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第三十三話 丸い文明とベルの横顔

 秋は、日に日に深くなっていた。


 朝の川辺には、もう夏の柔らかさがほとんど残っていない。

 水車の音まで少し硬く、澄んで聞こえる。

 草の先には細かな露が残り、地面へ落ちた葉は、踏めば乾いた音を立てた。


 小雪は足元に落ちていた葉を一枚拾った。


 灰色の手袋。


 先日、ベルと村へ行った時に買った、小雪の手に合う手袋だった。


 もう指先文明は失われていない。


 手袋の上に乗った葉は茶色く、端が少し丸まっている。乾いていて、とても軽い。


「枯れています。」

「秋だからな。」


 隣を歩いていたベルが、工具箱を持ち直しながら答えた。


「葉も補填されますか。」

「されねぇ。」

「落ちたら終わりですか。」

「葉っぱとしてはな。」


 小雪は手のひらの上の葉を見る。


「でも、木は残ります。」

「ああ。」

「この葉は。」

「そのうち腐って土に戻る。」

「土に。」

「全部がすぐってわけじゃねぇけどな。虫に食われたり、細かくなったりして、また土の一部になる。そういうものが、また木を育てる。」


 小雪は少し考えた。


「そして次の春に、また新しい葉が出ます。」

「そうだな。新しい葉が生える。」


 小雪は、手のひらの枯れ葉を見た。


「……自分の一部を落として、それを次のために使う。」


 ベルの足が、少し止まった。


「葉っぱのことか?」

「いえ……。」


 小雪は少し考えた。


「少し違う、か。」

「何が。」

「この葉は、元の木だけに戻るわけではありません。」


 手のひらの上で、乾いた葉は軽かった。


「大地に還ります。」

「ああ。」

「世界全体を潤す、養分になります。」


 ベルは少しだけ眉を寄せた。


「……なんか急に詩的だな。」

「秋の観測です。」

「本当か?」

「はい。」


 ベルはしばらく小雪を見ていた。


 けれど、それ以上は何も聞かなかった。


 小雪は葉を地面へ戻した。


 風が吹けば、またどこかへ飛んでいくだろう。


 今は、ただの秋の観測でいい。


「今日は何をしますか。」


 小雪が訊くと、ベルは前を向いた。


「丸い軸を作る。」

「丸い文明。」

「そうだ。」

「ついに。」

「ついにってほどじゃねぇ。」

「重要です。」

「それは、まあ、そうだな。」


 ベルは川辺の小屋へ向かって歩きながら説明した。


「滑車も、ドリルの軸も、巻き取り棒も、できるだけ丸い方がいい。」

「なぜですか。」

「丸くないと、回るたびにぶれる。」

「ぶれぶれ文明。」

「文明にするな。」

「ぶれは困ります。」

「困る。革紐が外れる。穴もずれる。軸受けにも余計な力がかかる。摩擦が増えて、熱も出る。」

「逃げる力も増えますね。」

「ああ。」

「丸いと、逃げにくい。」

「完全には無理だけどな。」

「全部は無理。」

「そうだ。」

「でも、減らせる。」

「その通り。」


 ベルは少し笑った。


「分かってきたな。」

「はい。」

「じゃあ今日は、木を回しながら削る。」

「木を回しながら。」

「手で少しずつ削るより、回して同じ位置に刃を当てた方が、丸く整えやすい。」

「木が自分で丸くなりますか。」

「ならねぇよ。削るんだよ。」

「回転削り文明。」

「今日は、それでいい。」


 小雪は頷いた。


 丸い文明。

 回転削り文明。


 これができれば、軸の精度が上がる。


 滑車もよくなる。

 巻き取り棒も作れる。


 いつか銅線を均一に巻けるようになる。


 コイル。

 電磁石。

 モーター。

 発電。


 まだ遠い。


 とても遠い。


 けれど、水車は回っている。


 ベルも隣にいる。


 遠くても、一つずつ近づけばよい。


 それが文明である。




 川辺の小屋には、ロイが先に来ていた。


 作業台の横に、長い木材と新しい木枠が置かれている。木枠の左右には支えがあり、その間へ木の棒を固定できるようになっていた。


