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第四十一話 銅線づくりと春の手紙

 朝の陽射しは、少し前までより明るくなっていた。


 屋根の端からは、ぽたり、ぽたりと一定の間隔で雪解け水が落ちている。家の周りを覆っていた雪も少しずつ高さを失い、道の端や柵の根元には、久しぶりに土や枯れ草が覗き始めていた。


 玄関の横には、まだ二匹の雪ウサギが並んでいる。


 ベルが作った方は、耳に使った葉こそ少し萎れているものの、まだどうにか丸くて可愛いウサギの形を保っていた。


 一方、小雪の作品は、夜ごとに少しずつ溶けて顔の片側が沈み、斜めに刺さった葉の耳も今では角のように見える。


「玄関守護獣、健在です。」

「溶けてきてるだけだ。」


 ベルは雪下ろし棒で屋根の端を軽く叩きながら答えた。


「凶暴化が進んでいます。」

「魔物にするな。」

「角が生えそうです。」

「葉っぱだろ。」

「葉角。」

「やめろ。」


 ベルが棒を手前へ引くと、落ちかけていた雪が、ざざ、と音を立てて屋根から滑り落ちた。地面へ落ちた白い塊が崩れ、細かな雪が周囲へ舞う。


「退去しました。」

「雪下ろしだ。」

「屋根も無事です。」

「ああ。梁を足したのが効いてるな。」

「ベルは私の梁。」

「朝から言うな。」

「事実です。」

「事実が刺さるから言うな。」


 ベルは耳を赤くしながら、雪下ろし棒を壁へ立てかけた。


 今日は鍛冶場へ行く。

 目的は、銅線づくりだった。


 先日作った線引き板の試作品を使い、焼きなました銅を実際に穴へ通し、少しずつ細くしていく。

 うまくいけば、偶然手に入れた古い魔導具の線ではなく、自分たちで作った最初の銅線ができる。


 小雪は家の中へ戻ると、作業台に置いてあった線引き板を手に取った。


 厚い鉄板には、大きなものから小さなものまで五つの穴が並んでいる。穴の大きさはまだ完全には揃っておらず、内側も職人が使う本物の道具ほど滑らかではない。

 それでも、昨日までは存在しなかったものだった。


 そのうち一つの穴は、小雪も少しだけ仕上げた。

 ほとんどベルの手に支えられていたけれど、それでも自分でやすりを持ち、少しは動かした。


 小雪は線引き板と記録用紙を抱えた。


「今日は、銅を細くします。」

「ああ。」

「穴に通します。」

「そうだな。」

「穴文明から、銅線文明へ。」

「進化できるかどうかは、やってみてからだな。」

「失敗しますか。」

「……するだろうな。」

「なぜですか。」

「初めてだからだ。」


 ベルは、まるで当たり前のことを言うように答えた。


「最初から全部うまくいく方が珍しい。失敗して、原因を見て、直して、またやる。」

「ベルは慣れていますか。」

「まあな。」

「私は失敗すると、魔法でどうにかしようとします。」

「今日はするなよ。」

「今日もしません。」

「補填も。」

「使いません。」

「よし。」


 ベルは少し満足そうに頷いたあと、さらに念を押すように小雪を見る。


「手先の作業も、無理するな。」

「はい。」

「やりたいならやっていい。でも、危ないと思ったら止まる。」

「はい。」

「俺が止めても止まる。」

「はい。」

「善処します、じゃなくて。」

「止まります。」

「よし。」


 もう一度頷いたベルを見ながら、小雪は少し考えた。


 止めることも文明。

 止められることも。


 たぶん、文明である。




 ガドの鍛冶場では、すでに火が入っていた。


 外では雪解け水が屋根から落ち続けているのに、一歩中へ入れば空気は乾いており、赤い火、黒い炭、熱せられた金属と油の匂いに包まれる。


「来たか。」


 ガドは小雪の抱えてきた線引き板を見ると、にやりと笑った。


「今日は、いよいよ銅を引くぞ。」

「はい。」


 小雪は頷いた。


 まずは銅を焼きなます。


 ガドは、昨日までにある程度細く整えておいた銅棒を火へ入れた。


「何度も言うが、銅は叩いたり、曲げたり、引いたりすると、だんだん硬くなる。硬くなりすぎりゃ割れるし、途中で切れる。だから、無理をさせる前に、また熱して扱いやすくしてやる。」

