第四十三話 三下くん、剣を振る
ベルが、本当に受付へ名前を書いた。
小雪はその様子を、少し離れた場所から見ていた。
「ヴェルヴァルド・グランツ様……ですか?」
受付を担当していた男は、差し出された参加票とベルの顔を何度も見比べた。
領都を治める公爵家の次男が、祭りの余興とはいえ一般参加の剣術大会へ突然出ると言うのだから、戸惑うのも当然なのだろう。
怪我でもさせたらどうするのか、対戦相手に手加減を求めるべきなのか、そもそも本当に普通の参加者として扱ってよいのか。男の顔には、口に出されていない思案が次々と浮かんでいた。
「ああ。」
「グランツ公爵家の……。」
「そうだ。」
「本当に、ご参加を?」
「今、名前書いただろ。」
「いえ。しかし……。」
ベルは、困り果てた受付係を見て小さく息を吐いた。
「特別扱いはいらねぇ。普通に入れろ。」
「は、はい。」
男はようやく覚悟を決めたらしく、慌てて参加者名簿へ印をつけた。
剣術大会の規則は、それほど複雑ではない。
魔法と身体強化は禁止されており、会場には魔力の使用を監視する者も配置されている。
大会用の木剣を使用し、明確に有効と判断される一撃を二本取れば勝ち。武器を落とした場合と試合場の外へ出た場合も一本となり、危険と判断されれば審判がその場で止める。
一通りの説明を聞き終えたベルは、用意された木剣を一本受け取った。
柄を握り、軽く振り、手の中で一度回して重心を確かめる。
それだけの動きが、妙に自然だった。
「ベル。」
「何だ。」
「剣です。」
「見りゃ分かる。」
「ベルが持っています。」
「だから出るんだよ。」
小雪は、返事をしながらもじっとベルを見た。
山の家で包丁を持つ姿は知っている。木を削るために刃物を使う姿も、銅を引くために工具を握る手も見た。村の子供たちへ剣の握り方や立ち方を教えていたこともある。
けれど、誰かと戦うために剣を持つベルを見るのは、今回が初めてだった。
「小雪。」
「はい。」
「近い。」
「観測中です。」
剣を持つと、いつもより少し雰囲気が鋭くなる。
ベルはもともと、かなり整った容姿をしている。
すらりと均整の取れた身体には、細すぎず、見せつけるほど大きすぎもしない筋肉がついている。日々薪を運び、木を削り、水車を直し、銅を引くために使われている、きちんと用途のある身体である。
顔立ちも、眉を顰めてさえいなければ、凶悪というよりむしろ甘い。
わずかに切れ上がった目は、肉食動物を思わせる鋭さを持ちながら、その色は焦げた飴のように澄んだ琥珀色である。
長い睫毛がその目を縁取り、鼻梁はすっと通っている。
濃い金髪は陽の光を受けると金糸のように輝き、今日の少し整った服装と木剣を持つ姿まで合わせれば、騎士か、あるいは白馬に乗って現れる物語の王子という言葉さえ、意外なほど素直に当てはまった。
いつも怒っている。
狼狽えている。
耳まで赤くなる。
三下で、オカンで、乙女で、チワワである。
そのせいで忘れがちだが、ベルがかなり美しい容姿をしていることは、そろそろ認めざるを得ない。
小雪が遠慮なく頭の先から足元まで眺めていると、ベルの耳が少しずつ染まり始めた。
「……そんな珍しい姿でもねぇだろ。」
「今日は少し違います。」
「何が。」
「剣があります。」
「それだけかよ。」
「あと、格好いいです。」
「……観測をやめろ。」
「まだ途中です。」
「頼むから終われ。」
ベルは目を逸らし、木剣の握りを確かめるふりをした。
「とにかく、試合場には絶対入るなよ。」
「入りません。」
「本当に?」
「はい。」
「俺が止めたら、絶対に止まること。」
「止まります。」
「よし。」
満足そうに頷くベルを見て、小雪は少し考えてから、もう一度声をかけた。
「ベル。」
