第四十五話 絶縁文明と近道
銅線は、朝の光を受けて作業台の上で赤く光っていた。
短いもの。少し長いもの。途中で切れたもの。太さの揃っていないもの。
どれもまだ、古い魔導具からほどいた銅線ほど細くもなく、滑らかでもない。それでも、確かに自分たちで作った銅線だった。
ガドが火を扱い、ベルが引き、小雪も支えてもらいながら傷をならした。
偶然手に入れたものではなく、失敗しても、また同じものを作ることができる。
小雪は箱の中に並んだ赤い線を、しばらく眺めた。
「とうとう、道を分かつ時が来ましたね。」
「言い方……。」
向かい側で朝食の片づけをしていたベルが、嫌そうな顔で振り返った。
「絶縁、だろ。」
「はい。絶縁文明です。」
「ああ。」
「電気の近道を止めます。」
「おまえ、昨日からずっと近道近道言ってるな。」
「重要ですから。」
山の家の外では、雪解け水の音が絶えず聞こえていた。
屋根から落ちる水滴が軒下の桶を叩き、道の端には細い流れができている。川の水量も増え、水車の回る音まで冬より少し軽く、忙しそうに聞こえた。
春が近づいている。
小雪は箱の中から一本の銅線を取ろうと、慎重に指先を伸ばした。
「待て。」
すぐにベルの手が出た。
小雪は止まった。
「はい。」
「俺が持つ。」
「壊しません。」
「昨日、また銅片を曲げた。」
「はい。」
「銅線は、もっと簡単に曲がる。」
「はい。」
「俺が持つ。」
「はい。」
小雪は素直に手を引っ込めた。
けれど、ほんの少しだけ残念だった。
自分たちで作ったものなのに、自分の手では自由に持てない。
ベルは銅線を持ち上げたあと、小雪の顔を見た。
それから何も言わず、小さな木の台へ銅線を載せ、小雪の前まで押した。
「見るのはいい。」
「はい。」
「触りたいなら、一緒にだ。」
「一緒に。」
「ああ。」
小雪は銅線ではなく、ベルを見た。
「ベルが支えますか。」
「支える。」
「梁。」
「朝から戻すな。」
「温かい梁。」
「やめろ。」
ベルの耳が赤くなった。
小雪は少し満足した。
最近、何を言えばベルが赤くなるのかが、以前より分かるようになってきた。
これも観測の成果である。
「それで。」
ベルはごまかすように咳払いをして、銅線を指した。
「何で、銅線同士が触れると駄目なんだ。」
「電気は、通りやすい道を通ります。」
「楽な方へ行くってことだな。」
「はい。銅線をぐるぐる巻いても、隣の銅線と直接触れてしまうと、電気はそこから近道します。」
「巻いた分を、ちゃんと遠回りしてくれなくなる。」
「はい。」
「だから、間に何か挟む。」
「はい。」
「電気に道草をさせない。」
「少し違います。」
「違うのか?」
「近道を止めて、決めた道を最後まで通ってもらいます。」
「なるほどな。」
ベルは銅線を見ながら少し考えた。
「つまり、触れてるようで、触れさせない。」
「はい。」
「隣にいても、直接は通さない。」
「はい。」
「近くには置く。」
「はい。」
「……。」
ベルが黙った。
小雪は首を傾げた。
「ベル。」
「何だ。」
「今、何か考えましたか。」
「いや。」
「考えましたね。」
「違う。」
小雪は、今の会話をもう一度頭の中で繰り返した。
「触れているようで、触れさせない。」
「言うな。」
「隣にいる。でも直接は触れない。」
「小雪。」
「はい。」
「やめろ。」
ベルの耳が赤い。
小雪はしばらくその耳を見た。
「ベル。」
「今度は何だ。」
「字面だけで照れるとは、少々乙女すぎやしませんか。」
