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第四十二話 春祭りと煽られ三下

 雪解けの道は、少しぬかるんでいた。


 馬車の車輪が柔らかくなった土を踏むたび、窓の外から湿った音が聞こえる。


 まだところどころには白い雪が残っているが、木々の枝先には小さな芽が膨らみ、川の水音も冬の頃より少しだけ明るくなっていた。


 春が近い。


 山の家から領都へ向かう街道も、冬のあいだとは比べものにならないほどにぎやかだった。荷を積んだ商人の馬車、春祭りへ向かう家族連れ、花を積んだ荷車、羊毛の布を運ぶ職人たちが、皆同じ方向へ進んでいる。


 小雪は馬車の窓から、しばらく外を眺めていた。


「人が多いです。」

「春祭りだからな。」


 ベルは向かいの座席で腕を組んでいる。


 今日は山の家で着ている作業着ではなく、深い緑の上着に黒い手袋を合わせていた。

 王宮舞踏会ほど堅苦しくはないが、金髪もきちんと整えられており、黙って座っていれば、どこから見ても公爵家の次男である。


 実際、公爵家の次男なのだが、小雪は時々そのことを忘れる。


「ベル。」

「何だ。」

「今日は脱ぎませんか。」

「脱がねぇ。」

「春祭りです。」

「祭りと脱衣をつなげるな。」

「雪は少ないです。」

「雪の問題でもねぇ。」

「では、今日は脱ぎがち対策不要、と。」

「最初から不要だ。」


 ベルは顔を赤くして窓の外へ視線を向けた。


 小雪は記録用紙を取り出そうとした。


「今のは書くな。」

「まだ書いていません。」

「顔が書く顔だった。」

「ベルは見抜きます。」

「正直見抜けるようになりたくなかった。」


 小雪は記録用紙をしまった。


 今日の目的は、すでに整理してある。


 領都で銅を探す。

 グランツ公爵家に顔を見せる。

 春祭りを見る。

 剣術大会を見る。


 そして、ベルは出ない。

 本当に出ない。

 誰かに煽られても出ない。


 たぶん。


「ベル。」

「何だ。」

「本当に剣術大会には出ませんか。」

「出ねぇ。」

「煽られても。」

「出ねぇ。」

「誰かに、魔法が使えない貴族にはちょうどよい大会だな、と言われても。」

「出……。」


 ベルは途中で言葉を止め、小雪を見た。


「何でそんなに具体的なんだ。」

「想定問答です。」

「嫌な想定だな。」

「その場合も無視しますか。」

「する。」

「本当に?」

「……する。」

「今、少し間がありましたが。」

「なかった。」

「たぶん、と。」

「記録するな。」


 ベルは頭を抱えた。


「俺は今日は、銅を探して、祭りを見て、家族に顔を見せて帰る。大会には出ねぇ。」

「はい。」

「おまえに見たいと言われても出ねぇ。」

「見たいです。」

「また言った。」

「はい。」


 ベルの耳が赤くなった。


「おまえ、本当に最近まっすぐ刺してくるよな。」

「曲がると刺さりにくいです。」

「刺す前提で話すな。」

「敬語。」

「刺す前提で話さないでください。」

「変ですね。」

「だろうよ!」


 小雪は少しだけ笑い、窓の外へ視線を戻した。


 やがて、領都を囲む城壁が見えてきた。


 グランツ公爵領の中心となる街は、王都ほど巨大ではない。それでも、山の村から来れば別の世界のように見える。


 城門の向こうには石造りの建物が並び、通りには色とりどりの布や春の花が飾られ、馬車の中にいても楽器の音と人々の声が聞こえてきた。


「音が多いです。」

「祭りだからな。」

「匂いも多いです。」

「ああ。」

「王宮とは違います。」


 ベルの表情が少し和らいだ。


「違うだろ。」

「はい。」


 王宮では、足音の大きさにも、声の調子にも気を配る必要があった。

 誰が誰を見ているのか、どの言葉にどの意味が隠されているのか、常に考えなければならない。


 けれど、領都から聞こえてくるのは、ただの笑い声だった。


「ここは、ベルの故郷ですか。」

「まあ、そうだな。正確には父上の領地だけど。」

「ベルの家の春祭り。」

「……まあ、それでもいい。」

「案内できますか。」

「できる。」

「領都案内担当。」

「また担当が増えたな。」

「春祭り文明担当。」

「何でも文明にするな。」


 そう答えながらも、ベルは少し誇らしそうに見えた。


 山の家のベル。

 鍛冶場のベル。

 水車のベル。

 王宮のベル。


 そして、領都のベル。


 同じ人なのに、場所が変わるたびに少しずつ違う。


