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第三十四話 冬支度と魔物の気配

 冬が近づいていた。


 朝の空気には、もう秋の名残がほとんどない。


 夜のあいだに冷えた窓は朝になるとうっすら白く曇り、外へ出れば指先がすぐに冷たくなる。

 川辺の草も霜で白くなり始め、水車の音まで、夏より少し硬く澄んで聞こえるようになっていた。


 小雪は窓辺に立ち、白く曇った硝子を指でなぞった。


 一本の透明な線ができ、その向こうに薄く白んだ庭が見える。しかし、しばらく眺めていると、そこにもまた少しずつ曇りが戻ってきた。


「窓が白いです。」

「寒いからな。」


 ベルは台所の近くで、すでに割ってある薪をさらに細くしていた。


 火を起こす時に使いやすい大きさへ分けているらしく、手を動かすたびに、ぱき、と乾いた音が響く。


「雪ですか?」

「まだ雪じゃねぇよ。内側は結露だな。もっと冷えれば、外には霜もつく。」

「冬の手前。」

「もう半分くらい入ってる気もするけどな。」

「冬の玄関?」

「まあ、そんなところだ。」


 小雪はもう一度、窓の向こうを見た。


 冬の玄関。


 ならば、扉を開ける前に準備が必要なのだろう。


「今日は水車ですか?」

「いや。今日は冬支度だ。」

「冬支度文明。」

「そうだな。」

「科学は休みですか。」

「生活も科学で、文明だろ。」


 ベルは薪を置くと立ち上がり、改めて部屋の中を見回した。


「この家、とにかく隙間が多いんだよ。冬になったら、そこから冷たい風が入ってくる。」

「風魔法。」

「違う。自然の風だ。」

「自然の風は、勝手に家へ入ってきます。」

「だから止める。」

「停止文明。」


 小雪が言うと、ベルは少し考えてから頷いた。


「そうだな。冬に備えて、風も止める。」


 小雪は納得した。水車式ドリルを止めることも、革紐の張りを緩めて力を逃がすことも、冬の冷たい風を家の外で止めることも、全て同じではない。


 それでも、必要な時に必要なものを止めるという意味では、どこか似ている気がした。


「冬の停止文明。」

「それはいいな。」

「久しぶりに名前を褒められました。」

「名前だけで喜ぶな。」


 ベルは、昨日までに用意していたらしい材料を床へ並べた。


 古い布、麻袋、薄い板、乾かした草、釘、木槌。


 窓の隙間や扉の下、床板の小さな割れ、壁の穴、屋根裏へ通じる冷気の道まで、一つずつ調べて塞いでいくらしい。


「この家は、冬を越せますか。」

「越せるようにする。」

「今のままでは難しいですか。」

「おまえが来るまで、長いことまともに人が住んでなかったんだろ。雨漏りもしたし、壁も傷んでる。少しずつ直さねぇとな。」

「直す文明。」

「それも生活文明だ。」

「ベルは、たくさん文明を持っていますね。」


 ベルの手が止まった。


「……また急に、そういうことを言う。」

「事実です。」

「事実でも刺さる。」

「痛いですか。」

「今日は……少し温かい。」

「火ですか。」

「違う。」

「では、初心なハート。」

「朝からやめろ。」


 耳を赤くしたベルは、隙間を埋めるための布を持ち上げた。


「まず窓だ。」

「はい。」

「手は冷えてねぇか。」

「動きます。」

「それはもう聞いてねぇ。」

「少し冷たいです。」

「手袋は。」

「細かい作業がしにくいです。」

「今日は細かい方は俺がやる。おまえは布を押さえてろ。」

「はい。」


 二人は窓の下へ並んだ。小雪が隙間へ布を押し込み、その上からベルが細い板を当てる。


 作業のためである。


 けれど、近い。


 小雪のすぐ横にベルの肩があり、少し顔を上げれば、その横顔もよく見えた。


「今日は軸がありません。」

「何の話だ。」

「前は、軸を見ろと言われました。」

「ああ……。」


 ベルは一瞬、遠い目をした。


「今日は窓を見ろ。」

「はい。」


 小雪は素直に窓へ視線を戻した。


 しかし、窓を見れば、その近くにベルの手もある。


 板を押さえる指、釘を摘まむ指、小さな隙間の広さを確かめる親指が、どうしても視界へ入った。


「小雪。」

「はい。」

「俺の手を見てるな。」

「窓の近くにあります。」

「窓を見ろ。」

「ベルの手も、冬支度文明の一部です。」

「だから俺を部品にするな。」

「最重要部品。」

「やめろ。」

「敬語。」

「やめてください。」

「はい。」


 釘を打つ音が、静かな部屋へ響いた。