「銅の休憩。」

「そうだな。」

「ベルも休憩。」

「俺は今日、まだろくに働いてねぇ。」

「朝から火を起こし、朝食を作り、雪を下ろしていました。」

「あれは日常業務だ。」

「蓄積疲労。」

「字面だけで疲れそうだな。」


 ガドが笑った。


「まあ、金属も人間も、無理させすぎりゃ駄目になるってことだ。」


 何気ない言葉だった。


 ガドは火の中の銅を見ている。


 けれど、ベルは小雪を見た。


「はい。」


 小雪は頷いた。


「無理をさせすぎないようにします。」

「いや。」


 ベルがすぐに言った。


「まず、おまえ自身が気をつけろ。」

「分かりました。」

「本当に分かってるか?」

「少しずつ。」


 ベルは一瞬黙ったあと、少しだけ表情を緩めた。


「それならいい。」


 火の中で、銅の色が変わっていく。

 もともとの赤みに熱の色が重なり、頃合いを見てガドが取り出すと、銅棒は金床の上へ置かれた。


 ベルが道具で横から支える。

 ガドが槌を振る。


 かん。

 かん。

 かん。


 銅棒の先端だけが、少しずつ細くなっていった。


「全部を叩いて線にするわけじゃねぇ。」


 ベルが作業を見ながら説明する。


「まず、穴へ通すための先が必要なんだ。先端だけ細くして、一番大きい穴へ通す。反対側へ出たところを掴んで引く。」

「引っ張ると、全体が細くなる。」

「うまくいけばな。」

「銅は伸びますか。」

「伸びる。ただ、無理をすれば切れる。」

「銅は繊細です。」

「おまえもな。」


 ベルが小さく言った。


 小雪は聞き逃さなかった。


「私は銅ではありません。」

「知ってる。」

「赤くありません。」

「そこじゃねぇよ!」

「細くもありません。」

「いや、細いだろ。」


 ベルは言ってから、しまったという顔をした。


 小雪は自分の手首を見る。袖の先から出ている部分は、たしかに細い。


「細いですか。」

「……まあ。」

「記録を。」

「するな。」

「ベルは、私を細いと思っている模様です。」

「作業中!」

「はい。」

「今は銅を見ろ。」

「はい。」


 小雪は銅へ視線を戻した。


 ベルの耳が赤くなっている。

 銅も赤い。


 同じ赤ではないので、分類は可能である。


 先端を細くした銅棒を、線引き板の一番大きな穴へ通した。


 穴の向こう側から、尖らせた銅の先が少しだけ覗く。

 ベルはそれを小さな挟み道具でしっかり掴んだ。


「これを引く。」

「はい。」

「最初は俺がやるから、よく見てろ。」

「はい。」


 線引き板は丈夫な台へ固定し、さらにガドが横からしっかり押さえる。


 ベルは足を開き、腰を少し落とした。

 それから、銅の先をゆっくり引いた。


 ぎし、と低い音がする。

 銅が穴の縁へ引っかかった。


 けれど、ベルは力任せに引かなかった。一度止め、ほんの少し戻し、持つ角度を変えてから、もう一度引く。


 ずる、と銅が動いた。


 小雪は息を止めて見ていた。


 赤い金属が穴へ入る。

 反対側から、少し細くなって出てくる。


 ただ引っ張るだけではない。


 穴を通ることで、形そのものが変わっていく。


「動きました。」

「ああ。」


 ベルは短く答えた。


 額には、もう薄く汗が滲んでいる。


 鍛冶場は暖かい。

 しかし、それだけではない。


 ベルはかなり力を使っている。

 ただし、力任せではなかった。


 足を踏ん張り、腰を落とし、腕だけではなく、背中や脚まで使ってゆっくり引いている。


 小雪は、その姿をよく見た。