「今度は何だ。」
「負けないでください。」
木剣を持つ手が止まった。
「……おまえが出ろって言ったんだろ。」
「はい。」
「急に不安になるな。」
「しかし、ベルは補填されません。」
「剣術大会だぞ。」
「でも、ガレスはかなり強いです。」
ベルは、少し離れた場所にいる男を見た。
ガレスは別の参加者と何かを話しながら笑っている。
立っているだけでも周囲の男たちより一回りほど大きく見えるが、その身体には無駄な力が入っていない。
昨日今日、剣を握り始めた人間ではないことくらいは、小雪にも分かった。
「知ってる。」
ベルは短く答えた。
「見ただけで分かりますか。」
「ある程度はな。」
「逃げますか。」
「逃げねぇよ。」
「では。」
小雪は真面目に言った。
「死なず、怪我もせず、穏便にぼこぼこにしてください。」
「注文が多いな。」
「お願いします。」
ベルは一瞬黙ったあと、木剣を肩へ載せた。
「……まあ、努力はする。」
「はい。」
「あと。」
「はい。」
「変なこと叫ぶなよ。」
「何が変ですか。」
「……格好いい、とか。有能、とか。」
自分で口にして恥ずかしくなったらしい。ベルの口元がわずかに歪み、耳だけではなく、目元まで少し赤くなった。
「まだ言っていません。」
「試合中も言うな。」
「分かりました。」
「本当に?」
「善処します。」
「なんだろう。これまでの実績が、ものすごく俺を不安にさせる……。」
ベルは深くため息を吐いた。
参加者は、小雪が思っていたより多かった。
領兵、騎士見習い、冒険者、傭兵。中には祭りの腕試しに来ただけらしい若者もいる。
明らかに経験の浅そうな者もいたが、受付近くで木剣の具合を確かめている何人かは、立ち方を見るだけでもそれなりの実力があるように見えた。
やがて、ベルの名が呼ばれた。
最初の相手は、領兵らしい若い男だった。
試合場へ入ったベルを見て、周囲が少しざわめく。
公爵家の次男。
魔法を持たずに生まれた貴族。
そんな言葉が、断片的に聞こえてきた。
「ベル。」
小雪が呼ぶと、ベルが振り返った。
「何だ。」
「見ていますから。」
「……そうかよ。」
それだけで、また耳が少し赤くなる。
審判が二人の間へ立った。
「始め!」
先に動いたのは相手だった。
若い領兵は一気に間合いを詰め、ベルの肩を狙って木剣を振り下ろした。かなり速い。
けれど、ベルは受けなかった。
ほんの半歩だけ横へ動く。
木剣が空を切り、振り下ろした勢いのまま相手の身体が前へ流れた。
その瞬間、ベルの木剣が領兵の手首を軽く叩く。
からん、と乾いた音を立てて、相手の剣が地面へ落ちた。
「一本!」
周囲が少し静かになった。
小雪も瞬きをした。
早い。
けれど、ベル自身が特別速く動いたようには見えなかった。
むしろ相手の方が、自分から剣を落とされる場所へ入っていったように見える。
二本目では、若い領兵も慎重になった。
距離を取り、左右へ身体を揺らしてベルの反応を窺っている。けれどベルは動かず、目だけが相手を追っていた。
右足。
左肩。
剣先。
視線。
やがて領兵が踏み込もうとした、その直前。
ベルが先に一歩だけ前へ出た。
距離を潰された相手は、剣を十分に振れない。ベルは木剣の根元を押さえ、そのまま身体を入れ替えた。
勢いを止められなかった領兵の足が、試合場の線を越える。
「場外! 二本目、ヴェルヴァルド・グランツ!」
今度は大きな歓声が上がった。
ベルは木剣を下ろし、相手へ軽く頭を下げてから試合場を出る。
「早かったです。」
戻ってきたベルに小雪が言うと、彼は木剣を肩へ載せた。
「相手が素直だったからな。」
「素直。」
「攻撃する前に、全部身体へ出てた。」
「見ていたのですか。」
「ああ。」
「観測。」
