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第三十二話 滑車文明と冷たい指

 秋が、少しずつ深くなっていた。


 朝の空気には、もう夏の名残がほとんどない。

 息を吐けば、ほんのわずかに白く霞み、庭の草には細かな露がついている。

 薪置き場の木も、触れれば手のひらへ冷たさが移るようになった。


 山の家の窓も、朝だけはうっすら曇る。


 小雪は白く曇った窓へ近づき、指先で一本の線を引いた。


「水です。」

「結露だな。」


 背後では、ベルが台所の火を起こしていた。


 薪の間へ細い木を差し込み、火を育てながら答える。


「結露。」

「冷えた窓に、空気の中の水がくっつくんだよ。」

「空気の水。」


 小雪は指先についた水滴を見る。


 何か覚えがある。


「……あ。露点ですか。」

「知ってるのか。」

「たぶん、中学生の頃に習いました。」

「たぶん?」

「うすぼんやりしています。」

「知識の霧が濃いな。」

「結露と同じです。」

「うまいこと言ったみたいな顔するな。」


 小雪はもう一本、窓へ線を引いた。


「水蒸気文明。」

「文明ではねぇな。」

「窓汗。」


 ベルが嫌そうな顔をした。


「……言い方。」

「窓が暑くて汗をかいているように見えます。」

「実際は冷えてるせいだけどな。」

「では、冷や汗。」

「もっと嫌になった。」


 ベルは火へ薪を足した。


 ぱち、と小さな音が鳴る。


 部屋の空気が、少しずつ温まり始めた。


「今日は滑車ですか。」

「ああ。」

「回転取引文明。」

「だから、その名前は嫌だって言ってるだろ。滑車文明にしてくれ。」

「なぜですか。」

「何か、ものすごく商人っぽい。」

「ベルは商人ではありません。」

「そうだな。」

「ベルは、おかんで、よいお父さんで、よい体の乙女チワワです。」


 ベルの手が止まった。


「……属性が渋滞してるぞ。」

「全てベルです。」

「何一つ嬉しくねぇ。」

「よい体も?」

「そこだけ抜き出すな!」


 ベルは片手で目元を覆い、そのまま天井を仰いだ。


 舞踏会は終わった。


 王宮からも帰ってきた。


 それでもベルは今日も朝から疲れている。


 素晴らしい。


 これこそ、いつもの日常風景である。




 朝食を終えると、二人は川辺へ向かった。


 小雪はいつもの服の上から、厚手の外套を着せられていた。


 着せられた。

 その表現が最も正しい。


 自分では必要ないと言ったのだが、ベルが必要だと言った。


 しかも、それは小雪のものではない。


「これは、ベルのですか。」

「ああ。」


 小雪は両腕を少し広げた。


 大きい。

 肩が余っている。


 袖もかなり長く、手を下ろせば指先の半分近くが隠れた。


「とても大きいです。」

「おまえの防寒具が薄すぎるんだよ。」

「私は冷えても問題ありません。」

「俺が嫌だ。」


 小雪はベルを見る。


「ベルが。」

「ああ。」

「私が冷えるのが。」

「嫌だ。」

「なぜですか。」


 ベルは少しだけ顔を背けた。


「見てて寒い。」

「見てて。」

「あと、手も冷たそうだ。」


 小雪は袖から自分の手を出してみた。


 白い指。


 確かに朝の空気へ晒され、少し冷えている。


 けれど、曲がる。

 動く。

 物も持てる。


「動きます。」

「そういう問題じゃねぇ。」

「ベルは難しいです。」

「おまえが雑すぎるんだよ。」


 ベルはそう言いながら、荷物の中から手袋を一組出した。


「使え。」

「ベルのですか。」

「予備だ。」

「大きいです。」

「我慢しろ。」

「はい。」


 小雪は手袋をはめた。


 そして手を開いた。


 指先が余る。


 握った。

 余った布が折れた。


 もう一度開いた。


「ベル。」

「何だ。」

「私の指が短くなりました。」

「なってねぇよ。」

「五本ある意味が薄いです。」

「ある。」


 小雪は近くにあった小さな釘を拾おうとした。


 掴めない。


 もう一度試す。

 掴めない。


 三度目。

 釘が転がった。


「指先文明を失いました。」

「寒さ対策の代償だ。」

「大きい文明は、小さい文明を滅ぼします。」

「壮大な話にするな。」

「不便です。」

「今度、手に合うやつを作るか買うかするから、今は我慢しろ。」

「はい。」


 小雪は手袋をはめた手を見る。


 ベルの手袋。


 とても大きい。

