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第四十六話 コイルができた日

 春の水は、よく鳴る。


 冬のあいだ雪の下で静かに息を潜めていたものが、いっせいに目を覚ましたようだった。


 屋根から落ちた雫は軒下の桶を叩き、道の端には細い流れができ、雪解け水を集めた川は以前より勢いを増している。

 その水に押されて、水車も冬の頃より少し軽やかな音を立てて回っていた。


 山の家の前では、かつて玄関守護獣と呼ばれていた雪ウサギが、もうほとんど小さな白い山になっている。葉で作った耳も片方は地面へ落ち、あれほど凶暴だった顔の跡さえ、今ではどこにあったのかよく分からない。


 小雪は玄関先に立ち、しばらくその残骸を見ていた。


「守護獣が、役目を終えました。」

「溶けただけだ。」


 家の中からベルの声が返ってくる。

 振り返ると、彼は作業台の上へ工具を並べながら、こちらを見もせずに答えていた。


「春です。」

「そうだな。」

「雪ウサギは補填されませんでした。」


 その言葉には、さすがにベルも手を止めた。

 少しだけ嫌そうな顔で小雪を見る。


「何でも補填に戻すな。怖いから。」


 小雪はもう一度、白い山になった守護獣へ目を向けた。


 失敗した雪ウサギ。

 凶暴な顔になり、片耳を失い、それでも冬の終わりまで玄関にいた。


 役目があったのかは分からない。

 それでも、ずっとそこにいた。


 小雪は家の中へ戻った。


 作業台の中央には、銅線の箱が置かれている。短いもの、少し長いもの、途中で切れたもの。

 その中には、薄い紙と蜜蝋で絶縁した銅線もあった。


 赤い金属は白い薄皮の下に隠れ、もう最初に鍛冶場で見た銅棒とはまるで違う。


 今日は、それを巻く。

 鉄の芯へ、少しずつ。


 コイルにする。


 小雪は箱の蓋を開け、しばらく中を見た。


「ベル。」

「何だ。」

「今日は、コイルですね。」

「ああ。」

「電磁石の体です。」


 ベルは工具の位置を確かめながら、小さく頷いた。


「魂はまだ電気か。」

「電気です。」

「面倒なやつだな。」

「そうですね。」

「でも、今日は体を作る。」

「はい。」


 小雪が頷くと、ベルは作業台の中央に置かれた道具を軽く叩いた。


 木の台に二本の支柱が立ち、その間には横向きに鉄芯が渡されている。

 芯を回すための取っ手と、銅線をゆっくり送り出すための小さな溝。張りを調整する木片までついていた。


 見た目だけなら、ひどく単純な道具だった。


 けれど、小雪には分かる。


 丸い棒を削ったこと。

 滑車を作ったこと。

 回るものを止める方法を考えたこと。

 穴を開けたこと。

 銅を線に変えたこと。

 その線が隣へ近道しないよう、紙と蜜蝋で包んだこと。


 今まで一つずつ積み上げてきたものが、この小さな巻き取り機の中へ集まっている。


「巻き取り機。」

「ああ。」

「ぐるぐる文明。」


 ベルが嫌そうに眉を寄せた。


「今日は絶対言うと思ってた。」

「ぐるぐるします。」

「するな。いや、するけど。」

「どちらですか。」

「とにかく巻く。」

「はい。」


 ベルは鉄芯へ指を掛け、取っ手を回した。芯が、ゆっくりと回転する。


 完全になめらかではない。わずかに引っかかるところがあり、回転にも少しむらがある。それでも、きちんと回る。


「手で直接巻けば、やっぱり隙間がばらばらになる。線が重なったり、場所によって張りが変わったりするからな。」


 ベルは取っ手を回しながら、芯の動きを確かめた。


「強く引きすぎれば切れる。弱すぎればたるむ。だから、芯をなるべく同じ速さで回して、線を横へ少しずつ送る。」

「はい。」

「一気にはできない。ゆっくりだ。」

「はい。」

「おまえは巻き数を数えること。」

「はい。」

「……途中で俺の顔とか手とか見るなよ。」


 小雪は首を傾げた。


「なぜですか?」

「たぶん、数を間違える。」

「私がですか。」


 ベルは一度、小雪を見たあと、少しだけ目を逸らした。


「……俺も、気を付ける。」

「ベルも数えるのですか?」

「念のためにな。」

「失礼ですね。」

「これまでの実績だ。」


 小雪は少し考えた。たしかに可能性は排除できない。


「では、私は数えます。」

