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第三十七話 ベル、脱ぎがち

 雪が降った。


 朝、窓を開ける前から分かった。


 いつもの山の朝とは、音が違った。


 普段なら、風が木の枝を鳴らし、遠くでは川が流れ、その音に混じって鳥や虫の声が控えめに聞こえている。

 けれど、その朝は、全ての音が厚い布で包まれたように鈍く、山そのものが静かに息を潜めているようだった。


 小雪は寝台から起き上がると、窓へ近づいた。


 白い。


 山の家の周囲も、薪置き場も、少し傾いた柵も、その向こうへ続く道も、全てが白くなっていた。川辺の方も薄く煙って見え、木々は重たそうな雪でわずかにしなっていた。


 小雪は窓硝子へ手を当てた。


「白いです。」


 台所から、ベルの声が返ってきた。


「雪だな。」

「私の髪と同じ分類ですか。」

「違う。」

「色は同じです。」

「分類は違う。」

「雪髪。」

「やめろ。」


 ベルは朝の火を起こしていた。


 ぱち、と薪が鳴り、橙色の光が少しずつ部屋へ広がっていく。


 小雪は、もう一度窓の外を見た。


 白い世界。

 白い髪。

 白い息。

 白い山。


 以前なら、雪はただの気象だった。


 寒い。

 濡れる。

 視界が悪くなる。

 足跡が残る。

 移動が遅れる。

 行軍予定を狂わせる。


 それだけだった。


 けれど、今は少し違う。


 雪の朝は静かで、火が温かく、台所にはベルがいる。


 小雪はその違いを、しばらく観測した。


「外に出ます。」

「出るな。」

「雪の観測です。」

「窓からしろ。」

「踏み心地が分かりません。」

「朝飯のあとだ。」

「ベル。」

「何だ。」

「過保護です。」

「前からだ。」

「悪化しています。」

「あんなことがあったあとだからな。」


 ベルはそこで一度、言葉を止めた。


 小雪も、自分の左手を見る。


 今は動く。

 感覚もある。

 温かい。


 問題はない。


 そう言うとベルが怒るので、小雪は口に出さなかった。


 代わりに、少し考えてから言う。


「今日は、補填を使いません。」


 ベルが火かき棒を持ったまま振り返った。


「当たり前だ。」

「はい。」

「でも。」


 ベルは少し間を置いた。


「先に言ったのは偉い。」

「偉い。」

「ああ。」

「では、記録します。」

「今するな。」

「はい。」


 小雪は少しだけ満足した。


 ベルは火かき棒を置くと、窓の外を見て眉を寄せた。


「思ったより積もったな。」

「雪は軽そうです。」

「積もると重い。」

「白いのに。」

「色は関係ねぇ。」

「ふわふわなのに。」

「ふわふわでも、量が増えれば重い。」

「毛布と同じですか。」

「まあ、近いかもな。」

「毛布は強いです。」

「雪も強い。」

「雪盾。」

「だから何でも戦闘にするな。」


 ベルは窓際まで来ると、今度は天井を見上げた。


 小雪もつられて上を見る。


 古い梁。

 その上の板。


 冬支度の時にも確認したが、この家は長い間人が住んでいなかったせいで、ところどころ木が傷んでいる。


 特に北側の屋根は傾きが少し浅く、以前からベルが気にしていた場所だった。


 案の定、ベルの顔が険しくなる。


「屋根の雪、下ろした方がいいかもしれねぇ。」

「屋根。」

「ああ。こっちは傾きが浅い。雪が滑り落ちにくいんだ。」

「雪が居座りますか。」

「そうだ。居座られると重い。」

「迷惑な客ですね。」

「かなりな。」


 小雪はもう一度、天井を見た。


「落ちますか。」

「落ちる前にどうにかする。」

「魔法で。」

「待て。」

「はい。」


 小雪は手を下ろした。


 ベルは、先ほどより少しだけ真剣な顔で小雪を見る。


「補填は。」

「使いません。」

「自分を削るのも。」

「しません。」

「普通の魔法か。」

「はい。屋根の雪を動かす程度の小規模魔法です。」


