第三十三話 丸い文明とベルの横顔
秋は、日に日に深くなっていた。
朝の川辺には、もう夏の柔らかさがほとんど残っていない。
水車の音まで少し硬く、澄んで聞こえる。
草の先には細かな露が残り、地面へ落ちた葉は、踏めば乾いた音を立てた。
小雪は足元に落ちていた葉を一枚拾った。
灰色の手袋。
先日、ベルと村へ行った時に買った、小雪の手に合う手袋だった。
もう指先文明は失われていない。
手袋の上に乗った葉は茶色く、端が少し丸まっている。乾いていて、とても軽い。
「枯れています。」
「秋だからな。」
隣を歩いていたベルが、工具箱を持ち直しながら答えた。
「葉も補填されますか。」
「されねぇ。」
「落ちたら終わりですか。」
「葉っぱとしてはな。」
小雪は手のひらの上の葉を見る。
「でも、木は残ります。」
「ああ。」
「この葉は。」
「そのうち腐って土に戻る。」
「土に。」
「全部がすぐってわけじゃねぇけどな。虫に食われたり、細かくなったりして、また土の一部になる。そういうものが、また木を育てる。」
小雪は少し考えた。
「そして次の春に、また新しい葉が出ます。」
「そうだな。新しい葉が生える。」
小雪は、手のひらの枯れ葉を見た。
「……自分の一部を落として、それを次のために使う。」
ベルの足が、少し止まった。
「葉っぱのことか?」
「いえ……。」
小雪は少し考えた。
「少し違う、か。」
「何が。」
「この葉は、元の木だけに戻るわけではありません。」
手のひらの上で、乾いた葉は軽かった。
「大地に還ります。」
「ああ。」
「世界全体を潤す、養分になります。」
ベルは少しだけ眉を寄せた。
「……なんか急に詩的だな。」
「秋の観測です。」
「本当か?」
「はい。」
ベルはしばらく小雪を見ていた。
けれど、それ以上は何も聞かなかった。
小雪は葉を地面へ戻した。
風が吹けば、またどこかへ飛んでいくだろう。
今は、ただの秋の観測でいい。
「今日は何をしますか。」
小雪が訊くと、ベルは前を向いた。
「丸い軸を作る。」
「丸い文明。」
「そうだ。」
「ついに。」
「ついにってほどじゃねぇ。」
「重要です。」
「それは、まあ、そうだな。」
ベルは川辺の小屋へ向かって歩きながら説明した。
「滑車も、ドリルの軸も、巻き取り棒も、できるだけ丸い方がいい。」
「なぜですか。」
「丸くないと、回るたびにぶれる。」
「ぶれぶれ文明。」
「文明にするな。」
「ぶれは困ります。」
「困る。革紐が外れる。穴もずれる。軸受けにも余計な力がかかる。摩擦が増えて、熱も出る。」
「逃げる力も増えますね。」
「ああ。」
「丸いと、逃げにくい。」
「完全には無理だけどな。」
「全部は無理。」
「そうだ。」
「でも、減らせる。」
「その通り。」
ベルは少し笑った。
「分かってきたな。」
「はい。」
「じゃあ今日は、木を回しながら削る。」
「木を回しながら。」
「手で少しずつ削るより、回して同じ位置に刃を当てた方が、丸く整えやすい。」
「木が自分で丸くなりますか。」
「ならねぇよ。削るんだよ。」
「回転削り文明。」
「今日は、それでいい。」
小雪は頷いた。
丸い文明。
回転削り文明。
これができれば、軸の精度が上がる。
滑車もよくなる。
巻き取り棒も作れる。
いつか銅線を均一に巻けるようになる。
コイル。
電磁石。
モーター。
発電。
まだ遠い。
とても遠い。
けれど、水車は回っている。
ベルも隣にいる。
遠くても、一つずつ近づけばよい。
それが文明である。
川辺の小屋には、ロイが先に来ていた。