「頼む。」

「ベルは巻きます。」

「ああ。」

「私は線に触ってもいいですか?」


 ベルはすぐに答えなかった。


 箱の中の銅線と、小雪の手を見比べる。


「触るなら、俺と一緒にだ。」

「はい。」


 小雪は頷いた。


 できること。

 できないこと。

 できるようになりたいこと。


 ベルがすること。

 小雪がすること。


 分ける。

 けれど、分けても一緒に進める。


 それも、たぶん文明なのだろう。




 今日は鍛冶場へ行かず、山の家で作業することになった。ガドもロイも来ていない。


 二人だけである。


 暖炉には小さく火が入っていた。作業の途中で蜜蝋が硬くなりすぎれば、少し温め直すためだ。


 小雪は記録用紙を広げ、ペンを持った。


 ベルは箱から絶縁した銅線を一本取り出す。


「最初が大事だ。」

「はい。」

「ここが緩むと、後が全部ずれる。」

「始まりは大事ですね。」

「ああ。」

「水車も、最初は小さかったです。」

「そうだな。」

「作る前にベルが川に落ちました。」

「忘れてくれ。」

「初めてすごい体を見た時です。」


 ベルの手が止まった。


「その説明はいらん!」

「脱ぎがちの始まりの記録です。」

「記録を選べ!」


 耳を赤くしながらも、ベルは銅線の先端を鉄芯へ固定した。


 最初の一周だけは、取っ手を使わず手で巻く。


 小雪はすぐにペンを構えた。


「一。」

「まだ数えなくていい。」

「なぜですか。」

「固定だからだ。」

「固定一。」

「やめろ。」

「はい。」


 ベルは銅線が外れないことを確かめると、ようやく取っ手へ手を掛けた。


「いくぞ。」

「はい。」


 取っ手がゆっくり回る。


 鉄芯が回転し、白く包まれた細い銅線が、その表面へ沿うように巻きついていく。


 一周。


「一。」


 もう一周。


「二。」


 さらに一周。


「三。」


 ベルの動きは慎重だった。


 速くない。

 無理に引かない。


 取っ手を回す右手と、銅線を送る左手が別々に動いている。

 張りが強くなれば少し緩め、線が横へずれれば指先で位置を直す。


 昨日まで引いていた銅線が、今日は鉄芯の周りへ道を作っていく。


「四。」


 小雪は数えた。


 けれど、その視線は、ついベルの手へ移った。


 剣を持った手。

 銅を引いた手。

 髪を拭く手。

 自分の手を支える手。


 今は、コイルを巻いている。


「小雪。」

「はい。」

「俺の手を見るな。」

「見ています。」

「数えろ。」

「五。」


 ベルの手が止まった。


「今、飛んでねぇか。」

「飛んでいません。」

「本当か。」

「たぶん。」

「たぶんは駄目だろ!」

「では、四かもしれません。」

「戻るぞ!」


 ベルは慌てて巻き取り機を止めた。


 二人で記録用紙を確認する。


 一。

 二。

 三。

 四。


 五はまだ書いていない。


「四です。」


 ベルは大きく息を吐いた。


「危ねぇ……。」

「ベルの手が悪いです。」

「俺の手のせいにするな。」

「器用なので。」

「褒めてんのか責めてんのか分からねぇ。」

「褒めています。」

「なら刺すな。」

「はい。」


 小雪は少しだけ笑った。


 ベルも、呆れたように笑った。


「次からちゃんと数えろよ。」

「はい。」

「俺を見るな。」

「善処します。」

「また不安な返事しやがって。」


 巻き取り機は、再び動き始めた。


 五。

 六。

 七。


 白い線が少しずつ重なり、鉄芯の表面に一つの層ができていく。


 近道しないように。

 決められた道を通るように。


 小雪は数え、ベルは巻いた。


 暖炉の火は静かに鳴り、窓の外からは春の川の音が微かに聞こえている。


 小雪は、これまでのことを思い出した。


 最初の小さな水車。

 流されかけた水車。

 川で濡れたベル。

 ふいご。

 炉。

 炭。

 火の色。

 軸受け。

 ドリル。

 停止装置。

 滑車。

 丸い棒。

 雪下ろし棒。

 銅。

 穴。

 銅線。

 絶縁。


 ばらばらだったものが、今、この小さな巻き取り機の上で一つにつながっている。


 胸の奥が少し温かくなった。


 ちりん。