 今日は、まだ知らないベルが見られるかもしれない。


 小雪は、それを少しだけ楽しみにしていた。




 最初に向かったのは、領地内にあるグランツ公爵家の屋敷だった。


 以前訪れた王都の公爵邸とは違い、こちらは領都の中心から少し離れた高台に建っている。

 王都の邸ほど華美ではないが、長い年月を経た石壁と広い庭を持ち、領地を治める家の本拠らしい落ち着いた重厚さがあった。


 門をくぐると、使用人たちが並んで二人を迎えた。

 ベルの肩が、ほんの少しだけ固くなる。


 背筋が伸びる。

 歩幅が整う。


 山の家では、寝起きのまま火を起こし、薪を抱えて文句を言っている人と同じ人には見えない。


「ベル。」

「何だ。」

「王宮ほどではありませんが、少し別人です。」

「今言うな。」

「格好いいです。」


 ベルの足が一瞬だけ乱れた。


「本当に今言うな。」

「刺しましたか。」

「門前で刺すな。」

「はい。」


 玄関では、レオンハルトが待っていた。


「ヴェル。勇者殿。よく来てくださった。」

「兄上。」


 ベルが軽く礼をする。


 小雪も頭を下げた。


「お招きありがとうございます。」

「こちらこそ。父上も母上も待っている。」


 レオンハルトは久しぶりに見る弟の姿を、上から下まで一度確認した。


「元気そうだな。」

「ああ。」

「前より少し逞しくなったか。」

「木を削ったり、雪を下ろしたり、銅を引いたり、色々してるからな。」


 ベルの答えに、レオンハルトの目が少し丸くなった。


「銅を引く?」

「ああ。」

「……後で詳しく聞こう。」

「小雪、おまえも説明しろよ。」


 小雪は頷いた。


「銅線文明です。」


 レオンハルトが少し黙った。


「……文明ですか。」

「はい。」


 それから兄は、もう一度弟を見た。


「ヴェル。」

「何だ?」

「楽しそうだな。」


 ベルは少し黙ったあと、顔を逸らした。


「……まあ。」


 小雪はその横顔を見た。


 家族の前では、ベルはあまり三下にならない。


 けれど、耳は赤くなる。

 そこは変わらない。


 少し安心した。


 父アルフォンスと母エレオノーラも、ベルの顔を見るなり明らかに安堵した。

 特にエレオノーラは、息子の顔色から始まり、服、手、髪、姿勢まで順番に確認していった。


「本当に元気そうね、ヴェル。」

「母上、元気ですから。」

「痩せていない?」

「食べてます。」

「風邪は?」

「ひいてません。」

「一度ひきました。」


 小雪が口を挟んだ。


「小雪!」

「雨で濡れた際に。」


 エレオノーラの目が鋭くなる。


「勇者殿。詳しく。」

「今は治ってる!」

「ベルは雨に濡れて風邪をひき、その後、雪でも濡れて服を脱ぎました。」

「小雪!」

「服を、脱いだ?」


 レオンハルトが片眉を上げた。

 アルフォンスが咳き込む。


 エレオノーラはしばらく黙ってから、静かに息子を見た。


「ヴェル。」

「違います。いや、違わないですが、状況が。」

「ベルは脱ぎがちです。」

「おい。それは違う。」


 ベルは広間の中央で顔を真っ赤にした。


 レオンハルトは口元を押さえている。

 父は遠くを見ている。

 母は少しだけ笑った。


「元気そうで何よりだわ。」

「……この流れでそう収まりますか。」

「ええ。」


 エレオノーラは穏やかに息子を見る。


「楽しそうだもの。」


 ベルが言葉を失った。


 小雪は頷いた。


「楽しいです。」


 その場が少し静かになった。


 自分で言ってから、小雪も少し驚いた。


 楽しい。


 山の家で。

 ベルと。


 水車を回し、銅を引き、雪ウサギを作る。


 時々、ベルが濡れる。

 服を脱ぐ。

 怒る。

 赤くなる。


 楽しい。


 そう言っても、悪いことではないらしい。


 エレオノーラが、少し目を細めた。


「そう。」

「はい。」

「それなら、よかった。」


 ベルも小雪を見ていた。


 少し驚いたような。

 嬉しそうな。


 そんな顔だった。


 小雪は、その顔をしばらく見ていた。




 挨拶を済ませると、ベルは小雪を連れて祭りへ出た。


 レオンハルトは仕事が片づけば後から合流すると言い、父母も来客の応対へ戻った。


 領都の広場は、人であふれていた。


 色布の天幕や春の花が通りを彩り、焼いた肉、温かいスープ、蜂蜜酒、木剣、羊毛の人形など、様々なものを売る屋台が並んでいる。少し離れた場所では楽師が演奏し、その周りで子供たちが走っていた。


