第四十一話 銅線づくりと春の手紙
朝の陽射しは、少し前までより明るくなっていた。
屋根の端からは、ぽたり、ぽたりと一定の間隔で雪解け水が落ちている。家の周りを覆っていた雪も少しずつ高さを失い、道の端や柵の根元には、久しぶりに土や枯れ草が覗き始めていた。
玄関の横には、まだ二匹の雪ウサギが並んでいる。
ベルが作った方は、耳に使った葉こそ少し萎れているものの、まだどうにか丸くて可愛いウサギの形を保っていた。
一方、小雪の作品は、夜ごとに少しずつ溶けて顔の片側が沈み、斜めに刺さった葉の耳も今では角のように見える。
「玄関守護獣、健在です。」
「溶けてきてるだけだ。」
ベルは雪下ろし棒で屋根の端を軽く叩きながら答えた。
「凶暴化が進んでいます。」
「魔物にするな。」
「角が生えそうです。」
「葉っぱだろ。」
「葉角。」
「やめろ。」
ベルが棒を手前へ引くと、落ちかけていた雪が、ざざ、と音を立てて屋根から滑り落ちた。地面へ落ちた白い塊が崩れ、細かな雪が周囲へ舞う。
「退去しました。」
「雪下ろしだ。」
「屋根も無事です。」
「ああ。梁を足したのが効いてるな。」
「ベルは私の梁。」
「朝から言うな。」
「事実です。」
「事実が刺さるから言うな。」
ベルは耳を赤くしながら、雪下ろし棒を壁へ立てかけた。
今日は鍛冶場へ行く。
目的は、銅線づくりだった。
先日作った線引き板の試作品を使い、焼きなました銅を実際に穴へ通し、少しずつ細くしていく。
うまくいけば、偶然手に入れた古い魔導具の線ではなく、自分たちで作った最初の銅線ができる。
小雪は家の中へ戻ると、作業台に置いてあった線引き板を手に取った。
厚い鉄板には、大きなものから小さなものまで五つの穴が並んでいる。穴の大きさはまだ完全には揃っておらず、内側も職人が使う本物の道具ほど滑らかではない。
それでも、昨日までは存在しなかったものだった。
そのうち一つの穴は、小雪も少しだけ仕上げた。
ほとんどベルの手に支えられていたけれど、それでも自分でやすりを持ち、少しは動かした。
小雪は線引き板と記録用紙を抱えた。
「今日は、銅を細くします。」
「ああ。」
「穴に通します。」
「そうだな。」
「穴文明から、銅線文明へ。」
「進化できるかどうかは、やってみてからだな。」
「失敗しますか。」
「……するだろうな。」
「なぜですか。」
「初めてだからだ。」
ベルは、まるで当たり前のことを言うように答えた。
「最初から全部うまくいく方が珍しい。失敗して、原因を見て、直して、またやる。」
「ベルは慣れていますか。」
「まあな。」
「私は失敗すると、魔法でどうにかしようとします。」
「今日はするなよ。」
「今日もしません。」
「補填も。」
「使いません。」
「よし。」
ベルは少し満足そうに頷いたあと、さらに念を押すように小雪を見る。
「手先の作業も、無理するな。」
「はい。」
「やりたいならやっていい。でも、危ないと思ったら止まる。」
「はい。」
「俺が止めても止まる。」
「はい。」
「善処します、じゃなくて。」
「止まります。」
「よし。」
もう一度頷いたベルを見ながら、小雪は少し考えた。
止めることも文明。
止められることも。
たぶん、文明である。
ガドの鍛冶場では、すでに火が入っていた。
外では雪解け水が屋根から落ち続けているのに、一歩中へ入れば空気は乾いており、赤い火、黒い炭、熱せられた金属と油の匂いに包まれる。
「来たか。」
ガドは小雪の抱えてきた線引き板を見ると、にやりと笑った。
「今日は、いよいよ銅を引くぞ。」
「はい。」
小雪は頷いた。
まずは銅を焼きなます。
ガドは、昨日までにある程度細く整えておいた銅棒を火へ入れた。
「何度も言うが、銅は叩いたり、曲げたり、引いたりすると、だんだん硬くなる。硬くなりすぎりゃ割れるし、途中で切れる。だから、無理をさせる前に、また熱して扱いやすくしてやる。」
「銅の休憩。」
「そうだな。」
「ベルも休憩。」
「俺は今日、まだろくに働いてねぇ。」
「朝から火を起こし、朝食を作り、雪を下ろしていました。」
「あれは日常業務だ。」