 鈴は鳴っていない。


 けれど、鳴った。


 十七巻き目で、銅線が少しずれた。


「あ。」


 小雪が声を上げると、ベルはすぐに取っ手を止めた。


「どこだ。」

「ここです。」


 小雪は指を近づけたが、触れずに示した。


「重なりかけてるな。」

「近道しますか。」

「するかもしれねぇ。」

「戻しますか。」

「少しだけな。」


 ベルは取っ手を逆に回した。


 ほんのわずかに銅線が戻る。


 戻しすぎれば緩む。

 戻さなければ重なる。


 ベルはその境目を探すように、少しずつ取っ手を動かした。


「小雪、ここ見てろ。」

「はい。」

「俺が少し張りを緩める。線が跳ねたら言え。」

「はい。」

「触るなよ。」

「はい。」

「本当に触るなよ。」

「はい。」


 ベルは小雪の素直な返事に、逆に不安そうな顔をした。


「そこまで素直だと怖いな。」

「ベルの信用度が下がっています。」

「意味が違って聞こえる!そこは忘れろ!」


 ベルが慎重に銅線を緩める。


 線が少し浮いた。


 小雪は息を止めた。


「跳ねます。」


 小雪が言うと、ベルの指がすぐに動いた。浮いた銅線を押さえる。


 切れない。


 紙も破れない。


「よし。」

「止まりました。」

「ああ。」

「ベルは、止めるのも上手です。」


 ベルの指が一瞬止まりかけた。


 すぐに銅線へ視線を戻す。


「作業中だ。」

「そうでした。」

「今のは危なかった。」

「はい。」

「でも。」


 ベルは赤くなった耳を隠すように、少しだけ顔を逸らした。


「……なんか嬉しいな。」


 小雪はベルを見た。


「今日はやけに素直ですね。」

「悪いか。」

「いいえ。」

「なら見るな。」

「嬉しいので今だけガン見します。」

「……感動が薄れたな。」


 十七巻き目から、もう一度始める。


 十八。

 十九。

 二十。


 数字が増える。

 線が増える。


 鉄芯の上に、少しずつ何かができていく。


「ベル。」

「何だ。」

「木の年輪に似ています。」

「銅線の年輪か。」

「はい。」


 ベルは巻きながら、少しだけコイルを眺めた。


「悪くねぇな。」

「記録します。」

「それはしていい。」


 小雪は用紙の端へ書いた。


 銅線の年輪。

 ベルに許可された。


 重要である。


 三十巻き目で。


 ベルが止まった。


「……次、いくつだっけ。」


 小雪は顔を上げた。


「どうしました。」

「悪い。」

「はい。」


 ベルは少し言いにくそうに視線を逸らした。


「今、おまえを見てた。」


 小雪は瞬きをした。


「私ですか。」

「……そうだよ。」

「なぜですか。」

「真剣に数えてたから。」

「数える係ですから。」

「ああ。」

「間違えると困ります。」

「分かってる。」

「ベルは銅線を見てください。」

「正論が刺さるな。」

「痛いですか。」

「かなり。」

「では、三十からです。」

「……はい。」


 ベルは顔を赤くしながら、また取っ手へ手を掛けた。


 小雪は記録用紙へ「三十」と少し濃く書いた。


 ベルが小雪を見て、数を忘れた。

 これは重要な観測記録である。


 ただし、今書くと作業が止まる。


 後で書く。


 三十一。

 三十二。

 三十三。


 巻きは続いた。


 途中で蜜蝋が少し割れれば、線を外さないように温め直した。

 紙がめくれれば止まり、指先で押さえた。

 張りが弱くなればベルが調整し、強すぎれば一度戻す。


 何度も止まる。

 何度も直す。


 それでも、一度も魔法は使わなかった。


 以前の小雪なら、風魔法で一気に巻こうとしたかもしれない。火魔法で蜜蝋を温め、動かないものがあれば、さらに強い力を加えたかもしれない。


 今はしない。


 ベルが手で直す。

 小雪が数える。

 止まる。

 戻す。

 また進む。


 遅い。


 けれど、壊れにくい。


「ベル。」

「何だ。」

「今、魔法を使っていません。」

「ああ。」

「でも、進みます。」

「そうだな。」

「遅いです。」

「遅いな。」

「何度も止まります。」

「ああ。」


 小雪は、少しずつ増えていく巻き目を見た。


「でも、進みます。」

「進んでる。」

「これは、すごいです。」


