第三十九話 勇者さま、銅を探す
屋根は落ちなくなった。
少なくとも、今のところは。
朝、小雪は家を出ると、まず玄関の横に並んだ二匹の雪ウサギを確認した。
いつからそうなったのかは分からないが、最近は朝になると一度様子を見るのが、何となく日課になりつつある。
ベルが作った雪ウサギは、まだ丸くて可愛かった。
一方、小雪が作った方は、夜のあいだにまた少し溶けたらしい。
もともと左右で高さの違っていた黒い目はさらにずれ、顔の片側だけが沈んだせいで、昨日よりずっと険しい表情になっている。
「凶暴化しています。」
「雪ウサギがか。」
ベルは雪下ろし棒を壁へ立てかけながら、呆れたように答えた。
「魔素の濁りでしょうか。」
「ただ溶けかけてるだけだ。」
「昨日より強そうです。」
「弱ってるんだよ。」
「討伐しますか。」
「しなくていい。」
「では、観測継続。」
「ほどほどにな。」
小雪は雪ウサギへ一度頷いてから、家の中へ戻った。
屋根。
雪。
魔物。
補填。
ベル、脱ぎがち。
雪ウサギ。
ここしばらくは、予定していなかったことばかり起きていた。
けれど今日は、ようやく科学へ戻る。
小雪は作業台へ向かうと、これまで書き溜めてきた記録用紙を広げた。
最初の小さな水車から始まり、大きな水車、ふいご、炭、炉、火色、軸受け、弓ぎり式ドリル、水車式ドリル、停止装置、滑車、革紐、丸い棒。
途中から、雪下ろし棒まで混じっている。
最後だけ少し方向がおかしい気もするが、生活文明であることに変わりはないので、問題はない。
ベルも隣へ来て、作業台いっぱいに広げられた紙を覗き込んだ。
「ずいぶん増えたな。」
「はい。」
「最初は、水車から始まったのにな。」
「これから、水車の先です。」
「先?」
「はい。」
小雪は紙の端へ、小さな丸をいくつも描いた。その周りを、一本の線でぐるぐると囲む。
ベルが眉を寄せた。
「何だ、それ。」
「コイルです。」
「ああ。」
ベルの顔に、少しだけ理解の色が浮かんだ。
「最初に作った、電磁石ってやつか。鉄の周りに線を巻いた。」
「はい。」
「あの時は、細い金属線を使ってたな。」
「はい。」
小雪は頷いた。
最初の電磁石は、まだ文明と呼べるほどのものではなかった。たまたま手元にあった細い線を鉄へ巻きつけ、壺電池につなぎ、ほんのわずかに針を引き寄せただけである。
けれど、最初は小さくてよい。
問題は、その次だった。
「もっと大きなものを作るには、おそらくもっと長い線が必要です。」
「長く。」
「はい。そして、できれば細く。」
「長くて細い金属線。」
「はい。」
「それを何度も巻く必要がある。」
「はい。なので、銅が必要です。」
小雪が力強く頷くと、ベルは片眉を上げた。
「銅?何で銅なんだ。」
「電気の通り道に向いているからです。」
「他の金属より?」
「はい。」
「理屈は。」
小雪は少し考えた。
たしか、元の世界で習ったはずである。
けれど、その記憶はもうかなり曖昧だった。
「おそらく、電気が通りやすく、細い線にも加工しやすいからだと思います。」
「おそらく、か。」
「はい。」
「おまえの知識、妙なところで急に浅くなるよな。」
「十五歳までの一般知識です。」
「十五歳にしては、十分おかしいくらい詳しいけどな。」
「しかし、電子の詳しい挙動までは知りません。」
「でんし?」
「今は知らなくても大丈夫です。」
「おい。知らねぇ言葉だけ置いていくな。」
小雪は気にせず、記録用紙へ書き足した。
一、コイルには長く細い金属線が必要。
二、銅は電気を通しやすい。
三、細い線に加工しやすい。
四、詳しい理由は知らない。
横から見ていたベルが、四番を指した。
「四で急に雑になるな。」
「事実です。」
「まあ、分からないことを分からないって書くのは悪くねぇけど。」