「簡単な回し台ですな。」


 ロイが言った。


「本格的なものとは言えませんが、試すには十分でしょう。」


 ベルは木枠の周囲を見て、支えの位置を確かめた。


「ありがとうございます。」

「いえいえ。だんだん面白くなってきましたからな。」


 少し遅れてやってきたガドは、布に包んだ刃物を持っていた。


「刃は、これくらいでいいか?」


 ベルが受け取り、角度と刃先を見る。


「まず木を削るなら十分だ。」

「金属を削るとなると、また話は変わるがな。」

「今は木からです。」


 小雪が言うと、ガドは頷いた。


「そうだ。何事も、一歩ずつだな。」


 小雪は木枠を観測した。


 左右の支え。

 その間に渡す木の棒。

 棒へ巻かれた紐。

 足元の踏み板。

 上には、紐を戻すための少ししなる細い木。


「これは、水車で回さないのですか。」

「今日は手元で回す。」


 ベルが答えた。


「なぜですか。」

「水車だと、今はまだ速さを細かく変えにくい。まずは自分たちの手と足で、どれくらいの速さなら削れるかを見る。」

「手元文明。」

「まあな。」

「足も使います。」

「足元文明。」

「広げるな。際限がなくなる。」


 ベルは木の棒を左右の支えの間へ固定し、その中央へ紐を一周巻いた。


 踏み板を踏めば紐が引かれ、棒が回る。

 足を戻せば、上のしなる木に引かれて紐も戻る。

 往復するたび、棒が左右へ回転する。


 完全な旋盤ではない。


 けれど。

 木を回しながら削ることはできる。


 小雪はじっと見た。


「棒が回ります。」

「ああ。」

「刃を当てると。」

「削れる。」

「手が滑ると。」

「危ない。」

「かなり。」

「かなり危ない。指が飛ぶ。」

「危険です。」

「だから、おまえは近づくな。」

「はい。」

「本当に近づくなよ。」

「はい。」

「いいか?」

「はい。」


 小雪は一歩下がった。


 ベルはまだ疑わしそうに見ている。


「もう一歩。」

「はい。」


 下がった。


「もう半歩。」

「細かいです。」

「おまえ相手だからな。」


 小雪は半歩下がった。


 ベルはようやく頷いた。


「そこ。」

「観測距離。」

「安全距離。」

「はい。」


 最初に試すのは、細めの木の棒だった。


 ベルが踏み板をゆっくり踏む。


 紐が引かれる。

 棒が回る。

 足を戻す。

 逆へ回る。


 動きはまだぎこちなく、回るたびに棒が少し上下へ揺れた。


「ぶれています。」

「元の棒が丸くねぇからな。」

「丸くするために回すのに、丸くないからぶれます。」

「そうだ。」

「矛盾文明。」

「矛盾じゃねぇ。最初は、だいたいそういうもんだ。」

「丸くないから、丸くしにくい。」

「ああ。」

「でも丸くしないと、ずっと丸くない。」

「そうだ。」

「厳しい世界です。」

「木の棒の世界を広げるな。」


 ベルは刃を持った。

 角度を確認する。


 ロイが横から支えの位置を調整した。


 ガドは腕を組んで見ている。


 そして。

 ベルの顔が変わった。


 王宮で礼をしていた時とも違う。

 水車の不具合を探す時とも、少し違う。


 視線が細くなり、口元が引き締まる。


 足で踏み板を動かす。


 棒が回る。


 そこへ、刃を当てる。


 しゅる。


 薄い削り屑が出た。


 小雪は、じっと見ていた。


 ベルの手。

 刃を支える指。

 踏み板を動かす足。

 回る木。

 落ちる削り屑。


 そして。


 真剣な横顔。


 秋の光が、小屋の板の隙間から入っている。


 その光が、ベルの短い金髪へ少しだけ触れていた。


 黒い礼装ではない。

 いつもの服。


 袖をまくり、手元へ集中している。


 外は冷たいのに、額にはうっすら汗が浮かんでいた。


 小雪は観測した。


 とても。

 細かく。


 ベルはしばらく削ってから、刃を離した。


「……小雪。」

「はい。」