「蓄積疲労。」
「字面だけで疲れそうだな。」
ガドが笑った。
「まあ、金属も人間も、無理させすぎりゃ駄目になるってことだ。」
何気ない言葉だった。
ガドは火の中の銅を見ている。
けれど、ベルは小雪を見た。
「はい。」
小雪は頷いた。
「無理をさせすぎないようにします。」
「いや。」
ベルがすぐに言った。
「まず、おまえ自身が気をつけろ。」
「分かりました。」
「本当に分かってるか?」
「少しずつ。」
ベルは一瞬黙ったあと、少しだけ表情を緩めた。
「それならいい。」
火の中で、銅の色が変わっていく。
もともとの赤みに熱の色が重なり、頃合いを見てガドが取り出すと、銅棒は金床の上へ置かれた。
ベルが道具で横から支える。
ガドが槌を振る。
かん。
かん。
かん。
銅棒の先端だけが、少しずつ細くなっていった。
「全部を叩いて線にするわけじゃねぇ。」
ベルが作業を見ながら説明する。
「まず、穴へ通すための先が必要なんだ。先端だけ細くして、一番大きい穴へ通す。反対側へ出たところを掴んで引く。」
「引っ張ると、全体が細くなる。」
「うまくいけばな。」
「銅は伸びますか。」
「伸びる。ただ、無理をすれば切れる。」
「銅は繊細です。」
「おまえもな。」
ベルが小さく言った。
小雪は聞き逃さなかった。
「私は銅ではありません。」
「知ってる。」
「赤くありません。」
「そこじゃねぇよ!」
「細くもありません。」
「いや、細いだろ。」
ベルは言ってから、しまったという顔をした。
小雪は自分の手首を見る。袖の先から出ている部分は、たしかに細い。
「細いですか。」
「……まあ。」
「記録を。」
「するな。」
「ベルは、私を細いと思っている模様です。」
「作業中!」
「はい。」
「今は銅を見ろ。」
「はい。」
小雪は銅へ視線を戻した。
ベルの耳が赤くなっている。
銅も赤い。
同じ赤ではないので、分類は可能である。
先端を細くした銅棒を、線引き板の一番大きな穴へ通した。
穴の向こう側から、尖らせた銅の先が少しだけ覗く。
ベルはそれを小さな挟み道具でしっかり掴んだ。
「これを引く。」
「はい。」
「最初は俺がやるから、よく見てろ。」
「はい。」
線引き板は丈夫な台へ固定し、さらにガドが横からしっかり押さえる。
ベルは足を開き、腰を少し落とした。
それから、銅の先をゆっくり引いた。
ぎし、と低い音がする。
銅が穴の縁へ引っかかった。
けれど、ベルは力任せに引かなかった。一度止め、ほんの少し戻し、持つ角度を変えてから、もう一度引く。
ずる、と銅が動いた。
小雪は息を止めて見ていた。
赤い金属が穴へ入る。
反対側から、少し細くなって出てくる。
ただ引っ張るだけではない。
穴を通ることで、形そのものが変わっていく。
「動きました。」
「ああ。」
ベルは短く答えた。
額には、もう薄く汗が滲んでいる。
鍛冶場は暖かい。
しかし、それだけではない。
ベルはかなり力を使っている。
ただし、力任せではなかった。
足を踏ん張り、腰を落とし、腕だけではなく、背中や脚まで使ってゆっくり引いている。
小雪は、その姿をよく見た。
肩。
腕。
背中。
以前、雪で濡れて暖炉の前にいた時に見た身体。
あの筋肉は、決して見せるためだけについているわけではなかった。
「ベル。」
「何だ。」
「身体が実用されています。」
ベルが銅を引きながら咳き込んだ。
「言い方!」
「決して、見せるだけではありませんでした。」
「何を思い出してる!」
「雪。」
「忘れろ!」
「筋肉は冬でも確認可能。」
「消せって言っただろ!」
ガドが笑いすぎて、線引き板を押さえる手をわずかに揺らした。
「ガドさん!」
「悪い、悪い。」
「笑うと危険です。」
小雪が真面目に言うと、ガドはさらに笑った。
「勇者さまも原因だと思うぞ。」
「私が。」
「そうだ。」
「ただの観測結果です。」
「恐ろしい観測だな。」
ベルは顔を赤くしたまま、もう一度銅を引いた。
引っかかれば止める。
少し戻す。
角度を変える。
また引く。
それを繰り返し、やがて銅棒の一部が一番大きな穴を通り抜けた。