「はい。」
「で。」
ベルは作業台に広げられた記録を見回した。
「銅を手に入れたとして、そのあとどうやって細い線にする。」
「穴へ通します。」
「穴。」
「はい。」
「またか……。」
「はい。」
「穴文明、再登場。」
小雪は少し胸を張った。
「連作です。」
「嫌なシリーズだな……。」
「大きな穴から小さな穴へ、順番に通して引っ張ります。」
「金属を?」
「はい。」
「切れると思うが。」
「おそらく、途中で何度も熱する必要があります。」
ベルの表情が少し変わった。
「熱する、か。」
「はい。」
「柔らかくして、少し伸ばして、また熱する。」
「おそらく。」
「予測が多いな。」
「細部は、作りながら確認する必要があります。」
ベルはしばらく黙ったあと、これまでの記録をもう一度見た。
「……なるほどな。」
「分かりますか?」
「大体の工程はな。炭と炉で、まず金属を熱する。」
「はい。」
「ドリルで穴を作る。小さい穴を正確に開けるなら、今までより細い工具も要る。」
「はい。」
「それで線を引いて、できた線を鉄の芯に巻く。コイルにして、電磁石へ戻る。」
「はい。」
ベルは、少し笑った。
「本当に全部つながってくるな。」
「文明はつながります。」
「便利な言葉じゃなくて、もう本当にそうだな。」
小雪も、紙の上に並んだ記録を見た。
水車から始まった。
回すために軸が必要になった。
軸を作るために穴が必要になった。
穴を開けるための道具が必要になり、その道具を動かすために水車を使った。
金属を扱うには火が必要だった。
動かすだけでは危険だから、止める方法も必要になった。
そして今、最初に作ったあの小さな電磁石へ、ようやく戻ろうとしている。
「そろそろ、銅を用意する必要があります。」
「今聞くと、唐突じゃねぇな。」
「はい。」
「なら、まずは手に入れるところからか。」
「はい。」
ベルは少し考えた。
「村の鍛冶場。街の金物屋。それでも足りなければ、グランツ家の伝手を使う。」
「ベルは調達もできますか。」
「物による。」
「調達担当。」
「最近、俺の肩書きが増えすぎてねぇか。」
「水車文明担当。生活文明総合担当。雪ウサギ部門。銅調達担当。」
「雪ウサギ部門は消せ。」
「では、調達部門を追加します。」
「増やすな。」
ベルは外套を手に取った。
「まずガドのところへ行く。村にある銅の種類と量を確認する。それから街だ。」
「買い出し。」
「ああ。」
「デートですか。」
ベルが工具箱の蓋を閉じ損ねた。
かちん、と金具が不自然な音を立てる。
「違う!」
「銅デート。」
「違う!」
「買い出しデート未満。」
「未満をつけても駄目だ!」
「では、銅調達同行任務。」
「急に硬い。」
「ベルは、どちらがよいですか。」
「どちらも心臓に悪い。」
「初心なハート。」
「今日は銅の話をしろ。」
「はい。」
小雪は頷いた。
今日は銅の話をする。
ただし、デートかどうかについても、引き続き観測する必要がある。
雪の残る道を、二人は村へ下りた。
昨日までより日差しが少し強く、道の中央では雪が薄くなっている。
踏み固められた場所は滑りやすいため、ベルは歩きながら何度も振り返り、小雪の足元を確認していた。
小雪は厚手の外套と手袋を身につけている。
すべてベルが用意したものだ。
以前の巨大手袋よりはましだったが、それでも袖は少し長く、歩くたびに手首の辺りで布が揺れる。
「やっぱり、その袖は長いな。」
ベルが言った。
「少し。」
「戻ったら詰めるか。」
「このままでも動けます。」
「それは知ってる。」
ベルは、以前より少し先回りするようになった。
「動けるかじゃなくて、使いやすいか聞いてる。」
「細かい作業は、しにくいです。」
「だろうな。」
ベルは少し考えるように、小雪の手元を見た。