 とん、とん、とん。


 窓の下にあった細い隙間が少しずつ塞がり、さきほどまで足元を撫でていた冷たい風が弱くなる。


「止まりました。」

「完全じゃねぇけどな。」

「でも、減りました。」

「そうだな。」


 小雪は窓へ手を近づけた。


 冷気はまだある。しかし、確かに先ほどより弱い。


「逃げる熱を減らす。」


 そう言うと、ベルが少し笑った。


「分かってきたな。」

「はい。」

「家も機械も、似てるところはある。熱が逃げれば寒くなるし、力が逃げすぎれば動きが悪くなる。」

「逃がしたい時もあります。」

「そうだ。止める時は逃がす。温めたい時は、なるべく逃がさない。」

「難しいです。」

「全部、ほどほどだ。」

「ほどほど文明。」

「なんか便利な言葉になってきたな。」


 作業を終えた窓のそばへ、もう一度手を伸ばしてみる。


 部屋の火の温かさが、少しだけ中へ残るようになった気がした。


「家が、温かさを覚えましたね。」


 小雪が言うと、ベルは少し目を細めた。


「それは、いい言い方だな。」

「そうですか。」

「ああ。」

「では、記録します。」

「それはしていい。」


 家が温かさを覚える。


 悪くない。




 午前中は、そのまま家中の隙間を探して回った。


 窓、扉、床板、壁。小雪が布を押さえ、ベルが板を削り、釘を打つ。


 作業が進むにつれて、家の中を動く冷たい空気は少しずつ弱くなった。


 途中で何度か、ベルは小雪の手を確認した。


「冷えてる。」

「少しです。」

「休憩。」

「まだ動きます。」

「休憩だ。」

「はい。」


 火のそばへ戻ると、小雪は素直に両手を差し出した。ベルが指先を見て、眉を寄せる。


「赤くなってる。」

「血が通っています。」

「知ってる。」

「健康です。」

「それだけで判断するな。」


 ベルは小雪の手を取った。


 前のように慌てることはない。


 火のそばで、小雪の両手を自分の手で包む。


 もちろん耳は赤い。しかし、逃げない。


「ベル。」

「何だ。」

「慣れましたか。」

「何に?」

「私の手を温めることです。」

「……この状況で普通、それを本人に聞くか?」

「私は聞きます。」

「そうだったな。」


 ベルは諦めたように息を吐いた。


「でも、逃げませんね。」

「おまえの手が冷てぇからだ。」

「はい。」

「それだけだ。」

「そうですか。」

「納得してる顔じゃねぇな。」

「観測顔です。」

「するな。」


 小雪は、ベルの手の中にある自分の指を見た。


 自分の手は冷たい。

 ベルの手は温かい。

 火も、もちろん温かい。


 けれど、火とベルの手は少し違う。


 火は、近づけば温めてくれる。


 ベルの手は、包む。


「ベル。」

「何だ。」

「火は、とても温かいです。」

「ああ。」

「ベルの手は、冷たい時もあります。」

「俺も人間だからな。」

「でも、ベルの手の方が温かく感じる時があります。」


 ベルは何も言わなかった。


 耳だけが、さらに赤くなる。


「小雪。」

「はい。」

「俺、今、何か試されてる?」

「何をですか。」

「……いや。」


 ベルはしばらく小雪を見たあと、小さく息を吐いた。


「おまえだもんな。何でもない。」

「そうですか。」


 そのまま、ベルはもう少しだけ小雪の手を包んでいた。


 前より、少しだけ自然に。


 そして小雪も、以前ほどそのことを不思議だとは思わなくなっていた。


 手を離された時だけ。


 ほんの少し。


 惜しいと思った。




 昼からは、保存食の確認をした。


 干し肉、乾魚、豆、根菜、干した果物、粉、塩、油。薪も含め、冬の間に必要になるものを一度棚から出し、残っている量を数えていく。


 ベルが確認し、小雪が記録する。


「冬は、食べ物をたくさん蓄えるんですね。」

「雪が積もると、買い出しも面倒になるからな。」

「閉じ込められますか。」

「数日なら、十分あり得る。」

「籠城。」

「急に物騒だな。」

「冬籠城文明。」

「ただの冬支度だ。」

「食料は武器です。」

「まあ、間違いじゃねぇけど。」

「ベルは兵站もできます。」

「俺をどこの戦争に連れていく気だ。」

「遠征にも必要です。」


 ベルの手が少し止まった。


「……遠征。」

「はい。」

「そうか。」


 豆の袋を持ったまま、ベルは小雪を見た。


「おまえは、ずっと旅をしてたんだよな。」