「軸を見ろ。」

「見ています。」

「俺を見てた。」

「ベルも軸の一部です。」

「俺を部品にするな。」

「最重要部品。」

「だから、その言い方をやめろ。」

「敬語。」

「やめてください。」


 ロイが笑った。


 ガドも肩を震わせている。


 ベルの耳が少し赤い。


「そんなに見られると、集中できねぇ。」

「分かりました。」


 小雪は頷いた。


 そして、またベルを見た。


「だから軸を見ろって言っただろ!」

「見ています。」

「俺を見てる。」

「ベルの方が、見ていて楽しいです。」


 ベルの手が止まりかけた。


「……小雪。」

「はい。」

「今日は本当に危ないから。」

「はい。」

「頼む。」

「はい。」

「分かったな?」

「了解です。」


 小雪は少し反省した。


 刃物がある。


 作業中のベルを動揺させるのは、よくない。


 ベルの初心なハートは補填されない。


 指も補填されない。


 たぶん。


 ベルはもう一度、踏み板を動かした。




 木を回しながら削る作業は、思っていたより難しかった。


 刃を強く当てれば、木が引っかかる。

 弱すぎれば削れない。

 足の動きが乱れれば、回転も乱れる。

 刃の角度まで一定にしなければならない。


 ロイが木枠を支え。

 ガドが刃の状態を確認し、時々研ぐ。


 ベルは何度も失敗した。


 木が跳ねる。

 削りすぎる。

 表面が波打つ。

 紐が外れる。

 踏み板の戻りが悪くなる。


「丸くなりません。」


 小雪が言った。


「一回でなるわけねぇ。」


 ベルは額の汗を拭った。


 冷たい空気の中で、吐いた息が少し白い。


 それでも汗をかいている。


「回転が一定じゃねぇな。」

「足踏みが難しいですか。」

「ああ。手も足も同時だからな。」

「手足文明。」

「だから広げるな。」

「ベルは忙しい。」

「小さい輪みたいに言うな。」

「今日は大きい輪ベルではないのですか。」

「その話にも戻すな。」

「中くらいベル。」

「もう、ほどほどにしろ。」

「ほどほどベル。」

「……今、何の話だ?」

「輪ベル比較。」

「やめろ。」


 ベルはもう一度、踏み板を踏んだ。


 木が回る。


 刃を当てる。


 今度は、少し長い削り屑が出た。


 薄く。


 くるりと丸まって落ちる。


「出ました。」

「ああ。」

「削り屑が丸いです。」

「回して削ってるからな。」

「丸いものから、丸い屑。」

「まだ木は丸くなってねぇけどな。」

「でも、近づいています。」


 ベルは少しだけ笑った。


「そうだな。」


 小さな達成感が、そのまま顔へ出ていた。


 技術者の顔。


 というより。


 少し、少年のような顔だった。


 小雪は黙って見た。

 今度は何も言わなかった。


 大きな成長である。


 しばらく続けると、棒の表面は少しずつ整ってきた。


 完全な丸ではない。

 ところどころ波打っている。


 太い部分も。

 細い部分も。


 それでも、手だけで削ったものよりは、ずっと丸に近い。


 ベルは棒を外し、作業台の上で転がした。


 ごろ。


 少し揺れた。


「丸いです。」

「まだだ。」

「丸に近いです。」

「それは、まあ。」

「丸のご近所さん。」

「何だ、それ。」

「完全な丸ではないが、近くには住んでいます。」

「丸の近所文明?」

「はい。」

「嫌だ。」

「敬語。」

「嫌です。」


 ロイが棒を手に取り、何度か転がしてから頷いた。


「これは面白いですな。支えをもう少し固くして、刃を置ける台をつければ、もっと安定するでしょう。」

「刃を置く台。」


 小雪が繰り返す。


「手だけで支えると、どうしても上下へ動きますからな。台へ預ければ、同じ高さから刃を当てやすい。」

「刃台文明。」

「そうだな。」


 ベルも頷いた。


「次はそれだ。手だけで支えるより、刃を台に預ける。」

「ベルの手が減りますか。」

「手は減らねぇよ!」