「……おまえ、細かい作業、本当に苦手だよな。」
何気なく言われた言葉に、小雪は雪の上へ続く足跡を見ながら頷いた。
「苦手です。」
「力が強いからか。」
「それもあります。」
「それも?」
「指先の細かな力加減が、あまり上手ではありません。」
ベルは少し歩調を緩めた。
「前からか。」
「いいえ。」
「いつから。」
「固有スキルを使いすぎてからです。」
ベルは黙った。
雪を踏む音だけが、しばらく二人の間に続く。
「大きく欠けて補填されることを繰り返すと、形は戻ります。動きますし、感覚もあります。」
「……ああ。」
「でも、完全に同じではありません。」
ベルは小雪の手を見た。
今は手袋の中にある。
雪ウサギをうまく作れなかった手。
薄いものをつまむ時、時々力が強くなりすぎる手。
先日、魔物を討つ時に白い粒になった手。
「だから、雪ウサギも、か。」
「はい。」
「小さいものを丸めるとか、力を抜くとか。」
「苦手です。」
「そうか。」
「問題ありません。」
「言うと思った。」
「動きます。」
「それも言うと思った。」
「はい。」
ベルは少しだけ苦笑した。
けれど、その顔にはまだ、痛そうなものが残っている。
「小雪。」
「はい。」
「問題があるかどうかは、俺も見る。」
「はい。」
「おまえの手が苦手なことは、俺がやる。」
「はい。」
「俺の手は器用だからな。」
小雪はベルを見た。
ベルは前を向いたまま歩いている。
耳が少し赤い。
自分で言って、少し照れているらしい。
「ベル。」
「何だ。」
「自分で言いました。」
「事実だ。」
「事実でも刺さりますか。」
「時々な。」
「ベルの手は器用です。」
「今刺した。」
「痛いですか。」
「雪の中なのに温かい。」
「よかったです。」
「よくねぇ。」
小雪は少しだけ笑った。
ベルの手は器用。
自分の手は不器用。
以前なら、できないことはできないままだった。
あるいは、できるようになるまで一人で繰り返した。
けれど今は、ベルができる。
それは、悪いことではない。
たぶん。
ガドの鍛冶場は、朝から火が入っていた。
雪の中でも、その周囲だけは少し空気が違う。煙突から灰色の煙が上がり、中へ入れば火床の赤い光と、炭と鉄と油の匂いが迎えてくれた。
「おう、来たか。」
ガドが振り返る。
「屋根は、もう落ちてねぇか?」
「今日はまだ。」
ベルが答えた。
「先日は落ちました。」
小雪が補足すると、ガドが笑った。
「ああ、聞いたぞ。あんちゃんが雪まみれになったってな。」
ベルの顔が赤くなる。
「誰からですか。」
「ダンだ。」
「早いな!」
「村は狭いからな。」
「ベル、脱ぎがちも伝わりましたか。」
「伝えるな!」
ガドが豪快に笑った。
「いや、それは今初めて聞いた。」
「今伝わった模様です。」
「……小雪。」
「はい。」
「今日は銅だ。」
「分かりました。」
小雪は素直に話を戻した。
「今日は、銅を探しに来ました。」
「銅?」
「はい。電気の通り道にします。」
ガドは少し黙った。
「でんき。」
「はい。」
「また勇者さまの遠い文明か。」
「はい。」
「何に使う。」
「コイルです。」
「こいる。」
ガドはベルを見る。
ベルは苦笑した。
「俺も全部は分かってない。ただ、銅を細い線にして、鉄の芯に巻くらしい。」
「巻くのか。」
「はい。」
ガドは少し考えた。
「銅なら、鍋の修理用の板、飾り金具、古い金具、棒材が少しある。だが、細い線はねぇな。」
「これから作ります。」
小雪が言うと、ガドの目が少し鋭くなった。
「銅を細くする?」
「はい。」
「叩いて伸ばすのか。」
「それも必要だと思います。ただ、最後は穴へ通して引っ張ります。」
「穴?」
「大きさの違う穴です。」
ガドは腕を組んだ。