完全な線にはまだ遠い。
太い。
短い。
それでも、最初より確かに細くなっている。
「できました。」
「まだ一段階目だ。」
「これは、銅線ですか。」
「いや。まだ細い銅棒ってところだな。」
「銅線未満。」
「そうだ。」
「デート未満と同じ分類ですか。」
「違う!」
「未満分類。」
「やめろ!」
小雪は記録用紙へ書いた。
一、焼きなました銅の先を細くする。
二、線引き板の大きな穴へ通す。
三、反対側に出た先を掴む。
四、力任せに引かない。
五、角度を見て、少しずつ。
六、ベルの筋肉は実用可能。
「六を消せ!今すぐ消せ!」
「重要です。」
「重要じゃねぇ!」
「銅を引くために必要です。」
「なら、それだけ書け!」
「ベルの背中と、腕と、脚が。」
「具体的にするな!」
「実用筋肉。」
「やめろ!」
「敬語。」
「やめてください!」
小雪は六番を少し小さくした。
消しはしなかった。
次の穴へ進む前に、銅をもう一度火へ入れた。
一つ目の穴を通った銅は、最初より少し硬くなっている。そのまま無理に引けば切れるため、また熱して柔らかくしなければならない。
「火がないと進めませんね。」
「そうだな。」
ベルは額の汗を拭いながら答えた。
いつもは少し跳ねている金髪も、今日は汗を含み、柔らかく額へ落ちている。
「熱して、引いて、硬くなったら、また熱する。」
「そういうことだ。」
「銅にとっては、火へ入ることが休憩。」
「まあ、人間とは逆だな。」
「人間は火へ入ると危険です。」
「当たり前だ。」
「ベルも。」
「何でそこで俺が出る!」
「補填されません。」
「知ってる。」
「では、休憩。」
小雪は水筒を差し出した。
ベルが少し驚いた顔をする。
「俺に?」
「はい。」
「……ありがとな。」
ベルは水筒を受け取った。
「ベルは働いています。」
「ああ。」
「銅線文明担当。」
「また肩書きが増えた。」
「実用筋肉担当。」
「それは本当にやめろ!」
ベルは水を飲んだ。
喉が動く。
汗が、首筋を一筋流れる。
鍛冶場の火に照らされた横顔は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
小雪は、それを見た。
いつもの三下口調のベル。
王宮で正装していた公爵家次男のベル。
雪まみれになったベル。
毛布だるまのベル。
小雪の髪を拭くベル。
水車を直すベル。
銅を引くベル。
全部、同じベルである。
それなのに、見るたびに違う。
補填された手のように、同じものかどうか分からないという違いではない。
知っているはずなのに、まだ知らないところが増えていくような、もっと温かい違いだった。
「小雪。」
「はい。」
「また俺を見てるな。」
「はい。」
「銅を見ろ。」
「ベルも銅線文明の一部です。」
「また俺を部品にするな。」
「世界最重要部品。」
「何度目だ、それ。」
ベルは顔を赤くして、また銅へ向き直った。
二つ目の穴は、一つ目よりずっと難しかった。
穴が小さい。
当然、銅の先もさらに細くしなければならない。
もう一度先端を整え、穴へ通す。ベルがゆっくり引くと、銅は少し進んだところで止まった。
少し戻す。
油をほんの少し使う。
また引く。
ぎし、と嫌な音がした。
「止めろ。」
ガドが言った。
ベルはすぐに手を止めた。
三人で銅を確認する。
細くなりかけた部分に、白っぽい筋が浮かんでいた。
「切れかけています。」
小雪が言った。
「ああ。」
ベルは眉を寄せた。
「一気に細くしすぎたか。」
「穴と穴の差が大きすぎるんだろうな。」
ガドが線引き板を覗き込む。
「この間に、もう一つ穴が要る。」
「中間。」
「そうだ。」
「ほどほど穴。」
小雪が言った。
ベルが苦笑した。
「名前は変だが、必要だな。」
「いきなり小さい穴へ進むと切れる。」
「ああ。」
「中くらいの穴が必要。」
「そうだ。」
「滑車と同じです。」
ベルは少し考えたあと、頷いた。
「そうだな。小さい輪は速い。大きい輪は力持ち。その間には、その間の役割がある。」
「ほどほど穴。」
「やっぱり、その名前は嫌だ。」
