第四十四話 勇者さま、髪を任せる
春祭りから戻った山の家は、少しだけ静かに感じられた。
領都の広場には、人の声があった。
春の花の匂いがあり、焼き菓子の甘い香りがあり、木剣のぶつかる乾いた音と歓声が絶えず響いていた。
ベルが勝つたびに拍手が起こり、小雪も大声で格好いいと叫び、ベルが真っ赤になった。
けれど、山の家にそれらはない。
聞こえるのは、雪解けで水量を増した川の音と、水車が回る一定の音。それから、暖炉の中で薪が小さくはぜる音だけだった。
春祭りから戻った翌朝、小雪は朝食を終えると、作業台の上に置かれていた小さな箱の蓋を開けた。
中には、領都へ出かける前に作った一本の銅線が入っている。
「短いです。」
「最初の一本だからな。」
ベルは暖炉の前で手袋を外しながら答えた。
「不揃いです。」
「最初の一本だからな。」
「曲がっています。」
「最初の一本だからな。」
小雪は箱から顔を上げた。
「ベル。」
「何だ。」
「最初の一本は、便利な言い訳ですね。」
「便利に使ってる。」
「はい。」
小雪はもう一度、箱の中へ視線を戻した。
短く、不揃いで、少し曲がっている。
けれど、それは確かに銅線だった。
古い魔導具から偶然ほどいたものではなく、誰かが作ったものを拾ってきたわけでもない。
ガドが火を扱い、ベルが引き、小雪も線引き板の穴を整えた。
三人で考え、失敗し、直して作った線である。
同じものを、もう一度作れる。
それは、最初の電磁石に使った古い線とは違う。
偶然ではない。
「今日は、もっと長くします。」
「ああ。」
「細くもします。」
「できる範囲でな。」
「切れますか。」
「切れるだろうな。」
「銅は繊細です。」
「そうだな。」
「ベルも。」
「俺は銅じゃねぇ。」
「でも、昨日の剣術大会で疲れています。」
「もう大丈夫だ。」
「肩は?」
「少し。」
小雪は顔を上げた。
「見せてください。」
「嫌だ。」
返事が早かった。
ベルはそのまま外套を取ろうとしたが、小雪は先に立ち上がり、背後へ回った。
「少しだって言ったろ。」
「だから確認します。」
「確認しなくていい。」
小雪は上着の背中を掴んで少し引いたが、ベルの身体はびくともしなかった。
昨日、あれほど大きな男と木剣を打ち合わせ、銅を引く時にも全身を使っていたのだから当然なのかもしれないが、こうして動かそうとしてみると、やはりかなり重い。
「ベル。」
「何だ。」
「動きません。」
「動かねぇようにしてるからな。」
「困ります。」
「俺は困ってねぇ。」
小雪は少し考えた。
後ろからでは、服を確認しにくい。
ならば前である。
腰へ腕を回し、上着の前を探るように手を伸ばす。
「っ、やめろ! 本当にもう大丈夫だから!」
ベルが一気に振り返った。
耳が赤い。
小雪の両手は、まだ彼の腰の辺りにある。
「ボタンを探しています。」
「自分で外せる!」
「では、お願いします。」
「いや、だから外さねぇ!」
それからしばらく、小雪が服を掴み、ベルが押し返すという攻防が続いた。
もっとも、ベルも本気で小雪を引きはがすつもりはないらしい。
小雪の手首を掴んではいるが、力はひどく弱い。
その気になれば、昨日の領兵の木剣を叩き落としたように簡単に外せるはずだった。
そのことに気づき、小雪は少し不思議になった。
「ベル。」
「何だよ。」
「本気なら、私の手を外せますよね。」
「……。」
「なぜ外さないのですか。」
「知らねぇよ。」
ベルは目を逸らした。
小雪は少しだけ黙った。
昨日、ベルの肩に木剣が当たった時、身体が勝手に動きかけた。
止まれと言われたから止まった。
約束したから、魔法も使わなかった。
けれど、嫌だった。
自分が頼んで出てもらったのに、ベルが傷つくのは嫌だった。
「心配、なんです。」
小雪がぽつりと言うと、ベルの動きが止まった。
