第四十六話 コイルができた日
春の水は、よく鳴る。
冬のあいだ雪の下で静かに息を潜めていたものが、いっせいに目を覚ましたようだった。
屋根から落ちた雫は軒下の桶を叩き、道の端には細い流れができ、雪解け水を集めた川は以前より勢いを増している。
その水に押されて、水車も冬の頃より少し軽やかな音を立てて回っていた。
山の家の前では、かつて玄関守護獣と呼ばれていた雪ウサギが、もうほとんど小さな白い山になっている。葉で作った耳も片方は地面へ落ち、あれほど凶暴だった顔の跡さえ、今ではどこにあったのかよく分からない。
小雪は玄関先に立ち、しばらくその残骸を見ていた。
「守護獣が、役目を終えました。」
「溶けただけだ。」
家の中からベルの声が返ってくる。
振り返ると、彼は作業台の上へ工具を並べながら、こちらを見もせずに答えていた。
「春です。」
「そうだな。」
「雪ウサギは補填されませんでした。」
その言葉には、さすがにベルも手を止めた。
少しだけ嫌そうな顔で小雪を見る。
「何でも補填に戻すな。怖いから。」
小雪はもう一度、白い山になった守護獣へ目を向けた。
失敗した雪ウサギ。
凶暴な顔になり、片耳を失い、それでも冬の終わりまで玄関にいた。
役目があったのかは分からない。
それでも、ずっとそこにいた。
小雪は家の中へ戻った。
作業台の中央には、銅線の箱が置かれている。短いもの、少し長いもの、途中で切れたもの。
その中には、薄い紙と蜜蝋で絶縁した銅線もあった。
赤い金属は白い薄皮の下に隠れ、もう最初に鍛冶場で見た銅棒とはまるで違う。
今日は、それを巻く。
鉄の芯へ、少しずつ。
コイルにする。
小雪は箱の蓋を開け、しばらく中を見た。
「ベル。」
「何だ。」
「今日は、コイルですね。」
「ああ。」
「電磁石の体です。」
ベルは工具の位置を確かめながら、小さく頷いた。
「魂はまだ電気か。」
「電気です。」
「面倒なやつだな。」
「そうですね。」
「でも、今日は体を作る。」
「はい。」
小雪が頷くと、ベルは作業台の中央に置かれた道具を軽く叩いた。
木の台に二本の支柱が立ち、その間には横向きに鉄芯が渡されている。
芯を回すための取っ手と、銅線をゆっくり送り出すための小さな溝。張りを調整する木片までついていた。
見た目だけなら、ひどく単純な道具だった。
けれど、小雪には分かる。
丸い棒を削ったこと。
滑車を作ったこと。
回るものを止める方法を考えたこと。
穴を開けたこと。
銅を線に変えたこと。
その線が隣へ近道しないよう、紙と蜜蝋で包んだこと。
今まで一つずつ積み上げてきたものが、この小さな巻き取り機の中へ集まっている。
「巻き取り機。」
「ああ。」
「ぐるぐる文明。」
ベルが嫌そうに眉を寄せた。
「今日は絶対言うと思ってた。」
「ぐるぐるします。」
「するな。いや、するけど。」
「どちらですか。」
「とにかく巻く。」
「はい。」
ベルは鉄芯へ指を掛け、取っ手を回した。芯が、ゆっくりと回転する。
完全になめらかではない。わずかに引っかかるところがあり、回転にも少しむらがある。それでも、きちんと回る。
「手で直接巻けば、やっぱり隙間がばらばらになる。線が重なったり、場所によって張りが変わったりするからな。」
ベルは取っ手を回しながら、芯の動きを確かめた。
「強く引きすぎれば切れる。弱すぎればたるむ。だから、芯をなるべく同じ速さで回して、線を横へ少しずつ送る。」
「はい。」
「一気にはできない。ゆっくりだ。」
「はい。」
「おまえは巻き数を数えること。」
「はい。」
「……途中で俺の顔とか手とか見るなよ。」
小雪は首を傾げた。
「なぜですか?」
「たぶん、数を間違える。」
「私がですか。」
ベルは一度、小雪を見たあと、少しだけ目を逸らした。
「……俺も、気を付ける。」
「ベルも数えるのですか?」
「念のためにな。」
「失礼ですね。」