「負担が。」

「ああ。それは減る。」

「よいことです。」


 小雪はベルの手を見た。


 指先が少し赤い。


 冷えと作業のせいだろう。


「手、冷えていますか。」


 小雪が訊くと、ベルは警戒した顔をした。


「……少し。」

「温めますか。」

「今は作業中だ。」

「終わったら。」

「予告するな。」

「なぜですか。」

「また心臓に悪い。」

「初心なハート。」

「そうだよ!」


 小雪は頷いた。


 終わったら確認しよう。


 そう決めた。




 昼は、川辺で簡単に食べることになった。


 ベルが朝作ったパン。

 豆の煮込みを入れた小さな壺。


 冷えていたので、ガドの火床の端を借りて少し温める。


 薪が燃える。

 小さな火花が上がる。


 壺から湯気が立った。


「温かいです。」

「熱いから気をつけろ。」

「はい。」

「舌を火傷するなよ。」

「補填されます。」

「そういう問題じゃねぇ。」


 小雪は火を見た。


 くべられた薪が、ゆっくり崩れていく。


 形を失いながら。


 熱になる。

 光になる。

 火になる。


「薪は、なくなります。」

「燃えてるからな。」

「なくなって、熱になる。」

「ああ。」

「燃料。」


 小雪はぽつりと言った。


「どうした?」

「いえ。」


 小雪は炎を見た。


 薪が爆ぜる。


 形のあったものが崩れ、別のものへ変わっていく。


「前に、トカゲのしっぽと言いましたが。」

「ああ。」

「補填の話か。」

「はい。」


 補填。


 そう呼ぶしかない力。


 なくなったものを補う。

 足りなくなったものを埋める。


 小雪は、しばらく炎を見た。


「少し違うものの方が、近いかもしれません。」

「何が。」

「使い方です。」


 ベルの眉が少し寄る。


「どういう意味だ。」

「私のスキルは、普通に使えば決して強いものではありませんでした。」

「いや。」


 ベルは小雪を見る。


「今のおまえを見てると、とてもそうは思えねぇけどな。」

「使い方次第です。」

「……どういう意味だ、それ。」


 その時だった。


 火の中で薪が大きく爆ぜた。


 ばちり、と火の粉が飛ぶ。


「あぶねぇ!」


 ベルの腕が伸びた。


 小雪の身体が、ぐっと引かれる。


 一瞬で。

 ベルの胸元へ。


 思考が切れた。


 近い。

 小雪が顔を上げる。


 ベルも。

 そこで初めて、距離に気づいたらしい。


 肩が、びくりと跳ねた。


「いや。これは。」

「はい。」

「すまん。」

「乙女ベル。」

「何でだ!」

「初心なハートが火傷寸前。」

「やめろ。字面がひどい。」


 ベルは少しぎこちなく距離を取り直し、小さく咳払いした。


「……とりあえず食え。」

「はい。」

「冷めるぞ。」

「はい。」


 小雪は豆を食べた。


 温かい。

 少し塩味。


 パンとよく合う。


「おいしいです。」

「そうか。」

「ベルの手が作りました。」

「手だけじゃねぇ。」

「ベルが作りました。」

「……そうだな。」


 ベルは少しだけ嬉しそうだった。


 小雪はそれを見た。


 胸の奥が少し温かい。


 火のせいではない。

 温かい豆のせいでもない。


 分類はできない。


 けれど。

 悪くない。


 小雪はそう思った。


 ベルは先ほどの話を、もう一度聞かなかった。


 小雪も、続きを言わなかった。


 火だけが、ぱちぱちと燃えていた。




 食後。


 ガドが試作の棒を眺めながら言った。


「これがもっと上手くいけば、木の軸だけじゃなく、いずれ金属の棒にも応用できるかもしれねぇな。」

「金属は、もっと硬いです。」


 小雪が言う。


「ああ。刃も機械も、もっと丈夫なものがいる。だが、丸い金属棒が作れれば、道具の精度は一気に上がる。」


 ベルも頷いた。


「滑車の芯。ドリルの軸。巻き取り棒。全部に使える。」

「巻き取り棒。」


 小雪は反応した。


「銅線を巻くためですか。」