「まあ、そうだな。」
「ベルも観測者です。」
「嫌な呼び方するな。」
「格好よかったです。」
ベルが足を止めた。
「言うなって言っただろ!」
「試合中ではありません。」
「そういう問題か?」
「はい。」
小雪が頷くと、ベルは顔を赤くしたまま目を逸らした。
「本当に出たのか。」
しばらくして、聞き覚えのある声がした。
振り返ると、レオンハルトが立っていた。
「兄上。」
「仕事を終わらせて来てみれば、弟が剣術大会へ出ていると聞いた。」
レオンハルトは試合場とベルを交互に見る。
「出ないと言っていなかったか。」
「……言ったな。」
兄の視線が小雪へ向く。
「私がお願いしました。」
「なるほど。勇者さまからのお願いですか。」
それだけで大体の事情を理解したらしく、レオンハルトはあっさり頷いた。
ベルが顔をしかめる。
「何でそこで納得するんだ。」
「おまえだからだ。」
「煽られたからじゃねぇぞ!」
「私は何も言っていない。」
「顔が言ってる!」
レオンハルトは少し笑った。
「それにしても、久しぶりだな。おまえが人前で剣を振るのを見るのは。」
「俺も好きで出てるわけじゃない。」
「そうか?」
兄は小雪を見る。
「楽しそうに見えましたか。」
「少し。」
「違う。」
「それより、勇者殿。」
「はい。」
「ヴェルの剣を見るのは、初めてですか。」
「はい。」
「なら、よく見ておくといい。」
小雪はレオンハルトを見た。
「ベルは強いですか。」
「強い。」
即答だった。
ベルが少し嫌そうな顔をする。
「兄上。」
「事実だろう。」
レオンハルトは試合場へ視線を戻した。
「ヴェルの剣は、決して力で押し切るものではありません。しかし昔から、相手を見るのがとにかく早かった。」
「見る?」
「ええ。最初の数合で、足、肩、視線、呼吸を見て癖を探す。それから、相手が最も嫌がる場所を選ぶ。」
小雪はベルを見る。
「陰湿。さすが三下。」
「おい。」
レオンハルトが笑った。
「そうとも言う。」
「兄上!」
「褒めている。」
「絶対違うだろ!」
小雪は少し笑った。
二試合目、三試合目と進むにつれて、相手は少しずつ強くなった。
二試合目の相手は、とにかく速かった。細かな踏み込みから何度も鋭い突きを繰り出し、ベルは最初の一本を取るまで、かなり長い時間を避け続けた。
けれど、小雪には途中から分かった。
ベルは、同じようには避けていない。
最初は大きく外へ逃げていた。次は半歩。その次は、ほんの少し身体を傾けただけだった。
相手の剣がどこまで届くのかを、一度ごとに測っている。
最後には、突きが届く寸前で身体をずらし、伸び切った腕を木剣で叩いた。
三試合目の相手は、ベルより一回り大きかった。
重い木剣を、力いっぱい振る。
最初の一撃を見た時、小雪は思わず身体が動きかけた。
危ない。
けれど、ベルは受け止めなかった。自分の剣を斜めに当て、真正面からぶつからない。
重い木剣はその表面を滑って横へ流れ、行き場を失った力がそのまま地面へ逃げた。
ベルは体勢を崩した相手の脇へ入り、一撃を入れる。
「一本!」
小雪は目を少し開いた。
知っている。
水車でも。
停止装置でも。
屋根でも。
何度も見た。
大きな力を正面から受けない。
逃がす。
分ける。
必要なところだけ使う。
ベルは、剣でも同じことをしている。
「文明です。」
小雪が言うと、隣にいたレオンハルトが不思議そうに見る。
「何がですか。」
「ベルの剣は、彼が作るものと同じです。構造を見て、仕組みを考えて、使えるものを使う。」
レオンハルトは試合場の弟を見てから、小雪へ視線を戻した。
「勇者さまには、そう見えるのですね。」
「はい。」
小雪は頷いた。
「ベルは、剣でもベルです。」
レオンハルトは少し笑った。