 とても作業しにくい。


 けれど。

 温かかった。


 小雪は、なぜか袖の中の鈴へ触れたくなった。


 今日は持ってきていない。

 川辺には、ベルが一緒にいる。


 鳴らす必要はない。


 そう思った。




 川辺には、すでにロイとガドが来ていた。


 水車は秋の冷たい水を受けながら、いつものように回っている。昨日油を差したばかりなので、軸の音も以前より静かだった。


 その横には、ロイが作った木の輪が三つ並べられている。


 大きな輪。

 中くらいの輪。

 小さな輪。


 外側には、革紐が外れにくいよう浅い溝が彫られていた。


 ベルは、そのうちの一つを持ち上げる。


「今日はこれを試す。」

「丸です。」

「滑車だ。」

「丸い文明の一部。」

「完全な丸には、まだ遠いけどな。」


 ロイが笑った。


「まだ多少の歪みはありますが、試験には十分でしょう。」


 ガドも腕を組んで頷く。


「長く使うなら、軸の周りは金具で補強した方がいいだろうが、まずは木で試せばいい。」


 小雪は三つの輪を順番に見た。


「大きいです。」

「見れば分かる。」

「中くらいです。」

「そうだな。」

「小さいです。」

「全部実況する気か。」

「比較です。」


 ベルは地面へしゃがみ込み、棒で簡単な図を描いた。


 水車の軸。

 その軸についた大きな輪。

 革紐。

 そして、その先で回る別の輪。


「水車側の輪が革紐を動かす。で、こっちの受ける側の輪を、小さくしたり大きくしたりする。」

「はい。」

「同じ速さで革紐が動くなら、小さい輪は一周するまでの距離が短い。」

「短い。」

「だから、その分、何度も回る。」


 小雪は小さい輪を見る。


「忙しい。」

「まあ、忙しいな。」

「小さい輪は働きすぎ、ですね。」

「急に労働環境が悪そうに聞こえるな。」


 ベルは今度、大きな輪を指した。


「逆に、受ける側を大きくすると、一周するまで時間がかかるから回転は遅くなる。その代わり、力は出しやすい。」

「遅いが強い。」

「そうだ。」

「大きい輪は力持ち。」

「今日は輪に性格をつける日なのか?」

「はい。」

「何か可愛いな。」

「はい?」


 ベルは一瞬止まった。


「……何でもない。」

「何が可愛いですか。」

「輪。」

「輪が。」

「そうだ。」

「本当に?」

「作業するぞ!」


 小雪は記録用紙を取り出した。


 一、小さい輪は忙しい。

 二、大きい輪は力持ち。

 三、速度と力を交換する。


 ロイが覗き込み、楽しそうに笑った。


「確かに、忙しい者と力持ちとも言えますな。」

「ロイさん。変な方向に肯定しないでくれ。」


 ベルは疲れた顔で言った。


 ガドはすでに笑っている。


「分かりやすいならいいじゃねぇか。」

「次から村中で『忙しい輪』とか呼ばれたら、俺は嫌だぞ。」

「違います。小さい輪です。」

「……もう遅そうだな。」


 ベルはため息を吐きながら、水車側の輪へ革紐をかけた。


 秋の空気で冷えた革は、夏より少し硬くなっている。


 ベルが引っ張り、張りを確かめた。


「硬いな。」

「寒いからですか。」

「たぶんな。革も冷えると硬くなる。」

「革も寒い。」

「生きてねぇけどな。」

「でも、硬くなります。」

「そうだな。」


 小雪は手元をもっとよく見ようと近づいた。


「近い。」

「観測です。」

「巻き込まれる。」

「はい。」

「髪。」

「今日は束ねています。」


 正確には今日の作業を確認していた際に、ベルが三つ編みに結った。


 つくづく器用なオカンである。


「袖は。」

「外套の中です。」

「手。」

「手袋の中です。」

「冷たくないか。」

「温かいです。」


 ベルの手が止まった。


「……そうか。」

「はい。」

「なら、よかった。」


 ベルは視線を革紐へ戻した。


 耳だけが少し赤い。


 秋は寒い。


 耳が冷えているのかもしれない。


 ……たぶん違う。




 最初の試験では、受ける側へ小さな輪を取り付けた。


 水車が回る。

 水車の軸についた大きな輪が回る。

 革紐が動く。


 そして、その先の小さな輪が一気に回り始めた。


「速いです。」

「ああ。」

「忙しい。」

「忙しいな。」

「過労です。」

「輪に労働基準を適用するな。」


 小さな輪は思っていた以上の速さで回った。


 軸の先へ仮につけた木片が、ぶん、と音を立てて震える。


「小雪、離れろ。」