手首を掴んでいた指の力が、わずかに緩む。
小雪はそれ以上、何も言わなかった。
やがて、ベルから小さなため息が聞こえた。
「……少し見るだけな。」
「はい。」
「触るなよ。」
「もちろんです。」
「観測もするな。」
「それは難しいです。」
「何でだよ。」
「見るので。」
「……もういい。」
ベルは諦めたように椅子へ座ると、シャツの上からいくつかボタンを外した。
「傷を見るだけだ。」
「はい。」
「他は見るなよ。」
傷を見るためには、その周囲も見える。
どこまでが「他」なのだろう。
小雪が真面目に考えていると、ベルは警戒するようにこちらを見た。
「何だ、その顔。」
「境界について考えています。」
「考えなくていい。」
「傷の周囲、何センチまでですか。」
「面倒くせぇ!」
結局、ベルは襟元を少し開き、昨日木剣を受けた方の肩だけが見えるようにした。
「これでいいだろ。」
「少し見えません。」
「十分だ。」
「ベルの背が高いです。」
「それは俺のせいじゃねぇ。」
「座っていても高いです。」
「おまえが小さいんだよ。」
「元は、もう少し大きかったです。」
小雪が何気なく答えると、ベルが一瞬だけ黙った。
けれど、何も聞かなかった。
「……ほら。見るなら早くしろ。」
「はい。」
小雪は椅子の後ろへ回った。
昨日打たれていた肩には、やはり数センチほどの紫紺の跡が残っていた。
腫れはひどくない。肩も動いている。それでも、皮膚の下には鈍い痛みが残っているだろう。
「痛いですか。」
「少しな。」
「かなり紫です。」
「そのくらいなら普通だ。」
「普通。」
「ああ。剣術や体術の稽古なら、骨が折れることもあった。」
小雪はベルの肩を見た。
こうして近くで見ると、細かな傷がいくつもある。
薄く白くなった古い傷。
小さく盛り上がった跡。
手にも。
腕にも。
背中にも。
ベルが今まで身体を使ってきた跡だった。
「ベルは、たくさん怪我をしましたか。」
「まあな。」
「強くなるために?」
「それだけじゃねぇけど。」
ベルは少しだけ肩を竦めた。
「剣も、木工も、何か覚えようとすりゃ失敗するだろ。」
「怪我も失敗?」
「時々な。」
小雪は、もう一度傷跡を見た。
ベルは失敗して。
怪我をして。
それでも続けた。
そうして、昨日のように剣を振るようになった。
「もういいか?」
ベルが服を戻そうとする。
その時、小雪はふと、彼の耳がまだ赤いことに気づいた。
髪を拭く時は、大抵タオルが頭へかかっている。こうして後ろから耳までよく見える機会は、意外と少ない。
耳は赤い。
首筋も少し赤い。
他のところを見るなとは言われた。
触るなとも言われた。
けれど、息を吹きかけるなとは言われていない。
出来心だった。
これは、なかなかない観測機会である。
小雪はそっと顔を近づけた。
そして。
ふっ、と。
耳へ息を吹きかけた。
「ぎゃあっ!」
ベルが椅子から飛び上がった。
本当に飛び上がった。
身体を大きく震わせ、片手で耳を押さえながら振り返る。顔は真っ赤で、琥珀色の目は若干潤んでいた。
「何するんだよ!」
鳥肌が立つ瞬間を、小雪は確かに観測した。
いつもはチワワだが、今日ばかりは全身の毛を逆立てた猫に近い。
ふーっ、と威嚇する姿まで、頭の中に浮かんだ。
そこで、小雪の頭に冷静な思考が戻った。
言い訳が必要である。
虫がいた、とか。
髪がついていた、とか。
「すみません。出来心です。」
あ。
本音と建前が逆になった。
「……楽しいか。」
ベルが耳を押さえたまま、低い声で言う。
「俺で遊んで。」
「はい。とても。」
「……そうかよ。」
ベルは深くため息を吐いた。
けれど、いつものようには怒らなかった。
服を直しながら目を伏せている。その横顔には、何かを考えているような色が残っていた。