「これまでの実績だ。」
小雪は少し考えた。たしかに可能性は排除できない。
「では、私は数えます。」
「頼む。」
「ベルは巻きます。」
「ああ。」
「私は線に触ってもいいですか?」
ベルはすぐに答えなかった。
箱の中の銅線と、小雪の手を見比べる。
「触るなら、俺と一緒にだ。」
「はい。」
小雪は頷いた。
できること。
できないこと。
できるようになりたいこと。
ベルがすること。
小雪がすること。
分ける。
けれど、分けても一緒に進める。
それも、たぶん文明なのだろう。
今日は鍛冶場へ行かず、山の家で作業することになった。ガドもロイも来ていない。
二人だけである。
暖炉には小さく火が入っていた。作業の途中で蜜蝋が硬くなりすぎれば、少し温め直すためだ。
小雪は記録用紙を広げ、ペンを持った。
ベルは箱から絶縁した銅線を一本取り出す。
「最初が大事だ。」
「はい。」
「ここが緩むと、後が全部ずれる。」
「始まりは大事ですね。」
「ああ。」
「水車も、最初は小さかったです。」
「そうだな。」
「作る前にベルが川に落ちました。」
「忘れてくれ。」
「初めてすごい体を見た時です。」
ベルの手が止まった。
「その説明はいらん!」
「脱ぎがちの始まりの記録です。」
「記録を選べ!」
耳を赤くしながらも、ベルは銅線の先端を鉄芯へ固定した。
最初の一周だけは、取っ手を使わず手で巻く。
小雪はすぐにペンを構えた。
「一。」
「まだ数えなくていい。」
「なぜですか。」
「固定だからだ。」
「固定一。」
「やめろ。」
「はい。」
ベルは銅線が外れないことを確かめると、ようやく取っ手へ手を掛けた。
「いくぞ。」
「はい。」
取っ手がゆっくり回る。
鉄芯が回転し、白く包まれた細い銅線が、その表面へ沿うように巻きついていく。
一周。
「一。」
もう一周。
「二。」
さらに一周。
「三。」
ベルの動きは慎重だった。
速くない。
無理に引かない。
取っ手を回す右手と、銅線を送る左手が別々に動いている。
張りが強くなれば少し緩め、線が横へずれれば指先で位置を直す。
昨日まで引いていた銅線が、今日は鉄芯の周りへ道を作っていく。
「四。」
小雪は数えた。
けれど、その視線は、ついベルの手へ移った。
剣を持った手。
銅を引いた手。
髪を拭く手。
自分の手を支える手。
今は、コイルを巻いている。
「小雪。」
「はい。」
「俺の手を見るな。」
「見ています。」
「数えろ。」
「五。」
ベルの手が止まった。
「今、飛んでねぇか。」
「飛んでいません。」
「本当か。」
「たぶん。」
「たぶんは駄目だろ!」
「では、四かもしれません。」
「戻るぞ!」
ベルは慌てて巻き取り機を止めた。
二人で記録用紙を確認する。
一。
二。
三。
四。
五はまだ書いていない。
「四です。」
ベルは大きく息を吐いた。
「危ねぇ……。」
「ベルの手が悪いです。」
「俺の手のせいにするな。」
「器用なので。」
「褒めてんのか責めてんのか分からねぇ。」
「褒めています。」
「なら刺すな。」
「はい。」
小雪は少しだけ笑った。
ベルも、呆れたように笑った。
「次からちゃんと数えろよ。」
「はい。」
「俺を見るな。」
「善処します。」
「また不安な返事しやがって。」
巻き取り機は、再び動き始めた。
五。
六。
七。
白い線が少しずつ重なり、鉄芯の表面に一つの層ができていく。
近道しないように。
決められた道を通るように。
小雪は数え、ベルは巻いた。
暖炉の火は静かに鳴り、窓の外からは春の川の音が微かに聞こえている。
小雪は、これまでのことを思い出した。
最初の小さな水車。
流されかけた水車。
川で濡れたベル。
ふいご。
炉。
炭。
火の色。
軸受け。
ドリル。
停止装置。
滑車。
丸い棒。
雪下ろし棒。
銅。
穴。
銅線。
絶縁。
ばらばらだったものが、今、この小さな巻き取り機の上で一つにつながっている。