「はい。」


 今度は素直に離れた。


 成長である。


 ベルはすぐに手を上げた。


「止めるぞ。」


 ロイが踏み板を操作する。


 軸の位置が少し動き、革紐が緩む。


 力が逃げる。


 小さな輪の回転は徐々に遅くなり、やがて止まった。


「速すぎるな。」


 ベルが言った。


「穴を開けるには?」

「ああ。これだけ速いと、今の軸じゃぶれる。摩擦も増えるし、木も焦げる。」

「小さい輪は、働かせすぎですね。」

「そうだな。」

「働かせすぎはよくありません。」

「急に優しいな。」

「ベルも働きすぎると風邪をひきます。」

「そっちへは戻すな。」

「言わんこっちゃない。」

「もうやめろ。」

「敬語。」

「もうやめてください。」

「はい。」


 ガドが笑いながら軸へ手を近づけた。


「少し熱を持ってるぞ。」


 ベルも確認する。


「回転が速い分、摩擦も増えたか。」

「熱や音や揺れへ、また力が逃げましたね。」

「ああ。」

「力は、よく逃げます。」

「本当にな。」

「逃げた分は減らす。」

「でも、全部は無理だ。」

「はい。」

「だから、使いたい速さへ調整する。」

「滑車文明。」


 小雪は頷いた。


 ベルが少し笑う。


「やっと名前がまともになったな。」

「回転取引文明でもよいです。」

「前言撤回。」


 次は、受ける側の輪を大きなものへ交換した。


 同じ革紐が動く。


 けれど、今度の輪はゆっくり回る。

 先ほどの小さな輪と比べれば、明らかに遅い。


 その代わり、軸へ負荷をかけても簡単には止まらなかった。


 ベルが頷く。


「こっちは力がある。」

「遅いです。」

「ああ。」

「でも強い。」

「そうだ。」

「大きい輪は力持ち。」

「その分類でいい。」

「穴を開けるには、こちらですか。」

「細い穴を速く開けるなら速度も欲しい。でも今は、まず安定だな。力が足りなくて木に負けるよりは、多少遅くても止まりにくい方がいい。」

「負けにくい。」

「ああ。」


 小雪はベルを見る。


「ベルみたいです。」


 ベルの手が止まった。


「何が。」

「時間がかかっても、できるまでやります。」

「……俺は大きい輪か。」

「力持ち。」

「褒めてるのか?」

「はい。」

「なら、まあ。」

「大きい輪ベル。」

「やっぱり嫌だ。」

「敬語。」

「やっぱり嫌です。」

「はい。」


 ロイとガドが同時に笑った。


 ベルは耳を赤くしながら、革紐の張りを調整した。


 昼前には、三種類全ての輪を試し終えた。


 小さい輪は速い。

 けれど、今の仕組みでは速すぎる。


 大きい輪は力がある。

 しかし、少し遅い。


 中くらいの輪は。


「ほどほどです。」


 小雪が言った。


「ああ。今の俺たちには、これくらいがちょうどいい。」

「中庸文明。」

「急に難しい言葉を出すな。」

「ほどほど文明。」

「そっちの方がいい。」

「ほどほど滑車文明。」

「悪くない。」


 ベルは中くらいの輪を持ち上げ、木枠へ取り付ける位置を確認した。


 小雪はその手元を覗き込む。


「近いぞ。」

「観測です。」

「またか。」

「ベルの手元は見たいです。」


 ベルが木槌を落としかけた。


「小雪。」

「はい。」

「そういう言い方をするな。」

「なぜですか。」

「俺の初心なハートが、滑車に巻き込まれる。」

「危険です。」

「おまえのせいだ。」

「止めますか。」

「止められるなら止めてくれ。」


 小雪は少し考えた。


「ベルの手を?」

「そっちじゃねぇ!」


 小雪は頷いた。


 ベルは何か言いたそうな顔をした。


 けれど諦めて作業へ戻った。


 その横顔は真剣だった。


 王宮で見たベルとは違う。


 黒い礼装ではない。

 いつもの服。

 まくった袖。

 少し冷えた空気。

 革紐を引く指。

 溝の深さを確かめる親指。


 技術者の顔。


 ベルは、ここでも格好いい。


 小雪はそう思った。


 けれど、言うと作業が止まる。


 今は言わなかった。


 成長である。


 たぶん。


 ベルは革紐の張りを確認していたが、ふと小雪の手を見た。


「小雪。」

「はい。」

「手、出せ。」


 小雪は素直に両手を差し出した。


 ベルの大きな手袋をはめた手。

 指先がかなり余っている。


 ベルは眉を寄せた。


「これじゃ、細かいものは掴めねぇな。」

「はい。指先文明が失われました。」

「やっぱり自分のやつが要るな。」