昨日のことだろうか。
魔族の話。
勇者からの忠告。
世界の敵。
聞きたい。
けれど、小雪が今は聞くなと言った。
問うべきなのか。
待つべきなのか。
ベルの中に揺れが残っている。
小雪には、それが分かった。
いつもなら、もっと怒る。
もっと騒ぐ。
けれど今日は、少しだけ大人しい。
だから小雪も、あえて触れなかった。
今は。
まだ。
春祭りから戻ったばかりなのだから。
鍛冶場へ行くと、ガドはすでに火を入れていた。
外の空気はまだ冷たいものの、雪はかなり減っている。屋根から落ちた水が細い筋となり、鍛冶場の脇を流れていた。
「おう、祭りで優勝したらしいな。」
顔を見るなり、ガドが笑った。
ベルの顔が渋くなる。
「早すぎる。誰から聞いたんだよ。」
「村からも、そんなに遠くねぇからな。昨日、祭りへ行ってたやつが何人かいたらしい。もう噂になってるぞ。剣術大会で、うちの村の助手さんが優勝したって。」
「ただの春祭りの大会だ。」
「小さかねぇだろ。領兵の副隊長も出てたって聞いたぞ。」
「そりゃそうだけど。」
小雪は頷いた。
「ベルは勝ちました。」
「勇者さまから見ても強かったか。」
「はい。」
小雪は迷わず答えた。
「とても強かったです。そして格好よかったです。」
横でベルが固まった。
ガドは、にやにやしている。
「そうかそうか。」
「小雪。」
「はい。」
「人前だ。」
「事実です。」
「事実でも、言っていい時と駄目な時がある。」
「よく分かりません。」
「そろそろ学べ!」
ガドが大きく笑った。
「よし。なら今日は、その強いあんちゃんに銅を引いてもらうか。」
「結局、力仕事ですか。」
「力仕事じゃねぇ。力加減仕事だ。」
ガドは、前回より少し長い銅棒を作業台へ置いた。
「これを焼きなまして、先を尖らせて、線引き板へ通す。無理すりゃ切れる。弱すぎりゃ進まねぇ。」
「ほどほどですね。」
「そうだ。ほどほど。」
「ほどほど穴。」
「やめろ。今日は中間の穴も使うぞ。」
ベルが線引き板を取り出した。
大きな穴。
中くらいの穴。
さらに小さな穴。
前回の失敗を受け、銅を少しずつ細くするために増やした穴が並んでいる。
「穴が増えました。」
「ああ。」
「穴文明、成長。」
「成長言うな。」
「穴は偉大です。」
「心の中だけで言ってくれ。」
「昨日は言いませんでした。」
「それは偉い。」
「記録します。」
「しなくていい。」
小雪は少し満足した。
ベルにまた偉いと言われた。
今日は、少し良い日かもしれない。
銅を火へ入れる。
熱する。
取り出す。
先端を細く叩く。
穴へ通す。
反対側から出た先を掴む。
引く。
やることだけ並べれば単純である。
けれど、実際には簡単ではなかった。
銅は思ったより頑固だった。
最初の大きな穴は通った。
ベルが足を開き、腰を落としてゆっくり引く。腕だけではなく、肩、背中、脚まで使っている。
昨日の剣術大会で見た身体の使い方と、少し似ていた。
力をまっすぐぶつけない。
銅が引っかかれば、角度を変える。
少し戻す。
油を足す。
また引く。
必要な時だけ、力を使う。
赤い棒が少しずつ穴を抜け、太かった銅が長い線へと姿を変えていく。
「ベル。」
「何だ。」
「剣と似ています。」
「銅線が?」
「はい。」
「どこが。」
「力任せではないところです。」
ベルは手を止めず、ほんの少しだけ小雪を見た。
「よく見てんな。」
「はい。」
「そりゃそうだ。力で引くだけなら切れる。相手の力を全部受ければ負ける。銅も剣も、正面から全部受けりゃ駄目になる。」
「逃がす。」
「ああ。」
「止める。」
「そうだな。」
「ベルの剣は、考える剣です。」
ベルの手が一瞬だけ止まりかけた。
銅が、ぎし、と嫌な音を立てる。
「止めるな。」
ガドがすぐに言った。
「銅も照れるぞ。」