「でも必要です。」
「穴としてはな。」
小雪は記録した。
七、中間の穴が必要。
八、いきなり細くすると切れる。
九、ほどほど穴。
十、銅も段階を踏む。
ベルが記録を覗き込み、頷いた。
「いいな。」
「九も。」
「名前は変だが、意味は合ってる。」
「採用。」
「名前の採用は見送れ。」
小雪は九番を少し大きくした。
ベルは見なかったことにしたらしい。
その後は、中間の穴を追加することになった。
また、穴文明である。
水車式ドリルで下穴を作り、鍛冶場へ戻って手で仕上げる。細いやすりを使い、内側の荒れを少しずつ落とす。
小雪も、少しだけ手伝った。
昨日よりは、ほんの少しだけ力を抜けた。
ベルが隣で支えているからだった。
「昨日より、ましです。」
小雪が言うと、ベルは小さく笑った。
「そうだな。」
「成長?」
「ああ。」
「銅と同じです。」
「少しずつだ。」
「はい。」
小雪の手の上に、ベルの手がある。
二人で持ったやすりが、穴の内側を少しずつ削る。
ざり。
ざり。
小さな音がする。
魔法の爆発音よりも、水車の音よりも、ずっと小さい。
けれど、この音も、たぶん文明の音である。
中間の穴ができると、銅をもう一度焼きなました。
ベルが再び引く。
今度は、切れなかった。
一度に長くは進まない。
途中で止まる。
また熱する。
また引く。
表面が荒れれば、整える。
硬くなれば、また火へ戻す。
それを何度も繰り返した。
派手な工程ではない。
大きな光や音もない。
ただ、銅が少しずつ細くなっていく。
それなのに、小雪は不思議と退屈しなかった。
ベルの手が動く。
ガドが助言する。
火が銅を柔らかくする。
穴が銅を細くする。
小雪は記録する。
全部に役割がある。
一人では、できない。
「できたぞ。」
夕方近く。
ベルが短く言った。
作業台の上に、一本の赤い線があった。
まだ太い。
短い。
太さも完全には揃っていない。
少し曲がっている。
それでも、線だった。
銅線と呼んでもよいものが、そこにあった。
小雪はしばらく見つめた。
「銅線です。」
「ああ。」
「短いです。」
「短いな。」
「太さも不揃いです。」
「だな。」
「でも、銅線です。」
ベルは少し疲れた顔で笑った。
「そうだな。」
「はい。」
「最初の一本だ。」
「最初の一本。」
小雪は、そっと手を伸ばした。
けれど、触れる前に止めた。
細い。
曲がりやすい。
まだ頼りない。
自分の指では、力が強すぎるかもしれない。
ベルが、それに気づいた。
「持ってみるか?」
「壊すかもしれません。」
「なら、一緒に持てばいい。」
小雪はベルを見た。
「はい。」
ベルが銅線の端を持ち、小雪の手のひらへそっと添えた。
小雪は指先で、ほんの少しだけ触れる。
冷たい。
少し硬い。
けれど、曲がる。
「細いです。」
「ああ。」
「綺麗です。」
「銅だからな。」
「ベルの手が作りました。」
「ガドさんもな。」
「はい。ガドさんとベルの手。」
「おまえも、一緒に作ったものだ。」
小雪は銅線を見る。
「……はい。」
細くて。
頼りない。
まっすぐでもない。
それでも、火の光を受けると、赤い線が細く光っている。
「糸のようです。」
小雪が言った。
「糸?」
「はい。」
「それにしちゃ硬いだろ。」
「蜘蛛の糸。」
「蜘蛛の糸は、もっと細い。」
「違いますか。」
「かなり。」
けれど、小雪には、その一本の銅線が何となく蜘蛛の糸のように見えた。
深く暗い場所へ、上から細く垂らされた一本の糸。
どこへ続いているのかは分からない。
掴めるのかも。
途中で切れないのかも。
まだ分からない。
「蜘蛛の糸。」
「さっきからどうした?」
「……私のいた世界の、有名な児童文学の題名です。」
小雪は、銅線を見つめた。
「地獄に一本の蜘蛛の糸が垂れてきて、亡者たちがそこから抜け出そうと群がるんです。けれど、結局糸は切れて、誰も助かりません。」
「なんだそれ。子供向けとは思えねぇな。」
ベルは少し怪訝な顔をして、小雪の手を銅線からそっと外した。
山の家へ戻る頃には、空が薄紫色に染まっていた。