作業台の横に、長い木材と新しい木枠が置かれている。木枠の左右には支えがあり、その間へ木の棒を固定できるようになっていた。
「簡単な回し台ですな。」
ロイが言った。
「本格的なものとは言えませんが、試すには十分でしょう。」
ベルは木枠の周囲を見て、支えの位置を確かめた。
「ありがとうございます。」
「いえいえ。だんだん面白くなってきましたからな。」
少し遅れてやってきたガドは、布に包んだ刃物を持っていた。
「刃は、これくらいでいいか?」
ベルが受け取り、角度と刃先を見る。
「まず木を削るなら十分だ。」
「金属を削るとなると、また話は変わるがな。」
「今は木からです。」
小雪が言うと、ガドは頷いた。
「そうだ。何事も、一歩ずつだな。」
小雪は木枠を観測した。
左右の支え。
その間に渡す木の棒。
棒へ巻かれた紐。
足元の踏み板。
上には、紐を戻すための少ししなる細い木。
「これは、水車で回さないのですか。」
「今日は手元で回す。」
ベルが答えた。
「なぜですか。」
「水車だと、今はまだ速さを細かく変えにくい。まずは自分たちの手と足で、どれくらいの速さなら削れるかを見る。」
「手元文明。」
「まあな。」
「足も使います。」
「足元文明。」
「広げるな。際限がなくなる。」
ベルは木の棒を左右の支えの間へ固定し、その中央へ紐を一周巻いた。
踏み板を踏めば紐が引かれ、棒が回る。
足を戻せば、上のしなる木に引かれて紐も戻る。
往復するたび、棒が左右へ回転する。
完全な旋盤ではない。
けれど。
木を回しながら削ることはできる。
小雪はじっと見た。
「棒が回ります。」
「ああ。」
「刃を当てると。」
「削れる。」
「手が滑ると。」
「危ない。」
「かなり。」
「かなり危ない。指が飛ぶ。」
「危険です。」
「だから、おまえは近づくな。」
「はい。」
「本当に近づくなよ。」
「はい。」
「いいか?」
「はい。」
小雪は一歩下がった。
ベルはまだ疑わしそうに見ている。
「もう一歩。」
「はい。」
下がった。
「もう半歩。」
「細かいです。」
「おまえ相手だからな。」
小雪は半歩下がった。
ベルはようやく頷いた。
「そこ。」
「観測距離。」
「安全距離。」
「はい。」
最初に試すのは、細めの木の棒だった。
ベルが踏み板をゆっくり踏む。
紐が引かれる。
棒が回る。
足を戻す。
逆へ回る。
動きはまだぎこちなく、回るたびに棒が少し上下へ揺れた。
「ぶれています。」
「元の棒が丸くねぇからな。」
「丸くするために回すのに、丸くないからぶれます。」
「そうだ。」
「矛盾文明。」
「矛盾じゃねぇ。最初は、だいたいそういうもんだ。」
「丸くないから、丸くしにくい。」
「ああ。」
「でも丸くしないと、ずっと丸くない。」
「そうだ。」
「厳しい世界です。」
「木の棒の世界を広げるな。」
ベルは刃を持った。
角度を確認する。
ロイが横から支えの位置を調整した。
ガドは腕を組んで見ている。
そして。
ベルの顔が変わった。
王宮で礼をしていた時とも違う。
水車の不具合を探す時とも、少し違う。
視線が細くなり、口元が引き締まる。
足で踏み板を動かす。
棒が回る。
そこへ、刃を当てる。
しゅる。
薄い削り屑が出た。
小雪は、じっと見ていた。
ベルの手。
刃を支える指。
踏み板を動かす足。
回る木。
落ちる削り屑。
そして。
真剣な横顔。
秋の光が、小屋の板の隙間から入っている。
その光が、ベルの短い金髪へ少しだけ触れていた。
黒い礼装ではない。
いつもの服。
袖をまくり、手元へ集中している。
外は冷たいのに、額にはうっすら汗が浮かんでいた。
小雪は観測した。
とても。