「銅は照れねぇ!」
ベルが叫ぶ。
「しかし、ベルは照れるのであった。」
「小雪!」
「事実です。」
「作業中に言うな!」
ベルは顔を赤くしながら、再び銅を引いた。
慎重に。
一定の力で。
少しずつ。
銅は切れなかった。
二番目の穴へ通す前に、銅をまた火へ戻した。
焼きなまし。
引かれて硬くなった銅を、もう一度扱いやすくする。
無理をさせすぎないための火だった。
小雪は、その様子を見ながら記録した。
一、銅は引くと硬くなる。
二、硬くなりすぎると切れる。
三、火で柔らかくする。
四、少しずつ細くする。
五、ベルの剣と似ている。
六、力を全部受けない。
七、逃がす。
八、止める。
ベルが横から覗いた。
「五は、いるか?」
「重要です。」
「そうか。」
「はい。」
「なら、残していい。」
小雪は少し驚いた。
「消さないのですか。」
「何でだよ。」
「以前なら、消せと言ったかもしれません。」
「……そうか?」
「はい。」
小雪はベルを見る。
前なら、剣を褒められたことまで技術記録に残すなと言ったかもしれない。
今は、残してよいと言った。
ベルは少し変わった。
あるいは、小雪の言葉に慣れただけかもしれない。
「ベル。」
「何だ。」
「少し自信がつきましたか。」
「何に。」
「自分が強いことに。」
ベルは黙った。
火の音がする。
ガドは聞こえないふりをするためなのか、必要以上に真っ直ぐ火床を見ていた。
「……どうだろうな。」
ベルは少しだけ視線を逸らした。
「俺は、強いって言われるより、魔法が使えねぇって言われる方が多かったからな。」
「はい。」
「だから急に、強いだの、有能だの言われると、落ち着かねぇ。」
確かに、有能、と言われた時と同じなのだろう。
長く言われなかった言葉は、急には自分のものにならないらしい。
小雪は少し考えた。
「では、少しずつ言います。」
「言わなくていい。」
「一日一回。」
「十分多い。」
「朝晩。」
「増えてる。」
「食後。」
「生活に組み込むな。」
ベルは困ったように笑った。
小雪も少し笑った。
何事も、少しずつ。
褒める頻度にも、ほどほどが必要らしい。
二番目の穴では、銅が途中で引っかかった。
ベルはすぐに止めた。
少し戻す。
油を足す。
角度を変える。
また引く。
銅は進んだ。
けれど、途中で細い白い筋が現れた。
「止めろ。」
ガドが言うと、ベルはすぐに手を止めた。
三人で銅を確認する。
「切れかけか。」
「だな。」
「また中間の穴がいるか。」
「穴の問題だけじゃねぇ。表面が荒れてる。」
「ならすか。」
「ああ。」
ベルは銅を作業台へ置き、細かなやすりを手に取った。
小雪は、その細い傷をじっと見た。
小さな傷。
そこから切れる。
目立たなくても、放っておけば最後には裂ける。
「小雪。」
「はい。」
「手、出すか?」
ベルが訊いた。
小雪は少し考えた。
「やります。」
「いい返事だ。」
「でも、支えてください。」
ベルが少し目を開いた。
小雪も、自分で言ってから気づいた。
できないからやめるのでもなく、一人でできると言い張るのでもない。
支えてほしい。
そう言った。
ベルは、少しだけ柔らかく笑った。
「ああ。」
小雪はやすりを持った。
細い。
軽い。
けれど、小雪の指には難しい。
力を入れすぎれば削りすぎるし、弱すぎれば動かない。
ベルの手が、小雪の手の上へ重なる。
「力、抜け。」
「はい。」
「全部抜くな。落とす。」
「はい。」
「銅に当てる。押すんじゃなくて、撫でる。」
「撫でる。」
「ああ。」
「髪のように。」
ベルの手が一瞬止まった。
「……まあ、近い。」
「ベルは私の髪を撫でますか。」
「拭いてるんだ。」
「近いです。」
「違う。」
「でも、慎重です。」
「それはそうだ。」
「銅線も、私の髪も。」