 ベルは小雪の顔を見て、それから左手を見た。


 もう一度、小雪の顔へ視線を戻す。


「本当に?」

「はい。」

「先に言う?」

「はい。」


 ベルは少しだけ息を吐いた。


「……なら、あとで必要になったら頼む。」

「はい。」


 その返事を聞いてから、ベルは再び天井へ意識を戻した。


「でも、その前に構造を見よう。雪を下ろすだけじゃ、傷んだ屋根は直らねぇからな。」

「構造文明。」

「まあ、そうだな。」


 ベルは梁を指した。


「屋根の雪の重さは、ここへかかる。梁が弱れば板が歪む。歪めば隙間ができて、水が入る。夜にまた冷えれば凍る。そうなると、もっと傷む。」

「雪は攻撃してきますか。」

「ゆっくりな。」

「持続攻撃。」

「……言い方は物騒だが、合ってる。」

「では、防御が必要ですね。」

「ああ。雪下ろしと補強だ。」


 小雪は頷いた。


 冬の生活は忙しい。


 食料。

 薪。

 毛布。

 窓の隙間。

 雪。

 屋根。


 生きているだけでも、次から次へとやることが増えていく。


 ベルは外套を取ろうとして、ふと壁際を見た。


 そこには、昨日干しておいた厚手の上着と、洗ったばかりの替えの服が畳んで置かれている。


 窓際ではない。

 火からも離れている。


 けれど。


 ちょうど、先ほどベルが見上げていた場所の真下だった。


「……先に、あれを移動させるか。」


 ベルがそう言った。


 その瞬間だった。


 みし。


 二人が同時に上を見た。


 みしみし、と嫌な音が続く。

 天井板の隙間から、白い粉がぱらぱらと落ちてきた。


「ベル。」

「下がれ!」


 どさっ。


 次の瞬間、天井板の一部が抜けた。


 雪が落ちてきた。

 濡れた板も落ちてきた。

 冷たい空気も一緒に落ちてきた。


 そして、その真下にいたベルへ、全てがまともに降り注いだ。


 白い塊がベルを飲み込み、濡れた板が床で跳ねる。

 雪は部屋中へ散り、せっかく畳んであった替えの服も厚手の上着も、一瞬で雪と水に埋もれた。


 小雪は瞬きをした。


 そこには。

 雪まみれのベルがいた。


 頭に雪。

 肩に雪。

 胸に雪。

 腕に雪。

 金髪にも雪。

 顔にも雪。

 服の中にも、おそらく雪。


 そして後ろでは、予備の服まで全滅している。


 火だけが、ぱち、と鳴った。


「ベルが白くなりました。」

「実況するな!」

「雪ベル。」

「やめろ!」

「雪像。」

「人間だ!」

「補填されますか。」

「されねぇし、これは怪我じゃねぇ!」


 ベルは慌てて身体についた雪を払った。


 すると首元から、さらに雪が服の中へ入った。


「冷てぇ!」

「動くと入ります。」

「言うのが遅い!」

「観測結果です。」

「役に立てろ!」


 小雪は天井を見上げた。


 穴が開いている。


 そこから白い空が見え、まだ細かな雪が部屋へ落ちてきていた。

 このままでは、家の中まで冷えてしまう。


「屋根を直します。」


 小雪が言うと、ベルが雪まみれのまま鋭く顔を上げた。


「小雪。」

「はい。」

「補填は。」

「使いません。」

「自分を削るのは。」

「しません。」

「何を使う。」

「通常魔法です。小規模な復元と風。出力も上げません。」


 ベルは一秒ほど小雪を見た。


「……よし。」

「使います。」

「ああ。」


 小雪は右手を上げた。


「復元。」


 魔力を魔回路へ流す。


 大量の魔素は必要ない。

 大きなイメージも必要ない。


 天井に開いた穴。

 落ちた板。

 室内へ入り込んだ雪。


 ただ、それを元の場所へ戻すだけだった。


 室内の雪が持ち上がり、天井の穴から外へ吸い出されていく。すでに溶けていた水は薄い霧になって外へ流れ、折れ落ちた板も静かに浮き上がった。


 穴が塞がる。


 歪んでいた場所も、少しだけ形を取り戻す。


 外から入っていた冷たい風が止まった。


「完了です。」