「いいだろ!別に!」
「なぜでしょう。」
小雪は少し真剣に考えた。
「私は、急に不安になってきました。」
「何でだよ。」
「いえ。何でもありません。」
小雪は一度頷いた。
「あなたは、そのままでいてください。」
「何か絶対、嫌なこと考えてるだろ。」
「いいえ。」
小雪は銅線へ視線を戻した。
地球の基準で考えれば、二十四歳の女性と二十歳の男性が、同じ屋根の下で一年近く暮らしている。食事を一緒に取り、雨に濡れれば服を脱ぎ、髪を拭き、毛布にくるまり、時には手を重ねて作業までしている。
それなのに。
何もない。
これは、小雪のせいだろうか。
いや。
たぶん。
違う。
小雪は隣の乙女チワワを見た。
「何だ。」
「いえ。」
「今、絶対俺を見て何か納得しただろ。」
「気のせいです。」
「信用できねぇ。」
ベルは警戒した顔のまま、銅線を布で包んで箱へ戻した。
「とにかく、今日は絶縁だ。」
「はい。」
「紙、布、樹脂、蜜蝋、油。試すんだったな。」
「はい。」
「古い魔導具からほどいた線には、何か塗ってあった。」
「つるつるした、薄い膜のようなものですね。」
「それを真似する。」
「真似文明。」
「まぁ、真似も文明だな。」
「はい。」
小雪は記録用紙を取り出した。
一、銅線同士が触れると、電気が近道する。
二、近道すると、巻いた意味が薄くなる。
三、隣にいても、直接触れさせない。
四、紙、布、樹脂、蜜蝋、油を試す。
五、ベルは近道で照れる。
「五を消せ。」
「観測です。」
「絶縁と関係ねぇだろ!」
「あります。」
「ない。」
「触れているようで。」
「消せ。」
「敬語。」
「消してください!」
小雪は五番を少し小さくした。
消しはしなかった。
ベルは、朝から頭を抱えている。
不憫である。
でも、消さない。
鍛冶場へ行くと、今日はガドだけでなくロイも来ていた。
作業台の上には、小さく切った木材がいくつか並んでいる。銅線を巻くための木枠や芯について、朝から二人で相談していたらしい。
本番のコイルを作るのは、まだ少し先である。
けれど、絶縁材を試し、短い銅線を実際に巻いてみるためには、小さな木の芯が必要だった。
「絶縁ですか。」
ロイは小雪たちが持ってきた箱を見ながら頷いた。
「木工でも似たようなことがありますな。直接擦れてほしくない場所には、少し隙間を作る。どうしても触れるところには布を噛ませる。水が入る場所なら、油を染み込ませたりもする。」
「同じです。」
「そうですか。」
「文明は似ています。」
「そうかもしれませんな。」
ロイは真面目に頷いた。
ベルだけが嫌そうな顔をした。
「また文明の範囲が広がったな。」
「全ては文明です。」
「雑になってきてるぞ。」
ガドは火床のそばへ、今日使えそうなものを並べた。
薄い紙。
亜麻布。
さらに細く裂いた布。
蜜蝋。
松脂。
油。
「これだけあれば、何か使えるだろ。」
「ありがとうございます。」
小雪は順番に見た。
紙は薄い。破れやすい。
布は丈夫だが、紙より厚い。
蜜蝋は温めれば柔らかくなり、冷えれば固まる。
松脂はべたつく。
油は紙や布へ染み込む。
どれも使えそうで、どれも完全ではない。
「まず紙か。」
ベルは薄い紙を一枚取ると、細い帯状に切り始めた。
小雪はすぐ隣へ寄り、その手元を見た。
紙の幅を揃える。
銅線へ斜めに当てる。
前に巻いた紙へ少しずつ重ねるようにしながら、隙間なく巻いていく。
銅線を引く作業より、さらに細かな指先の動きが必要だった。