「なるほどな。線引きか。」
ベルが驚いたように顔を上げる。
「知ってるのか。」
「昔、旅の職人に聞いたことがある。細い金属線を作るやり方だ。うちじゃ、そんな細いものを使う仕事はほとんどねぇから、道具はないがな。」
「作れますか。」
「面白そうだな。」
ガドはにやりと笑った。
「穴を開ける技術なら、最近ずいぶん騒がしくやってるじゃねぇか。」
「穴文明。」
小雪が言った。
「まさか、こっちにも役に立つとはな。」
ベルも少し笑った。
「水車式ドリル。停止装置。穴。丸い棒。今度は線引きか。」
ガドは納得したように頷いた。
「本当に、全部つながってくるな。」
「文明はつながります。」
「おまえ、嬉しそうだな。」
「はい。」
小雪は頷いた。
嬉しい。
これは、たぶん分類してよい。
銅へ近づく。
コイルへ近づく。
電磁石へ近づく。
その先には、モーターと発電機がある。
魔法ではない力。
魔法を使わなくても動くもの。
そして。
魔法を使わなくても生きられる世界。
「で、銅はどれだけ必要なんだ。」
ガドが訊いた。
小雪は少し考えた。
「たくさん。」
「雑だな。」
ベルとガドの声が重なった。
「銅線を、たくさん巻きます。」
「どのくらい。」
「細く、長く。」
「どのくらい細く、どのくらい長くだ。」
「……たくさん。」
ベルが額へ手を当てた。
「数字がねぇな。」
「ありません。」
「また分類からか。」
「はい。」
ガドは笑った。
「なら、まず試しだ。古い銅片をいくつか出す。銅板と銅棒も少しならある。あとは街で買うしかねぇ。」
「買います。」
小雪はベルを見た。
「金は俺が出す。」
「ベルは銅も買えますね。」
「褒めるところか?」
「はい。」
「財布担当まで増えそうだな。」
「資金文明担当。」
「増やすな。」
ガドがまた笑った。
鍛冶場の奥から持ってこられたのは、赤みを帯びた金属だった。
古い鍋の切れ端、薄い板、太めの銅棒、表面に緑青の浮いた飾り金具。
鉄とは違う。
少し温かそうな色をしている。
「銅です。」
「ああ。」
「赤いです。」
「銅だからな。」
「鉄と違います。」
「そりゃ違う。」
「ベルの目とも違います。」
ベルが咳き込んだ。
「何で俺の目が出る。」
「赤銅色ではありません。ベルの目は焦げ飴です。」
「全く違うが……。」
「銅分類です。」
「俺を分類に混ぜるな。」
「銅、鉄、焦げ飴。」
「まず金属じゃねぇぞ。」
ガドが肩を震わせている。
「ベル。」
「何だ。」
「焦げ飴は、電気を通しますか。」
「通さねぇだろ!」
「食べ物ですか。」
「俺の目を食うな!」
「まだ食べていません。」
「まだって何だ!」
小雪は銅片を一枚、手に取った。
小さい。
薄い。
冷たい。
手袋を外して触ると、指先に金属の冷たさが伝わる。
小雪は銅片を大きさ順に並べようとした。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
薄い板を指先でつまもうとして、滑る。
銅片が台の上で跳ねた。
からん。
小雪は黙った。
ベルも黙った。
もう一度つまむ。
今度は少し力を入れすぎた。
薄い板が、わずかに曲がった。
「曲がりました。」
「曲げたな。」
「はい。」
「小雪。」
「はい。」
「無理しなくていい。」
「できます。」
「今、曲げたぞ。」
「次はできます。」
「曲げた。」
ベルは、そっと小雪の指先から銅片を取った。
その手つきは、とても自然だった。
責める感じではない。
哀れむ感じでもない。
ただ。
代わる。
「細かい分類は俺がやる。」
「でも。」
「おまえは記録。」
「はい。」
「あと、見てろ。」
「はい。」
小雪は少し黙った。
ベルは銅片を、大きさ、厚さ、状態で分けていく。