「本人が聞けば、喜ぶかもしれませんね。」
「そうですか?」
「はい。きっと。」
小雪は覚えておくことにした。
一方、ガレスも順当に勝ち上がっていた。
強かった。
最初の相手は一撃で木剣を弾き飛ばされ、二人目は正面から打ち合って押し負けた。
三人目は何とか何度か攻撃を避けたものの、最後には場外まで押し出された。
力が強い。
けれど、それだけではない。
大きな身体に似合わず動きも速く、相手との距離をよく見ている。重い攻撃を振り切るだけではなく、相手が反応すれば途中で止め、別の角度から打ち直すこともできた。
「強いですね。」
小雪が言う。
「ああ。」
ベルもガレスの試合を見ていた。
「思ったより厄介だな。力が強いだけじゃない。」
「やはり逃げますか。」
「逃げねぇよ。」
「よかったです。」
「おまえ、時々本気で心配してんのか、煽ってんのか分からねぇな。」
「両方です。」
「やめてくれ。」
周囲でも、ガレスについて話す声が増えていた。
西の大国から来た傭兵らしい。
元は騎士だった。
何か問題を起こして騎士団を離れた。
西の内戦がらみか。
けれど、腕は本物だ。
小雪は、断片的に聞こえてくる話を聞いていた。
元騎士。
西の大国。
剣一本で戦ってきた男。
確かに強い。
ガレスが自分の実力に自信を持つ理由は、よく分かった。
けれど、自分が強いことと、自分が正しいことは、同じではない。
夕方が近づく頃、最後に残ったのは二人だった。
「決勝戦!」
係員の声が広場へ響く。
「ヴェルヴァルド・グランツ!」
歓声が上がる。
「対するは、西方より来た傭兵、ガレス!」
さらに大きな歓声が続いた。
ベルが試合場へ向かう。
小雪は、その背中を見た。
「ベル。」
呼ぶと、振り返る。
「何だ。」
「彼は強いです。」
「知ってる。」
「本当に?」
「ああ。」
「おそらく、これまでの人たちとは違います。」
「分かってる。」
「絶対に怪我をしないでください。」
「努力する。」
「あなたが怪我をしたら、この会場が吹き飛びますから。」
「……頼むからやめてくれ。俺の故郷だぞ。」
「しかし。」
小雪は少し考えた。
「心配、です。」
ベルの表情が止まった。
「……そうか。」
「はい。」
小雪は頷いた。
「お願いしたのは私ですが、やはりベルが怪我をするのは絶対に嫌です。」
ベルの耳が赤くなる。
「小雪。」
「はい。」
「今から決勝だ。」
「はい。」
「頼むから初心なハートを刺すな。」
「瀕死ですか。」
「かなり。」
「では、優勝したらめった刺しにしますので、必ず勝ってください。」
ベルは少し笑った。
「怖い勇者さまだな。」
「お願いします。」
「……分かった。」
ベルは木剣を握り直した。
「頼まれたからには、やるよ。」
そう言って、試合場へ入った。
向かい側から、ガレスも入ってくる。
「逃げなかったな、坊ちゃん。」
「お互いにな。」
「ここまで来るとは思わなかった。」
「俺も、おまえが思ったより強くて驚いてる。」
ガレスが笑う。
「今からでも遅くねぇぞ。」
「何が。」
「負ける前に降りろ。」
ベルも笑った。
「勇者さまに、おまえをぼこぼこにしろって頼まれてるからな。」
「まだ言ってるのか。」
「ああ。」
「女の頼みで剣を振るとはな。」
「悪いかよ。」
「いや。」
ガレスは木剣を構えた。
「嫌いじゃねぇ。」
ベルも構える。
「そりゃどうも。」
審判が二人の間へ入った。
「決勝戦! 二本先取!」
観客の声はまだ聞こえている。
楽器の音も。
屋台の呼び声も。
けれど小雪の目には、もう試合場のベルしか入っていなかった。
「始め!」
先に動いたのはガレスだった。
速い。
小雪がそう思った時には、もうベルの間合いへ入っている。