ベルは少し黙った。
重なった手は、そのままだった。
「細くて綺麗なものは、慎重に扱わないとな。」
小雪は瞬きをした。
綺麗。
ベルは、これまで何度も小雪の髪をそう言った。
色素が抜けた。
燃え残った灰のような髪を。
元は黒かった。
あの頃の方が。
あの姿の方が。
本当の自分だったのかもしれない。
それでもベルは、今の髪を綺麗だと言う。
「だから、力を入れすぎるな。」
「はい。」
「おまえの髪を拭く時も、銅線の傷をならす時も、乱暴にしたら傷む。」
「はい。」
「大事なら、慎重に扱う。」
「大事。」
小雪は繰り返した。
ベルの耳が赤くなる。
「作業中。」
「はい。」
「今のは銅線の話だ。」
「髪は?」
「小雪。」
「はい。」
「集中。今は銅線を見る。」
「はい。」
小雪は銅線へ視線を戻した。
ベルの手に支えられながら、細かなやすりを動かす。
ざり、ざり、と小さな音が続く。
銅の傷が、少しずつならされていく。
昨日より。
その前より。
少し力を抜ける。
ベルが支えているからだ。
支えられることにも。
少しずつ慣れてきた。
それは、悪いことではない。
たぶん。
昼を過ぎる頃には、銅線は前回より長くなっていた。
まだ短い。
太さも不揃いである。
それでも、火の光を受けた赤い線が、作業台の上でゆるく曲がっている。
「髪より硬いです。」
「比べるな。」
「でも、絡みそうです。」
「絡む前に巻く。」
「巻く。」
「ああ。まだ先だけどな。」
「髪も巻けますか。」
「何の話だ。」
「この国の女性は、長い髪を結ったり、巻いたりしています。」
「ああ。」
「私はしません。」
「おまえは雑に切ってるからな。」
小雪はベルを見た。
「分かるのですか。」
「そりゃ見ればな。」
「どこをですか。」
「毛先。」
ベルは、小雪の背へ流れた髪を見る。
腰の辺りまで伸びた白い髪。
毛先は、少し不揃いだった。
小雪が自分で切るからだ。
邪魔になれば一つに掴み、刃物で切る。
機能には問題がない。
「自分で切ってるだろ。」
「はい。」
「少し斜めになってる。」
「問題はありません。」
「ある。」
「どこに?」
「俺の心に。」
小雪は瞬きをした。
ガドが奥で槌を落としかけた。
ベル自身も、言ってから固まった。
鍛冶場の火が、ぱち、と鳴る。
「ベル。」
「言うな。」
「自分で刺しましたね。」
「今のはかなり深い。」
「致命傷。」
「しくじった。」
「ベルの心に問題がありますか。」
「そうだ。」
ベルは半ばやけになったように答えた。
「おまえの毛先が斜めだと、俺の心に問題が発生する。」
「なるほど。」
「本当に分かったか?」
「ベルは私の髪を大事に思っています。」
ベルは真っ赤になった。
しばらく何も言わなかった。
それから、観念したように息を吐く。
「……そうだよ。」
小雪は自分の髪の先を少し持ち上げた。
長い白髪。
元は黒かった。
固有スキルを使い始めてから、少しずつ色が抜けるようになった。
そして、一年前。
今の姿になった。
けれど、髪は変わらず伸びる。
腰の辺りまで来れば邪魔になる。
だから切る。
それだけだった。
昔の自分の髪を、丁寧に扱った記憶はもうない。
今の自分の髪も、機能に問題がなければそれでよかった。
けれど、ベルは斜めだと心に問題があるらしい。
「では、今度整えますか。」
小雪が言うと、ベルの目が少し開いた。
「俺が?」
「はい。」
「……いいのか?」
「ベルの心に問題があるので。」
「言い方。」
「心の治療のため。」
「やめろ。」
「髪整え文明。」
「それは……まあ。確かに文明かもしれねぇけど。」
ベルは少しだけ目を逸らした。
「……じゃあ、今度な。」
「はい。」
「ちゃんと座って、動くなよ。」
「はい。」
「途中で寝るのも無しだ。」
「寝ません。」
「本当に?」