胸の奥が少し温かくなった。
ちりん。
鈴は鳴っていない。
けれど、鳴った。
十七巻き目で、銅線が少しずれた。
「あ。」
小雪が声を上げると、ベルはすぐに取っ手を止めた。
「どこだ。」
「ここです。」
小雪は指を近づけたが、触れずに示した。
「重なりかけてるな。」
「近道しますか。」
「するかもしれねぇ。」
「戻しますか。」
「少しだけな。」
ベルは取っ手を逆に回した。
ほんのわずかに銅線が戻る。
戻しすぎれば緩む。
戻さなければ重なる。
ベルはその境目を探すように、少しずつ取っ手を動かした。
「小雪、ここ見てろ。」
「はい。」
「俺が少し張りを緩める。線が跳ねたら言え。」
「はい。」
「触るなよ。」
「はい。」
「本当に触るなよ。」
「はい。」
ベルは小雪の素直な返事に、逆に不安そうな顔をした。
「そこまで素直だと怖いな。」
「ベルの信用度が下がっています。」
「意味が違って聞こえる!そこは忘れろ!」
ベルが慎重に銅線を緩める。
線が少し浮いた。
小雪は息を止めた。
「跳ねます。」
小雪が言うと、ベルの指がすぐに動いた。浮いた銅線を押さえる。
切れない。
紙も破れない。
「よし。」
「止まりました。」
「ああ。」
「ベルは、止めるのも上手です。」
ベルの指が一瞬止まりかけた。
すぐに銅線へ視線を戻す。
「作業中だ。」
「そうでした。」
「今のは危なかった。」
「はい。」
「でも。」
ベルは赤くなった耳を隠すように、少しだけ顔を逸らした。
「……なんか嬉しいな。」
小雪はベルを見た。
「今日はやけに素直ですね。」
「悪いか。」
「いいえ。」
「なら見るな。」
「嬉しいので今だけガン見します。」
「……感動が薄れたな。」
十七巻き目から、もう一度始める。
十八。
十九。
二十。
数字が増える。
線が増える。
鉄芯の上に、少しずつ何かができていく。
「ベル。」
「何だ。」
「木の年輪に似ています。」
「銅線の年輪か。」
「はい。」
ベルは巻きながら、少しだけコイルを眺めた。
「悪くねぇな。」
「記録します。」
「それはしていい。」
小雪は用紙の端へ書いた。
銅線の年輪。
ベルに許可された。
重要である。
三十巻き目で。
ベルが止まった。
「……次、いくつだっけ。」
小雪は顔を上げた。
「どうしました。」
「悪い。」
「はい。」
ベルは少し言いにくそうに視線を逸らした。
「今、おまえを見てた。」
小雪は瞬きをした。
「私ですか。」
「……そうだよ。」
「なぜですか。」
「真剣に数えてたから。」
「数える係ですから。」
「ああ。」
「間違えると困ります。」
「分かってる。」
「ベルは銅線を見てください。」
「正論が刺さるな。」
「痛いですか。」
「かなり。」
「では、三十からです。」
「……はい。」
ベルは顔を赤くしながら、また取っ手へ手を掛けた。
小雪は記録用紙へ「三十」と少し濃く書いた。
ベルが小雪を見て、数を忘れた。
これは重要な観測記録である。
ただし、今書くと作業が止まる。
後で書く。
三十一。
三十二。
三十三。
巻きは続いた。
途中で蜜蝋が少し割れれば、線を外さないように温め直した。
紙がめくれれば止まり、指先で押さえた。
張りが弱くなればベルが調整し、強すぎれば一度戻す。
何度も止まる。
何度も直す。
それでも、一度も魔法は使わなかった。
以前の小雪なら、風魔法で一気に巻こうとしたかもしれない。火魔法で蜜蝋を温め、動かないものがあれば、さらに強い力を加えたかもしれない。
今はしない。
ベルが手で直す。
小雪が数える。
止まる。
戻す。
また進む。
遅い。
けれど、壊れにくい。
「ベル。」
「何だ。」
「今、魔法を使っていません。」
「ああ。」
「でも、進みます。」
「そうだな。」
「遅いです。」
「遅いな。」
「何度も止まります。」
「ああ。」
小雪は、少しずつ増えていく巻き目を見た。