「早いな。」

「魔法はたしかに便利です。」


 ベルは天井を見るより先に、小雪を見た。


「……削ってねぇな。」

「はい。」

「本当に?」

「はい。」

「よし。」


 そこでようやく安心したらしい。


 ベルは小さく息を吐いた。


 そして。


「くしゅっ。」


 小雪はベルを見る。


「ベル。」

「何だ。」

「かわいいくしゃみでした。」

「今そこか!?」

「記録。」

「するな!」


 しかし、ベルはかなり冷えている。


 服はぐっしょり濡れ、袖や裾から水がぽたぽた落ちていた。

 さらに厚手の上着も駄目。替えの服も駄目。予備の布まで雪解け水を吸っている。


 暖炉の前だけが、まだ温かい。


 小雪は判断した。


「脱いでください。」


 ベルが固まった。


「は?」

「濡れた服は体温を奪います。」

「いや、それはそうだが。」

「風邪をひきます。」

「いや、だから。」

「言わんこっちゃない。」

「それはまだ言うな!」

「実績があります。」

「あるけど!」


 ベルは濡れた袖を見た。


 水が垂れる。


 震えも、少し強くなってきた。


 小雪は黙って、先日干したばかりの厚い毛布を持ってきた。


「こちらを使ってください。」

「……。」

「早く。」

「……分かった。」


 ベルは顔を真っ赤にしながら、まず濡れた上着を脱いだ。

 水を含んだ布が重い音を立てて床へ落ちる。


 次に、シャツ。


 小雪は見ていた。


 じっと。


「見るな!」

「観測です。」

「見るな!」

「脱衣観測。」

「変な言葉を作るな!」

「ベルは、脱ぎがちです。」

「誰のせいだと思ってんだ!」

「今回は雪です。」

「そうだけど!」


 濡れたシャツまで脱いだベルは、上半身裸になった。


 肩が広い。

 胸板が厚い。

 腹部は引き締まっている。


 腕には作業でできた細かな傷があり、その下には鍛えられた筋肉の線がある。

 冷えたせいで肌は少し赤くなり、ところどころに残った水滴が暖炉の火を反射していた。


 小雪は瞬きをした。


「体がすごいです。」

「久しぶりに聞いたな!」

「冬でも筋肉は確認可能ですね。」

「確認するな!」

「胸筋、健在。」

「どこ見てんだ!」

「腹筋も。」

「だからどこ見てんだ!」

「ベル。」

「何だ!」

「以前より、よく見えます。」

「何がだ!」

「今日は湯気が少ないので。」

「比較するな!」


 ベルは慌てて毛布を腰へ巻き、さらにもう一枚を肩へ掛けた。


 それでも、火へ当たるためには身体をある程度出しておく必要がある。


 服がないからである。


 仕方ない。


 小雪はそう判断した。


「仕方ありません。」

「何が。」

「私が、筋肉を余すことなく観測することです。」

「仕方なくねぇ!」

「しかし、服がありません。」

「それはそうだが!」

「乾くまで観測可能です。」

「可能にするな!」


 ベルは暖炉の前で膝を抱えた。


 大きな身体。

 厚い毛布。

 濡れた金髪。

 赤い顔。

 震える肩。

 鍛えられた身体。


 小雪は首を傾げた。


「ベル。」

「今度は何だ。」

「寒いですか。」

「寒いに決まってんだろ。」

「温めますか。」


 ベルの震えが一瞬止まった。


「……何を。」

「ベルを。」

「言い方!」

「ベルは冷えています。」

「そうだけど!」

「ベルは補填されません。大事にする必要があります。」


 ベルは口を開いた。


 閉じた。


 何か言い返したそうだったが、結局何も出なかったらしい。


 小雪はもう一枚、毛布を持ってくるとベルの肩へ掛けた。


「……ありがとよ。」

「はい。」

「でも、見るな。」

「見ます。」

「なぜだ。」

「冷えていないか確認するためです。」

「目で分かるのか。」

「震えています。」

「見なくても分かるだろ。」

「肌の色。」

「見るな。」

「水滴。」

「見るな。」

「筋肉。」

「見るな!」


