第三十五話 勇者さま、魔物を討つ
朝の山は、白かった。
まだ雪は降っていない。それでも夜のあいだに降りた霜が、草の先や枯れ葉の縁、山道からわずかに顔を出した岩まで薄く染めている。
足を置くたびに、ぱきりと乾いた音がした。乾いているのに、どこか冷たい音だった。
小雪は厚い外套の袖へ指を入れ、その奥にある鈴へ触れた。
ちりん。
小さな音だったが、少し前を歩いていたベルはすぐに振り返った。
「鳴らしたか。」
「確認です。」
「緊急じゃねぇのに鳴らすな。」
「今日は、緊急になる可能性があります。」
「……それは、まあ。」
ベルは言い返しかけたものの、今回は小雪の言葉にも一理あると思ったのか、そのまま口を閉じた。
腰には短剣。背にはいつもより少し大きな荷物を背負っている。
縄、布、火打ち道具、薬、干し肉、水筒、小さな手斧。道を見失わないために木へ結ぶ布切れまで用意してあった。
騎士の遠征装備ほど大げさではないが、いつもの山仕事よりは多い。
ベルは魔法を使えない。
だから、必要になるかもしれないものを考え、自分で持つ。
火を起こすもの。怪我をした時に使う布。道を失わないための印。誰かが動けなくなった時の縄。
小雪は、その背中を見た。
「ベルは、準備が上手ですね。」
「今言うな。」
「なぜですか。」
「褒められると気が抜ける。」
「危険です。」
「そうだ。」
「では、後で言います。」
「言うのは決定なのか。」
「はい。」
「……まあ、いい。」
ベルは小さく息を吐くと、再び山道の先へ視線を戻した。
目指しているのは、北の岩場だった。
そこには、家ほどの大きさの牙猪がいる。
魔素の光を毛の隙間から漏らし、木をへし折り、岩場を荒らしていた。
村人たちは昨夜のうちに南側の集会所へ移り、狩人のダンたちも北の山へは近づかないよう、小雪が指示している。
今、山の奥へ入っているのは、小雪とベルだけだった。
「確認するぞ。」
歩きながら、ベルが言った。
「はい。」
「俺は後ろ。」
「はい。」
「おまえも前に出すぎない。」
「はい。」
「絶対に無茶しない。」
「善処します。」
「それが一番信用ならねぇ。」
「ベルもです。」
「俺は、自分が弱いのを知ってる。」
「ベルは弱くありません。」
ベルの足が一瞬止まった。
「……今言うな。」
「後で言う予定でしたが、今も必要でした。」
「必要の基準がおかしい。」
「士気です。」
「士気は上がったけど、心臓が下がった。」
「心臓は下がるのですか。」
「気持ちの話だ。」
小雪は頷いた。
ベルの心臓は難しい。
初心なハートで、補填されず、上がったり下がったりする。今日は特に大事にしなければならない。
記録したかったが、紙は持ってきていない。
代わりに、もう一度だけ袖の中の鈴へ触れた。
今度は鳴らさなかった。
まだ、その必要はない。
山道を進むにつれ、空気は少しずつ変わっていった。
冷たいだけではない。
重い。
木々の間に漂う光の粒が、朝日に照らされた霜ではないことは、すぐに分かった。
魔素だった。
普通なら、魔法を使ったあとに少しだけ空気へ散り、やがて周囲へ溶けて見えなくなるもの。
それが今は、木の枝や岩陰に薄い染みのように残っている。しかも均一ではない。濁り、流れ、ぶつかり合いながら、不規則に滞留していた。
小雪は足を止めた。
「魔素が乱れています。」
ベルも周囲を見回した。
「俺には、少し光ってるくらいにしか見えねぇ。」
「それで十分です。」
「危ないのか。」
「はい。」
「村へ下りそうか?」
「この状態なら、いつそうなってもおかしくありません。」
「くそ。」