細かく。
ベルはしばらく削ってから、刃を離した。
「……小雪。」
「はい。」
「軸を見ろ。」
「見ています。」
「俺を見てた。」
「ベルも軸の一部です。」
「俺を部品にするな。」
「最重要部品。」
「だから、その言い方をやめろ。」
「敬語。」
「やめてください。」
ロイが笑った。
ガドも肩を震わせている。
ベルの耳が少し赤い。
「そんなに見られると、集中できねぇ。」
「分かりました。」
小雪は頷いた。
そして、またベルを見た。
「だから軸を見ろって言っただろ!」
「見ています。」
「俺を見てる。」
「ベルの方が、見ていて楽しいです。」
ベルの手が止まりかけた。
「……小雪。」
「はい。」
「今日は本当に危ないから。」
「はい。」
「頼む。」
「はい。」
「分かったな?」
「了解です。」
小雪は少し反省した。
刃物がある。
作業中のベルを動揺させるのは、よくない。
ベルの初心なハートは補填されない。
指も補填されない。
たぶん。
ベルはもう一度、踏み板を動かした。
木を回しながら削る作業は、思っていたより難しかった。
刃を強く当てれば、木が引っかかる。
弱すぎれば削れない。
足の動きが乱れれば、回転も乱れる。
刃の角度まで一定にしなければならない。
ロイが木枠を支え。
ガドが刃の状態を確認し、時々研ぐ。
ベルは何度も失敗した。
木が跳ねる。
削りすぎる。
表面が波打つ。
紐が外れる。
踏み板の戻りが悪くなる。
「丸くなりません。」
小雪が言った。
「一回でなるわけねぇ。」
ベルは額の汗を拭った。
冷たい空気の中で、吐いた息が少し白い。
それでも汗をかいている。
「回転が一定じゃねぇな。」
「足踏みが難しいですか。」
「ああ。手も足も同時だからな。」
「手足文明。」
「だから広げるな。」
「ベルは忙しい。」
「小さい輪みたいに言うな。」
「今日は大きい輪ベルではないのですか。」
「その話にも戻すな。」
「中くらいベル。」
「もう、ほどほどにしろ。」
「ほどほどベル。」
「……今、何の話だ?」
「輪ベル比較。」
「やめろ。」
ベルはもう一度、踏み板を踏んだ。
木が回る。
刃を当てる。
今度は、少し長い削り屑が出た。
薄く。
くるりと丸まって落ちる。
「出ました。」
「ああ。」
「削り屑が丸いです。」
「回して削ってるからな。」
「丸いものから、丸い屑。」
「まだ木は丸くなってねぇけどな。」
「でも、近づいています。」
ベルは少しだけ笑った。
「そうだな。」
小さな達成感が、そのまま顔へ出ていた。
技術者の顔。
というより。
少し、少年のような顔だった。
小雪は黙って見た。
今度は何も言わなかった。
大きな成長である。
しばらく続けると、棒の表面は少しずつ整ってきた。
完全な丸ではない。
ところどころ波打っている。
太い部分も。
細い部分も。
それでも、手だけで削ったものよりは、ずっと丸に近い。
ベルは棒を外し、作業台の上で転がした。
ごろ。
少し揺れた。
「丸いです。」
「まだだ。」
「丸に近いです。」
「それは、まあ。」
「丸のご近所さん。」
「何だ、それ。」
「完全な丸ではないが、近くには住んでいます。」
「丸の近所文明?」
「はい。」
「嫌だ。」
「敬語。」
「嫌です。」
ロイが棒を手に取り、何度か転がしてから頷いた。
「これは面白いですな。支えをもう少し固くして、刃を置ける台をつければ、もっと安定するでしょう。」
「刃を置く台。」
小雪が繰り返す。
「手だけで支えると、どうしても上下へ動きますからな。台へ預ければ、同じ高さから刃を当てやすい。」
「刃台文明。」
「そうだな。」