 ベルは毛布をぎゅっと握った。


 顔が赤い。

 寒さだけではない。


 小雪は暖炉のそばへ座った。


 ベルの正面。


 ベルが毛布をさらに引き上げる。


「なぜ正面に座る。」

「観測しやすいので。」

「するなって言ってる。」

「背中は冷えていませんか。」

「背中?」

「毛布の内側が濡れている可能性があります。」

「いや、たぶん平気だ。」

「確認します。」

「するな!」

「以前、私の手を確認しました。」

「場所が違う!」

「背中も手も身体です。」

「雑にまとめるな!」

「ベルは難しいです。」

「おまえが難しくしてるんだよ!」


 小雪は手を伸ばした。


 ベルは毛布ごと後ろへ下がる。


 けれど、すぐ後ろには暖炉があるので、ほとんど逃げられない。


「逃げないでください。」

「逃げるわ!」

「本当に冷えているかもしれません。」

「冷えててもいい!」

「よくありません。」

「よくなくても触るな!」


 小雪は少し考えた。


「では、自己申告してください。」

「冷えてません。」

「嘘です。」

「何で分かる。」

「震えています。」

「くそ。」

「背中。」


 ベルはしばらく黙った。


「……少し冷たい。」

「では。」

「待て。」

「はい。」


 ベルはかなり悩んだあと、毛布の端を持ち、背中側だけを少しずらした。できる限り前は隠そうとしている。


 小雪は、その背中を見た。


 広い。

 肩甲骨の線。

 きちんと鍛えられた背中。


 ところどころには、薄い傷跡もある。


 濡れた金髪の先から、一滴の水が落ちた。


 小雪は目で追った。


「追うな!」

「水滴が。」

「追うな!」

「背中もすごいです。」

「言うな!」

「背筋文明。」

「文明にするな!」


 小雪は布を手に取り、背中へ残っている水気を拭き始めた。


 ベルの身体が、びくりと跳ねた。


「冷たいですか。」

「いや。」

「では。」

「くすぐったい。」

「くすぐったい。」

「記録するな。」

「はい。」

「本当に?」

「たぶん。」

「信用ならねぇ。」


 小雪は丁寧に背中を拭いた。


 広い背中。

 肩の筋肉。

 肩甲骨の下へ続く線。

 濡れた髪。


 また一滴、水が落ちる。


 今度は、背骨の少し横をゆっくり伝った。


 小雪は見た。


 布は右手にある。

 水滴は近い。


 少し考えた。


 そして。


 人差し指で、すっと水滴を追った。


「ひゃわっ!」


 目の前の背中が、大きく跳ねた。


 ベルがものすごい勢いで振り返る。


「何すんだよ!」


 小雪は瞬きをした。


「髪から水滴が落ちたので、指で拭きました。」

「……布があるだろ。」

「はい。」

「なぜ、わざわざ指で拭く必要がある。」


 小雪は考えた。


 布と指を間違えたと言うべきだろうか。


「言い訳を誤りました。」


 しまった。


 胸の中に留めるべき言葉と、実際に口へ出す言葉が、見事に逆になった。


 ベルが小雪をじとりと睨む。


 しかし。


 耳も。

 頬も。


 全部赤い。


 まったく怖くない。


 かなり大きなチワワにしか見えなかった。


「おまえ。」

「はい。」

「俺で遊んでいいと思ってるだろ。」

「いいえ。これは、髪が濡れていたために発生した事故です。」

「事故。」

「はい。」

「指で背中をなぞったのが。」

「はい。」

「事故。」

「……今度は髪を拭きます。」

「逃げたな。」

「髪を拭きます。」

「逃げた。」

「ベル。」

「何だ。」

「背中は終わりました。髪は、いつも私も拭いているではありませんか。」


 ベルの耳がさらに赤くなった。


 ベル林檎耳。


 小雪は心の中だけで呟いた。


「……まあ。」


 ベルはしばらく警戒していたが、最後には諦めた。


「たしかにな。じゃあ、頼む。」

「はい。」


 小雪はベルの後ろへ回り、濡れた金髪へ布を当てた。