 小雪は、忙しく視線を動かした。


「多いです。」

「全部見るなよ。日が暮れる。」

「全部観測したいです。」

「無理だ。」

「分類します。」

「なおさら無理だ。」


 ベルは小さな紙包みを一つ買った。


 中には、蜂蜜を塗った焼き菓子が入っている。


「食うか。」

「これは何ですか。」

「春祭りの菓子だ。小さい頃、よく食った。」

「子供ベル。」

「やめろ。」

「子ベル。」

「もっとやめろ。」

「いただきます。」


 小雪は一口食べた。


 外側は少し硬く、中は柔らかい。温められた蜂蜜の甘さが、ゆっくり口の中へ広がった。


「甘いです。」

「だろ。」

「春祭りの味ですね。」

「それっぽいこと言うな。」

「ベルの子供時代の味。」

「やめろ。恥ずかしい。」

「小さいベルも、これを食べたのですね。」

「食べたな。」

「かわいかったですか。」

「自分で答えられるか。」

「たぶん、かわいいです。」

「やめろ。」


 ベルの耳が赤くなった。


 小雪はもう一口食べた。


「おいしいです。」

「そうか。」

「ベルが買ったので、さらに。」


 ベルが紙包みを落としかけた。


「祭りの真ん中で刺すな。」

「初心なハートが瀕死ですか。」

「屋敷で既に瀕死になったな。」

「大変ですね。」

「おまえのせいだよ!」


 小雪は周囲を見た。


 王宮舞踏会とは違う。


 ここには、張りつめた沈黙がない。

 誰かの視線を常に測る必要もない。


 香水より、焼き菓子の匂いが強い。

 魔法の光より、花の色が多い。


 そして、ベルが隣にいる。


 だから落ち着くのかもしれない。

 小雪はそう思った。


 分類はしない。





 祭りを見ながら、銅の調達も進めた。


 広場の一角には金物商の天幕が並び、鍋、釘、金具、飾り板、細い鎖、銅板、銅棒が所狭しと置かれている。


 小雪の視線は、すぐに赤い金属へ吸い寄せられた。


「赤いです。」

「そうだな。」

「銅です。」

「分かった。」

「欲しいです。」

「急に子供みたいに言うな。」


 ベルは商人と話し始めた。


 領都の商人は、さすがに公爵家次男の顔を知っている。

 最初は必要以上に丁寧な態度だったが、ベルが銅の厚さ、長さ、状態、加工のしやすさを具体的に尋ね始めると、商人の目が変わった。

 ただの貴族を見る顔ではなくなった。


「この厚みなら叩いて伸ばせますが、細線まで引くなら、こちらの方が素直でしょうな。」

「焼きなましでどこまで戻る?」

「ものによります。こちらは少々高いですが、割れにくい。」

「棒材は?」

「量を取るなら、こちらです。」

「じゃあ、それを少し。薄板も要る。緑青の少ないものを選んでくれ。」

「承知しました。」


 小雪はベルを見ていた。


 ベルは交渉もできる。

 銅を選べる。

 値段も聞ける。


 公爵家次男でもあり、鍛冶場の人でもある。


「ベル。」

「何だ。」

「有能ですね。」

「今、商談中。」

「商談中のベルも格好いいです。」


 ベルの耳が赤くなった。


 商人がにこにこした。


「仲がおよろしいですな。」

「違っ。」