ベルも頷いた。
「次はそれだ。手だけで支えるより、刃を台に預ける。」
「ベルの手が減りますか。」
「手は減らねぇよ!」
「負担が。」
「ああ。それは減る。」
「よいことです。」
小雪はベルの手を見た。
指先が少し赤い。
冷えと作業のせいだろう。
「手、冷えていますか。」
小雪が訊くと、ベルは警戒した顔をした。
「……少し。」
「温めますか。」
「今は作業中だ。」
「終わったら。」
「予告するな。」
「なぜですか。」
「また心臓に悪い。」
「初心なハート。」
「そうだよ!」
小雪は頷いた。
終わったら確認しよう。
そう決めた。
昼は、川辺で簡単に食べることになった。
ベルが朝作ったパン。
豆の煮込みを入れた小さな壺。
冷えていたので、ガドの火床の端を借りて少し温める。
薪が燃える。
小さな火花が上がる。
壺から湯気が立った。
「温かいです。」
「熱いから気をつけろ。」
「はい。」
「舌を火傷するなよ。」
「補填されます。」
「そういう問題じゃねぇ。」
小雪は火を見た。
くべられた薪が、ゆっくり崩れていく。
形を失いながら。
熱になる。
光になる。
火になる。
「薪は、なくなります。」
「燃えてるからな。」
「なくなって、熱になる。」
「ああ。」
「燃料。」
小雪はぽつりと言った。
「どうした?」
「いえ。」
小雪は炎を見た。
薪が爆ぜる。
形のあったものが崩れ、別のものへ変わっていく。
「前に、トカゲのしっぽと言いましたが。」
「ああ。」
「補填の話か。」
「はい。」
補填。
そう呼ぶしかない力。
なくなったものを補う。
足りなくなったものを埋める。
小雪は、しばらく炎を見た。
「少し違うものの方が、近いかもしれません。」
「何が。」
「使い方です。」
ベルの眉が少し寄る。
「どういう意味だ。」
「私のスキルは、普通に使えば決して強いものではありませんでした。」
「いや。」
ベルは小雪を見る。
「今のおまえを見てると、とてもそうは思えねぇけどな。」
「使い方次第です。」
「……どういう意味だ、それ。」
その時だった。
火の中で薪が大きく爆ぜた。
ばちり、と火の粉が飛ぶ。
「あぶねぇ!」
ベルの腕が伸びた。
小雪の身体が、ぐっと引かれる。
一瞬で。
ベルの胸元へ。
思考が切れた。
近い。
小雪が顔を上げる。
ベルも。
そこで初めて、距離に気づいたらしい。
肩が、びくりと跳ねた。
「いや。これは。」
「はい。」
「すまん。」
「乙女ベル。」
「何でだ!」
「初心なハートが火傷寸前。」
「やめろ。字面がひどい。」
ベルは少しぎこちなく距離を取り直し、小さく咳払いした。
「……とりあえず食え。」
「はい。」
「冷めるぞ。」
「はい。」
小雪は豆を食べた。
温かい。
少し塩味。
パンとよく合う。
「おいしいです。」
「そうか。」
「ベルの手が作りました。」
「手だけじゃねぇ。」
「ベルが作りました。」
「……そうだな。」
ベルは少しだけ嬉しそうだった。
小雪はそれを見た。
胸の奥が少し温かい。
火のせいではない。
温かい豆のせいでもない。
分類はできない。
けれど。
悪くない。
小雪はそう思った。
ベルは先ほどの話を、もう一度聞かなかった。
小雪も、続きを言わなかった。
火だけが、ぱちぱちと燃えていた。
食後。
ガドが試作の棒を眺めながら言った。
「これがもっと上手くいけば、木の軸だけじゃなく、いずれ金属の棒にも応用できるかもしれねぇな。」
「金属は、もっと硬いです。」
小雪が言う。
「ああ。刃も機械も、もっと丈夫なものがいる。だが、丸い金属棒が作れれば、道具の精度は一気に上がる。」