「まだ銅線もねぇけどな。」

「でも、必要です。」

「ああ。」

「コイル。」


 ベルが小雪を見る。


「本当に、そこへ行きたいんだな。」

「はい。」

「電磁石。」

「はい。」

「その先へ行って。」


 ベルは少しだけ間を置いた。


「何をする。」


 小雪は黙った。


 電磁石。

 発電。

 モーター。


 魔法を使わなくても動くもの。

 誰でも使えるもの。


「魔法が必要ない世界を、見たいです。」


 小雪は言った。


 ベルはしばらく小雪を見ていた。


 それから、頷く。


「なら、作る。」

「はい。」

「丸い棒からな。」

「……とても遠そうです。」

「遠いな。」

「でも、確かに近づいています。」

「そうだ。」

「ベルがいるので。」


 ベルが咳き込んだ。


 また耳が赤い。


 小雪は少しだけ笑った。


 ベルも、困ったように笑った。




 午後は、刃を置くための小さな台を作った。


 ロイが板を削る。

 ベルが高さを調整する。

 ガドが、刃を支える金具を作る。


 小雪は記録した。


 一、手だけで刃を持つとぶれる。

 二、刃を置く台があると、角度が安定する。

 三、手の負担が減る。

 四、ベルの手は大事。

 五、丸の近所文明。

 六、完全な丸は遠い。

 七、でも近づく。

 八、集中するベルの横顔は格好いい。


「八を消せ。」


 ベルが即座に言った。


「見ましたか。」

「見えた。」

「重要です。」

「丸い文明に関係ねぇ。」

「作業者の観測です。」

「いらねぇ。」

「ベルが集中すると、作業精度が上がります。」

「それは、まあ、そうかもしれねぇけど。」

「では重要です。」

「横顔はいらねぇ。」

「ベルの横顔は、私の観測精度に関係します。」

「もっと駄目になった。」

「敬語。」

「もっと駄目になりました。」


 小雪は八を少し小さくした。


 消しはしない。


 ベルがため息を吐いた。


「最近、小さくすればいいと思ってるだろ。」

「はい。」

「認めるな。」

「小さくすると、ベルが許す確率が上がります。」

「許してねぇ。」

「でも、紙は返します。」

「……。」

「私も学習しました。」

「変なところだけ学習するな。」


 ロイが笑っている。


 ガドも、にやにやしていた。


 ベルは耳を赤くしながら作業台へ戻った。


 刃台を使うと、削り方は少し安定した。


 踏み板を踏む。

 棒が回る。


 刃を台へ預け、少しずつ前へ出す。


 削り屑が、先ほどより均一に出る。


 しゅるしゅると、薄く巻かれて落ちる。


「綺麗です。」


 小雪が言った。


「削り屑が?」

「はい。」

「そこか。」

「ベルも。」


 ベルが刃を離した。


「……小雪。」

「はい。」

「作業中はやめろって言った。」

「すみません。」

「そこで素直に謝られると、余計困る。」

「困りますか。」

「困る。」

「でも、事実です。」

「さらに困る。」


 ベルは額へ手を当てた。


 静かなため息が漏れる。


「本当に、今日は駄目だな。」

「丸くなりませんか。」

「俺の心臓が。」

「初心なハート。」

「もう胸の中がぐるぐるだ。」

「回転文明。」

「それは違う。」


 小雪は少し笑った。


 ベルも、諦めたように笑った。


 刃台を使って削った棒は、最初のものよりずっと丸に近かった。


 手で転がす。


 ころり。


 まだ少し揺れる。


 けれど、ごろごろではない。


「ころりです。」

「ころり、だな。」

「丸の近所から、丸の隣へ引っ越しました。」

「まだ丸には住めねぇのか。」

「はい。」

「厳しいな。」

「完全な丸は遠いです。」

「でも。」


 ベルは棒を持ち上げた。


「近づいてる。」

「はい。」


 秋の夕方の光が、削られた木肌に当たった。


 小雪は、またベルの横顔を見た。


 真剣で。

 少し疲れていて。

 少し嬉しそうだった。