大きな身体から木剣が横へ走り、ベルは後ろへ下がって避けた。
けれどガレスは止まらない。返した木剣が上から落ち、さらに斜めへ切り返し、間を置かず再び横へ振られる。
重い。
それなのに速い。
ベルが剣を合わせるたび、激しい音が試合場へ響いた。
小雪の指が、無意識に外套を握る。
ベルは押されている。
明らかに。
ガレスがさらに大きく踏み込んだ。
ベルが横へ逃げようとする。
その瞬間、ガレスの剣が止まった。
来るはずだった一撃が来ない。
ベルの身体だけが、空いた場所へ動く。
そこへ、別の角度からガレスの木剣が飛び込んだ。
どん、と鈍い音がした。
木剣がベルの肩を打つ。
「一本! ガレス!」
歓声が爆発した。
「ベル!」
小雪の口から、思わず名前が出た。
ベルは数歩下がると、打たれた肩を一度回した。痛そうではあるが、動いている。
ガレスが笑った。
「どうした、坊ちゃん。」
ベルは答えなかった。
ただ木剣を構え直す。
小雪には分かった。
ベルの目が変わっている。
負けたことに怒っているのではない。
見ている。
ガレスの足、肩、腰、木剣。さきほどの一撃を、もう一度頭の中で確かめている。
「今ので。」
ベルが小さく言った。
「何だ?」
ガレスが聞き返す。
ベルが笑った。
「少し分かった。」
審判が再び二人の間へ入る。
「二本目!」
「始め!」
ガレスが動いた。
先ほどと同じように距離を詰め、重い横薙ぎを放つ。
けれど、今度のベルは下がらなかった。
木剣を斜めに当てる。
正面から止めない。
ガレスの力は横へ流れ、その大きな身体がほんの少し前へ出た。
ベルはすぐにその内側へ入り、空いた脇腹へ木剣を届かせる。
「一本! ヴェルヴァルド・グランツ!」
歓声が上がった。
ガレスが驚いた顔をし、ベルはすぐに距離を取った。
「力が強いな。」
「ああ?」
「だから、使わせてもらった。」
ガレスの顔が変わる。
「言うじゃねぇか。」
「やってみねぇと分からねぇからな。作るのも、剣も同じだ。」
一本ずつ。
次で決まる。
観客たちも、それを理解したらしい。先ほどまで大きかった歓声が少しずつ静まり、試合場を見つめる空気に変わっていく。
ガレスも、もう笑っていなかった。
三本目が始まる。
今度は、どちらもすぐには動かなかった。
ガレスはもう、大きな力を簡単には出さない。ベルがそれを流して利用すると分かったからだ。
短い踏み込みから小さく打ち、途中で止め、角度を変える。ベルも、先ほどのようには内側へ入れない。
何度も木剣がぶつかり、乾いた音が続いた。
ベルの剣が一度、ガレスの身体へ届きかける。
ガレスの木剣も、ベルの肩をかすめる。
けれど、どちらも一本にはならない。
強い。
ガレスは、本当に強い。
自分の戦い方が通じなければ、すぐに変える。ベルが力を流すなら、流せないように小さく使う。
小雪は、そのことに気づいた。
ガレスも馬鹿ではない。
むしろ剣に関しては、よく見ている。
だからこそ、不思議だった。
なぜ、魔族のことには気づかないのか。
人間はいつも、慣習と偏見で事実を歪める。
よく知っていると思った瞬間に、見ることをやめる。
教えられた常識を、自分で確かめた真実と取り違える。
そうして。
繰り返す。
ガレスの剣が、ベルの顔のすぐ横を通った。
金髪が風で揺れる。
小雪の身体が、反射的に動きかけた。
けれど、止まる。
ベルが止めろと言った。
止まると約束した。
魔法も使わない。
見るだけだ。
ベルも、まだ見ている。
ガレスの足。
手。
肩。
呼吸。
何度か打ち合ったあと、ベルがほんの少し左側を空けた。
小雪にも分かった。
隙である。
ガレスも見た。
踏み込む。
その瞬間、ベルは外へ逃げなかった。
むしろ前へ出た。
「なっ。」