「はい。仲はいいです。」

「小雪!」

「あ、夫婦ではありません。ベルは助手です。」

「そこでわざわざ説明するな!」


 商人は、ますますにこにこした。


 値引きはしてくれなかった。

 けれど、状態のよい銅を選んでくれた。


 ベルは財布をしまいながら、少し疲れた顔をした。


「おまえが横にいると、商談の難易度が上がる。」

「なぜですか。」

「俺の耳が赤くなるからだ。」

「耳は商談に関係しますか。」

「気分には関係する。」

「なるほど。」


 小雪は記録したかった。


 けれど、人混みの中で紙を広げるのは危険なので、頭の中だけへ入れておいた。


 ベルは商談中も赤くなる。


 要記録。




 銅の手配を終えた頃、広場の向こうから大きな歓声が聞こえた。


 木剣の打ち合う音。

 人々の声。

 参加者を呼ぶ係員の大きな声。


 ベルの足が、ほんの少し止まった。


 小雪もそちらを見る。


 広場の一角には、木柵で囲まれた大きな試合場が設けられていた。周囲にはすでに人だかりができ、受付の前には木剣を持った男たちが並んでいる。


「剣術大会です。」

「見るだけだぞ。」


 ベルが先に言った。


「まだ何も言っていません。」

「言う顔をしてた。」

「ベルの剣が見たいです。」

「それは見ない。」

「なぜですか。」

「俺が出ないからだ。」

「はい。」

「本当に出ないからな。」

「はい。」

「煽られても出ない。」

「はい。」


 ベルが怪訝な顔をした。


「何でそんなに素直なんだ。」

「すでに観測中ですから。」

「やめろ。」


 二人は試合場の外側を歩いた。


 小雪としては近くで見たかったが、ベルは受付の前を通らないよう、わざわざ少し遠回りしている。

 出ないという意思は固いらしい。


 その時だった。


「何だ。貴族の坊ちゃんも参加か?」


 太い声がした。

 ベルが足を止めた。


 声の主は、受付近くの柵へ背を預けていた。


 年齢は三十前後だろうか。

 背が高く、肩幅も広い。褐色に焼けた顔には頬から顎にかけて古い傷が走り、着ている革の上着はくたびれているが、腰の剣だけは丁寧に手入れされていた。


 柄は悪そうだった。

 だが、弱くはない。


 ただ柵へ寄りかかっているように見えるのに、足の位置にも、重心にも隙がない。


 小雪は男を見た。

 ベルも、一度だけ相手を見た。


「出ねぇよ。」

「そうか。」


 男は笑った。


「賢明だな。」


 ベルは何も答えなかった。


「この辺りじゃ、貴族の坊ちゃんが出れば、皆少しは手加減するんだろ。そんな勝ち方で嬉しいなら別だがな。」

「勝手に言ってろ。」


 ベルは、そのまま歩こうとした。


 小雪は少し意外だった。


 無視した。

 本当に。

 煽られても。

 出ない。


 ベルは成長している。

 たぶん。


「まあ、俺としては相手が弱い方が助かるがな。」


 男は気にした様子もなく続けた。


「賞金がいいって聞いたから来ただけだ。西じゃ剣一本で食ってきた。今は向こうがきな臭いからこっちに来てるが、騎士だろうが盗賊だろうが魔物だろうが、色々相手にしてきたからな。」


