戻れなくなる。
「ベル。」
「何だ。」
小雪は少しだけ間を置いた。
「私は、すべてを説明するとは言っていません。」
ベルの表情が変わった。
「……着いていっても、か。」
「はい。」
「何で。」
「自分で見て、判断してください。」
ベルは露骨に嫌な顔をした。
「おまえ、嫌なこと言うな。」
「はい。」
「認めるな。」
「事実ですから。」
「魔物の情報か。」
「一部は。」
「魔族の情報か。」
「一部は。」
「王城絡みか。」
「一部は。」
「全部、一部じゃねぇか。」
「はい。」
ベルは舌打ちした。
しばらく小雪を睨むように見ていたが、やがて諦めたように息を吐く。
「分かった。」
「分かったのですか。」
「分かってねぇよ。」
「では。」
「分かってねぇけど、行く。」
ベルは鞄へ手を置いた。
「見て判断しろって言うなら、見に行く。俺は馬鹿じゃねぇ。見たものくらい、自分の頭で考える。」
「……。」
「それで、納得できなきゃ怒る。」
「……怒る。」
「おまえにも怒る。」
「はい。」
「王にも怒るかもしれねぇ。」
「はい。」
「魔物にも怒る。」
「それは普通です。」
「魔族にも怒るかもしれねぇ。」
小雪は黙った。
ベルの目が細くなる。
「そこで黙るな。」
「はい。」
「……やっぱり、魔族にも何かあるんだな。」
「見て判断してください。」
「便利な言葉だな。」
「はい。」
「嫌なやつ。」
「そうだと思います。」
「認めるな。」
「はい。」
小雪は少しだけ目を伏せた。
ベルの視線から逃げるように鞄を開け、先ほど入れた鈴を取り出す。
持っていくか。
置いていくか。
もう一度迷った。
「鈴、持っていくのか。」
「迷っています。」
「持ってけ。」
「ベルは隣にいます。」
「はぐれるかもしれねぇだろ。」
「ベルが?」
「おまえが。」
「私は、はぐれません。」
「はぐれる。絶対はぐれる。」
ベルは小雪の手から鈴を取り上げた。
「というか、一人で行こうとしてたやつが言うな。」
「それは、はぐれるとは違います。」
「似たようなもんだ。」
「違います。」
「いいから持ってけ。」
ベルは鈴の紐を鞄の内側へ結びつけ、指で一度引いて外れないことを確認した。
「これで落ちねぇ。」
「ありがとうございます。」
「緊急なら鳴らせ。」
「はい。」
「緊急じゃなくても。」
ベルは少し考えた。
「まあ、必要なら鳴らせ。」
「いいんですか。」
「旧魔王領だろ。確認で鳴らすなとは言わねぇ。」
「では、確認で。」
「おい。」
小雪が鈴へ手を伸ばす前に、ベルが鞄を抱え込んだ。
「今じゃねぇ。」
「はい。」
小雪は、鞄の中に入った鈴を見た。
山の家で何度も鳴らした、小さな鈴である。
ベルが来る音。
それを、旧魔王領にも持っていく。
そのことが、少しだけ心細さを減らした。
小雪は、それが嫌だった。
心細さが減れば、ベルを連れていくことを許してしまいそうになる。
いや。
違う。
もう、許してしまっている。
「朝飯にするぞ。」
ベルは、それまでの話を終えるように立ち上がった。
「時間がありません。」
「公爵家の馬車を頼む。それなら、一日位ずらしても問題ないだろ。」
「必要ないです。」
「必要ある。」
「ベル。」
「何だ。」
「本当に来るのですか。」
鍋を持ったベルが振り返った。
「何回聞く。」
「確認です。」
「行く。」
「危険です。」
「分かってる。」
「知らない方がよかったと思うかもしれません。」
ベルは鍋を火へ掛け、豆と野菜の入った昨夜のスープを木べらでゆっくり混ぜ始めた。
「魔族のまずい情報なら、知らない方がよかったって思うに決まってるだろ。」
小雪は黙った。
「でも。」
ベルは鍋を見たまま続けた。