ベルが短く吐き捨てた。
小雪は道の脇へしゃがみ込み、折れた枝を拾った。
断面が黒く焼けている。
牙や身体の力で折られたのではない。
内側へ異常な量の魔素を押し込まれ、木そのものが耐えられず裂けたような跡だった。
「普通の牙猪ではありませんね。」
「凶暴化か。」
ベルは小雪の手元を見ながら、少し考えた。
「魔王が復活した時、魔物は凶暴化すると聞いたことがある。でも、今回は違うんだよな?」
「……はい。」
「原因は同じなのか。」
「分かりません。」
「おまえ。」
ベルの眉が寄った。
「何か知ってるのか。」
「観測中です。」
小雪は枝を地面へ戻し、北の岩場へ意識を向けた。
その時、遠くから低い音が響いた。
地鳴りにも似ていた。
木々が震え、枝に残っていた霜が一斉に白く落ちる。
ベルが反射的に半歩前へ出かけたので、小雪は顔を向けないまま、その袖を掴んだ。
「前に出ないでください。」
「まだ出てねぇ。」
「出かけました。」
「何で分かるんだよ。」
「ベルだからです。」
「理由になってるようで、なってねぇ。」
「ベルは前に出ます。」
「……出るかもな。」
「出ないでください。」
小雪は袖から手を離した。
ベルは唇を引き結び、少し考えたあとで頷いた。
「分かった。」
「はい。」
「でも、おまえが危なかったら出る。」
「出ないでください。」
「それは無理だ。」
小雪はベルを見る。
ベルも、まっすぐ小雪を見ていた。
耳は赤くない。
いつもの照れた顔でもない。
王宮で第一王子を前にしていた時とも、水車や工具を前にしている時とも違った。
怖いのに。
引かない顔だった。
小雪は少し困った。
「ベル。」
「何だ。」
「あなたは、補填されません。」
「知ってる。」
「死ぬかもしれません。」
「分かってる。」
「なら。」
「だから後ろにいる。」
ベルはそう言ったあと、背負っている荷物の紐を直した。
「でも、何もしねぇとは言ってねぇ。」
小雪は黙った。
「俺は魔法を使えない。家ほどある魔物も倒せねぇし、おまえみたいには戦えない。でも、一緒にいる。俺にできることがあったら、全部やる。それだけだ。」
とてもベルらしい言葉だった。
できないことを数えるのではない。
今の自分にできることを探し、見つけたものは最後までやる。
ベルがずっとしてきたこと、そのものだった。
それが今は、小雪へ向けられている。
「分かりました。」
小雪は静かに頷いた。
「では、頼みます。」
ベルが少しだけ目を見開いた。
「……任された。」
二人は再び、北へ向かって歩き始めた。
岩場へ着く前に、森が途切れていた。
正確には、途切れていたのではない。
壊されていた。
大きな木が何本も倒れ、幹は途中からへし折られている。根ごと地面から引き剥がされた木もあり、岩肌には巨大な刃物を何度も叩きつけたような深い跡が残っていた。
牙猪には爪がない。
魔素で異常に強化された牙が、岩そのものを削ったのだろう。
地面には、大きな足跡があった。
小雪の身体なら、その中へすっぽり入ってしまいそうなほど大きい。
隣で、ベルが息を呑んだ。
「……家ほどって、誇張じゃなかったのかよ。」
「はい。」
小雪は岩場の向こうを見た。
それは、そこにいた。
牙猪。
ただし、小雪が知っている牙猪とは、あまりにも大きさが違う。
肩の高さだけで、小さな家ほどある。黒褐色の毛は逆立ち、その隙間から青白い光が不規則に漏れていた。左右へ湾曲した牙は、小雪の身体より長い。
巨体がわずかに動くだけで、その先が霜の降りた岩を削り、ぎりぎりと耳障りな音を立てていた。
目は赤い。
怒っているのではない。