距離を詰められたガレスの木剣は、十分に振れない。
ベルはさらに身体を近づけ、自分の木剣をガレスの剣の根元へ当てた。手首を捻り、身体を入れ替える。
ガレスの大きな力が、向かう先を失った。
木剣が宙へ飛ぶ。
からん、と地面へ落ちる。
一瞬、試合場が静かになった。
「武器落下!」
審判の声が響く。
「二本目! 勝者、ヴェルヴァルド・グランツ!」
広場が沸いた。
歓声と拍手が押し寄せ、止まっていた祭りの音まで一度に戻ってきたように聞こえる。
小雪は、ベルを見ていた。
少し息を切らしている。
額には汗があり、肩には一撃を受けた跡もある。
けれど、立っている。
勝った。
「ベル!」
小雪が呼んだ。
歓声の中で、ベルが振り返る。
「何だ。」
「すごく格好いいです!私の助手は剣も有能でした!」
ベルの顔が真っ赤になった。
「叫ぶな!人前だ!」
試合場の真ん中で、無事に初心なハートへとどめが刺さったようだった。
ガレスはしばらく、地面へ落ちた木剣を見ていた。
やがて自分で拾い上げる。
「……負けたな。」
「ああ。」
ベルは答えた。
「おまえ、思ったより強ぇな。」
「それはこっちの台詞だ。」
ガレスが笑った。
悔しそうではある。
けれど、負けを認めない男ではないらしい。
「最後のは何だ。俺の動きが分かってたのか?」
「いや。」
ベルは打たれた肩を軽く回した。
「ただ、おまえは俺がまた外へ逃げると思っただろ。」
「……。」
「だから前へ出た。それだけだ。」
ガレスの顔が少し固まった。
「最初に相手を決めつけると、外すぞ。」
小雪は、その言葉を聞いた。
そして、ガレスの前へ歩いた。
「あなたは強い。」
ガレスが小雪を見る。
「慰めならいらん。」
「違います。」
小雪は首を横に振った。
「これは、勇者からあなたたちへの忠告です。」
その言い方に。
ベルが、わずかに小雪を見た。
ガレスの眉が動く。
「あなたたち?」
「魔法の国の貴族は弱いはずだ。剣は遊びに違いない。魔族は悪い。そういうものだ。」
さきほどまでとは違う声だった。
怒っているわけではない。
声を荒らげてもいない。
むしろ、ひどく静かだった。
「すべて思い込みです。自分の目で確かめることなく、あなたたちは決める。」
ガレスの顔から、少しずつ笑みが消えた。
「俺が負けたことと、魔族に何の関係がある。」
「同じでしょう。」
「何が。」
「見なかった。疑わなかった。確かめなかった。」
小雪は淡々と答えた。
「ベルを最初から弱いと決めた。だから最後も、ベルは逃げると決めた。」
ガレスは何も言わない。
「あなたは確かに強いのでしょう。ご自認の通り。」
小雪は続けた。
「でも、慣習や通例の上に胡座をかかない方がいい。常識を疑わなければ、人は進歩できません。」
水車も。
穴も。
銅線も。
止めることも。
誰かが当たり前を疑った先にあった。
けれど、この世界の人間は。
どれほど多くのことを。
疑いもせず。
繰り返してきたのだろう。
「明らかな悪意がなくても、考えることをやめれば、人は簡単に間違えます。」
ガレスは、しばらく黙っていた。
「じゃあ。」
やがて、低い声で言う。
「次に魔族に会ったら、どうしろってんだ。」
「自分で考えてください。」
「何を。」
「信じていたものが、常識だと思っていたものが、本当に正しいのか。」
小雪はガレスを見た。
その灰色の目は、先ほどまでベルを見ていた時とは違っていた。
「剣を振り下ろす前に、ほんの一瞬でいい。」
静かな声だった。
「自分を疑いなさい。」
少しの沈黙。
小雪は、その向こうにいる誰かへ言うように続けた。
「自ら滅びを招く前に。」
ガレスは、戸惑ったように小雪を見た。
ベルも何も言わない。
さきほどまで歓声に包まれていた場所が、そこだけ少し遠くなったようだった。