 ベルは取っ手を回す手を少しだけ緩めた。


 それから、小さく笑った。


「そうだな。」

「はい。」

「すごいな。」


 小雪は頷いた。


 自分一人では、きっとできなかった。


 小雪は世界を壊せる。

 山を削れる。

 魔物を討てる。


 必要なら、自分を燃料にしてどこまでも強力な魔法が撃てる。


 けれど、銅線を切らずに巻くことはできなかった。紙を破らず、蜜蝋を割らず、一定の張りを保ち、三十七回目を正確に数えることも、小雪一人ではできなかった。


 だから、これは大きい。

 手のひらに収まるほど小さなものなのに。


 とても大きい。


 やがて、小雪が五十と数えた。


 ベルは取っ手から手を離した。


 回転が止まり、家の中が急に静かになったように感じた。


「……できたか。」

「はい。」


 二人は、巻き取り機の上にあるものを見た。


 完全ではない。

 巻き目は少し不揃いで、絶縁にも不安がある。銅線も短い。


 それでも、鉄芯の周りには、白く包まれた銅線が幾重にも巻かれていた。


 ベルは固定を外し、両手でコイルを持ち上げた。


 慎重に。

 とても慎重に。


「できました。」

「ああ。」

「コイルです。」

「ああ。」

「電磁石の体です。」

「そうだな。」


 ベルは、小さなコイルを布の上へ置いた。


 火が鳴る。

 風が木々を揺らす。

 川の水音が聞こえる。


 小雪は手を伸ばしかけた。


 止めた。


 ベルが気づいた。


「触るか。」

「壊すかもしれません。」

「一緒に持つ。」

「はい。」


 ベルは再びコイルを持ち上げると、小雪の両手の上へそっと載せた。

 その下から、ベルの手が支えている。


 少しだけ重い。

 手のひらに収まる。


「小さいです。」

「ああ。」

「弱いですか。」

「たぶんな。」

「不揃いです。」

「ああ。」


 小雪はコイルを見た。


「でも、できました。」

「できたな。」

「私一人では、できませんでした。」


 ベルは、小雪を見た。


「俺一人でも無理だった。」

「そうですか。」

「ああ。」

「ベルは器用です。」

「でも、最初にこれを作りたいって言ったのは、おまえだ。」

「はい。」

「水車も、電磁石も、銅線も、絶縁も、俺だけじゃ思いつかねぇ。」

「私は銅線を作れません。」

「俺は電磁石を知らなかった。」

「私は雪ウサギも作れません。」

「それ、今関係あるか?」

「少し。」


 ベルは思わず笑った。


「まあ、少しな。」


 小雪は、もう一度手の中のコイルを見る。


「ガドさんも、ロイさんも、村も、水車も必要でした。」

「ああ。」

「ベルも。」

「おまえもだ。」


 小雪は頷いた。


「一人では、できませんでした。」

「そうだな。」

「二人なら、できます。」


 ベルは少し黙った。


 その言葉を、どこまでの意味で受け取ったのかは分からない。


 けれど、やがて優しく笑った。


「ああ。二人なら、できる。」


 小雪は、コイルを両手で包むように見た。


 下にはベルの手がある。


 コイルは少し温かかった。


 火のそばにあったからかもしれない。


 小雪とベルの手の間にあるからかもしれない。


「これは、大事です。」

「そうだな。」

「損ないたくありません。」


 ベルの表情が、ほんの少しだけ変わった。


「……ああ。」

「壊したくありません。」


 ベルは小雪を見たあと、コイルへ視線を戻した。


「壊さねぇように、箱を作るか。」

「箱。」

「ああ。コイル用の小箱だ。」

「コイルの家。」

「可愛い言い方だな。」

「ベルは家も作れますか。」

「小さいやつだけどな。」

「でも、大事です。」

「分かってるよ。」


 ベルはコイルを布の上へ戻した。


「試すか。」

「はい。」

「弱いぞ。」

「はい。」

「今回動かなくても、失敗じゃねぇ。また試せばいいだけだ。」

「はい。」

「でも、動いたら。」

「文明です。」

「またでけぇな。」

「はい。」


 二人は壺電池を用意した。


 銅板。

 鉄板。

 酸味のある液。

 細い銅線。

 コイル。

 小さな釘。


 ベルが接点へ指を掛ける。


「いくぞ。」

「はい。」


 つないだ。


 一瞬、何も起こらなかった。