ベルの手は、やはり器用である。
「ベル。」
「何だ。」
「紙も上手です。」
「そうか?」
「髪も上手になる予定ですか。」
ベルの指が止まった。
「今、髪の話はするな。」
「でも、今度整えると。」
「分かってる。」
「ベルの心の問題。」
「それは消せと言った。」
「小さくしました。」
「消えてねぇ。」
ベルは耳を赤くしながら、紙を巻き続けた。
少しだけ曲がった。
「あ。」
「曲がりましたね。」
「おまえのせいだ。」
「いえ。」
小雪はベルの赤い耳を見る。
「初心なハートのせいかと。」
「違う。」
「乙女ベル。」
「本当にやめてくれ。」
「では、もう一度刺してみますか。」
「それも嫌だ。」
ロイが後ろを向いた。
肩が少し震えている。
ガドは隠す気もなく笑っていた。
「人気者だな、あんちゃん。」
「人気者じゃねぇ。玩具だ。」
「はい。」
「肯定するな!」
小雪は少し笑った。
ベルは赤い顔で紙を外し、最初から巻き直した。
今度はきれいに巻けた。
赤い銅線の周囲を、細い白い紙が螺旋状に包んでいる。
「銅線が白くなりました。」
「紙を巻いたからな。」
「包帯。」
「怪我じゃねぇ。」
「銅線包帯。」
「絶縁だ。」
「補填されますか。」
「されねぇよ。切れたらつなぐか、作り直す。」
「はい。」
小雪は紙を巻いた銅線を見た。
細い赤い線が、白く包まれている。
そのまま隣の線へ触れても、銅同士は直接触れない。
たぶん。
「試しますか。」
「試す。」
ベルは、以前作った壺電池を作業台へ持ってきた。
酢に似た酸味のある液体を入れ、銅板と鉄板を使った、ごく弱い電池である。
大きな力を得るためのものではない。今日は、通るか、通らないかを確かめるだけでよい。
絶縁していない銅線を近づければ、小さな針がわずかに動く。
紙を巻いた部分同士を触れさせる。
今度は、針の反応がほとんどない。
「止まりましたか。」
「完全かどうかは分からねぇ。」
ベルは針へ顔を近づけた。
「でも、かなり違う。」
「紙は効きますね。」
「ただし、濡れたら駄目だな。」
ガドが言った。
「紙が水や湿気を吸えば、今より通しやすくなるかもしれねぇ。」
「紙は水に弱い。」
「ああ。」
小雪は少し考えた。
「私の髪が濡れると、ベルが拭きます。」
「嫌な予感がする。」
「では、紙も。」
「俺に全部拭かせるな。」
「ベルは湿気対策担当。」
「さすがに無理矢理すぎるだろ。」
小雪は記録した。
六、紙は薄い。
七、巻きやすいが破れやすい。
八、水に弱い。
九、ベルは湿気対策担当。
「九を消せ。」
「小さくします。」
「……もういい。」
ベルは早くも諦めた。
それも成長である。
次は布だった。
亜麻布を細く裂き、銅線へ巻く。紙より丈夫で、多少引っ張っても簡単には破れない。
けれど、厚い。
ベルが布を巻いた線を、ロイの作った短い木の芯へ軽く巻いてみると、一本ごとの太さが増え、隣り合う線の間にも大きな隙間ができた。
「太いですね。」
「ああ。これだと、同じ長さに巻ける回数が減る。」
「巻き数が少ない。」
「細くたくさん巻きたいなら、やっぱり薄い方がいいな。」
「でも紙は破れます。」
「だから、紙に何か足す。」
ベルは並んだ材料を見た。
「蜜蝋、松脂、油。」
「はい。」
「順番にやるか。」
三人は、それぞれ試した。
温めた蜜蝋を、紙巻き銅線の表面へ薄く塗る。
熱いうちは柔らかいが、冷えるにつれて表面が少し硬くなり、指で触るとつるりとしていた。