 肩。

 腕。

 背中。


 以前、雪で濡れて暖炉の前にいた時に見た身体。


 あの筋肉は、決して見せるためだけについているわけではなかった。


「ベル。」

「何だ。」

「身体が実用されています。」


 ベルが銅を引きながら咳き込んだ。


「言い方!」

「決して、見せるだけではありませんでした。」

「何を思い出してる!」

「雪。」

「忘れろ!」

「筋肉は冬でも確認可能。」

「消せって言っただろ!」


 ガドが笑いすぎて、線引き板を押さえる手をわずかに揺らした。


「ガドさん!」

「悪い、悪い。」

「笑うと危険です。」


 小雪が真面目に言うと、ガドはさらに笑った。


「勇者さまも原因だと思うぞ。」

「私が。」

「そうだ。」

「ただの観測結果です。」

「恐ろしい観測だな。」


 ベルは顔を赤くしたまま、もう一度銅を引いた。


 引っかかれば止める。

 少し戻す。

 角度を変える。

 また引く。


 それを繰り返し、やがて銅棒の一部が一番大きな穴を通り抜けた。


 完全な線にはまだ遠い。


 太い。

 短い。


 それでも、最初より確かに細くなっている。


「できました。」

「まだ一段階目だ。」

「これは、銅線ですか。」

「いや。まだ細い銅棒ってところだな。」

「銅線未満。」

「そうだ。」

「デート未満と同じ分類ですか。」

「違う!」

「未満分類。」

「やめろ!」


 小雪は記録用紙へ書いた。


 一、焼きなました銅の先を細くする。

 二、線引き板の大きな穴へ通す。

 三、反対側に出た先を掴む。

 四、力任せに引かない。

 五、角度を見て、少しずつ。

 六、ベルの筋肉は実用可能。


「六を消せ!今すぐ消せ!」

「重要です。」

「重要じゃねぇ!」

「銅を引くために必要です。」

「なら、それだけ書け!」

「ベルの背中と、腕と、脚が。」

「具体的にするな!」

「実用筋肉。」

「やめろ!」

「敬語。」

「やめてください!」


 小雪は六番を少し小さくした。

 消しはしなかった。


 次の穴へ進む前に、銅をもう一度火へ入れた。


 一つ目の穴を通った銅は、最初より少し硬くなっている。そのまま無理に引けば切れるため、また熱して柔らかくしなければならない。


「火がないと進めませんね。」

「そうだな。」


 ベルは額の汗を拭いながら答えた。


 いつもは少し跳ねている金髪も、今日は汗を含み、柔らかく額へ落ちている。


「熱して、引いて、硬くなったら、また熱する。」

「そういうことだ。」

「銅にとっては、火へ入ることが休憩。」

「まあ、人間とは逆だな。」

「人間は火へ入ると危険です。」

「当たり前だ。」

「ベルも。」

「何でそこで俺が出る!」

「補填されません。」

「知ってる。」

「では、休憩。」


 小雪は水筒を差し出した。


 ベルが少し驚いた顔をする。


「俺に?」

「はい。」

「……ありがとな。」


 ベルは水筒を受け取った。


「ベルは働いています。」

「ああ。」

「銅線文明担当。」

「また肩書きが増えた。」

「実用筋肉担当。」

「それは本当にやめろ!」


 ベルは水を飲んだ。


 喉が動く。

 汗が、首筋を一筋流れる。


 鍛冶場の火に照らされた横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。


 小雪は、それを見た。


 いつもの三下口調のベル。

 王宮で正装していた公爵家次男のベル。

 雪まみれになったベル。