 それから、釘がほんの少しだけ震えた。


 ぴくり、と。


 鉄芯の方へ、わずかに動く。


 完全にはつかない。

 強くもない。


 けれど、動いた。


 小雪は瞬きをしなかった。

 ベルも動かなかった。


 釘は、もう一度わずかに震えた。


「……動きました。」

「ああ。」

「前より、安定しています。」

「たぶんな。」

「魔法ではありません。」

「ああ。」

「私たちが作ったものです。」

「ああ。」


 小雪は、釘から目を離さなかった。


「ベル。」

「何だ。」

「できました。」


 ベルは、小雪を見た。


 小雪はまだ釘を見ている。


 表情は、いつもとほとんど変わらない。


 けれど、目だけが少し違っていた。


 王宮や剣術大会の時に見せた冷たい目ではない。

 魔物を討つ時の静かな目でもない。

 何かを観測しているだけの目でもない。


 小雪は、嬉しいのだ。


 ベルには、それが分かった。


「できたな。」

「はい。」

「俺たちで。」

「はい。」

「小さいけど。」

「はい。」

「始まりだけど。」

「はい。」

「でも、できた。」

「はい。」


 小雪は、そこでほんの少し笑った。


 本当に。

 ほんの少しだけ。


 けれど、ベルの胸には深く刺さったらしい。


「小雪。」

「はい。」

「今の顔。」

「はい。」

「記録していいか。」


 小雪は、ようやくベルを見た。


「私の顔ですか。」

「ああ。」

「ベルが記録するのですか。」

「……心に。」


 言ってから、ベルは固まった。


 小雪も瞬きをした。


 暖炉の中で薪が小さく鳴り、ベルの耳が少しずつ赤くなる。


「自傷ですか。」

「違う。」

「ベルは補填されません。」

「知ってる。」

「痛いですか。」

「かなり。」

「温かいですか。」

「……かなり。」

「では、よかったです。」


 小雪は、もう一度少し笑った。


 ベルは片手で顔を覆った。


「今日は、俺の完敗かもしれねぇ。」

「何にですか。」

「……言わせるのか。」

「コイルは完成です。」


 小雪は釘を見た。


「二人とも勝ちました。」


 ベルは手の隙間から小雪を見た。


 それから、少し笑った。


「そうか。」

「はい。」

「なら、いい。」


 二人はもう一度、釘を見た。


 弱い。


 とても弱い。


 でも、動いた。




 その夜の記録は長くなった。


 小雪は暖炉のそばで紙を広げ、ベルは向かい側でコイル用の小箱を作っている。


 薄い板。

 柔らかな繊維。

 布。

 中で揺れないようにするための仕切り。


 ベルは本当に、箱まで作り始めた。


 小雪はペンを走らせた。


 一、巻き取り機を使う。

 二、鉄芯を一定に回す。

 三、銅線の張りを保つ。

 四、強すぎると切れる。弱すぎるとたるむ。

 五、巻き数は五十。

 六、三十巻き目でベルが私を見て数を忘れた。

 七、コイル完成。

 八、壺電池につなぐと、釘が少し動いた。

 九、魔法ではない力で、鉄が動いた。

 十、一人ではできなかった。

 十一、二人ならできた。

 十二、コイルは大事。

 十三、ベルがコイルの家を作る。

 十四、ベルが私の顔を心に記録すると言った。

 十五、ベル、自分で刺さる。


「六!」


 小箱を作っていたベルが、突然叫んだ。


「そこですか。」

「そこだろ!」

「事実です。」

「事実でも書くな!」

「三十巻き目。」

「具体的にするな!」

「作業上の注意です。」

「俺が悪かったから!」

「ベルは私を見ると数を忘れる、と。」

「消せ!」

「小さくします。」

「消せ!」


 小雪は六番へ小さな印をつけた。


「十四は。」


 尋ねると、ベルは小箱を持ったまま固まった。


「……それは。」

「はい。」

「小さくしろ。」

「消しますか。」

「消せとは言ってねぇ。」

「はい。」

「十五は消せ。」

「小さくします。」

「消せ。」


 小雪は六と十四と十五を小さくした。

 消さなかった。


 ベルは頭を抱えたが、コイル用の小箱は最後まで丁寧に仕上げた。


 小雪は完成した箱へコイルを入れた。


 ぴったりだった。

 中で動かない。


 少し揺らしても、ぶつからない。