 ベルは振り返らない。


「そうかよ。」

「この前も、魔族を一匹やった。」


 小雪の足が止まった。


「魔族を。」


 声が、思わず低くなった。


 ベルも立ち止まる。


 男が初めて、小雪をまともに見た。


「ああ。」

「その魔族は、言葉を話しましたか。」

「は?」


 男は眉を寄せた。


「何だ、急に。」

「聞いているだけです。」

「話す?やつらがそんなことするわけねぇだろ。赤い目をして、家畜に食らいついてやがった。かなり凶暴なやつだったが、俺の手にかかれば赤子も同然だ。」

「赤子。そうでしょうね。」


 小雪は少し目を伏せ、静かに答えた。


「彼らは、そこまで人間と違いませんから。」


 ベルが振り返った。


「小雪。」

「はい。」

「どういうことだ。」


 小雪はベルを見た。


 それから、男へ視線を戻す。


「彼らは、人間より魔力や魔素の変化に少し敏感なだけです。姿は若干違いますが、人間と同じように知性もあります。言葉も通じます。」


 男の顔から笑みが消えた。


「何を言ってやがる。」

「事実です。」

「魔族は魔王を生み出す悪しき連中だぞ。人間なんざ、踏みにじる相手としか思ってねぇ。」


 小雪は、少しだけ首を傾けた。


 口端が冷笑の形に歪みそうになるのを、少し間を取って耐える。


「……踏みにじる相手としか見ていないのは。」


 一度。


 目の前の男をじっと見遣る。


「一体、どちらでしょうね。」

「……何だと?」


 男の声が低くなった。


 周囲の空気が少し変わった。


 ベルも、小雪を見ている。

 さきほどまでとは違う顔だった。


 疑念。戸惑い。不安。


 けれど、人の多い祭りの中で問いただすことはしなかった。


 小雪も、それ以上は話さなかった。


「まあ、いいです。」

「よくねぇだろ。」

「今、重要なのはそこではありません。」

「は?」


 小雪は試合場の受付を見た。


「あなた、剣術大会に出るんですね。」


 男は、突然変わった話についてこられなかったらしい。


「……あ? ああ。」

「なぜです?」

「賞金がいいからだ。」

「そうですか。」


 小雪は頷いた。


 それから、ベルを見た。


「ベル。」

「何だ。」

「あの男をやっちゃってください。」

「……あ?」


 ベルが間の抜けた声を出した。


 男も黙った。


「私の代わりに。」

「何で俺が。」

「私がやると、全体的に壊してしまう可能性があります。」

「怖ぇよ!」

「ですので。」


 小雪は真面目に言った。


「あなたが穏便に、ぼこぼこにしてください。」

「それは穏便とは言わない。」

「ふむ。難しいですね。」

「……おまえの言葉選びがな。」


 ベルはため息を吐いた。


「そもそも、俺は出ねぇって。」

「お願いします。」


 ベルの言葉が止まった。


 小雪は、もう一度言った。


「ベル。お願いします。」


 しばらく、ベルは何も言わなかった。


 遠くで楽器が鳴っている。

 試合場から歓声が上がる。

 屋台からは焼いた肉の匂いが流れてくる。


 小雪は何も言わず、待った。


 やがて、ベルが小さく息を吐いた。


「……それは命令か?」

「いいえ。」

「じゃあ、何。」

「お願いです。」


 ベルは小雪を見た。


 少しだけ。

 長く。


 それから、顔を逸らした。


「……そうか。」


 耳が赤くなっていた。


 男が鼻で笑った。


「何だ。女に頼まれなきゃ剣も握れねぇのか。」


 ベルの眉が動いた。