ベルも頷いた。
「滑車の芯。ドリルの軸。巻き取り棒。全部に使える。」
「巻き取り棒。」
小雪は反応した。
「銅線を巻くためですか。」
「まだ銅線もねぇけどな。」
「でも、必要です。」
「ああ。」
「コイル。」
ベルが小雪を見る。
「本当に、そこへ行きたいんだな。」
「はい。」
「電磁石。」
「はい。」
「その先へ行って。」
ベルは少しだけ間を置いた。
「何をする。」
小雪は黙った。
電磁石。
発電。
モーター。
魔法を使わなくても動くもの。
誰でも使えるもの。
「魔法が必要ない世界を、見たいです。」
小雪は言った。
ベルはしばらく小雪を見ていた。
それから、頷く。
「なら、作る。」
「はい。」
「丸い棒からな。」
「……とても遠そうです。」
「遠いな。」
「でも、確かに近づいています。」
「そうだ。」
「ベルがいるので。」
ベルが咳き込んだ。
また耳が赤い。
小雪は少しだけ笑った。
ベルも、困ったように笑った。
午後は、刃を置くための小さな台を作った。
ロイが板を削る。
ベルが高さを調整する。
ガドが、刃を支える金具を作る。
小雪は記録した。
一、手だけで刃を持つとぶれる。
二、刃を置く台があると、角度が安定する。
三、手の負担が減る。
四、ベルの手は大事。
五、丸の近所文明。
六、完全な丸は遠い。
七、でも近づく。
八、集中するベルの横顔は格好いい。
「八を消せ。」
ベルが即座に言った。
「見ましたか。」
「見えた。」
「重要です。」
「丸い文明に関係ねぇ。」
「作業者の観測です。」
「いらねぇ。」
「ベルが集中すると、作業精度が上がります。」
「それは、まあ、そうかもしれねぇけど。」
「では重要です。」
「横顔はいらねぇ。」
「ベルの横顔は、私の観測精度に関係します。」
「もっと駄目になった。」
「敬語。」
「もっと駄目になりました。」
小雪は八を少し小さくした。
消しはしない。
ベルがため息を吐いた。
「最近、小さくすればいいと思ってるだろ。」
「はい。」
「認めるな。」
「小さくすると、ベルが許す確率が上がります。」
「許してねぇ。」
「でも、紙は返します。」
「……。」
「私も学習しました。」
「変なところだけ学習するな。」
ロイが笑っている。
ガドも、にやにやしていた。
ベルは耳を赤くしながら作業台へ戻った。
刃台を使うと、削り方は少し安定した。
踏み板を踏む。
棒が回る。
刃を台へ預け、少しずつ前へ出す。
削り屑が、先ほどより均一に出る。
しゅるしゅると、薄く巻かれて落ちる。
「綺麗です。」
小雪が言った。
「削り屑が?」
「はい。」
「そこか。」
「ベルも。」
ベルが刃を離した。
「……小雪。」
「はい。」
「作業中はやめろって言った。」
「すみません。」
「そこで素直に謝られると、余計困る。」
「困りますか。」
「困る。」
「でも、事実です。」
「さらに困る。」
ベルは額へ手を当てた。
静かなため息が漏れる。
「本当に、今日は駄目だな。」
「丸くなりませんか。」
「俺の心臓が。」
「初心なハート。」
「もう胸の中がぐるぐるだ。」
「回転文明。」
「それは違う。」
小雪は少し笑った。
ベルも、諦めたように笑った。
刃台を使って削った棒は、最初のものよりずっと丸に近かった。
手で転がす。
ころり。
まだ少し揺れる。
けれど、ごろごろではない。
「ころりです。」
「ころり、だな。」
「丸の近所から、丸の隣へ引っ越しました。」
「まだ丸には住めねぇのか。」
「はい。」
「厳しいな。」
「完全な丸は遠いです。」
「でも。」
ベルは棒を持ち上げた。
「近づいてる。」