 毛布だるまのベル。

 小雪の髪を拭くベル。

 水車を直すベル。

 銅を引くベル。


 全部、同じベルである。

 それなのに、見るたびに違う。


 補填された手のように、同じものかどうか分からないという違いではない。


 知っているはずなのに、まだ知らないところが増えていくような、もっと温かい違いだった。


「小雪。」

「はい。」

「また俺を見てるな。」

「はい。」

「銅を見ろ。」

「ベルも銅線文明の一部です。」

「また俺を部品にするな。」

「世界最重要部品。」

「何度目だ、それ。」


 ベルは顔を赤くして、また銅へ向き直った。


 二つ目の穴は、一つ目よりずっと難しかった。


 穴が小さい。

 当然、銅の先もさらに細くしなければならない。


 もう一度先端を整え、穴へ通す。ベルがゆっくり引くと、銅は少し進んだところで止まった。


 少し戻す。

 油をほんの少し使う。

 また引く。


 ぎし、と嫌な音がした。


「止めろ。」


 ガドが言った。

 ベルはすぐに手を止めた。


 三人で銅を確認する。


 細くなりかけた部分に、白っぽい筋が浮かんでいた。


「切れかけています。」


 小雪が言った。


「ああ。」


 ベルは眉を寄せた。


「一気に細くしすぎたか。」

「穴と穴の差が大きすぎるんだろうな。」


 ガドが線引き板を覗き込む。


「この間に、もう一つ穴が要る。」

「中間。」

「そうだ。」

「ほどほど穴。」


 小雪が言った。


 ベルが苦笑した。


「名前は変だが、必要だな。」

「いきなり小さい穴へ進むと切れる。」

「ああ。」

「中くらいの穴が必要。」

「そうだ。」

「滑車と同じです。」


 ベルは少し考えたあと、頷いた。


「そうだな。小さい輪は速い。大きい輪は力持ち。その間には、その間の役割がある。」

「ほどほど穴。」

「やっぱり、その名前は嫌だ。」

「でも必要です。」

「穴としてはな。」


 小雪は記録した。


 七、中間の穴が必要。

 八、いきなり細くすると切れる。

 九、ほどほど穴。

 十、銅も段階を踏む。


 ベルが記録を覗き込み、頷いた。


「いいな。」

「九も。」

「名前は変だが、意味は合ってる。」

「採用。」

「名前の採用は見送れ。」


 小雪は九番を少し大きくした。

 ベルは見なかったことにしたらしい。


 その後は、中間の穴を追加することになった。


 また、穴文明である。


 水車式ドリルで下穴を作り、鍛冶場へ戻って手で仕上げる。細いやすりを使い、内側の荒れを少しずつ落とす。


 小雪も、少しだけ手伝った。

 昨日よりは、ほんの少しだけ力を抜けた。

 ベルが隣で支えているからだった。


「昨日より、ましです。」


 小雪が言うと、ベルは小さく笑った。


「そうだな。」

「成長?」

「ああ。」

「銅と同じです。」

「少しずつだ。」

「はい。」


 小雪の手の上に、ベルの手がある。


 二人で持ったやすりが、穴の内側を少しずつ削る。


 ざり。

 ざり。


 小さな音がする。

 魔法の爆発音よりも、水車の音よりも、ずっと小さい。


 けれど、この音も、たぶん文明の音である。


 中間の穴ができると、銅をもう一度焼きなました。


 ベルが再び引く。

 今度は、切れなかった。


 一度に長くは進まない。


 途中で止まる。

 また熱する。

 また引く。


 表面が荒れれば、整える。

 硬くなれば、また火へ戻す。


 それを何度も繰り返した。


 派手な工程ではない。

 