 ベルは毛布を抱え、暖炉の前で固まっている。


 大きな背中。

 赤い耳。

 濡れた髪。


 小雪はゆっくり水気を取っていった。


 外は雪。

 屋根は直った。


 部屋には濡れた服が何枚も吊るされている。


 ベルは脱ぎがち。

 背中は敏感。


 小雪は、それを今日の記録へ入れることにした。


「小雪。」

「はい。」

「今、ものすごく嫌な予感がした。」

「そうですか。」

「何考えてた。」

「記録事項です。」

「……怒る前に一応聞く。何だ。」

「ベル、脱ぎがち。背中は敏感。」

「書くな!」

「雪回脱ぎ。」

「回って言うな!」

「良い体。」

「変態的にするな!」

「感じやすい背中。」

「やめろ!」

「筋肉は冬でも確認可能。」

「絶対消せ!」


 小雪は髪を拭きながら少し笑った。


 ベルは真っ赤だった。


 寒さで震えているのか。

 恥ずかしさで震えているのか。


 少し判別が難しい。


 たぶん。

 両方である。


 しばらくすると、ベルの震えは少し収まった。


 濡れた服は暖炉の近くへ吊るしてある。


 小雪が魔法で一気に乾かそうとしたが、ベルはすぐに止めた。


「弱く使えねぇだろ。」

「今日はできます。」

「信用ならねぇ。」

「風魔法で。」

「天井が消し飛ぶ。」

「火魔法。」

「家が全焼する。」

「水魔法。」

「それは意味がねぇ。」

「難しいですね。」

「自然乾燥でいいんだよ。」


 結局、火と時間で乾かすことになった。


 ベルは毛布姿のまま暖炉の前へ座り、小雪はその横で、先ほど抜けた天井板の周囲を見上げた。


「雪の重みです。」

「見りゃ分かる。」

「この板は古いです。」

「ああ。」

「梁も少し歪んでいます。」

「補強が必要だな。」

「雪荷重文明。」

「そうだ。」

「雪は白いのに重い。」

「色は関係ねぇ。」

「見た目と重さは違います。」

「それは大事だな。」

「ベルも。」

「俺?」

「見た目は三下ですが、公爵家次男です。」

「言い方。」

「見た目と重さが不釣り合い。」

「……泣いていいか。」

「しかし、存在が重いです。」


 ベルが微妙な顔をした。


「何だ、その言い方。」

「世界最重要部品。」

「褒められてるのか、貶されてるのか、もう分からねぇ。」


 ベルは毛布の中で少し黙った。


 それから。


「……まあ。」

「はい。」

「お互いにとって、重い存在なら悪くねぇってことか。」


 ぼそり、と言った。


 一秒後。


 ベル自身の耳が、一気に赤くなる。


「いや!違う!いや、違わねぇけど!」

「はい。」

「その、存在が重いっていうのは、悪い意味じゃなくて!」

「分かりました。」

「本当に?」

「では記録します。」

「待て!」

「存在が重い。」

「そこだけ書くな!」

「お互いにとって。」

「もっと待て!」


 小雪は少し考えた。


「これは、大きく書きます。」

「やめろ!」


 部屋の空気は、少しずつ軽くなっていた。


 火の音。

 雪の静けさ。

 濡れた服の匂い。

 毛布にくるまったベル。


 つい先日。


 ベルは怒っていた。

 痛そうだった。

 怖がっていた。


 今日も怒っている。


 けれど。


 怒り方が違う。


「筋肉を見るな」と怒る。

「背中を触るな」と怒る。

「記録するな」と怒る。


 小雪は、それが少しだけ嬉しかった。


 昼が近づいても、服はまだ着られるほどには乾かなかった。


 ベルは仕方なく毛布姿のまま、今後の屋根の補強方法を考え始めた。

 暖炉の前へ座り、膝の上に板を置いて図を描いている。


 毛布姿で。

 真剣な顔で。


 小雪はじっと見た。


「ベル。」

「何だ。」

「その姿で屋根の構造を考えると、説得力が減ります。」

「姿は関係ねぇだろ!」

「ほぼ無構造ベル。」

「やめろ。」

「脱衣建築士。」

「何だ、それ!」

「ベル、脱ぎがち。」

「何かのタイトルみたいに言うな!」