「はい。」

「食料の管理もしてたのか。」

「していました。人数、日数、水、保存性、移動距離。必要なものは多かったです。」

「まあ、そうだろうな。」

「もし、ベルがいたら。」

「俺?」


 小雪は口を閉じた。


 もし、あの旅にベルがいたら。


 どうだっただろう。


 食事は、今よりおいしかったかもしれない。


 眠る場所も。

 装備も。

 進む順番も。


 きっと、少しましだった。


 けれど、小雪の戦い方を見れば、ベルはきっと怒る。


 そもそも。


 あんな旅へベルを連れていくこと自体、間違っている。


「……いえ。」

「何だよ。」

「ベルがいたら、美味しいものが食べられたのだろうな、と。」


 ベルは少しだけ笑った。


「なら、次に旅へ出る時は、色々持っていかねぇとな。」


 小雪は瞬きをした。


「次?」

「ああ。」

「旅へ?」

「そのうち、必要な材料を探しに遠くへ行くこともあるかもしれねぇだろ。」


 ベルは当然のように続ける。


「今作ってるものが進めば、この国じゃ手に入らない材料や工具も出てくる。ノルヴィークの方が、そういうものは多いからな。」


 ノルヴィーク共和国。


 ベルが五年間留学していた工業国。


「ベルがいた国ですか。」

「ああ。」

「行きますか?」

「必要ならな。」

「誰が?」

「俺が。」

「私は?」


 ベルは塩の袋を棚へ置いた。


「当然、おまえも行くだろ。」


 小雪は少し黙った。


「ベルと一緒に……。」

「ああ。」

「私も。」

「そうだ。」

「いつか。」

「一緒に行く。」


 ベルは少し困ったような顔をしていた。


 けれど。


 少し嬉しそうでもある。


「何だよ。」

「……いえ。」

「どうした?」

「ベルは、自然に未来の話をしますね。」


 今度はベルが黙った。


「……悪いか。」

「悪くありません。」

「そうか。」

「はい。」

「なら。」


 ベルは顔を逸らした。


「行くときは一緒だからな。」


 小雪は胸の奥を観測した。


 少し。

 温かい。


「ベル。」

「何だ。」

「初心なハートは?」

「今日は、瀕死じゃねぇ。」

「問題ありませんか?」

「そうだな……かなり温かい。」

「冷ましますか。」

「おまえ、本当に思ってた反応を一度も返さねぇな。」

「冷まさない方がよいですか。」

「もういい。」


 ベルは耳を赤くしたまま、棚の整理へ戻った。


 最近。


 初心なハートは、よく温まるらしい。


 補填はされない。


 けれど、温まる。


 不思議である。




 午後は、冬用の毛布を干した。


 グランツ家から取り寄せたらしい厚手の毛布が何枚も届いており、小雪は積み上がった布を見て少し驚いた。


「多いですね。」

「冬は必要だ。」

「一枚では足りませんか。」

「足りねぇ。」

「私は床でもね――」

「その言葉を最後まで言うな。」

「はい。」


 ベルが一枚の毛布を広げる。


 厚い。

 柔らかい。

 少し重い。


 小雪は手で触れた。


「これは。」

「大分厚手だな。」

「強そうです。」

「言い方。」

「防御力があります。」

「まあ、ある意味な。」

「毛布盾。」

「おまえは何と戦うつもりだよ。」

「強いて言うなら、冬将軍。」

「誰だ、それ。」


 ベルは毛布を日に当てるため、外の物干しへ運んだ。小雪も手伝おうとしたが、毛布が大きすぎた。


 両腕で抱えると、前が見えない。


「見えません。」

「無理するな。」

「毛布に飲まれました。」

「毛布に負ける勇者か。」

「しかし補填されます。」

「包まれて温かくなるだけだろ。」


 ベルは笑いながら、小雪の腕から毛布を受け取った。そのまま軽々と持ち上げる。


 小雪はそれを見た。


「ベルは、力持ちですね。」

「毛布くらいならな。」

「大きい輪ベル。」

「まだ言うのか。」

「力持ち。」

「褒めてるなら、まあ。」

「格好いいです。」


 ベルが毛布を落としかけた。


「毛布が!」

「危険ですね。」

「おまえが危険だ!」

「初心なハートを刺しましたか。」

「刺した。」

「痛いですか。」

「……毛布にくるまりたい。」

「なぜですか。」

「隠れるためだ。」

「隠れますか。」

「……隠れねぇ。」


 ベルは赤い顔で毛布を物干しへ掛けた。


 厚い毛布が、冬の冷たい空気の中でふわりと広がる。


「これで夜も少しは冷えにくくなる。」