「でも、進みます。」
「進んでる。」
「これは、すごいです。」
ベルは取っ手を回す手を少しだけ緩めた。
それから、小さく笑った。
「そうだな。」
「はい。」
「すごいな。」
小雪は頷いた。
自分一人では、きっとできなかった。
小雪は世界を壊せる。
山を削れる。
魔物を討てる。
必要なら、自分を燃料にしてどこまでも強力な魔法が撃てる。
けれど、銅線を切らずに巻くことはできなかった。紙を破らず、蜜蝋を割らず、一定の張りを保ち、三十七回目を正確に数えることも、小雪一人ではできなかった。
だから、これは大きい。
手のひらに収まるほど小さなものなのに。
とても大きい。
やがて、小雪が五十と数えた。
ベルは取っ手から手を離した。
回転が止まり、家の中が急に静かになったように感じた。
「……できたか。」
「はい。」
二人は、巻き取り機の上にあるものを見た。
完全ではない。
巻き目は少し不揃いで、絶縁にも不安がある。銅線も短い。
それでも、鉄芯の周りには、白く包まれた銅線が幾重にも巻かれていた。
ベルは固定を外し、両手でコイルを持ち上げた。
慎重に。
とても慎重に。
「できました。」
「ああ。」
「コイルです。」
「ああ。」
「電磁石の体です。」
「そうだな。」
ベルは、小さなコイルを布の上へ置いた。
火が鳴る。
風が木々を揺らす。
川の水音が聞こえる。
小雪は手を伸ばしかけた。
止めた。
ベルが気づいた。
「触るか。」
「壊すかもしれません。」
「一緒に持つ。」
「はい。」
ベルは再びコイルを持ち上げると、小雪の両手の上へそっと載せた。
その下から、ベルの手が支えている。
少しだけ重い。
手のひらに収まる。
「小さいです。」
「ああ。」
「弱いですか。」
「たぶんな。」
「不揃いです。」
「ああ。」
小雪はコイルを見た。
「でも、できました。」
「できたな。」
「私一人では、できませんでした。」
ベルは、小雪を見た。
「俺一人でも無理だった。」
「そうですか。」
「ああ。」
「ベルは器用です。」
「でも、最初にこれを作りたいって言ったのは、おまえだ。」
「はい。」
「水車も、電磁石も、銅線も、絶縁も、俺だけじゃ思いつかねぇ。」
「私は銅線を作れません。」
「俺は電磁石を知らなかった。」
「私は雪ウサギも作れません。」
「それ、今関係あるか?」
「少し。」
ベルは思わず笑った。
「まあ、少しな。」
小雪は、もう一度手の中のコイルを見る。
「ガドさんも、ロイさんも、村も、水車も必要でした。」
「ああ。」
「ベルも。」
「おまえもだ。」
小雪は頷いた。
「一人では、できませんでした。」
「そうだな。」
「二人なら、できます。」
ベルは少し黙った。
その言葉を、どこまでの意味で受け取ったのかは分からない。
けれど、やがて優しく笑った。
「ああ。二人なら、できる。」
小雪は、コイルを両手で包むように見た。
下にはベルの手がある。
コイルは少し温かかった。
火のそばにあったからかもしれない。
小雪とベルの手の間にあるからかもしれない。
「これは、大事です。」
「そうだな。」
「損ないたくありません。」
ベルの表情が、ほんの少しだけ変わった。
「……ああ。」
「壊したくありません。」
ベルは小雪を見たあと、コイルへ視線を戻した。
「壊さねぇように、箱を作るか。」
「箱。」
「ああ。コイル用の小箱だ。」
「コイルの家。」
「可愛い言い方だな。」
「ベルは家も作れますか。」
「小さいやつだけどな。」
「でも、大事です。」
「分かってるよ。」
ベルはコイルを布の上へ戻した。
「試すか。」
「はい。」
「弱いぞ。」
「はい。」
「今回動かなくても、失敗じゃねぇ。また試せばいいだけだ。」
「はい。」
「でも、動いたら。」
「文明です。」
「またでけぇな。」
「はい。」
二人は壺電池を用意した。
銅板。
鉄板。
酸味のある液。
細い銅線。
コイル。