 大きな光や音もない。

 ただ、銅が少しずつ細くなっていく。


 それなのに、小雪は不思議と退屈しなかった。


 ベルの手が動く。

 ガドが助言する。


 火が銅を柔らかくする。

 穴が銅を細くする。


 小雪は記録する。


 全部に役割がある。


 一人では、できない。


「できたぞ。」


 夕方近く。

 ベルが短く言った。


 作業台の上に、一本の赤い線があった。


 まだ太い。

 短い。


 太さも完全には揃っていない。

 少し曲がっている。


 それでも、線だった。


 銅線と呼んでもよいものが、そこにあった。


 小雪はしばらく見つめた。


「銅線です。」

「ああ。」

「短いです。」

「短いな。」

「太さも不揃いです。」

「だな。」

「でも、銅線です。」


 ベルは少し疲れた顔で笑った。


「そうだな。」

「はい。」

「最初の一本だ。」

「最初の一本。」


 小雪は、そっと手を伸ばした。


 けれど、触れる前に止めた。


 細い。

 曲がりやすい。

 まだ頼りない。


 自分の指では、力が強すぎるかもしれない。


 ベルが、それに気づいた。


「持ってみるか?」

「壊すかもしれません。」

「なら、一緒に持てばいい。」


 小雪はベルを見た。


「はい。」


 ベルが銅線の端を持ち、小雪の手のひらへそっと添えた。


 小雪は指先で、ほんの少しだけ触れる。


 冷たい。

 少し硬い。


 けれど、曲がる。


「細いです。」

「ああ。」

「綺麗です。」

「銅だからな。」

「ベルの手が作りました。」

「ガドさんもな。」

「はい。ガドさんとベルの手。」

「おまえも、一緒に作ったものだ。」


 小雪は銅線を見る。


「……はい。」


 細くて。

 頼りない。

 まっすぐでもない。


 それでも、火の光を受けると、赤い線が細く光っている。


「糸のようです。」


 小雪が言った。


「糸?」

「はい。」

「それにしちゃ硬いだろ。」

「蜘蛛の糸。」

「蜘蛛の糸は、もっと細い。」

「違いますか。」

「かなり。」


 けれど、小雪には、その一本の銅線が何となく蜘蛛の糸のように見えた。


 深く暗い場所へ、上から細く垂らされた一本の糸。


 どこへ続いているのかは分からない。


 掴めるのかも。

 途中で切れないのかも。


 まだ分からない。


「蜘蛛の糸。」

「さっきからどうした?」

「……私のいた世界の、有名な児童文学の題名です。」


 小雪は、銅線を見つめた。


「地獄に一本の蜘蛛の糸が垂れてきて、亡者たちがそこから抜け出そうと群がるんです。けれど、結局糸は切れて、誰も助かりません。」

「なんだそれ。子供向けとは思えねぇな。」


 ベルは少し怪訝な顔をして、小雪の手を銅線からそっと外した。




 山の家へ戻る頃には、空が薄紫色に染まっていた。


 道の端では、雪解け水が細い流れを作っている。

 冬のあいだ固く閉じていたものが、少しずつほどけていくようだった。


 小雪は、ベルが胸元へ抱えている小箱を見た。

 中には、今日作った最初の銅線が入っている。


 短く、不揃いで、少し曲がっている。


 でも。

 大事なものだった。


「銅線、持ちますか。」


 小雪が訊くと、ベルは首を横に振った。


「今日は俺が持つ。」

「壊すからですか。」

「違う。」


 ベルはすぐに答えた。


「まだ形が安定してねぇから、箱の中で守ってるだけだ。お前の大事なものだしな。」

「私からも?」


 ベルが一瞬、きょとんとした。


 それから、少し笑った。


「おまえの大事なものを、おまえから守るのか。俺が。」

「はい。」

「……何か、変な考え方だな。」

「でも、銅線は大事です。」

「ああ。」

「私も大事ですか。」


 ベルが雪解け道で滑りかけた。


「小雪!」

「はい。」

「歩行中に刺すな!」

「刺しましたか。」

「足元にも心臓にも来た!」

「危険ですね。」

「おまえがな!」


 小雪は少しだけ笑った。

 ベルは顔を赤くしながらも、小箱はしっかり抱えたままだった。


 山の家が近づいてくる。


 煙突からは、細い煙が上がっている。

 玄関の前には、二匹の雪ウサギ。


 ベルの方は、まだ何とかウサギだった。

 守護獣は、さらに顔が崩れている。


「ゾンビ化。」

「やめろ。」

「雪解けゾンビ。」

「やめろって。」


 ベルが扉へ手を伸ばした。


 その時。


 ちりん。

 家の前の木に結びつけた鈴が鳴った。


 小雪の鈴ではない。

 来客や伝令が来た時に分かるよう、ベルが後から取りつけた鈴である。


 二人が振り返ると、玄関脇に小さな革筒が置かれていた。

 伝令用の筒だった。


「手紙か。」


 ベルが拾い上げ、封を確かめる。


 そこにあるのは、グランツ家の紋章だった。


 ベルの眉が少し上がる。


「実家からだ。」

「公爵家。」

「ああ。」

「何かありましたか。」

「読む。」


 家へ入ると、ベルはまず火を入れた。

 小雪も外套を脱ぎ、銅線の入った小箱と記録用紙を作業台へ置く。


 部屋が少し温まり始めてから、ベルは手紙の封を切った。


 差出人は、兄のレオンハルトだった。


 ベルは小雪にも聞こえるよう、声に出して読む。


「雪解けの頃、領都で春祭りを行う。例年通り、領民への感謝と春の始まりを祝う祭りだ。父上と母上も、おまえが元気にしているか気にしている。勇者殿に無理のない範囲で、一度顔を見せてほしい。」