 小雪は観測した。


 これは、少し厄介な言葉だ。


「この国は魔法で戦う国だろ。」


 男は続けた。


「剣なんざ、貴族の飾りだと思ってたがな。俺は西で、剣一本で民を守る連中の中にいた。魔法頼みの国で、遊び半分に剣を振ってる坊ちゃんとは違う。」

「ああ?」


 ベルの声が低くなった。


 小雪は静かに思った。


 この男、三下とは大分相性が悪そうだ。煽り文句が想定問答を超えている。


「やってみねぇと分かんねぇだろ。」

「お前が?」

「ああ。」


 ベルは一歩前へ出た。


 先ほどまでの公爵家次男の姿勢は残っている。


 けれど、顔つきがもうチンピラと変わらない。

 煽られて燃え上がる炎が背後に見える。

 さすが三下。


「勇者さまからのお願いだ。」


 ベルが笑った。


「助手として、試合でおまえをぼこぼこにしてやる。」

「言うじゃねぇか。」


 男も笑った。


「名前は。」

「ヴェルヴァルド・グランツ。」


 男の眉が少し上がった。


 公爵家の名を知っているらしい。


 けれど、怯んではいない。


「ガレスだ。」

「そうかよ。」

「西の剣を、魔法の国の坊ちゃんに見せてやる。」

「見せられるもんならな。」


 ベルは鼻で笑った。


「……逃げんなよ。」

「お前こそ。」

「逃げねぇよ。」


 小雪は二人を見た。


 ベルは今日、大会へ出ないと言った。

 本当に出ないと言った。

 煽られても出ないと言った。


 実際、最初の煽りは無視した。


 けれど。

 小雪がお願いした。


 そして今。


 ベルは受付へ向かっている。


「ベル。」

「何だ。」

「出ないと言いました。」

「言ったな。」

「本当に出ないとも。」

「言ったな。」

「煽られても出ないとも。」

「言ったな。」

「出ますか。」

「出る。」

「なぜですか。」


 ベルは振り返った。


「勇者さまに頼まれたからだよ。」


 小雪は少し目を開いた。


 ベルはすぐに顔を逸らした。


「あと。」


 後ろから、ガレスの声がした。


 ベルの口元が少し上がる。


「あいつが気に入らねぇ。」

「はい。」

「勇者さまに対する礼儀もなってねぇ。」

「そうですね。」

「それに。」


 ベルは受付へ向き直った。


「剣まで馬鹿にされて、黙ってんのも腹立つ。」

「煽られています。」

「うるせぇ。」

「煽られ三下。」

「記録するな。」

「ベルチワワ、吠える。」

「絶対書くな。」


 小雪は少しだけ笑った。


「でも。」

「何だ。」

「見られます。」

「何を。」

「ベルの剣。」


 ベルは一瞬、言葉を失った。

 それから、耳を赤くしたまま顔を背けた。


「……見るだけにしとけよ。」

「はい。」

「変なこと言うなよ。」

「分かっています。」

「初心なハートが瀕死になるようなことも。」

「守ります。」

「言うなよ。」

「もちろんです。」

「おまえ、言う気だな。」

「はい。」

「そこで正直か。」


 小雪は、また少し笑った。

 ベルは頭を抱えた。


 広場の向こうから、木剣がぶつかる音が聞こえる。


 春祭りの歓声。

 楽器の音。

 花の匂い。

 焼き菓子の甘さ。

 雪解け水の音。


 その中を、ベルは剣術大会の受付へ向かっていく。


 小雪はまだ、ベルが本気で剣を振るところを知らない。


 今日。

 また一つ。


 知らないベルが見られるかもしれない。

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