「知らないまま、おまえが一人で行く方が嫌だ。だから着いていく。」
火が小さく鳴った。
小雪は指先を少し握る。
「……私が。」
声が少し低くなる。
「あなたに、知らないままでいてほしいと願ってもですか。」
ベルは手を止めなかった。
「ああ。」
小雪は黙った。
ベルはまだ知らない。
知らないから、そう言える。
魔物の異常。
魔族領の危険。
王城の秘密。
その程度だと思っている。
それでよかった。
それがよかった。
けれど、着いてくれば見てしまうことになる。
見れば、知ってしまう。
知れば、もう戻れない。
「小雪。」
「はい。」
「座れ。」
「旅支度が。」
「いいから座れ。」
「……はい。」
小雪は椅子へ座った。
ベルが温めたスープを、目の前へ置く。
いつもの匂いだった。
豆。
野菜。
少しの肉。
山の家の朝。
小雪は匙を持ち、口へ運んだ。
温かい。
昨日と同じ。
王都にも、旧魔王領にも、おそらくない味。
小雪とベル二人だけの味。
「おいしいです。」
「そうか。」
「ベルの料理です。」
「ああ。」
「あちらへは持っていけません。」
「干し肉と豆なら持てる。」
「向こうで料理するつもりですか?」
「ああ、現地で作る。」
「旧魔王領で。」
「鍋があればな。」
「魔族領スープ。」
「名前が怖いな。」
ベルはいつもの調子で答えた。
小雪は少しだけ笑った。
笑ってから、胸が痛くなった。
こんなに明るい場所にいる人を、あそこへ連れていきたくなかった。
「ベル。」
「何だ。」
「あちらは、水が悪いかもしれません。」
「煮る。」
「魔素が薄いかもしれません。」
「味と関係あるのか、それ。」
「分かりません。」
「なら、試す。」
「科学。」
「ああ。」
ベルは少し得意そうに答えた。
小雪は、その顔をじっと見つめた。
この人は、たぶんどこへ行っても火を起こす。
水を探す。
鍋を出す。
食べさせる。
遠くを見ている小雪を、近くへ戻そうとする。
だから怖い。
失うのが。
損なうのが。
怖い。
とても。
この感情の名前を、小雪はもう分かりかけている。
朝食を終えると、二人は王都へ向かうための準備を始めた。
ベルは村を通じてグランツ公爵家へ使いを出し、明日付けの王都行きの馬車と王城への先触れを頼むことにした。
小雪が必要事項を告げ、ベルが短い依頼文へまとめる。
「勇者春野小雪が、東方の魔物凶暴化および魔素循環異常の確認のため、旧魔王領方面への転移装置の使用を求めます。」
ベルは書きながら、少し嫌そうな顔をした。
「堅いな。」
「正式文です。」
「陛下は、こんなに急に頼んで貸してくれるのか。」
「貸します。」
小雪が迷いなく答えると、ベルのペンが止まった。
「自信満々だな。」
「拒否できません。」
「何で。」
「勇者だからです。」
「それだけか?」
小雪は答えなかった。
ベルはまた嫌な顔をする。
「他にもあるんだな。」
「見て判断してください。」
「またそれか。」
「はい。」
「嫌な勇者さまだな。」
「はい。」
ベルはため息を吐いた。書き終えた紙を畳み、使いへ渡すために封をする。
「まあいい。王都で見てやる。」
「はい。」
「転移装置ってのも気になるしな。」
「大型魔導具です。」
「それは聞いた。」
「行き先は固定です。」
「それも聞いた。」
「使用には、大量の魔力が必要です。」
「それも何となく分かる。」
「ベルは使えません。」
「急にひどいな。」
「事実です。」
「知ってるよ。」
ベルは少し顔をしかめた。
「おまえ自身が転移するわけじゃねぇんだな。」
「はい。移動系魔法は、固有スキルでもないと使えません。」
「なら、王城の装置頼みか。」
「はい。」