獲物を見て興奮しているのでもない。
もっと別のものだった。
身体の中へ押し込められた魔素が、行き場を失ったまま暴れ続けている。
その苦痛に、身体も意識も内側から掻き回されているように見えた。
牙猪が顔を上げた。
小雪たちを見つける。
空気が震えた。
低い唸りが、腹の底まで響いてくる。
ベルが息を止めたのが分かった。
小雪は一歩前へ出た。
「ベル。」
「分かってる。」
「岩の後ろへ。」
「分かってる。」
「絶対に前へ出ないでください。」
「……分かってる。」
ベルが、倒れた大木と大きな岩が重なる場所まで下がる。
それを確認してから、小雪は外套を解き、足元へ落とした。
束ねていた白い髪もほどく。
冬の風を受け、白い髪が大きく広がった。
小雪は右手を開いた。
胸の奥にある、わずかな熱へ意識を向ける。
作り替えられた体に内蔵された魔力。
それを、全身に血管のように張り巡らされた魔回路へ流す。
小雪自身が持っている魔力だけで、家ほどの魔物を止められるわけではない。その必要もなかった。
体内の魔力は、道を開く。
魔回路を走り、身体の外へ意思を伝える。
すると、その道へ引かれるように、大気中の魔素が集まり始めた。
青白い粒。
銀色の光。
霜とも雪とも違うものが、小雪の周囲へ少しずつ集まってくる。
小さな魔法なら、それだけでいい。
火を灯す。
水を浮かべる。
風を起こす。
集めた魔素へ形を与え、外へ出す。
けれど、大きな力ほど難しくなる。
集める魔素が増えれば増えるほど、ほんの少しの迷いで形が崩れる。方向を誤れば、魔法は狙った場所へ届かない。固定できなければ、ただの暴力的な力として周囲へ散ってしまう。
だから、人はイメージを使う。
最も強く。
最も正確に。
自分の中で、決して揺らがない形を。
画家ならば、色と層を重ねる。
剣士ならば、一つの技へ全てを収束させる。
薬を作る者ならば、分量と反応を組み合わせる。
人によって、最も力を固定しやすい形は違う。
小雪にも、一つだけあった。
誰も裁かないなら。
自分が裁くしかない。
世界の真実を知った日から。
それだけは。
決して揺らがなかった。
小雪は静かに息を吸った。
「開廷。」
周囲へ集まっていた魔素が、一斉に止まった。
散っていた光が、それぞれ決められた位置へ収まり、空間そのものに境界が生まれる。
「――審理を開始する。」
◇
牙猪が吠えた。
音が山を叩き、岩陰にいるベルのところまで冷たい空気の塊がぶつかってくる。思わず腕で顔を庇った次の瞬間、牙猪が走った。
家ほどの巨体が、小雪へ向かって。
地面が割れ、岩が跳ね、倒れていた木が蹴り上げられる。山全体が揺れたように感じた。
その正面に、小雪は立っていた。
細い。
小さい。
白い髪。
薄い肩。
あまりにも頼りなく見える。
けれど、小雪は逃げなかった。
戦う構えすら取らない。
ただ、そこに立っている。
「証拠保全――封鎖。」
静かな声だった。
その瞬間、小雪の前方にある空気が歪んだ。
透明な何かが、巨大な空間を切り取る。
牙猪は、そこへ真正面から激突した。
轟音が山を揺らした。
地面が跳ね、岩が砕け、霜が白く舞い上がる。
牙猪は、止まっていた。
「……嘘だろ。」
ベルの口から、勝手に声が漏れた。
家ほどもある魔物の突進を、小雪は止めている。
手で押さえているわけではない。
杖もない。
巨大な壁も見えない。
ただ、小雪の指がわずかに開いているだけだった。
牙猪は透明な境界へ牙を押しつけ、巨体を捩る。毛の隙間から青白い魔素がさらに噴き出し、小雪の作った境界には白いひびのような光が走った。