「コイルの家です。」

「ああ。」

「温かいですか。」

「家だからな。」

「ベルは家を作るのも上手です。」

「小箱だ。」

「山の家も温かいです。」

「今も直してる途中だけどな。」

「でも、温かいです。」


 ベルは少し黙った。


 それから、柔らかく笑った。


「そうか。」

「はい。」


 小雪は箱の蓋を閉じた。


 ことり、と小さな音がした。


 一区切りの音だった。




 夜が更けると、山の家は静かになった。


 火は小さくなり、水車の音も遠い。


 ベルは使った工具を片づけている。


 小雪は、窓のそばに立っていた。


 外は暗い。


 雪はもう、ほとんど残っていない。

 春の夜。

 遠くの山が黒く見える。


 東。

 遠くの村。

 赤い目をした魔物。

 毛の間から漏れる青白い光。

 傭兵団。

 被害。


 小雪は、窓の外を見た。


 一息吐いたと思ってよいのだろう。


 水車は回った。

 火は強くなった。

 穴は開いた。

 銅は線になった。

 線は絶縁された。

 コイルができた。


 そして、釘はほんの少し動いた。


 魔法ではない力へ。

 確かに近づいた。


 まだ小さい。

 まだ弱い。

 まだ、この世界を支えるには足りない。


 けれど、始まった。


 ならば、もう。


 確かめに行かなければならない。


「小雪。」


 ベルの声がした。


 小雪は振り返った。


「はい。」

「今、どこ見てた。」

「窓です。」

「違うだろ。」


 ベルは作業台のそばに立っていた。


 二人の間には、小箱へ収められたコイルがある。


「遠くを見てた。」

「……はい。」

「どこかへ、行くのか。」

「はい。」


 ベルの顔が少し硬くなった。


「魔物か。」

「いえ、違います。」

「でも、行くんだな。」


 小雪は、すぐには答えなかった。


 暖炉の中で、薪が小さく鳴った。


 小箱に入ったコイルがある。


 壊したくないもの。

 損ないたくないもの。

 大事なもの。


 山の家。

 水車。

 銅線。

 コイル。

 ベル。


「今すぐではありません。」


 小雪は答えた。


「でも。」


 そこで言葉を止める。


 ベルは、続きを待っていた。


 小雪はもう一度、窓の外へ目を向けた。


「もう、確かめに行かなければならないと思います。」


 ベルは黙った。


「小雪。」

「はい。」

「一人で行く気か。」


 小雪は答えなかった。


 その沈黙だけで、十分だった。


 ベルの目が少し細くなる。


「そうか。」

「ベル。」

「今日は聞かねぇ。」


 ベルは低く言った。


「今日は、コイルができた日だからな。」

「はい。」

「だから、今日は聞かない。」

「はい。」


 ベルはまっすぐ小雪を見た。


「でも、明日は聞く。」


 小雪もベルを見る。


 その目は、剣術大会の時に少し似ていた。


 相手を見る目。

 逃げる先を読む目。

 止めるべき時を見逃さない目。


「逃げるなよ。」


 ベルは言った。


「俺はもう、おまえが遠くを見る時の顔を知ってる。」


 小雪は黙っていた。


「だから、明日は聞く。」

「……分かりました。」


 ベルは暖炉へ薪を一本足した。


 小さくなっていた火が、少しだけ明るくなる。


 山の家の中が、また温かくなる。


 小雪は、作業台の上にある小箱を見た。


 ここまで来た。

 ここまで来てしまった。


 だから、行かなければならない。


 行きたくないと。

 そう思っている自分がいることも。


 今は、もう分かっている。


 小雪は窓の向こう、人間が足を踏み入れることを禁止されている場所、最果ての地を思った。


 春の夜は静かだった。


 けれど、その静けさの奥で、何かが確かに減っている。


 火のそばでは、ベルが小雪を見ていた。


 二人の間には、コイルの箱がある。

 小さくて、弱くて、大事な始まり。


 小雪は、その箱から目を離せなかった。


 損ないたくないものが、増えてしまった。


 それはきっと、よいことだったはずなのに。


 今だけは、とても苦しかった。

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