「古い魔導具の線に、少し近いです。」
小雪が言った。
「ただ、厚く塗ると駄目だな。」
ベルが曲げて確かめると、厚く固まった部分に細い亀裂が入った。
「割れます。」
「ああ。塗るなら薄くだ。」
松脂は、思った以上に扱いにくかった。
べたつく。
銅線同士がくっつく。
温かいうちは伸びるが、冷えると場所によって固さが変わる。
「これは面倒ですね。」
「俺もそう思う。」
「ベルでも。」
「俺を何だと思ってんだ。」
「有能。」
「急に刺すな。」
「作業中。」
「分かっててやってるだろ。」
油を染み込ませた紙は柔らかく、巻きやすかった。
しかし、油を多く含ませると滑る。
ベルがつまんだ線が、するりと指から逃げた。
「あ。」
「逃げました。」
「見りゃ分かる。」
「近道ですか。」
「いや、脱走だ。」
「自由を味わう。」
「戻れ。」
ベルは逃げた銅線を拾った。
薄い布へ蜜蝋を染み込ませたものは、丈夫だった。しかし、やはり厚い。
結局、一番扱いやすかったのは、薄い紙を巻き、その上からごく薄く蜜蝋を塗ったものだった。
「今のところ、これだな。」
ベルは試作品を持ち上げた。
「薄い紙を巻く。蜜蝋で湿気を防ぐ。表面も少し丈夫になる。」
「完全ではありません。」
「もちろん。」
小雪は白く包まれた銅線を見た。
赤い銅は、紙の下へ隠れている。
見えない。
けれど、そこにある。
見えない道。
決められた道。
近道を防ぐための、薄い隔たり。
「ベル。」
「何だ。」
「近道は、悪いことばかりではありませんよね。」
ベルは蜜蝋の容器を置いた。
「急に難しいな。」
「電気は近道すると困ります。しかし、目的地へ最短で向かうことが目的であれば、近道した方がよいです。」
「道によるだろ。」
「以前。」
小雪は思い出した。
「恋にも順番がある、と言いましたね。」
ベルが盛大に咳き込んだ。
ガドが槌を取り落としかけた。
ロイは、静かに窓の外を見た。
今日は曇り空である。
それでも、きっと外には素晴らしい景色が広がっているに違いない。
二人とも、聞こえないふりが上手くなっている。
「……小雪。」
「はい。」
「鍛冶場で、その話をするな。」
「近道の話ですが。」
「今、恋って言ったよな。」
「言いました。」
「言うな。」
「恋の近道は禁止ですか。」
ベルの顔が完全に赤くなった。
「……禁止では。」
「はい。」
「いや。待て。」
「待ちます。」
「全部が禁止とは言ってねぇ。」
「では、どこまで。」
「今聞くな!人前だ!」
「距離の調整。」
「そもそも、何でこの話が始まったんだ!絶縁の話だろ!」
「触れてよい距離と、触れてはいけない距離。」
「戻ってきたようで、全然戻ってねぇ!」
小雪は真面目に頷いた。
「電気も恋も難しいです。」
「頼むから一緒にするな。確実に俺だけ置いていかれてる。」
「ベルは近道しますか。」
「しねぇよ。」
「本当に?」
「……待て。」
ベルは蜜蝋を持ったまま固まった。
「これ、どう答えるのが正解なんだ。」
「私の不安を解消してください。」
「何の不安だよ。」
「先ほどの。」
「先ほど?」
「一年近く。」
「……何が。」
小雪はベルを見た。
ベルも小雪を見た。
ガドが火床へ薪を追加した。
ロイが、外へ出た。
逃げた。
「小雪。」
「はい。」
「俺の信用度を記録するなよ。」
「いえ。逆です。」
「どういうことだ。」
小雪は少し考えたあと、頷いた。
「さすが乙女。」
「もうやめろ!」