緑青が浮いているもの、曲がっているもの、厚いもの、薄いもの、そのまま伸ばせそうなもの、一度溶かして形を作り直した方がよさそうなもの。
指先が迷わない。
昨日の雪ウサギと同じだった。
必要以上に力を入れず。
落とさず。
必要なだけ触る。
「ベル。」
「何だ。」
「すごいです。」
「銅を並べてるだけだ。」
「私には難しいです。」
「なら、俺がやる。」
「はい。」
「それでいい。」
小雪は少し考えた。
「悔しくありませんか。」
ベルが手を止めた。
「何が。」
「私ができないことを、ベルがすること。」
ベルはしばらく小雪を見た。
「……ちょっと待て。何で俺が悔しがるんだ。」
「私の代わりに、ベルが悔しがります。」
ベルは小さくため息を吐いた。
「よく分からねぇけど。」
「はい。」
「俺は、できることがあって嬉しい。」
小雪は瞬きをした。
「嬉しい。」
「ああ。」
「私ができないから?」
「違う。」
ベルは少しだけ眉を寄せた。
「そこは一緒にするな。」
「難しいです。」
「おまえができないことを、俺ができる。それが嬉しいんだ。」
「同じでは。」
「違う。」
ベルは少し困ったように息を吐いた。
「おまえが困った時に、俺が手を出せる。役に立てる。それが嬉しい。」
小雪は黙った。
ガドは何も言わず、いつの間にか火床の方へ移動している。
たぶん。
聞こえないふりである。
「ベル。」
「何だ。」
「それは、助手ですか。」
「助手でもある。」
「オカン。」
「それもある。」
「チワワ。」
「それは微妙だ。」
「では。」
小雪は少し考えた。
「ベルですか。」
ベルの手が止まった。
耳が赤くなる。
「……そうだな。」
「はい。」
「俺だ。」
小雪は頷いた。
銅片は赤い。
ベルの耳も赤い。
焦げ飴の目は、少し困っていて。
少し温かかった。
昼前、ガドの鍛冶場で、試しに銅を焼いてみることになった。
薄い銅片を火へ入れる。
熱する。
取り出す。
叩く。
少し広がる。
また叩く。
しばらくすると、最初より硬くなっていく。
「焼きなましだな。」
ガドが言った。
「焼きなまし。」
小雪は繰り返した。
「金属を熱して、また扱いやすくする。硬くなりすぎたやつも、少し言うことを聞くようになる。」
「金属にも疲労がありますか。」
「あるようなもんだな。」
「銅も休憩が必要。」
「そうだな。」
「ベルも。」
「俺も?」
「働きすぎると風邪をひきます。」
「また戻すな。」
「言わんこっちゃない。」
「鍛冶場で言うな。」
ガドが笑った。
「まあ、金属も人も、無理させすぎりゃ駄目になるってことだ。」
「はい。」
小雪は頷いた。
無理をさせすぎると、駄目になる。
金属も。
人も。
自分も。
たぶん。
ベルが小雪を見る。
何か言いたそうだった。
小雪は、また先に言った。
「今日も補填は使いません。」
「銅で使うな。」
「はい。」
「火にも近づきすぎるな。」
「はい。」
「手袋。」
「はい。」
「本当に近づくなよ。」
「分かりました。」
「返事が良すぎて怖い。」
「善処します。」
「やっぱり怖い。」
小雪は少しだけ笑った。
ベルは、その笑みに一瞬言葉を失った。
そして顔を逸らす。
「……火を見ろ。」
「はい。」
小雪は火へ視線を戻した。
銅片が熱せられていく。
鉄とは違う色。
赤い金属。
熱。
柔らかさ。
槌で叩けば、少しずつ広がる。
硬くなれば、また熱する。
ガドが槌を振る。
ベルが横から道具で銅片を押さえる。
小雪は、少し離れたところから見る。
触ってみたい。
自分で並べたい。
自分の手でも確かめたい。
けれど、今日は手を出さない。
細かい作業はベルがやる。
火の近くはガドがやる。
自分は見る。
記録する。
次を考える。
それでも、文明は進んでいる。
自分一人で全部を支えなくていい。
梁。
支え。
ベル。
小雪は記録用紙へ書いた。