「春祭り。」


 小雪は繰り返した。


「祭りですか。」

「ああ。」

「王宮舞踏会とは違いますか。」

「全然違う。」


 ベルは少し笑った。


「もっと気楽だ。屋台が出て、花を飾って、歌や演奏もある。領兵の行進とか、腕比べもあるな。」

「腕比べ。」

「まあ、剣術大会とか。」


 そこまで言って、ベルは少し嫌そうな顔をした。


 小雪は見逃さなかった。


「剣術大会。」

「毎年ある。」

「ベルは出ますか。」

「出ねぇ。」


 即答だった。


「なぜですか。」

「面倒だから。」

「ベルは、剣もできますか。」


 ベルが手紙から目を上げた。


「一応な。」

「一応。」

「騎士叙任を受けてるって言っただろ。」

「そうでした。」

「忘れてたのか。」


 小雪はベルを見る。


「ベルは、三下、オカン、乙女、チワワ、脱ぎがちの印象が強いので。」

「全部、心の底から否定したい……。」

「子供に剣も教えていました。」

「あれは基礎だけどな。」

「強いですか。」

「……まあ、それなりに。」


 ベルは少し目を逸らした。


 それなりに。


 小雪は考えた。


 ベルの「それなり」は、あまり信用できない。


 料理も。

 掃除も。

 木工も。

 雪ウサギも。

 銅線づくりも。


 全部、かなりできるのに、ベルは「それなり」と言う。


 なら、剣も。


「見たいです。」


 小雪が言うと、ベルの手が止まった。


「何を。」

「ベルの剣。」

「……。」

「見たいです。」

「春祭りに行くかどうかも、まだ決めてねぇだろ。」

「行けば、見られますか。」

「出ねぇって言っただろ。」

「でも、剣術大会があります。」

「あるだけだ。」

「ベルは騎士叙任済み。」

「そうだな。」

「剣もできます。」

「一応な。」

「見たいです。」


 ベルは手紙で顔の半分を隠した。


 耳が赤い。


「……おまえ、最近そういうのを遠慮なく言うよな。」

「言ってはいけませんか。」

「いや。」

「では、言います。」

「言うなとは言ってねぇ。」

「見たいです。」

「三回目だ。」

「はい。」


 ベルはしばらく黙っていた。


 それから、何も答えずに手紙の続きを読んだ。


「……なお、領都には金物商も多い。勇者殿の研究に必要な部材や素材についても、領都で探せるだろう。必要があれば手配する。」

「銅も、もっと必要です。」

「ああ。」

「行く理由が増えました。」

「……たしかにな。」

「春祭り。銅。剣術大会。」

「三つ目はいらねぇ。」

「見たいです。」

「四回目!」


 ベルは手紙を置き、額を押さえた。


「小雪。」

「はい。」

「俺は大会には出ねぇ。」

「はい。」

「本当に出ねぇ。」

「はい。」

「誰かに煽られても出ねぇ。」

「はい。」

「おだてられても。」


 ベルは少し考えた。


「……出たくはない。」

「どうしても?」

「出ねぇ。」

「本当に?」

「……たぶん。」

「たぶん。」

「見るな。」


 小雪はベルを見ていた。


 たぶん。

 信用できない。


 ベルは、三下で。

 チワワで。


 煽られると。

 吠える。


 小雪は学習している。


「ベル。」