ベルは真っ赤な顔で蜜蝋をかき混ぜた。
小雪は白く包まれた銅線を見る。
触れているようで、触れさせない。
けれど、完全に離しすぎると巻けない。
近くに置く。
隣にいる。
でも、近道はしない。
難しい。
電気も。
たぶん。
ベルも。
午後は、短い試験用のコイルを作った。
本番ではない。
ロイが作った短い木の棒へ、絶縁した銅線を十回だけ巻く。
手で巻いたので間隔はまだ少し不揃いだが、それでも裸の銅線を巻いた時より、隣り合う部分がきちんと分かれていた。
壺電池へつなぐ。
小さな釘を近づける。
三人が見守る中、ベルが線をつないだ。
釘が、ほんのわずかに動いた。
ぴくり、と。
小雪は息を止めた。
ベルも釘を見た。
ガドも、戻ってきたロイも、作業台へ少し身を乗り出した。
「動きました。」
「ああ。」
「弱いです。」
「弱いな。」
「でも、動きました。」
「そうだな。」
「前より、安定していますか。」
「おそらくはな。ただ、短すぎてまだ分かりにくい。」
「はい。」
小雪は小さな釘を見た。
本当に弱い。
少し動いただけ。
けれど、動いた。
古い魔導具からほどいた線ではない。
自分たちで銅を引いた。
紙を巻いた。
蜜蝋を塗った。
その線を巻いて、釘を動かした。
「ベル。」
「何だ。」
「少し、できました。」
「ああ。」
「偶然ではありません。」
「そうだ。」
「文明です。」
ベルは小さな釘を見たまま、少し笑った。
「まだ、赤ん坊みたいな文明だけどな。」
「赤ちゃん電磁石。」
「変な名前をつけるな。」
「弱いです。」
「弱いな。」
「でも、生まれました。」
ベルは一瞬黙った。
それから、小さなものを見るような優しい声で答えた。
「そうだな。」
小雪は胸の奥が温かくなるのを感じた。
前に作った電磁石は、原理を確かめただけだった。
今回は違う。
自分たちで銅線を作った。
絶縁した。
巻いた。
自分たちの手で、ここまで来た。
弱くても。
まだ赤ん坊でも。
偶然ではない。
山の家へ戻る道は、少し湿っていた。
雪解け水があちこちから細い流れを作り、道端の土は柔らかい。まだ冷たさは残っているのに、風の中には冬とは違う匂いがあった。
ベルは、絶縁した銅線と試験用コイルを入れた箱を持っている。
小雪は記録用紙を抱えて、その隣を歩いた。
「次は、本番の巻き取り機だな。」
ベルが言った。
「はい。」
「手で巻けば不揃いになる。引っ張る強さも一定にならねぇ。」
「巻き取り機。」
「ああ。丸い文明と簡易旋盤の応用だ。」
「回転しますか。」
「する。」
「ぐるぐる。」
「その言い方だと急に不安になるな。」
「ぐるぐる文明。」
「絶対言うと思った。」
小雪は少し笑った。
ベルも笑った。
やがて山の家が見えてきた。
玄関の守護獣は、かなり低くなっている。片耳はすでに落ち、顔だった場所も少し窪んでいた。
「守護獣が縮みました。」
「溶けてるだけだ。」
「補填されません。」
「されねぇ。」
「春です。」
「そうだな。」
ベルが扉へ手を伸ばした。
その時だった。
「おーい、ベルの兄ちゃん!」
山道の方から声がした。
二人が振り返ると、村の猟師であるダンが歩いてきていた。肩には古い外套を掛け、手には布で包んだ何かを持っている。
「ダンさん。」
ベルが声を返す。
「どうした。」
「鍛冶場に寄ったら、勇者さまたちはもう戻ったって聞いてな。これ、春前の分け前だ。」
差し出された包みからは、干し肉の匂いがした。
「ありがとう。」
ベルが受け取る。