 ベルは顔を赤くしながらも、板へ線を描いた。


「屋根そのものの傾きを変えるのは、大掛かりすぎる。まず梁を足す。それから、雪が溜まりやすい場所を下から落とせる道具を作る。」

「雪下ろし道具。」

「ああ。長い棒の先に板をつける。」

「屋根ほうき。」

「近い。」

「雪を追い出す棒。」

「それも近い。」

「退去勧告棒。」

「雪に勧告するな。」

「雪は居座ります。」

「だから棒で落とす。」

「強制退去。」

「物騒だが、合ってるな。」


 ベルは少し笑った。


 小雪も頷く。


 生活文明は。

 魔物退治より。

 ずっと平和である。


 屋根の雪を落とす。

 服を乾かす。

 火を燃やす。

 毛布を掛ける。

 ベルを温める。


 どれも。


 壊さない。


 小雪は、そのことを少しだけ考えた。


「ベル。」

「何だ。」

「今日は、魔法で直してよかったですか。」


 ベルが顔を上げた。


「屋根か。」

「はい。」

「ああ。助かった。」

「補填は使っていません。」

「見てた。」

「使う前に言いました。」

「聞いた。」

「私は、偉いですか。」


 ベルは少しだけ笑った。


「偉い。」

「はい。」

「……ちゃんと言ってくれて、助かった。」

「ベルが怒るので。」


 ベルの笑顔が少しだけ消えた。


「怒るからだけか。」


 小雪は考えた。


「ベルが、心配するので。」


 今度はベルが黙った。


 毛布を握っていた手が、少し緩む。


「……そうだな。」

「はい。」

「心配する。」

「はい。」

「だから、これからも言え。」

「はい。」


 小雪は頷いた。

 それで終わりだった。


 重くはしない。

 今日は雪である。


 そして。

 ベルは上半身裸である。


「ベル。」

「今度は何だ。」

「服は乾きましたか。」

「まだだ。」

「では、まだ観測可能ですね。」

「可能じゃねぇ!」

「毛布があるので、素っ裸よりは安全です。」

「素っ裸って言うな!」

「寒くないですか。」

「……それは、まあ、少し。」

「毛布を追加します。」

「これ以上くるまったら動けねぇ。」

「毛布だるま。」

「やめろ。」

「雪だるまではなく。」

「分かってる。」

「ベルだるま。」

「やめろって。」


 小雪は、もう一枚毛布を持ってきた。


 ベルは抵抗しようとした。


「くしゅっ。」


 小雪は毛布を掛けた。


「とてもかわいいです。」

「言うな!」

「毛布追加。」

「……頼む。」


 ベルは大人しくくるまった。


 大きな身体が、何枚もの毛布に包まれている。


 赤い耳だけが外へ出ていた。


「ベルだるま。」

「聞こえてる。」

「非常にかわいいです。」

「やめろ。」

「では、格好いいです。」


 ベルが固まった。


 小雪は首を傾げた。


「どちらがよいですか。」

「……どっちも今は言うな。」

「では、両方。」

「小雪。」

「はい。」

「俺は今、上半身裸で毛布にくるまって、屋根の雪で服を全滅させた男だぞ。」

「はい。」

「格好いい要素あるか?」

「あります。」

「どこに。」

「雪まみれになったあとも、すぐに屋根の構造を考えました。」

「……。」

「寒くても、私の魔法を確認しました。」

「……。」

「毛布でも、ベルです。」


 ベルは顔を伏せた。


 耳が赤い。


 毛布まで赤くなったように見えた。


「……それ。」

「はい。」

「一番刺さる。」

「痛いですか。」

「いや。」


 ベルは毛布の中で、ほんの少し笑った。


「温かい。」

「よかったです。」

「本当に、おまえは。」


 困ったような声だった。

 小雪も少しだけ笑った。




 午後になり、ようやく服が少し乾き始めると、小雪は火のそばで記録用紙を広げた。


 冬の屋根被害記録。


 一、雪は軽そうに見えて重い。

 二、屋根の傾きが浅いと、雪が居座る。

 三、梁が弱いと、天井板が落ちる。

 四、ベルの服も全滅する。

 五、ベル、脱ぎがち。