「お前。」
ガレスが言う。
「本当に勇者か?」
小雪は少し考えた。
「そう呼ばれていますが。」
「魔族の肩を持つ勇者なんざ、聞いたことねぇ。」
「では。」
小雪は静かに言った。
「これで、あなたの常識は一つ変わりましたね。」
ガレスは何も答えなかった。
怒っているのか。
呆れているのか。
少しだけ考えているのか。
分からない。
けれど、少なくとも笑ってはいなかった。
「小雪。」
ベルが呼んだ。
「はい。」
「さっきの。」
「はい。」
「どういう意味だ。」
小雪はベルを見ると、わずかに肩を竦めた。
「言葉通りです。」
「おまえ。」
ベルは少し声を低くした。
「一体、何を隠してる。」
小雪は答えなかった。
ベルは、さらに続けた。
「魔王を倒したのは、おまえなんだよな。」
少しだけ、間があった。
「そう、言われています。」
ベルの表情が変わった。
「……どういう意味だ。」
小雪は少し笑った。
もう、さきほどの冷たい顔ではなかった。
「私は、話す日が来ないことを祈っています。」
「聞くなってことか。」
「今日は春祭りです。」
「小雪。」
「ベル。今は浸らせてください。」
小雪はベルを見る。
「お願いします。」
ベルは何かを言いかけた。
けれど、やめた。
「……分かったよ。」
疲れた顔で、それでも少し笑った。
「今日はな。」
「はい。」
「でも、忘れたわけじゃねぇからな。」
「はい。」
その返事だけで、今は十分だった。
大会の賞金を受け取ったベルは、袋の中身を確認した。
「結構あるな。」
「銅が買えます。」
「最初にそれかよ。」
「銅線文明が進みます。」
「俺が身体張って得た金が、全部銅になるのか……。」
「身体で得た金。」
「その言い方やめろ!」
「記録します。」
「するな!」
「敬語。」
「しないでください!」
小雪は少し笑った。
春祭りの広場には、まだ歓声が残っている。
ベルは打たれた肩を、時折気にするように回していた。
「痛いですか。」
「少し。」
「大丈夫ですか。」
「ああ。」
「本当に?」
「本当に。」
「補填されません。」
「知ってる。」
小雪は少し迷ったあと、ベルの袖をつまんだ。
「ベル。」
「何だ。」
「今日も、すごく格好よかったです。さすが私の有能な助手です。」
「……何だ。めった刺しってやつか。」
ベルの耳が、また赤くなり始める。
小雪は少し笑った。
ハートを刺す。
小雪には、まだよく分からない。
けれど、ベルが赤くなるのを見るのは嫌ではなかった。
祭りの中心を離れる頃には、空の色が少しずつ薄くなっていた。
昼間ほどの騒がしさはなく、遠くで楽器が鳴り、屋台の灯りが一つずつ増えている。
ベルは賞金の袋を持ち、小雪はその隣を歩いていた。
「ベル。」
「今度は何だ。また銅か?」
「もし。」
小雪は少し前を見たまま言った。
「私が世界の敵になったら、どうしますか。」
ベルの足が止まった。
「……何だよ、いきなり。」
「もしもの話です。」
小雪も立ち止まり、ベルを見る。
「あなたは、私を止めますか。それとも、私と一緒に壊しますか。」
ベルはしばらく何も言わなかった。
いつもの軽口なのか。
また妙な想定問答なのか。
測りかねているのかもしれない。
けれど、小雪が全く笑っていないことに気づくと、少しだけ眉を寄せた。
「そりゃ。」
ベルは言った。
「止めるだろ。」
「そうですか。」
「当たり前だろ。勇者がわざわざ自分で救った世界の敵になるって、どういう状況だよ。」
「さあ。」
小雪は答えた。
「ただの想定問答かもしれません。」
「おまえが言い出したんだろ。」
小雪は、今度こそ笑った。
それはそうだと思った。
この地獄に、彼はあまりにも明るい。