ダンは小雪にも軽く頭を下げた。
「勇者さまも、この前は助かった。あの大牙猪のあと、しばらく山が静かでな。」
「はい。」
小雪は頷いた。
けれど、ダンはそこで帰らなかった。
少しだけ、顔を曇らせる。
「ただな。」
ベルの目が変わった。
「何かあったのか。」
「遠くの村で、また出たらしい。」
小雪の目が、ほんの少し細くなった。
「また。」
「ああ。ここから東へ三日ほど行った村だ。妙にでかい魔物が暴れて、村の柵を壊したらしい。」
「どんな魔物ですか。」
小雪が訊く。
「詳しい種類までは聞いてねぇ。ただ。」
ダンは少し考えるように眉を寄せた。
「目が赤くて、毛の間から青白い光が漏れてたって話だ。」
ベルの顔が硬くなった。
「凶暴化か。」
「たぶんな。村だけじゃ手に負えなくて、傭兵団が出されたらしい。被害も出たって聞いた。」
「傭兵団。」
「ああ。まだ討てたかどうかは分からねぇ。行商人から聞いた話だから、大きくなってる可能性もあるが。」
ダンはそう言った。
けれど、声は明るくなかった。
小雪は東の山の方を見た。
ここからは、何も見えない。
それでも、以前の大牙猪を思い出す。
家ほどもある身体。
赤い目。
毛の間から漏れていた青白い光。
魔力の循環がおかしかった。
外からの刺激へ、異常なほど反応していた。
一度だけなら、異常な個体だったのかもしれない。
けれど、春祭りで会ったガレスは、赤い目をした凶暴な魔族を倒したと言った。
そして今。
遠くの村で、また。
「小雪。」
ベルが呼んだ。
小雪は東の空から視線を戻した。
「はい。」
「何か分かるのか。」
「まだ分かりません。」
ベルの眉が、わずかに動いた。
「まだ、か。」
「はい。」
ダンは二人を見た。
「勇者さま、無理に行けって話じゃねぇ。ただ、前のやつと似てる気がしたから、伝えた方がいいと思ってな。」
「ありがとうございます。」
小雪は頭を下げた。
「観測対象です。」
「観測……まあ、頼む。俺たちじゃ、ああいうのはどうにもならねぇ。」
ダンはもう一度頭を下げると、村の方へ戻っていった。
足音が遠ざかる。
ベルはしばらく黙っていた。
小雪も黙っていた。
雪解け水の音がする。
遠くで、水車が回っている。
ベルの持つ箱の中には、絶縁した銅線が入っている。
今日。
小さな釘が動いた。
魔法ではない力が、ほんの少し生まれた。
その一方で。
遠くの村では、また魔物が凶暴化している。
小雪は東の空を見た。
春の空は淡い。
けれど、その奥にあるものまで、穏やかだとは限らない。
「小雪。」
ベルの声が、さきほどより低かった。
「行くのか。」
「今は行きません。」
「今は。」
「はい。」
「……そうか。」
ベルはそれ以上、聞かなかった。
小雪は山の家の扉を見た。
火を入れる。
記録を書く。
銅線を箱から出す。
次は巻き取り機。
そして、コイルを完成させる。
それまでは。
「ベル。」
「何だ。」
「今日は、絶縁文明の記録をします。」
「……ああ。」
「近道を止めます。」
「ああ。」
「決めた道を通します。」
ベルは小雪を見た。
小雪は東の空から目を戻し、山の家の扉を開けた。
火のない家の中は、少し冷えていた。
けれど、まだ帰る場所だった。
小雪は銅線の箱を作業台へ置いた。
細い線。
薄い紙。
蜜蝋。
近道を止めるもの。
その向こうで、まだ姿の見えない何かが、少しずつ近づいている。
決断の時も。
おそらく。
小雪は目を細めた。
まだ、何も言わなかった。