「魔素過剰。体内循環不全。外部刺激への過反応。」
小雪の声は、戦闘中とは思えないほど平静だった。
「観測してる場合かよ……!」
ベルは思わず叫んだ。
聞こえたのかどうか、小雪は振り返らない。
牙猪の身体から、さらに強い光が溢れた。
境界が割れる。
巨体が横へ跳ねた。
その大きさからは考えられないほど速い。
小雪の右側へ回り込む。
小雪も一歩下がった。
けれど。
「小雪、左!」
ベルが叫んだ。
小雪は考えなかった。
すぐに左へ動いた。
直後、さきほどまで立っていた場所へ、牙猪に蹴り上げられた巨大な岩が落ちた。
轟音とともに、土と石が飛び散る。
小雪は一瞬だけ、岩陰のベルを見た。
「ありがとうございます。」
「今はいい!」
「はい。」
小雪は前へ向き直った。
ベルの心臓は壊れそうだった。
それでも。
少しだけ。
役に立てた。
牙猪はもう一度地面を蹴った。
今度は、まっすぐ小雪へ来る。
「身柄拘束。」
地面へ白銀の線が走った。
一本。
二本。
岩場を這うように広がり、そのまま宙へ跳ね上がる。
牙猪の前脚へ。
後ろ脚へ。
胴へ。
何本もの光が巻きついた。
巨体が傾く。
牙猪が暴れた。
光の線が軋み、一本が切れる。
けれど、切れた場所へすぐ次の線が生まれる。
また切れる。
また縛る。
ベルは、息をするのを忘れた。
綺麗だった。
そう思ってしまった。
魔物が暴れている。
岩が砕けている。
木が折れている。
それでも、白い髪の勇者が銀色の光で巨獣を縛る姿は、怖いほど美しかった。
小雪は右手を下げ、左手を上げた。
周囲の魔素が、その指先へ集まり始める。
さきほどまでとは違う。
密度が。
量が。
違う。
霜が溶けた。
溶けた水が一瞬で蒸発し、白い靄へ変わる。
冷たい空気の中なのに、肌が焼けるようだった。
小雪の指先に、小さな白い星が生まれていく。
牙猪も危険を感じたのだろう。
凄まじい力で身体を捩った。
光の拘束が一本、また一本と切れていく。
ベルの喉が鳴った。
あれは。
まずい。
理屈ではない。
そう思った。
魔物ではない。
小雪の方が。
小雪の指先に集まっているものが、まずい。
牙猪が最後の拘束を引きちぎった。
巨体が小雪へ向かう。
その瞬間。
「審理終結。」
小雪が言った。
声は変わらない。
静かだった。
「主文――有罪。」
ベルは見た。
小雪の左手が。
光った。
違う。
光ったのではない。
指先から、輪郭がほどけた。
爪。
皮膚。
指。
そこにあったものが、白い粒になっていく。
血は出ない。
それが、余計に恐ろしかった。
「な……。」
ベルの声が出ない。
小雪の指先だったものが、崩れる。
光になり、そのまま小雪が作った白い星へ吸い込まれていく。
先日の落ち葉。
昼の火。
薪。
燃料。
使い方次第。
ベルの頭の中へ、意味の分からない言葉が一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。
小雪は眉一つ動かさなかった。
「刑を執行する。」
白い星が、限界まで小さくなる。
「――沈黙。」
光が放たれた。
音はなかった。
まず、世界から音が消えた。
風。
牙猪の唸り。
木のざわめき。
ベル自身の呼吸。
何も聞こえない。
次に、一本の白い線が山を貫いた。
細い。
あまりにも細い光だった。
けれど、触れたものは抵抗する間もなく消えた。
牙猪の右肩から胴にかけて、巨大な穴が開く。
肉が飛んだのではない。
骨が砕けたのでもない。
そこだけ、なくなっていた。
背後の岩壁にも同じ形の穴が開き、さらに奥の木が一本、二本と、ゆっくり倒れた。