 王宮で第一王子の前にいた時の顔とは違う。

 魔法が使えないと言われ、黙っていた時とも違う。


 できないことを。

 できるまでやる人の顔。


「ベル。」

「何だ。」

「やはり、あなたは有能です。」


 ベルの手が止まった。


 川の音がする。


 水車が回っている。


 ロイも。

 ガドも。


 何も言わなかった。


 ベルはしばらく、手の中の棒を見ていた。


「……急だな。」

「はい。」

「今、言うことか。」

「今、思いました。」

「そうか。」

「はい。」


 ベルは小さく息を吐いた。


「ありがとな。」

「はい。」

「でも、作業中に刺すな。」

「はい。」

「いや。」


 ベルは少しだけ困ったように笑った。


「……今のは、まあ、いいけど。」


 小雪も少し笑った。




 夕方。


 片づけを終え、二人は山の家へ戻った。


 空気は朝よりさらに冷えている。


 小雪はベルの外套を着ていた。


 それでも、指先が少し冷たい。


 ベルは工具箱と試作の丸い棒を持っている。


「持ちます。」

「いい。」

「手が冷えます。」

「おまえの方が冷える。」

「ベルも冷えます。」

「俺は動いてたから平気だ。」

「汗が冷えます。」


 ベルが足を止めた。


「……それは、まあ。」

「風邪をひきます。」

「ひかねぇ。」

「実績。」

「蒸し返すな。」

「言わんこっちゃない。」

「それはもういい。」


 小雪はベルの隣へ並んだ。


「山の家へ戻ったら、手を温めますか。」


 ベルが少し躓いた。


「予告するなって言っただろ。」

「必要です。」

「何に。」

「心の準備。」

「それは俺の台詞だ。」

「準備してください。」

「準備しても刺さるんだよ。」

「では、準備は無意味ですか。」

「そんな文明みたいに言うな。」

「無準備文明。」

「嫌な文明だな。」


 小雪は少しだけ笑った。


 落ち葉が足元で鳴る。


 秋が終わりへ近づいている音だった。




 山の家へ着くと、ベルはすぐに火を起こした。


 小雪は外套を脱ぎ、手袋も外す。


 指先は、少し冷たい。


 ベルは工具箱を置き、試作の丸い棒を作業台へ置いた。


 それから、自分の手をこすった。


「ベル。」

「何だ。」

「手。」

「……冷えてるけど。」

「では。」


 小雪はベルの手を取った。


 ベルは一瞬固まった。


 けれど。

 今日は、逃げなかった。


 小雪は自分の両手で、ベルの手を包む。


 ベルの手は、川辺で作業していた時より冷たい。


 大きい。

 少し硬い。

 作業の跡がある。


 小雪の手も冷たい。


 けれど、火の前で包んでいると、少しずつ温まっていく。


「どっちも冷たいな。」


 ベルが言った。


「はい。」

「これ、意味あるか?」

「あります。」

「そうか?」

「二人分の冷たさが、一人分に減ります。」

「理屈が変だ。」

「では。」


 小雪は少し考えた。


「二人分の温かさが、一箇所に集まります。」


 ベルは黙った。


 少し。

 かなり。

 黙った。


「……それは、まあ。」

「はい。」

「悪くねぇ、かも。」


 小雪はベルを見る。


 ベルは火を見ている。


 耳は赤い。


 火のせいだろうか。


 たぶん。

 違う。


「ベル。」

「何だ。」

「今日の横顔は、良かったです。」

「今言うのか。」

「はい。」

「手を握った状態で。」

「はい。」

「逃げ場がねぇ。」

「逃げますか。」

「逃げねぇ。」

「なぜですか。」


 ベルは、小雪の手の中で少しだけ指を動かした。


 逃げるためではない。


 握り返した、と言うほどでもない。


 ただ。


 少しだけ触れた。


「……温かいから。」


 小雪は瞬きをした。


「私の手が。」

「ああ。」

「まだ冷たいです。」

「でも、温かい。」

「ああ。」

「不思議です。」

「俺もだ。」


 小雪は胸の奥を観測した。


 ちりん。