道の端では、雪解け水が細い流れを作っている。
冬のあいだ固く閉じていたものが、少しずつほどけていくようだった。
小雪は、ベルが胸元へ抱えている小箱を見た。
中には、今日作った最初の銅線が入っている。
短く、不揃いで、少し曲がっている。
でも。
大事なものだった。
「銅線、持ちますか。」
小雪が訊くと、ベルは首を横に振った。
「今日は俺が持つ。」
「壊すからですか。」
「違う。」
ベルはすぐに答えた。
「まだ形が安定してねぇから、箱の中で守ってるだけだ。お前の大事なものだしな。」
「私からも?」
ベルが一瞬、きょとんとした。
それから、少し笑った。
「おまえの大事なものを、おまえから守るのか。俺が。」
「はい。」
「……何か、変な考え方だな。」
「でも、銅線は大事です。」
「ああ。」
「私も大事ですか。」
ベルが雪解け道で滑りかけた。
「小雪!」
「はい。」
「歩行中に刺すな!」
「刺しましたか。」
「足元にも心臓にも来た!」
「危険ですね。」
「おまえがな!」
小雪は少しだけ笑った。
ベルは顔を赤くしながらも、小箱はしっかり抱えたままだった。
山の家が近づいてくる。
煙突からは、細い煙が上がっている。
玄関の前には、二匹の雪ウサギ。
ベルの方は、まだ何とかウサギだった。
守護獣は、さらに顔が崩れている。
「ゾンビ化。」
「やめろ。」
「雪解けゾンビ。」
「やめろって。」
ベルが扉へ手を伸ばした。
その時。
ちりん。
家の前の木に結びつけた鈴が鳴った。
小雪の鈴ではない。
来客や伝令が来た時に分かるよう、ベルが後から取りつけた鈴である。
二人が振り返ると、玄関脇に小さな革筒が置かれていた。
伝令用の筒だった。
「手紙か。」
ベルが拾い上げ、封を確かめる。
そこにあるのは、グランツ家の紋章だった。
ベルの眉が少し上がる。
「実家からだ。」
「公爵家。」
「ああ。」
「何かありましたか。」
「読む。」
家へ入ると、ベルはまず火を入れた。
小雪も外套を脱ぎ、銅線の入った小箱と記録用紙を作業台へ置く。
部屋が少し温まり始めてから、ベルは手紙の封を切った。
差出人は、兄のレオンハルトだった。
ベルは小雪にも聞こえるよう、声に出して読む。
「雪解けの頃、領都で春祭りを行う。例年通り、領民への感謝と春の始まりを祝う祭りだ。父上と母上も、おまえが元気にしているか気にしている。勇者殿に無理のない範囲で、一度顔を見せてほしい。」
「春祭り。」
小雪は繰り返した。
「祭りですか。」
「ああ。」
「王宮舞踏会とは違いますか。」
「全然違う。」
ベルは少し笑った。
「もっと気楽だ。屋台が出て、花を飾って、歌や演奏もある。領兵の行進とか、腕比べもあるな。」
「腕比べ。」
「まあ、剣術大会とか。」
そこまで言って、ベルは少し嫌そうな顔をした。
小雪は見逃さなかった。
「剣術大会。」
「毎年ある。」
「ベルは出ますか。」
「出ねぇ。」
即答だった。
「なぜですか。」
「面倒だから。」
「ベルは、剣もできますか。」
ベルが手紙から目を上げた。
「一応な。」
「一応。」
「騎士叙任を受けてるって言っただろ。」
「そうでした。」
「忘れてたのか。」
小雪はベルを見る。
「ベルは、三下、オカン、乙女、チワワ、脱ぎがちの印象が強いので。」
「全部、心の底から否定したい……。」
「子供に剣も教えていました。」
「あれは基礎だけどな。」
「強いですか。」
「……まあ、それなりに。」
ベルは少し目を逸らした。
それなりに。
小雪は考えた。
ベルの「それなり」は、あまり信用できない。
料理も。
掃除も。
木工も。
雪ウサギも。
銅線づくりも。
全部、かなりできるのに、ベルは「それなり」と言う。
なら、剣も。
「見たいです。」
小雪が言うと、ベルの手が止まった。
「何を。」
「ベルの剣。」
「……。」
「見たいです。」
「春祭りに行くかどうかも、まだ決めてねぇだろ。」
「行けば、見られますか。」
「出ねぇって言っただろ。」
「でも、剣術大会があります。」
「あるだけだ。」
「ベルは騎士叙任済み。」
「そうだな。」
「剣もできます。」
「一応な。」