一、銅は赤い。
二、熱すると柔らかくなる。
三、叩くと広がる。
四、硬くなったら、また熱する。
五、金属も休憩が必要。
六、ベルも。
七、私も。
八、細かい分類はベルが得意。
九、私は不器用。
十、でも、ベルがいる。
横から覗き込んだベルが、十番を見た。
「十。」
「はい。」
「……。」
「消しますか。」
「消すな。」
「小さくしますか。」
「しなくていい。」
「はい。」
ベルは少し黙ったあと、九番を指した。
「でも、こっちは。」
「私は不器用。」
「ああ。」
「事実です。」
「事実でも、記録へ書くのは嫌じゃねぇのか。」
小雪は少し考えた。
「以前なら、嫌だったかもしれません。」
「以前?」
「今の私には、ベルがいるので。」
ベルは銅片を落としかけた。
ガドがすぐに手を伸ばして受け止める。
「おい、あんちゃん。熱いぞ。」
「す、すまん。」
ガドは銅片を置くと、今度は真面目な顔で小雪を見た。
「勇者さま。」
「はい。」
「作業中のあんちゃんに、そういうこと言うのは危ねぇ。」
「はい。」
「言うなら、火から離れてからにしな。」
「助言ありがとうございます。」
「ガドさん!余計なこと言わないでくれ!」
鍛冶場へ、ガドの笑い声が響いた。
午後、街へ行くかどうかを相談した。
ガドの手元にある銅だけでも、試作には使える。
けれど、長い銅線を作るには到底足りない。
「街の金物屋なら、銅板や銅棒を扱ってる。」
ベルが言った。
「鍋職人や飾り職人もいる。細い金属線を使う職人も探せるかもしれねぇ。」
「行きます。」
「今日は無理だ。雪道だし、準備もいる。」
「明日。」
「天気次第だな。」
「買い出し。」
「ああ。」
「デート未満。」
「まだ言うか。」
「銅デート未満。」
「銅をつけるな。」
「ベルは赤くなります。」
「火のせいだ。」
「鍛冶場は温かいです。」
「だからだ。」
「耳だけ。」
「火のせいだ。」
後ろでガドが笑っている。
ベルは咳払いをした。
「とにかく、明日以降、街へ行く。今日はここまでだ。」
「はい。」
「持って帰る銅は、これだけ。」
ベルは袋へ銅片を入れた。
小雪が手を出そうとすると、ベルが先に持ち上げる。
「持ちます。」
「重い。」
「持てます。」
「細かい銅片が入ってる。落としたら面倒だ。」
「落としません。」
「今日、曲げただろ。」
「はい。」
「俺が持つ。」
「……はい。」
小雪は手を引っ込めた。
胸の奥に、少しだけ変なものが残る。
悔しいのか。
寂しいのか。
安心しているのか。
よく分からない。
ベルは、その顔を見たらしい。
少しだけ声を柔らかくした。
「代わりに、記録を持ってくれ。」
「記録。」
「ああ。」
ベルは小雪の紙を指した。
「それは、おまえが得意だろ。」
「はい。」
「俺が銅。」
「はい。」
「おまえが記録。」
「はい。」
「それでいい。」
小雪は記録用紙を大事に持った。
ベルが銅を持つ。
小雪が記録を持つ。
どちらか一人が、全部を持つ必要はない。
それでいい。
たぶん。
帰り道では、朝より少し雪が溶け始めていた。
日が傾き、道の端に残った雪が薄く光っている。
ベルは銅の入った袋を肩へ掛け、小雪は記録用紙を外套の内側へ抱えて歩いた。
「ベル。」
「何だ。」
「今日は、デートでしたか。」
「違う。」
「買い出し未満。」
「素材調達だ。」
「調達デート。」
「戻すな。」
「銅調達デート。」
「銅をつけるなって言った。」
「では、銅調達同行任務。」
「まあ、硬いけど、それが一番近いな。」
「デートではない。」
「そうだな。」
「でも、二人で出かけました。」
「それはそうだ。」
「ベルが荷物を持ちました。」
「重かったからな。」
「私が記録を持ちました。」
「ああ。」
「鍛冶場で、ベルが何度も赤くなりました。」