小さな釘。
ベルが接点へ指を掛ける。
「いくぞ。」
「はい。」
つないだ。
一瞬、何も起こらなかった。
それから、釘がほんの少しだけ震えた。
ぴくり、と。
鉄芯の方へ、わずかに動く。
完全にはつかない。
強くもない。
けれど、動いた。
小雪は瞬きをしなかった。
ベルも動かなかった。
釘は、もう一度わずかに震えた。
「……動きました。」
「ああ。」
「前より、安定しています。」
「たぶんな。」
「魔法ではありません。」
「ああ。」
「私たちが作ったものです。」
「ああ。」
小雪は、釘から目を離さなかった。
「ベル。」
「何だ。」
「できました。」
ベルは、小雪を見た。
小雪はまだ釘を見ている。
表情は、いつもとほとんど変わらない。
けれど、目だけが少し違っていた。
王宮や剣術大会の時に見せた冷たい目ではない。
魔物を討つ時の静かな目でもない。
何かを観測しているだけの目でもない。
小雪は、嬉しいのだ。
ベルには、それが分かった。
「できたな。」
「はい。」
「俺たちで。」
「はい。」
「小さいけど。」
「はい。」
「始まりだけど。」
「はい。」
「でも、できた。」
「はい。」
小雪は、そこでほんの少し笑った。
本当に。
ほんの少しだけ。
けれど、ベルの胸には深く刺さったらしい。
「小雪。」
「はい。」
「今の顔。」
「はい。」
「記録していいか。」
小雪は、ようやくベルを見た。
「私の顔ですか。」
「ああ。」
「ベルが記録するのですか。」
「……心に。」
言ってから、ベルは固まった。
小雪も瞬きをした。
暖炉の中で薪が小さく鳴り、ベルの耳が少しずつ赤くなる。
「自傷ですか。」
「違う。」
「ベルは補填されません。」
「知ってる。」
「痛いですか。」
「かなり。」
「温かいですか。」
「……かなり。」
「では、よかったです。」
小雪は、もう一度少し笑った。
ベルは片手で顔を覆った。
「今日は、俺の完敗かもしれねぇ。」
「何にですか。」
「……言わせるのか。」
「コイルは完成です。」
小雪は釘を見た。
「二人とも勝ちました。」
ベルは手の隙間から小雪を見た。
それから、少し笑った。
「そうか。」
「はい。」
「なら、いい。」
二人はもう一度、釘を見た。
弱い。
とても弱い。
でも、動いた。
その夜の記録は長くなった。
小雪は暖炉のそばで紙を広げ、ベルは向かい側でコイル用の小箱を作っている。
薄い板。
柔らかな繊維。
布。
中で揺れないようにするための仕切り。
ベルは本当に、箱まで作り始めた。
小雪はペンを走らせた。
一、巻き取り機を使う。
二、鉄芯を一定に回す。
三、銅線の張りを保つ。
四、強すぎると切れる。弱すぎるとたるむ。
五、巻き数は五十。
六、三十巻き目でベルが私を見て数を忘れた。
七、コイル完成。
八、壺電池につなぐと、釘が少し動いた。
九、魔法ではない力で、鉄が動いた。
十、一人ではできなかった。
十一、二人ならできた。
十二、コイルは大事。
十三、ベルがコイルの家を作る。
十四、ベルが私の顔を心に記録すると言った。
十五、ベル、自分で刺さる。
「六!」
小箱を作っていたベルが、突然叫んだ。
「そこですか。」
「そこだろ!」
「事実です。」
「事実でも書くな!」
「三十巻き目。」
「具体的にするな!」
「作業上の注意です。」
「俺が悪かったから!」
「ベルは私を見ると数を忘れる、と。」
「消せ!」
「小さくします。」
「消せ!」
小雪は六番へ小さな印をつけた。
「十四は。」
尋ねると、ベルは小箱を持ったまま固まった。
「……それは。」
「はい。」
「小さくしろ。」
「消しますか。」
「消せとは言ってねぇ。」
「はい。」
「十五は消せ。」
「小さくします。」
「消せ。」
小雪は六と十四と十五を小さくした。
消さなかった。
ベルは頭を抱えたが、コイル用の小箱は最後まで丁寧に仕上げた。