「二枚使いますか。」

「おまえも使うからな。」

「ベルは。」

「俺も使う。」

「一緒にではなく?」


 ベルの動きが止まった。


「違う!」

「ただの確認です。」

「確認不要だ!」

「二人分の温かさが一箇所に集まりますが。」

「前の話を持ち出すな。」

「合理的です。」

「合理性の問題じゃねぇ。」

「なぜですか。」

「順番がある!」

「毛布にも。」

「毛布にもだ!」

「難しいです。」

「……それは俺も難しい。」


 ベルは真っ赤な顔で毛布の端を整えた。


 小雪は少しだけ笑った。


 冬支度には、火と毛布とベルの耳が必要かもしれない。


 記録するかどうかは、あとで考える。




 異変があったのは、夕方近くになってからだった。


 家の脇へ薪を運んでいる時、小雪は北の山の方から鳥が一斉に飛び立つのを見た。


 何十羽もの黒い影が、木々の上から慌ただしく空へ逃げていく。


「ベル。」

「ああ。」


 ベルも気づいていた。


 少し遅れて、山道の方から馬の足音が聞こえた。


 速い。

 普段、村人がこの家へ来る時の音ではない。


 急いでいる。


 ベルが薪を置き、小雪も手を止めた。


 一頭の馬が山道を駆け上がってくる。


 乗っていたのは、村の狩人のダンだった。


 人も。

 馬も。


 かなり息が荒い。


「勇者さま!」


 ダンは家の前まで来ると、ほとんど飛び降りるように馬から降りた。


「ベルの兄ちゃんも。よかった。二人ともいたか。」

「何があった。」


 ベルの声が変わった。


 つい先ほどまで、毛布へ隠れたいと言っていた声ではない。


 状況を見る声。


 小雪も薪を地面へ置いた。


「魔物が出た。」


 ダンは膝へ手をつき、荒い息を整えながら言った。


「山の奥だ。北の岩場の方に、かなりでかいやつがいる。」

「種類は。」


 小雪が訊く。


「たぶん、牙猪だ。」


 ダンは顔を上げた。


「だが、普通じゃねぇ。」

「何が?」

「大きさだ!」


 ダンは唾を飲み込んだ。


「家くらいある。」


 ベルの表情が硬くなった。


「家くらい?」

「ああ。普通の牙猪の三倍……いや、それ以上かもしれねぇ。木をへし折って、岩場を荒らしてやがった!」

「おまえに気づいたのか。」

「気づいた。」

「それで。」

「突っ込んできた!」


 ダンの声が低くなる。


「腹が減ってるとか、縄張りを守ってるとか、そういう感じじゃねぇ。俺を見た途端、何のためらいもなく来たんだ!」

「被害は。」

「まだ人はやられてねぇ。」


 ダンの表情が歪んだ。


「だが、猟犬が一頭。それから、北側に仕掛けた罠はほとんど壊された。あれが山を下りてきたら、村の柵じゃ止められねぇ。」


 小雪はダンを見る。


 服の袖が裂けている。

 頬には浅い傷。


 馬の脚にも腹にも、泥が跳ねていた。


 かなり急いで逃げてきたのだろう。


「目は。」


 小雪が訊いた。


「何?」

「目の色です。」


 ダンは少し考えた。


「赤かった。」

「赤。」

「血みたいな色だ。いや、ただ赤いんじゃねぇ。血走ってるっていうか。」


 ダンの顔が、少し青くなる。


「毛の間からも、何か光ってた。」

「光?」

「魔法を使う時みたいなやつだ。魔素の光っていうのか?」


 小雪は目を細めた。


 ベルが、その変化を見る。


「小雪。」

「はい。」

「何か心当たりがあるのか。」

「まだ、分かりません。」

「まだ。」

「実際に見る必要があります。」


 ベルの表情が、さらに硬くなった。


「討伐するのか。」

「はい。」


 小雪は即答した。


「あれが村へ下りる前に止めます。」

「俺も行く。」

「危険です。」

「知ってる。」

「大きさも状態も普通ではありません。」

「聞いた。」

「ベルは補填されません。」

「分かってる。」

「では。」

「一人では行かせられない。」


 ベルは小雪をまっすぐ見た。


「私は強いです。」

「知ってる。」

「何も問題ありません。」

「そこを心配してるんじゃねぇ。」


 ベルは言いかけた。


「おまえが無茶しないように監視が――」


 そこで、自分から言葉を切った。


 少しだけ目を伏せる。


「いや。」


 ベルは言い直した。


「違うな。」


 小雪は待った。


「心配だから、一緒に行く。」


 小雪はベルを見た。


「どうしても。」

「ああ。」

「危険でも。」