「はい。」
秋の夕方の光が、削られた木肌に当たった。
小雪は、またベルの横顔を見た。
真剣で。
少し疲れていて。
少し嬉しそうだった。
王宮で第一王子の前にいた時の顔とは違う。
魔法が使えないと言われ、黙っていた時とも違う。
できないことを。
できるまでやる人の顔。
「ベル。」
「何だ。」
「やはり、あなたは有能です。」
ベルの手が止まった。
川の音がする。
水車が回っている。
ロイも。
ガドも。
何も言わなかった。
ベルはしばらく、手の中の棒を見ていた。
「……急だな。」
「はい。」
「今、言うことか。」
「今、思いました。」
「そうか。」
「はい。」
ベルは小さく息を吐いた。
「ありがとな。」
「はい。」
「でも、作業中に刺すな。」
「はい。」
「いや。」
ベルは少しだけ困ったように笑った。
「……今のは、まあ、いいけど。」
小雪も少し笑った。
夕方。
片づけを終え、二人は山の家へ戻った。
空気は朝よりさらに冷えている。
小雪はベルの外套を着ていた。
それでも、指先が少し冷たい。
ベルは工具箱と試作の丸い棒を持っている。
「持ちます。」
「いい。」
「手が冷えます。」
「おまえの方が冷える。」
「ベルも冷えます。」
「俺は動いてたから平気だ。」
「汗が冷えます。」
ベルが足を止めた。
「……それは、まあ。」
「風邪をひきます。」
「ひかねぇ。」
「実績。」
「蒸し返すな。」
「言わんこっちゃない。」
「それはもういい。」
小雪はベルの隣へ並んだ。
「山の家へ戻ったら、手を温めますか。」
ベルが少し躓いた。
「予告するなって言っただろ。」
「必要です。」
「何に。」
「心の準備。」
「それは俺の台詞だ。」
「準備してください。」
「準備しても刺さるんだよ。」
「では、準備は無意味ですか。」
「そんな文明みたいに言うな。」
「無準備文明。」
「嫌な文明だな。」
小雪は少しだけ笑った。
落ち葉が足元で鳴る。
秋が終わりへ近づいている音だった。
山の家へ着くと、ベルはすぐに火を起こした。
小雪は外套を脱ぎ、手袋も外す。
指先は、少し冷たい。
ベルは工具箱を置き、試作の丸い棒を作業台へ置いた。
それから、自分の手をこすった。
「ベル。」
「何だ。」
「手。」
「……冷えてるけど。」
「では。」
小雪はベルの手を取った。
ベルは一瞬固まった。
けれど。
今日は、逃げなかった。
小雪は自分の両手で、ベルの手を包む。
ベルの手は、川辺で作業していた時より冷たい。
大きい。
少し硬い。
作業の跡がある。
小雪の手も冷たい。
けれど、火の前で包んでいると、少しずつ温まっていく。
「どっちも冷たいな。」
ベルが言った。
「はい。」
「これ、意味あるか?」
「あります。」
「そうか?」
「二人分の冷たさが、一人分に減ります。」
「理屈が変だ。」
「では。」
小雪は少し考えた。
「二人分の温かさが、一箇所に集まります。」
ベルは黙った。
少し。
かなり。
黙った。
「……それは、まあ。」
「はい。」
「悪くねぇ、かも。」
小雪はベルを見る。
ベルは火を見ている。
耳は赤い。
火のせいだろうか。
たぶん。
違う。
「ベル。」
「何だ。」
「今日の横顔は、良かったです。」
「今言うのか。」
「はい。」
「手を握った状態で。」
「はい。」
「逃げ場がねぇ。」
「逃げますか。」
「逃げねぇ。」
「なぜですか。」
ベルは、小雪の手の中で少しだけ指を動かした。
逃げるためではない。
握り返した、と言うほどでもない。
ただ。
少しだけ触れた。
「……温かいから。」
小雪は瞬きをした。
「私の手が。」