そして。
遅れて。
音が戻った。
轟音。
牙猪の悲鳴。
崩れる岩。
落ちる土。
ベルの耳が、ようやく痛んだ。
牙猪の巨体が傾き、地面へ倒れる。
山が揺れた。
大量の霜が枝から落ち、白い粉のように空気へ舞う。
小雪は立っている。
左手だけが、まだ白く光っていた。
「小雪!」
ベルは岩陰から飛び出した。
「まだです。」
小雪の声が鋭くなる。
ベルは足を止めた。
倒れた牙猪の身体が、びくりと動いた。
赤い目が、まだ消えていない。
傷口から漏れる魔素が急速に膨らみ、身体を失ったことで内部に溜まっていたものが、一気に外へ出ようとしている。
「近づかないでください。」
小雪は右手を開いた。
「魔素流出を確認。」
青白い光が、牙猪の巨体を包み始める。
「保全処分――凍結。」
今度の光は激しくなかった。
雪のような白い粒が、静かに落ちていく。
牙猪の身体へ触れる。
毛の隙間から漏れていた青白い魔素が、一つずつ止まっていく。
荒れていた毛並みが寝て、赤い目の光が薄れ、巨体の震えが消えた。
静かだった。
今度こそ。
牙猪は動かなかった。
小雪は、ゆっくり手を下ろした。
山へ、朝の音が戻ってきた。
風。
遠い鳥。
木々のざわめき。
ベルは、しばらく動けなかった。
強いことは知っていた。
魔王を討った勇者なのだから。
世界を滅ぼせると言った。
王が恐れていた。
初めて会った日も。
魔物を簡単に葬った。
知っていた。
はずだった。
けれど。
知らなかった。
ベルよりずっと小さな身体で、家ほどもある魔物を止めた。
縛った。
観測した。
裁いた。
そして。
自分を。
使った。
美しかった。
圧倒的だった。
怖かった。
魔物ではない。
小雪の戦い方が。
ベルは、ようやく足を動かした。
小雪は倒れた牙猪へ近づき、少し離れた場所へ膝をついていた。残っている魔素の流れを見ているらしい。
「やはり、濁りがあります。」
声はいつもと変わらない。
ベルは、そのそばまで歩いた。
「小雪。」
「はい。」
「手。」
小雪は自分の左手を見る。
ベルも見た。
手はある。
指も。
爪も。
手首も。
全て、ある。
小雪は軽く指を曲げた。
「動きます。」
「そういう問題じゃねぇ。」
「感覚もあります。」
「そういう問題でもねぇ。」
「では、何ですか。」
ベルは言葉に詰まった。
何。
何と言えばいい。
怪我ではない。
傷もない。
血も出ていない。
小雪の手は、そこにある。
けれど。
ベルは見た。
さきほど。
確かに。
小雪の指が、なくなった。
崩れていった。
光になった。
魔法へ入った。
そして、今は戻っている。
戻ったように見える。
「今の。」
ベルの声が掠れた。
「今の、何だ。」
「魔法です。」
「違う。」
ベルは小雪を見た。
「おまえ、何を使った。」
小雪は少し黙った。
その沈黙で、ベルは何かに触れたと分かった。
それでも、引けなかった。
「小雪。」
「はい。」
「何を使った。」
小雪は倒れた牙猪から視線を外し、ベルを見上げた。
冬の朝の光の中で、白い髪が揺れる。
勝った喜びはない。
恐怖も。
興奮も。
ない。
ただ、観測を終えた人の顔だった。
「私です。」
ベルの呼吸が止まった。
「……は?」
「私を、少し使いました。」
「少し。」
「はい。」
「今のを。」
ベルの声が震えた。
「少しって言うのか。」
「はい。」
ベルは何かを言おうとした。
けれど、言葉が出ない。
怒っているのか。
怖いのか。
悲しいのか。
自分でも分からない。
小雪は左手を、もう一度動かした。
「もう補填されています。問題ありません。」