ベルは封をした紙を見た。
それから、小雪を見る。
「ますます妙だな。」
「何がですか。」
「魔族領なんて危ない場所へ、王城から飛ぶための装置があることが。」
小雪は答えなかった。
ベルはしばらく待ったが、小雪が何も言わないと、諦めたように息を吐いた。
「そこも、見て判断しろってか。」
「はい。」
「便利だな、その言葉。」
「はい。」
「分かった。」
ベルは自分の鞄を閉じた。
「見る。」
小雪は頷いた。
見る。
ベルは見る。
その目が、どこまで耐えられるのか。
小雪は知らない。
知りたくなかった。
昼前には、公爵家から返事が届いた。
『翌朝、王都へ向かう馬車を出し、王城へも先触れを送る。詳しい事情については、今のところ問わない。』
簡潔な返事だったが、ベルはそれを最後まで読むと、さきほどまで荷物の量について文句を言っていた時とは違う、少し引き締まった顔で紙を畳んだ。
「明朝だ。」
「はい。」
「なら今日は、足りないものを全部確認する。」
ベルはそう言って自分の鞄を開き、小雪の方を警戒するように見た。
「先に言っておくけど、俺の荷物を勝手に減らすなよ。」
「重いです。」
「減らすな。」
「剣も重いです。」
「剣は持っていく。」
「鍋もあります。」
「鍋も持っていく。」
小雪は、鞄の横に置かれた鍋を見た。剣と水筒と食料だけでも十分な量なのに、ベルは本気でそれまで持っていくらしい。
「鍋は必要ですか。」
「スープを作る。」
「旧魔王領で。」
「またとない機会だろ。」
「旧魔王領スープ。」
「だから、その名前は怖いって。」
ベルは少し笑った。
小雪も、つられて少しだけ笑った。
けれど、その視線はすぐに作業台の奥へ向かった。
棚にはコイルの小箱があり、その隣には残った銅線と巻き取り機が置かれている。
川には水車と炉が残っている。
全部、ここに残る。
ベルも一緒に来るのなら、山の家は本当に空になる。
そう考えた途端、小雪の胸の奥に小さな不安が生まれた。
「小雪。」
「はい。」
「また、変な顔してる。」
「そうですか。」
「ああ。」
ベルは荷物を詰める手を止め、小雪を見た。
「どんな顔ですか。」
訊くと、ベルは少し考えたあと、作業台や棚へ向いていた小雪の視線を追うように室内を見回した。
「置いていくものが多い顔。」
小雪は瞬きをした。
ベルは、こういうところだけ鋭い。
「確かに多いです。」
「なら、帰ってこい。」
「はい。」
「違うな。一緒に帰ってくる、だ。」
小雪は少し黙った。
「努力します。」
「またそれか。」
「すみません。」
「謝るな。」
ベルは眉を寄せたまま小雪の前まで来ると、額を指先で軽く弾いた。
こつん、と小さな音がした。
「……痛いです。」
「戻ってきたか。」
「……はい。」
「よし。」
小雪は額へ手を当てた。少しだけ痛い。もちろん補填が働くような痛みではない。
けれど、不思議と意識は先ほどまで見ていた遠い場所から、今いる山の家へ戻ってきた。
「ベル。」
「何だ。」
「痛いのは嫌です。」
「そりゃそうだろ。」
「でも、少し安心しました。」
ベルは困ったように笑った。
「変なやつ。」
「はい。」
「褒めてねぇからな。」
「はい。」
小雪は額を押さえたまま、もう一度作業台を見た。
帰ってくる。
ベルは簡単にそう言う。
小雪も、そうであってほしいと思っている。
けれど、旧魔王領で何を見せることになるのか。
ベルが何を知ることになるのか。
それを考えると、さきほど戻ってきたばかりの胸の奥が、また少しずつ冷えていった。
その夜、二人は暖炉のそばで最後の荷物を確認した。
食料、水筒、記録用紙、薬、鈴、剣。それから鍋。
ベルは最後まで鍋をどこへ入れるかで悩んでいた。