「ああ。」
「まだ冷たいです。」
「でも、温かい。」
「ああ。」
「不思議です。」
「俺もだ。」
小雪は胸の奥を観測した。
ちりん。
今日も鈴は鳴っていない。
それでも、音がする。
小雪はベルの手を包んだまま、作業台の上の試作棒を見た。
完全な丸ではない。
けれど。
昨日より、丸い。
遠いものへ。
少し近づいた。
小雪とベルも、そうなのかもしれない。
完全な何かではない。
名前も、まだない。
でも。
近づいている。
丸の近所。
丸の隣。
いつか、本当の丸になるのかもしれない。
小雪は、そう思った。
分類はしない。
たぶん。
夜。
小雪は火のそばで、今日の記録用紙を広げた。
ベルは台所でスープを煮ている。
部屋は温かい。
外は冷たい。
水車の音は、遠くで小さく聞こえていた。
丸い文明進捗。
一、木を回しながら削ると、丸に近づく。
二、手と足を同時に使うので、ベルは忙しい。
三、刃を置く台があると、角度が安定する。
四、完全な丸は遠い。
五、でも近づく。
六、集中するベルの横顔は格好いい。
七、ベルはやはり有能。
八、二人分の温かさは、一箇所に集まる。
九、丸の近所から、丸の隣へ。
皿を持って戻ってきたベルが、紙を見た。
「……六。」
「はい。」
「小さくしろ。」
「しました。」
「最初から小さいな。」
「学習しました。」
「嫌な学習だ。」
ベルは七で黙った。
小雪も黙った。
「七。」
「はい。」
「これは。」
「大きくしました。」
「……。」
「消しません。」
「……分かった。」
ベルは八を見る。
耳が赤くなった。
「八は何だ。」
「今日の発見です。」
「科学か?」
「温度観測です。」
「そうか?」
「はい。」
「……まあ。」
ベルは少し考えた。
「消すなとは言わねぇ。」
「小さくしますか。」
「しなくていい。」
「はい。」
ベルは九まで読んだ。
少し笑う。
「丸の隣か。」
「はい。」
「まだ、丸には住めねぇんだな。」
「遠いです。」
「でも、近づいてる。」
「はい。」
小雪はベルを見る。
「私たちも、近づいていますか。」
ベルが皿を落としかけた。
スープが大きく揺れる。
「小雪。」
「はい。」
「それは。」
ベルは皿を持ち直した。
「何に。」
「分かりません。」
「分からないのに刺すな。」
「でも、近づいている気がします。」
ベルは顔を赤くした。
しばらく困ったように黙っていた。
やがて。
少しだけ笑う。
「……そうだな。」
「はい。」
「近づいてるかもな。」
小雪は頷いた。
記録へ書くか。
少し迷った。
けれど、今は書かなかった。
書けば、名前をつけなければいけない気がした。
まだ。
名前はない。
丸の近所。
丸の隣。
小雪とベルの何かも、まだその辺りにある。
けれど。
悪くない。
小雪はそう思った。
ベルがスープの皿を、小雪の前へ置く。
「食え。冷める。」
「はい。」
「今日は疲れただろ。早く寝ろよ。」
「決して床ではなく。」
「布団でな。」
「はい。」
「分かってきたな。」
「ベルが何度も言うので。」
「何度でも言う。」
「なぜですか。」
「おまえが床で寝ようとしてたからだよ。」
「今はもう寝ません。」
「ならいい。」
小雪はスープを飲んだ。
温かい。
ベルが起こした火。
ベルが作ったスープ。
ベルが作った、丸に近い棒。
ベルがいる山の家。
外は冷たい。
冬は近い。
それでも。
ここは温かい。
小雪は、それを今日はきちんと覚えておこうと思った。
山の家は温かい。
ベルがいる。
丸い文明は、少し進んだ。
そして。
小雪とベルも。
たぶん。
少しだけ、近づいた。