「たぶん。」
「そこは断言しろ。」
小雪は頷いた。
ベルが髪を整える。
それは少し不思議だった。
けれど。
嫌ではない。
むしろ、少し楽しみだった。
午後の作業では、銅線が一度切れた。
細くなっていた部分が、ベルが引いた瞬間、ぷつりと音を立てて離れた。
それまで一本につながっていた線が、二つになる。
小雪は、切れた銅を見た。
「切れました。」
「ああ。」
ベルは短く答えた。
悔しそうではある。
けれど、驚いてはいない。
ガドも落ち着いた様子で頷いた。
「最初はこんなもんだ。」
「失敗ですか。」
「失敗だな。」
「でも、続けますか。」
「もちろんだ。」
ベルは切れた銅を持ち上げ、断面を確かめた。
「切れた場所を見れば、何が悪かったか分かる。」
「切れても、無駄ではありませんか。」
「ああ。」
ベルは細くなりすぎた部分を指で示した。
「ここ、細くなりすぎてる。あと、表面の傷も残ってた。」
「力を入れすぎましたか。」
「俺も悪かった。」
「ベルも?」
「ああ。少し焦った。」
小雪は、ベルを見る。
「ベルも失敗するのですね。」
「当たり前だ。」
「有能で強いのに。」
ベルは少しだけ困ったような顔をした。
それから、切れた銅線を作業台へ戻す。
「……おまえも同じだろ。」
「私?」
「ああ。」
ベルは、小雪の手を一度見た。
細かな作業が苦手な手。
雪ウサギをうまく作れなかった手。
それでも今日は、自分から支えてほしいと言った手。
「おまえは確かに強い。俺なんかより、ずっと。」
ベルは言葉を選ぶように、少しゆっくり続けた。
「でも、強いからって何でもできるわけじゃねぇ。できないことがあってもいいし、失敗してもいい。」
小雪は黙って聞いていた。
「過去に何があったのか、俺はまだ全部知らねぇ。」
琥珀色の目が小雪を見る。
「でも、それで終わりじゃないだろ。」
ベルは切れた銅線を持ち上げた。
「切れたら、どこで切れたか見る。駄目だったところを直す。それで、またやる。」
小雪を見る。
「今みたいにな。」
小雪は、なぜかすぐに返事ができなかった。
一度切れたものは。
同じものには戻らない。
戻れない。
戻っては、来ない。
「一人でできなければ。」
ベルが続けた。
「俺がいる。」
小雪の指が、ほんの少し動いた。
「……ベルが?」
「ああ。」
「ベルがいますか?」
「当然だ。」
「これからも?」
ベルは少しだけ眉を寄せた。
「おまえがどこを目指すつもりなのか知らねぇけど。」
それでも。
「着いていく。どこまででも。」
小雪は、切れた銅線を見た。
赤い線。
二つに切れている。
同じ姿には戻らない。
けれど、それで終わりではないとベルは言う。
また引く。
また作る。
新しい線を。
小雪はようやく頷いた。
「はい。」
ガドは、やはり聞こえないふりをしていた。
夕方までに、銅線は三本できた。
一本目より長いものが二本。
途中で切れた短いものが一本。
太さはまだ不揃いで、表面にも荒さが残っている。
それでも、確かに銅線だった。
「増えました。」
「ああ。」
「銅線たち。」
「たちをつけるな。」
「家族。」
「もっとやめろ。」
「銅線三兄弟。」
「やめろって。」
「ベルは三兄弟ではありませんか。」
「違う。」
「銅線次男。」
「やめてくれ。」
ベルは疲れた顔をしていた。
けれど、少し楽しそうでもあった。
ガドも満足そうに腕を組んでいる。
「これで巻けるのか?」
ガドが訊いた。
小雪は三本の銅線を見る。
「まだ足りません。」
「だろうな。」
「長さが足りません。太さも揃っていません。表面も荒いです。」
「注文が多いな。」
「はい。」
「でも、方向は合ってる。」
ベルが言った。
「はい。」
「次はもっと長くする。それから。」
ベルは銅線を指した。
「巻いた時、隣同士が触れないようにする必要があるんだろ。」