「……おまえのせいだ。」
「デートの条件に近いです。」
「どこがだよ!」
ベルが振り返った瞬間、踏み固められた雪で足を滑らせた。
「やばっ。」
小雪が反射的に手を伸ばす。
けれど、ベルは自分で踏みとどまった。
「危ないです。」
「……滑った。」
「私のせいですか。」
「そうだ。」
「敬語。」
「そうです。」
小雪は少しだけ笑った。
ベルは赤い顔のまま、それでも少し笑っていた。
山の家が見えてきた。
屋根は落ちていない。
雪下ろし棒が壁へ立てかけてある。
玄関の横には、雪ウサギが二匹並んでいた。
ベルの作ったウサギは、まだ可愛い。
小雪の作った方は、午後の日差しでさらに顔の片側が溶け、かなり迫力のある表情になっている。
「やはり、凶暴化しています。」
「溶けてるだけだ。」
「魔物討伐後の私。」
「変に重ねるな。」
ベルが扉を開けた。
火を入れる。
銅片の袋を作業台へ置く。
小雪は、その隣へ記録用紙を広げた。
白い雪の一日の終わりに、今日手に入れた赤い金属が並ぶ。
その色は、少しだけ温かく見えた。
「ベル。」
「何だ。」
「コイルへ、また少し近づきましたか。」
「素材にはな。道のりは、まだかなり遠い。」
「次は穴ですか。」
「ああ。線引き板だな。」
「穴文明、再登場。」
ベルが嫌そうな顔をした。
「……また、あの語感を聞かなきゃならねぇのか。」
「はい。連発予定です。」
「嫌だな。」
小雪は銅片を見る。
まだ、ただの金属である。
細い線には遠い。
コイルには、もっと遠い。
電磁石。
モーター。
発電機。
魔法を使わなくても動くもの。
魔法を使わなくても暮らせる世界。
それらは、もっともっと遠い。
けれど、水車も最初は小さな木片だった。
丸い棒も、最初はぶれていた。
「ベル。」
「今度は何だ。」
「私も、練習すれば、また可愛い雪ウサギを作れますか。」
ベルは少し意外そうな顔をした。
それから、優しく笑った。
「作れる。」
「本当ですか。」
「ああ。」
「こんな手先でも?」
「練習すればいい。」
ベルは小雪を見る。
「ダンスの時みたいにな。」
「ベルが教えてくれますか。」
「教える。」
「絶対?」
「ああ。必ず。」
小雪は頷いた。
「では、いつか。」
「ああ。」
ベルも頷いた。
「いつか。」
その言葉を、今日は記録してもよい気がした。
銅線も。
雪ウサギも。
魔法を使わない世界も。
まだ遠い。
けれど、少しずつなら近づける。
小雪は記録用紙の最後へ、一行を書き足した。
十一、いつか、ベルに雪ウサギを教わる。
ベルが横から見た。
「……それは、残していい。」
「はい。」
「でも、デートは書くな。」
小雪は、もう一行足した。
十二、銅調達デート未満。
「書くな!」
「小さくします。」
「消せ!」
小雪は十二を小さくした。
消しはしなかった。
ベルは頭を抱えた。
火が鳴る。
外では、雪が少しずつ溶けている。
作業台には銅がある。
次は、穴文明再登場。
そして、その先には、細い銅線がある。
小雪は赤い金属を見ながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
今日も、文明は少し進んだ。
一人ではなく。
二人で、進んだ。
それは嬉しい。
だからこそ、小雪は考えないことにした。
銅線ができたら。
コイルができたら。
魔法を使わない力へ、もっと近づいたら。
その先に、自分が何をしなければならないのか。
今は、まだ。
考えなくていい。
少なくも雪ウサギが溶けるまでは。
小雪は何も知らないふりをして、作業台の銅を見つめた。
そして。
決断しなければならない日が来ることも。
いつか、ここを離れなければならないかもしれないことも。
今だけは。
すべて忘れたふりをした。