その言葉で、ベルの中の何かが音を立てて冷えた。
補填。
また、それだ。
補填される。
だから問題ない。
トカゲのしっぽ。
同じしっぽではない。
落ち葉。
元の木だけに戻るわけではない。
薪。
燃料。
炎。
使い方次第。
今まで聞いた言葉が、ばらばらのままベルの中へ戻ってくる。
まだ、つながらない。
けれど。
何かが。
確実におかしい。
ベルは無意識に、小雪の左手を掴んでいた。
小雪が少し目を瞬かせる。
「ベル。」
「冷たい。」
「朝ですから。」
「違う。」
ベルの手は震えていた。
小雪の手は冷たい。
けれど、それだけではなかった。
昨日、火の前で包んだ手。
その前の日、川辺で温めた手。
同じ形。
同じ指。
なのに。
何かが、違うような気がする。
「痛くないのか。」
「はい。」
「本当に?」
「……はい。」
「嘘じゃねぇな。」
「今は、痛みはありません。」
「今はって何だよ。」
小雪は答えなかった。
ベルは、その手を離せなかった。
離したら。
また何かが白い粒になって。
どこかへ消えてしまいそうだった。
「小雪。」
「はい。」
「あとで説明しろ。」
「必要ですか。」
「必要だ。」
「あなたは知らなくても――」
「必要だ。」
ベルの声が強くなった。
小雪は黙る。
「もう分かってるだろ。おまえも。」
「……。」
「俺は、絶対に聞く。」
小雪は少しだけ目を伏せた。
「……分かりました。」
「本当に?」
「はい。」
「逃げるなよ。」
「逃げません。」
少し間を置いて、小雪は言った。
「帰ったら、説明します。」
「今じゃねぇのか。」
「ここは寒いです。」
「おまえがそれを言うのかよ。」
「ベルが冷えますから。」
ベルは言葉を失った。
自分の身体を魔法へ使った直後に。
小雪は、ベルが冷えることを気にしている。
腹が立つ。
悲しい。
苦しい。
訳が分からない。
「……そうだな。」
ベルは、かろうじて言った。
「帰るぞ。」
「はい。」
「外套。」
「落としました。」
「拾う。」
「このままでも動けます。」
「着ろ。」
「……はい。」
ベルは小雪の外套を拾い、霜と土を払った。
小雪の肩へ掛ける。
手つきが、少し乱暴になった。
「ベル。」
「何だ。」
「怒っていますか。」
「怒ってる。」
「私に。」
「ああ。」
「魔物ではなく。」
「魔物にもだ。」
「両方。」
「そうだ。」
「相変わらず器用ですね。」
「今は黙れ。」
これ以上話せば、感情に任せて、目の前の小さな身体を責める言葉が出てしまいそうだった。
麓へ戻ると、ダンたちがすぐに駆け寄ってきた。
「どうだった!」
「討伐しました。」
小雪が答える。
村人たちは、一斉に息を吐いた。
安堵。
恐怖。
畏敬。
さまざまな感情が、顔に浮かぶ。
「あれを、もう……?」
「はい。」
「怪我は。」
「ありません。」
小雪はそう言った。
ベルは隣で何も言わなかった。
怪我はない。
そう見える。
けれど。
それは、本当なのか。
もうベルには分からなかった。
ダンは深く頭を下げた。
「助かった。本当に助かった。あれが村まで下りてきてたら、終わってた。」
「はい。」
「勇者さまは、やっぱりすげぇな。」
小雪は何も言わなかった。
村人たちは小雪を見る。
感謝。
畏怖。
守ってくれた人を見る目。
そして同時に。
自分たちとは違う、遠い何かを見る目。
小雪は、慣れているようだった。
ベルは、それが嫌だった。
とても。
「帰るぞ。」
「……はい。」
ベルはダンへ向き直った。
「北側の確認は、今日はやめてください。罠も明日以降にする。魔素の光が残ってる場所には近づかないでください。」