 今日も鈴は鳴っていない。


 それでも、音がする。


 小雪はベルの手を包んだまま、作業台の上の試作棒を見た。


 完全な丸ではない。


 けれど。

 昨日より、丸い。


 遠いものへ。

 少し近づいた。


 小雪とベルも、そうなのかもしれない。


 完全な何かではない。

 名前も、まだない。


 でも。


 近づいている。


 丸の近所。

 丸の隣。


 いつか、本当の丸になるのかもしれない。


 小雪は、そう思った。


 分類はしない。


 たぶん。




 夜。


 小雪は火のそばで、今日の記録用紙を広げた。


 ベルは台所でスープを煮ている。


 部屋は温かい。

 外は冷たい。


 水車の音は、遠くで小さく聞こえていた。


 丸い文明進捗。


 一、木を回しながら削ると、丸に近づく。

 二、手と足を同時に使うので、ベルは忙しい。

 三、刃を置く台があると、角度が安定する。

 四、完全な丸は遠い。

 五、でも近づく。

 六、集中するベルの横顔は格好いい。

 七、ベルはやはり有能。

 八、二人分の温かさは、一箇所に集まる。

 九、丸の近所から、丸の隣へ。


 皿を持って戻ってきたベルが、紙を見た。


「……六。」

「はい。」

「小さくしろ。」

「しました。」

「最初から小さいな。」

「学習しました。」

「嫌な学習だ。」


 ベルは七で黙った。


 小雪も黙った。


「七。」

「はい。」

「これは。」

「大きくしました。」

「……。」

「消しません。」

「……分かった。」


 ベルは八を見る。


 耳が赤くなった。


「八は何だ。」

「今日の発見です。」

「科学か?」

「温度観測です。」

「そうか?」

「はい。」

「……まあ。」


 ベルは少し考えた。


「消すなとは言わねぇ。」

「小さくしますか。」

「しなくていい。」

「はい。」


 ベルは九まで読んだ。


 少し笑う。


「丸の隣か。」

「はい。」

「まだ、丸には住めねぇんだな。」

「遠いです。」

「でも、近づいてる。」

「はい。」


 小雪はベルを見る。


「私たちも、近づいていますか。」


 ベルが皿を落としかけた。


 スープが大きく揺れる。


「小雪。」

「はい。」

「それは。」


 ベルは皿を持ち直した。


「何に。」

「分かりません。」

「分からないのに刺すな。」

「でも、近づいている気がします。」


 ベルは顔を赤くした。


 しばらく困ったように黙っていた。


 やがて。


 少しだけ笑う。


「……そうだな。」

「はい。」

「近づいてるかもな。」


 小雪は頷いた。


 記録へ書くか。


 少し迷った。


 けれど、今は書かなかった。


 書けば、名前をつけなければいけない気がした。


 まだ。

 名前はない。


 丸の近所。

 丸の隣。


 小雪とベルの何かも、まだその辺りにある。


 けれど。

 悪くない。


 小雪はそう思った。


 ベルがスープの皿を、小雪の前へ置く。


「食え。冷める。」

「はい。」

「今日は疲れただろ。早く寝ろよ。」

「決して床ではなく。」

「布団でな。」

「はい。」

「分かってきたな。」

「ベルが何度も言うので。」

「何度でも言う。」

「なぜですか。」

「おまえが床で寝ようとしてたからだよ。」

「今はもう寝ません。」

「ならいい。」


 小雪はスープを飲んだ。


 温かい。


 ベルが起こした火。

 ベルが作ったスープ。

 ベルが作った、丸に近い棒。

 ベルがいる山の家。


 外は冷たい。

 冬は近い。


 それでも。


 ここは温かい。


 小雪は、それを今日はきちんと覚えておこうと思った。


 山の家は温かい。

 ベルがいる。

 丸い文明は、少し進んだ。


 そして。


 小雪とベルも。


 たぶん。


 少しだけ、近づいた。

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