小雪は完成した箱へコイルを入れた。
ぴったりだった。
中で動かない。
少し揺らしても、ぶつからない。
「コイルの家です。」
「ああ。」
「温かいですか。」
「家だからな。」
「ベルは家を作るのも上手です。」
「小箱だ。」
「山の家も温かいです。」
「今も直してる途中だけどな。」
「でも、温かいです。」
ベルは少し黙った。
それから、柔らかく笑った。
「そうか。」
「はい。」
小雪は箱の蓋を閉じた。
ことり、と小さな音がした。
一区切りの音だった。
夜が更けると、山の家は静かになった。
火は小さくなり、水車の音も遠い。
ベルは使った工具を片づけている。
小雪は、窓のそばに立っていた。
外は暗い。
雪はもう、ほとんど残っていない。
春の夜。
遠くの山が黒く見える。
東。
遠くの村。
赤い目をした魔物。
毛の間から漏れる青白い光。
傭兵団。
被害。
小雪は、窓の外を見た。
一息吐いたと思ってよいのだろう。
水車は回った。
火は強くなった。
穴は開いた。
銅は線になった。
線は絶縁された。
コイルができた。
そして、釘はほんの少し動いた。
魔法ではない力へ。
確かに近づいた。
まだ小さい。
まだ弱い。
まだ、この世界を支えるには足りない。
けれど、始まった。
ならば、もう。
確かめに行かなければならない。
「小雪。」
ベルの声がした。
小雪は振り返った。
「はい。」
「今、どこ見てた。」
「窓です。」
「違うだろ。」
ベルは作業台のそばに立っていた。
二人の間には、小箱へ収められたコイルがある。
「遠くを見てた。」
「……はい。」
「どこかへ、行くのか。」
「はい。」
ベルの顔が少し硬くなった。
「魔物か。」
「いえ、違います。」
「でも、行くんだな。」
小雪は、すぐには答えなかった。
暖炉の中で、薪が小さく鳴った。
小箱に入ったコイルがある。
壊したくないもの。
損ないたくないもの。
大事なもの。
山の家。
水車。
銅線。
コイル。
ベル。
「今すぐではありません。」
小雪は答えた。
「でも。」
そこで言葉を止める。
ベルは、続きを待っていた。
小雪はもう一度、窓の外へ目を向けた。
「もう、確かめに行かなければならないと思います。」
ベルは黙った。
「小雪。」
「はい。」
「一人で行く気か。」
小雪は答えなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
ベルの目が少し細くなる。
「そうか。」
「ベル。」
「今日は聞かねぇ。」
ベルは低く言った。
「今日は、コイルができた日だからな。」
「はい。」
「だから、今日は聞かない。」
「はい。」
ベルはまっすぐ小雪を見た。
「でも、明日は聞く。」
小雪もベルを見る。
その目は、剣術大会の時に少し似ていた。
相手を見る目。
逃げる先を読む目。
止めるべき時を見逃さない目。
「逃げるなよ。」
ベルは言った。
「俺はもう、おまえが遠くを見る時の顔を知ってる。」
小雪は黙っていた。
「だから、明日は聞く。」
「……分かりました。」
ベルは暖炉へ薪を一本足した。
小さくなっていた火が、少しだけ明るくなる。
山の家の中が、また温かくなる。
小雪は、作業台の上にある小箱を見た。
ここまで来た。
ここまで来てしまった。
だから、行かなければならない。
行きたくないと。
そう思っている自分がいることも。
今は、もう分かっている。
小雪は窓の向こう、人間が足を踏み入れることを禁止されている場所、最果ての地を思った。
春の夜は静かだった。
けれど、その静けさの奥で、何かが確かに減っている。
火のそばでは、ベルが小雪を見ていた。
二人の間には、コイルの箱がある。
小さくて、弱くて、大事な始まり。
小雪は、その箱から目を離せなかった。
損ないたくないものが、増えてしまった。
それはきっと、よいことだったはずなのに。
今だけは、とても苦しかった。