それから、小雪を見る。
「それで合ってるか。」
「はい。」
「よし。」
ベルは小雪の手を引いた。
小雪は少し驚いた顔をした。
けれど。
抵抗しなかった。
後ろから。
村人たちの視線がついてくる。
ベルは振り返らなかった。
小雪も、振り返らなかった。
山の家へ戻るまで、二人はほとんど話さなかった。
やがて、遠くから水車の音が聞こえてきた。
その瞬間、小雪が少しだけ足を止めた。
ベルも止まる。
「どうした。」
「戻りました。」
「ああ。」
「水車の音です。」
「ああ。」
「安心しますか。」
ベルは少し黙った。
「少しな。」
「私もです。」
ベルは小雪を見る。
白い髪。
細い肩。
外套。
左手。
その手を、ベルはまだ掴んでいた。
離していなかったことに、今さら気づいた。
けれど。
離さなかった。
「小雪。」
「はい。」
「帰ったら火を入れる。」
「はい。」
「飯も食う。」
「はい。」
「それから説明しろ。」
「はい。」
「逃げるなよ。」
「逃げません。」
「本当に?」
「はい。」
小雪は少し首を傾げた。
「ベル。」
「何だ。」
「手を離しませんか。」
ベルは、小雪の左手を見る。
白い。
細い。
いつもの手と、何も変わらないように見える。
「痛いか。」
「痛くありません。」
「なら。」
ベルは前を向いた。
「離さねぇ。」
「なぜですか。」
「離したくねぇからだ。」
小雪は瞬きをした。
ベルは顔を背けた。
「……あと、冷たい。」
「私の手が。」
「ああ。」
「温めますか。」
「俺が温めてる。」
「そうでした。」
「そうだ。」
◇
ベルが怒っていることは分かった。
けれど、横を歩くベルの歩幅はいつもと同じだった。
小雪へ合わせる。
いつもの歩幅。
小雪は少しだけ、握られた手を見る。
ベルの手は温かい。
自分の左手は冷たい。
けれど、少しずつ温まっている。
補填された手。
引き離す瞬間には、痛みがある。
けれど、その痛みはもう消えている。
新しいものも、すでに身体へ馴染んでいる。
同じ形の手。
同じように動く指。
小雪には、そう見える。
ベルにも、同じように見えているのではないのか。
小雪は考えようとして、やめた。
ベルが掴んでいる。
今は、それでいい。
観測は、あとでいい。
山の家へ戻ると、ベルはすぐに火を起こした。
薪へ火が移り、部屋が少しずつ温まる。
小雪は椅子へ座らされ、外套を脱がされ、昨日干したばかりの厚い毛布まで掛けられた。
「動けます。」
「座ってろ。」
「はい。」
「手。」
「はい。」
小雪は左手を出した。
ベルは、その手を両手で包んだ。
火の前で。
昨日と同じように。
けれど。
昨日とは違う。
ベルの顔は、笑っていない。
小雪はベルを見る。
「ベル。」
「何だ。」
「怒っていますか。」
「怒ってる。」
「温かいですか。」
ベルは少しだけ顔を歪めた。
「今は……痛い。」
「初心なハートが。」
「今日は。」
ベルは小雪の手を包んだまま、低く言った。
「もう、そういうのはやめてくれ。」
小雪は黙った。
「おまえだって、本当は分かってるだろ。」
ベルの指へ、少しだけ力が入る。
「俺が、何に怒ってるか。」
火が鳴った。
外は、冬の入り口。
山の奥には、倒れた巨大な魔物。
空気には、まだ少しだけ魔素の濁りが残っている。
小雪は、それを観測しなければならない。
原因を調べなければならない。
けれど今は、ベルが手を離さない。
温かい。
少し。
痛いほど。
温かい。
ベルが顔を上げた。
「説明しろ。」
小雪は、静かに頷いた。
「はい。」
火の音が、山の家を満たしていた。