「見たいです。」
ベルは手紙で顔の半分を隠した。
耳が赤い。
「……おまえ、最近そういうのを遠慮なく言うよな。」
「言ってはいけませんか。」
「いや。」
「では、言います。」
「言うなとは言ってねぇ。」
「見たいです。」
「三回目だ。」
「はい。」
ベルはしばらく黙っていた。
それから、何も答えずに手紙の続きを読んだ。
「……なお、領都には金物商も多い。勇者殿の研究に必要な部材や素材についても、領都で探せるだろう。必要があれば手配する。」
「銅も、もっと必要です。」
「ああ。」
「行く理由が増えました。」
「……たしかにな。」
「春祭り。銅。剣術大会。」
「三つ目はいらねぇ。」
「見たいです。」
「四回目!」
ベルは手紙を置き、額を押さえた。
「小雪。」
「はい。」
「俺は大会には出ねぇ。」
「はい。」
「本当に出ねぇ。」
「はい。」
「誰かに煽られても出ねぇ。」
「はい。」
「おだてられても。」
ベルは少し考えた。
「……出たくはない。」
「どうしても?」
「出ねぇ。」
「本当に?」
「……たぶん。」
「たぶん。」
「見るな。」
小雪はベルを見ていた。
たぶん。
信用できない。
ベルは、三下で。
チワワで。
煽られると。
吠える。
小雪は学習している。
「ベル。」
「何だ。」
「私に、格好いいところを見せなくていいんですか。」
ベルは完全に黙った。
火が鳴る。
窓の外では、雪解け水が屋根から落ちている。
作業台には、最初の銅線が入った小箱。
その隣には、グランツ家から届いた手紙。
冬が終わりかけている。
春祭り。
領都。
銅。
剣術大会。
小雪はまだ、ベルが本気で剣を振るところを見たことがない。
ベルは、守るべき人だった。
補填されない人。
濡れる人。
風邪をひく人。
赤くなる人。
けれど、騎士でもある。
剣を教える人でもある。
銅を引く時には、身体の使い方を知っている人でもある。
小雪は、見たいと思った。
何となくではなく。
はっきりと。
見たい。
「……行くだけだぞ。」
やがて、ベルが小さく言った。
「はい。」
「祭りに行くだけ。」
「はい。」
「銅を探す。」
「はい。」
「家族に顔を見せる。」
「はい。」
「大会には出ねぇ。」
「はい。」
「本当に出ねぇ。」
「はい。」
ベルが怪訝な顔をした。
「何でそんなに素直なんだ。」
「記録しているので。」
「何を。」
小雪は記録用紙を引き寄せた。
一、領都で春祭り。
二、銅を探せる。
三、剣術大会がある。
四、ベルは出ないと言った。
五、ベルは本当に出ないと言った。
六、煽られても出ないと言った。
七、たぶん。
八、小雪はベルの格好いいところを見たい。
「七を消せ!」
「重要です。」
「重要じゃねぇ!」
「信用度です。」
「信用度って言うな!」
ベルはそこまで言ってから、八番へ視線を落とした。
「八は。」
「はい。」
「……。」
「消しますか。」
ベルは赤い顔で目を逸らした。
「……小さくしろ。」
「消しますか。」
「消せとは言ってねぇ。」
「はい。」
小雪は八番を少しだけ小さくした。
けれど、消さなかった。
ベルはそれを見て、深くため息を吐いた。
火が静かに鳴っている。
最初の銅線は、まだ短い。
文明も、まだ途中だ。
けれど、春が近づいている。
小雪は作業台の上の小箱を見た。中には、今日作った一本の銅線が入っている。
細くて、短くて、頼りない。
それでも、小雪にはまだ少し、蜘蛛の糸のように見えた。
深く暗い場所へ、上から垂れてきた一本の糸。
掴んでよいのかは分からない。
どこへ続くのかも分からない。
途中で切れるかもしれない。
けれど今は、少しくらい眺めていてもよい気がした。
春祭り。
花。
音楽。
銅。
ベルの剣。
少しくらい楽しみにしても、大きな罰は当たらないはずである。
蜘蛛の糸を眺めるくらいなら、きっと許される。
小雪はそう思った。
千五百人の彼らも、春の匂いの中では、ほんの少しだけ動きを止めてくれるかもしれない。
それが、ただの願望だということは分かっていた。
それでも今夜だけは。
小雪は、春のことを考えた。