「はい。」
「絶縁処理。」
「そうです。」
「また次の面倒なやつだな。」
「絶縁文明です。」
「来ちまったな。」
小雪は銅線を見る。
銅は電気を通す。
通るからよい。
けれど、通りすぎると困る。
巻いた線が隣へ触れれば、電気は短い道を選んでしまう。
だから、近道を止める。
「電気は近道します。」
小雪が言うと、ベルが少し嫌な顔をした。
「また難しいことを言い出したな。」
「はい。」
「なら、その近道を止める。」
「はい。必要があります。」
「線と線の間に何か挟む。」
「おそらく。」
「紙。」
「たぶん。」
「布。」
「かもしれません。」
「樹脂。油。」
「試してみましょう。」
「また実験だな。」
「はい。」
ベルは三本の銅線を箱へ入れた。
一本ずつ。
重ならないように。
丁寧に。
山の家へ戻る頃には、空は春の夕暮れに変わっていた。
雪はかなり溶けている。
川の水音は以前より大きく、水車の回る音も冬よりはっきり聞こえた。
玄関の守護獣は、ついに片耳を失っていた。
「負傷しています。」
「溶けてるだけだ。」
「補填されますか。」
「雪ウサギはされねぇな。」
「では、記録。」
「するのか?」
小雪は守護獣を見た。
失敗した雪ウサギ。
形は変わった。
可愛くもない。
それでも、まだ玄関にいる。
家へ入ると、小雪は作業台の上へ銅線の箱を置いた。
ベルが火を入れ、鍋のスープを温める。その横で、小雪は記録用紙を広げた。
銅線づくり記録。
一、銅線は少しずつ引く。
二、焼きなまして、柔らかくする。
三、引くと硬くなる。
四、切れた場所を見る。
五、失敗は観測材料。
六、強くても失敗する。
七、続ける。
八、ベルの剣と銅線づくりは少し似ている。
九、ベルは剣も銅線も力を流す。
十、銅線は髪のように慎重に扱う。
十一、小雪の髪は毛先が斜め。
十二、ベルの心に問題がある。
十三、今度、ベルが髪を整える。
十四、次は絶縁文明。
「十二!」
ベルが叫んだ。
「そこですか。」
「そこだろ!」
「ベルが言いました。」
「言ったけど、その書き方はおかしい!」
「心の問題。」
「おかしい!」
「十一は。」
「事実だ。」
「十三。」
ベルは少し黙った。
それから、顔を赤くして言う。
「……残せ。」
「はい。」
「小さくしなくていい。」
「はい。」
「でも、十二は消せ。」
「小さくします。」
「消せ。」
「重要です。」
「重要じゃねぇ!」
小雪は十二番を小さくした。
消しはしなかった。
ベルはやはり頭を抱えた。
けれど、十三番は消せと言わなかった。
今度、ベルが髪を整える。
火のそばで。
椅子に座って。
小雪は自分の白い髪を少しだけ触った。
腰の辺りまで伸びた髪。
不揃いな毛先。
今までは、機能に問題がなければそれでよかった。
けれど、ベルの心に問題があるなら。
少し整えてもいいかもしれない。
――でも、もし。
一瞬過った懸念は、見ないふりをした。
スープをよそいながら、ベルが言う。
「次は絶縁か。」
「はい。」
「電気の近道を止める。」
「はい。」
「面倒だな。」
「はい。」
「でも、やるんだろ。」
「はい。」
「じゃあ、次も頑張るか。」
小雪は頷いた。
銅線はまだ短い。
不揃いで。
傷もある。
一本は切れた。
それでも、昨日より増えた。
次は近道を止める。
触れてはいけないものを分ける。
通るべき道を守る。
そうして少しずつ、コイルへ近づいていく。
小雪は、火の向こうに置かれた銅線の箱を見た。
ベルは、失敗しても終わりではないと言った。
何度でもやればよいと言った。
一人でできなければ、自分がいると言った。
小雪は、その言葉を嬉しいと思った。
けれど、もう一人の自分が囁いた。
早く終わりにして、ガベルを持てと。
審判の日は、きっと近い。