「ああ。」

「私の戦いに、ついてきますか。」


 ベルは少しだけ眉を寄せた。


 けれど。


 頷いた。


「ああ。」


 小雪は黙った。


 冬の空気が、急に冷たくなったような気がした。


 さきほどまで干していた毛布が、風で揺れている。


 家ほどの魔物。

 凶暴化。

 魔素の光。


 そして。


 ベルが、小雪の戦いを見る。


 小雪は袖へ手を入れかけた。


 鈴はない。

 今日は家の中に置いてある。


 けれど。

 ベルは目の前にいる。


 鳴らさなくても。


 もう。


 いつもそばにいる。


「分かりました。」


 小雪は言った。


「ただし、絶対に私の前へ出ないでください。」

「おまえも、絶対に無茶するな。」

「善処します。」

「信用ならねぇ。」

「ベルもです。」

「俺は大丈夫だ。」

「私の方が強いです。」

「そういう話じゃねぇ。」

「では。」

「無茶してほしくねぇだけだ。」


 小雪は少し考えた。


「どこからが、無茶ですか。」


 ベルが黙った。


「……そこからか。」


 ダンが二人を交互に見た。


「……夫婦喧嘩中に悪いんだが。」

「夫婦ではありません。」


 小雪が言った。


「違う!」


 ベルも叫んだ。


「でも、仲はいいです。」

「小雪!」


 ダンは一瞬だけ笑った。


 けれど、すぐに表情を戻す。


「頼む。あれが下りてきたら、村が潰れちまう。」


 小雪は北の山を見た。


 夕暮れの山は、すでに黒く沈み始めている。


 意識を向ける。


 遠い。

 けれど。


 確かに、魔素の流れが一部乱れている。


 大きい。

 今のところ、こちらへは動いていない。


「今夜は、村へ戻ってください。」


 小雪が言った。


「え。」

「村の人に、北側へ近づかないよう伝えてください。猟師も出さないでください。」

「ああ。」

「夜の見張りを増やしてください。もし山を下りる気配があれば、すぐに知らせてください。」

「分かった。」

「今のところ、こちらへ移動している気配はありません。」

「分かるのか。」

「少し。」


 小雪は山を見る。


「今から入る方が危険です。暗くなれば、ベルもダンも動きにくい。」

「おまえは?」

「私は問題ありません。」

「俺たちはある、と。」


 ベルが小さく息を吐いた。


「じゃあ、明日の朝か。」

「はい。」

「夜の間に準備します。」

「何がいる。」


 ベルが訊いた。


「防寒具、食料、水、火、薬、縄。それから、村への合図。」

「分かった。」

「それと。」


 小雪はベルを見る。


「逃げる準備。」


 ベルが少し目を見開いた。


 それから、頷いた。


「ああ。」

「生きていれば勝ちです。」

「……そうだな。」


 冬支度の一日は、急に別の形へ変わった。


 毛布。

 薪。

 保存食。

 隙間を塞ぐ板。

 身体を温める火。


 今日一日用意していたものは、そのまま明日のための準備にもなった。


 生活文明は。

 戦いの前にも、役に立つらしい。


 その時。

 北の山から、低い音が響いた。


 遠い。

 けれど、木々がわずかに震えるほどの咆哮だった。


 ダンの馬が怯え、後ずさる。


 ベルが反射的に、小雪の前へ半歩出た。


 小雪は、その袖を掴んだ。


「ベル。」

「……何だ。」

「明日は、絶対に前へ出ないでください。」

「今は出てねぇ。」

「出かけていました。」

「……癖になってるな。」

「気をつけてください。」

「ああ。」

「必ず。」

「分かった。」


 ベルは小さく息を吐いた。

 小雪は、その袖から手を離した。


 北の山を見る。


 大きな魔物。

 凶暴化。

 魔素の光。


 まだ、何が起きているのかは分からない。


 けれど、明日。

 恐らくベルは見てしまうのだろう。


 小雪の戦いを。


 そして、今のベルなら確実に気付くに違いない。


 何を。

 どう使って。


 トカゲのしっぽ。

 切り落とされる枯葉。

 爆ぜて火を吹く薪。


 なんだか、胸が重い。

 痛いのかもしれない。


 けれど。


 それが何なのかは、まだうまく分類できなかった。


 小雪は静かに目を閉じた。


 先ほどまで気にならなかった冬の寒さが、急に身体の奥まで入ってきたような気がした。

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