「何だ。」

「私に、格好いいところを見せなくていいんですか。」


 ベルは完全に黙った。


 火が鳴る。

 窓の外では、雪解け水が屋根から落ちている。


 作業台には、最初の銅線が入った小箱。

 その隣には、グランツ家から届いた手紙。


 冬が終わりかけている。


 春祭り。

 領都。

 銅。

 剣術大会。


 小雪はまだ、ベルが本気で剣を振るところを見たことがない。


 ベルは、守るべき人だった。


 補填されない人。

 濡れる人。

 風邪をひく人。

 赤くなる人。


 けれど、騎士でもある。

 剣を教える人でもある。

 銅を引く時には、身体の使い方を知っている人でもある。


 小雪は、見たいと思った。


 何となくではなく。


 はっきりと。


 見たい。


「……行くだけだぞ。」


 やがて、ベルが小さく言った。


「はい。」

「祭りに行くだけ。」

「はい。」

「銅を探す。」

「はい。」

「家族に顔を見せる。」

「はい。」

「大会には出ねぇ。」

「はい。」

「本当に出ねぇ。」

「はい。」


 ベルが怪訝な顔をした。


「何でそんなに素直なんだ。」

「記録しているので。」

「何を。」


 小雪は記録用紙を引き寄せた。


 一、領都で春祭り。

 二、銅を探せる。

 三、剣術大会がある。

 四、ベルは出ないと言った。

 五、ベルは本当に出ないと言った。

 六、煽られても出ないと言った。

 七、たぶん。

 八、小雪はベルの格好いいところを見たい。


「七を消せ!」

「重要です。」

「重要じゃねぇ!」

「信用度です。」

「信用度って言うな!」


 ベルはそこまで言ってから、八番へ視線を落とした。


「八は。」

「はい。」

「……。」

「消しますか。」


 ベルは赤い顔で目を逸らした。


「……小さくしろ。」

「消しますか。」

「消せとは言ってねぇ。」

「はい。」


 小雪は八番を少しだけ小さくした。

 けれど、消さなかった。


 ベルはそれを見て、深くため息を吐いた。


 火が静かに鳴っている。

 最初の銅線は、まだ短い。

 文明も、まだ途中だ。


 けれど、春が近づいている。


 小雪は作業台の上の小箱を見た。中には、今日作った一本の銅線が入っている。

 細くて、短くて、頼りない。


 それでも、小雪にはまだ少し、蜘蛛の糸のように見えた。


 深く暗い場所へ、上から垂れてきた一本の糸。


 掴んでよいのかは分からない。

 どこへ続くのかも分からない。

 途中で切れるかもしれない。


 けれど今は、少しくらい眺めていてもよい気がした。


 春祭り。

 花。

 音楽。

 銅。

 ベルの剣。


 少しくらい楽しみにしても、大きな罰は当たらないはずである。


 蜘蛛の糸を眺めるくらいなら、きっと許される。

 小雪はそう思った。


 千五百人の彼らも、春の匂いの中では、ほんの少しだけ動きを止めてくれるかもしれない。


 それが、ただの願望だということは分かっていた。


 それでも今夜だけは。


 小雪は、春のことを考えた。

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