鞄の底では取り出しにくく、上へ置けば他の荷物を圧迫する。
何度か位置を変えたあと、ようやく納得したらしく紐を締めた。
「鍋は重要ですか。」
小雪が訊くと、ベルは当然のように頷いた。
「重要だ。」
「剣より。」
「場合による。」
「魔物相手には。」
「剣。」
「そして空腹には。」
「鍋。」
「重いですが、確かに重要かもしれませんね。」
「納得したか。」
「はい。」
ベルは満足そうだった。
小雪は自分の鞄を閉じた。内側には、朝、ベルが結んだ鈴がある。
外では雪解け水が流れていた。
明日の朝、この家を出る。
まず王都へ向かい、王城へ入り、転移装置を使って旧魔王領へ行く。
小雪は、棚の奥に置いたコイルの小箱を見た。
その視線に気づいたベルも、同じ場所を見る。
「大丈夫だ。」
「はい。」
「帰ったら確認する。箱も、直すところがあれば直す。」
「はい。」
「それから。」
ベルは少し言いにくそうに視線を逸らした。
「髪も整える。」
小雪はベルを見た。
「髪。」
「ああ。」
「重要ですか?」
「重要だ。」
「では、戻ったら。」
「戻ったら、じゃねぇ。」
ベルはすぐに言い直した。
「戻る。それから整える。」
小雪は答えなかった。
ベルは気にせず続ける。
「腰より伸びたら、今度から俺が切るからな。おまえは二度と自分で切るな。」
「はい。」
「斜めになると、俺の心に問題が出る。」
小雪は瞬きをした。
「自分で言いました。」
「うるせぇ。」
ベルの耳が少し赤くなった。
こんな話をしている時でも、やはり赤くなる。
小雪はその顔を見て、少しだけ笑った。
ベルは一瞬、何も言わなかった。
「そういう顔ができるなら。」
さきほどより静かな声だった。
「帰ってこい。」
小雪の笑みが消えた。
「はい。」
「違うな。」
ベルはすぐに言った。
もう一度、念を押すように。
「一緒に帰る、だ。」
小雪は答えなかった。
暖炉の火が、小さく音を立てた。
「小雪。」
「はい。」
「答えろ。」
ベルの声が少し低くなる。
小雪は火の向こうにいるベルを見た。
山の家は温かい。
窓の外からは川の水音が聞こえ、棚にはコイルの小箱があり、作りかけの材料も残っている。
鞄には鈴が入り、床には鍋と剣が並んでいる。
そして、目の前にはベルがいる。
損ないたくないものが、増えすぎた。
「ベル。」
「何だ。」
「帰りたいとは、思います。」
ベルの顔が強張った。
「帰る、だ。」
小雪はやはり答えられなかった。
「小雪。」
もう一度名前を呼ばれる。
けれど、「帰る」とは言えない。
帰りたい。
それは本当だった。
山の家へ戻りたい。
コイルをもう一度箱から出したい。
ベルに髪を整えてもらいたい。
水車の音を聞きながら、また一緒にスープを食べたい。
そう思うようになった。
けれど、それと、帰れるかどうかは別だった。
すべてを知った彼とともに。
「ベル。」
「何だ。」
小雪は少しだけ息を吸った。
「きっと、あなたは後悔します。」
ベルは眉を寄せた。
「何をだよ。」
小雪は、火の向こうにいる彼を見た。
整った顔も、琥珀色の目も、怒ればすぐに寄る眉間の皺も、赤くなりやすい耳も、山の家で何度も見た。
きっと、これから。
彼をひどく傷つけることになる。
「あの日、私と出会ったことを。」
ベルが息を止めた。
すぐに何か言おうとしたのが分かった。
けれど、小雪は先に鞄へ視線を落とした。
暖炉の火が小さく鳴り、外では春の水が変わらず流れていた。山の家は今日も温かい。
明日、二人はここを出る。
ベルはまだ何も知らないまま、それでも小雪の隣へ来ようとしている。
小雪は、最後までそれを止められなかった。