 六、雨、川、雪。三属性制覇。

 七、冬でも筋肉は確認可能。

 八、屋根修復には補填を使わない魔法で十分。

 九、ベルは補填されないので、濡れたら脱ぐ。

 十、背中は敏感。

 十一、拭かれる側のベルは赤い。

 十二、ベルは毛布でもベル。


「四から十一を消せ!」


 ベルが叫んだ。


「それでは、かなり減ります。」

「おまえのせいだ!」

「重要です。」

「重要じゃねぇ!」

「再発傾向。」

「何がだ!」

「ベルは、川で脱ぎ、雨で脱ぎ、炉の前でも汗で脱ぎ、雪でもやはり脱ぎました。」

「全部事故だ!」

「ふむ。水属性が多いですね。」

「水属性って何だ!」

「雨。川。汗。雪。」

「全部水だろ!」

「はい。水属性完全制覇ですね。おめでとうございます。」

「やめろ!」


 小雪は五から十一を小さくした。


 消しはしなかった。


 ベルは毛布へ顔を半分埋めた。


「小さくすればいいと思ってるだろ。」

「はい。」

「悪い学習だ。」

「ベルが紙を返してくれます。」

「くそ。」


 小雪は少し笑った。


 ベルも、呆れたように息を吐いた。




 その日の夕方には、服もようやく乾いた。


 屋根は応急修理され、明日以降、きちんと梁を足すことになった。

 雪下ろし用の長い棒――小雪の中では退去勧告棒――の設計もだいたい決まった。


 ベルはようやく服を着た。


 小雪は少し残念だった。


「何で残念そうなんだ。」

「観測が終了しました。」

「それはよかった。」

「冬でも筋肉は確認可能でした。」

「忘れろ。」

「記録しました。」

「消せ。」

「小さくしました。」

「消せ。」

「だめです。」

「なぜだ。」

「ベルが脱ぎがちなことは、重要な傾向です。」

「重要じゃねぇ!」

「また濡れるかもしれません。」

「濡れねぇようにする!」


 小雪は少し考えた。


「……できるでしょうか。」

「そこで不安そうな顔をするな。」

「ベルは事故に遭いやすいです。」

「おまえといるからだろ。」

「私のせいで、大変ですか。」

「いや。」


 ベルは言いかけて、止まった。


 少しだけ顔を赤くした。


「……おまえといると、退屈はしねぇ。」

「褒めていますか。」

「たぶんな。」

「では、記録します。」

「するな。」

「はい。」


 小雪は記録用紙を閉じた。


 今日は、もう十分書いた。


 雪は白いのに重い。

 屋根は雪で落ちる。

 補填を使わない魔法もある。

 ベルは雨でも、川でも、雪でも濡れる。

 ベル、脱ぎがち。

 背中は敏感。

 冬でも筋肉は確認可能。

 ベルが冷えるのは嫌。

 ベルは毛布でもベル。


 それだけ覚えておけば、十分である。


 火の前で、ベルは少し疲れた顔をしていた。


 けれど。

 先日のような痛い顔ではない。


 赤くなって。

 怒って。

 叫んで。

 くしゃみをして。

 毛布にくるまっている。


 小雪はそれを見て、胸の奥が少し温かくなった。


「ベル。」

「何だ。」

「明日、屋根を直しますか。」

「ああ。」

「退去勧告棒。」

「雪下ろし棒。」

「梁。」

「足す。」

「服置き場。」

「移動させる。」

「予備服。」

「増やす。」


 小雪は頷いた。


「脱ぎがち対策。」

「それは違う。」

「必要です。」

「冬対策だ。」

「冬の脱ぎがち対策。」

「混ぜるな!」


 小雪は少し笑った。

 ベルは頭を抱えた。


 外では、雪が静かに降り続いている。


 山の家は、火で温かい。


 屋根は少し心配だが、明日直せる。


 ベルの服も、今は乾いている。


 冬の日は忙しい。


 けれど。

 悪くない。


 外の音は雪に包まれ、ほとんど聞こえなかった。


 代わりに。


 ベルのため息と。

 小雪の小さな笑い声が。


 山の家の中に残っていた。

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