「でも、温かいです。」

「……そうか。」


 ベルは少しだけ口元を緩めた。


 それから、もう一度小雪の手を見る。


「冷えてるか?」

「分かりません。」

「分かれ。」

「でも、動きます。」

「だから、そういう問題じゃねぇんだよ。」


 ベルは小雪の片方の手袋を外した。


 秋の空気へ指先が触れる。


 冷たい。

 けれど、動く。


 問題はない。


 ベルが指先へ軽く触れた。


 そして、すぐに顔をしかめる。


「冷たい。」

「そうですか。」

「そうですか、じゃねぇ。」

「動きます。」

「動いても冷たいんだよ。」


 ベルはもう片方の手袋も外した。

 そのまま、小雪の両手を自分の手で包む。


 小雪は瞬きをした。


 ベルの手は温かかった。


 朝から火を起こしたからか。

 ずっと作業をしていたからか。

 生きているからか。


 小雪の指先が、ベルの手の中で少しずつ温まっていく。


「ベル。」

「何だ。」

「温かいです。」

「だろうな。」

「ベルの手。」

「……ああ。」

「私の手は、冷えていましたか。」

「冷えてた。」

「問題ありません。」

「俺が嫌だって言っただろ。」

「はい。」

「忘れるなよ。」

「分かりました。」


 そこで。


 ベルは、ようやく自分が何をしているのかに気づいたらしい。


 小雪の両手を。

 自分の両手で。

 包んでいる。


 川辺で。

 ロイとガドの前で。


 ベルの顔が、一瞬で赤くなった。


 ロイは急に木枠の寸法を測り始めた。


 一度測った場所を。

 もう一度。

 そして、さらにもう一度。


 ガドは火床用の道具を手に取り、真剣な顔で裏表を確認している。


 逆さまだった。


 結論。


 二人とも、とても不自然である。


「……あ。いや。これは。」


 ベルが小さく言った。


「温めています。」

「そうなんだが。」

「手当て。」

「そうなんだが。」

「違いますか。」

「違わねぇけど、人前。」

「二人は見ていません。」

「絶対見てる。」


 ガドが咳払いをした。


「見てねぇぞ。」


 ロイも続く。


「何も見ておりません。」

「もう少し自然な言い方があるだろ!」


 ベルが叫んだ。


 小雪は二人を見る。


「作業効率が落ちています。」

「おまえのせいだ!」

「なぜですか。」

「俺が知りてぇよ!」


 小雪は自分の手を見る。


 まだ、ベルの手の中にある。


「離しますか。」


 ベルは反射的に手を離しかけた。


 けれど。


 少し止まった。


 それから、小さく息を吐く。


「……もう少し。」

「はい。」

「まだ冷えてるからな。」

「そうですね。」

「それだけだ。」

「はい。」

「本当に、それだけだぞ。」

「分かっています。」

「納得してる顔じゃねぇな。」

「観測している顔です。」

「するな!」


 小雪はベルの手を見る。


 温かい。

 大きい。


 ところどころに作業の傷がある。


 指先は少し硬い。


 それなのに、小雪の指は壊れ物のように包まれている。


 小雪は胸の奥を観測した。


 ちりん。


 鈴は持ってきていない。


 けれど、似た音がした。


「ベル。」

「何だ。」

「ベルの手は、とても温かくて気持ちいいです。」


 ベルが完全に固まった。


 ガドが、今度こそ噴いた。


 ロイは空を見上げた。


「今日はよい秋晴れですな。」

「逃げるな、ロイさん!」

「何からでしょう。」

「俺も分からねぇよ!」

「ベル。」

「何だ!」

「初心なハートが。」

「滑車に巻き込まれたよ!」

「事故ですか。」

「おまえのせいだ!」


 小雪は少し笑った。


 ベルの顔も。

 耳も。

 手も。


 とても熱そうだった。


「ところで。」


 ガドが言った。


「そろそろ、滑車を回してもいいか?」


 ベルはしばらく黙った。


「……お願いします。」


 敬語だった。




 午後は、中くらいの輪を使って水車式ドリルを動かした。


 速すぎない。

 遅すぎない。


 革紐が安定して動き、その先の軸が回る。


 木へ刃を当てれば、少しずつ穴が開いていった。


 以前より焦げが少ない。

 ぶれも少ない。


 まだ完全ではない。


 それでも。


 確かに進歩している。


「滑車文明、成功です。」


 小雪が言った。


「試作成功だな。」


 ベルが訂正する。


「ほどほど成功。」

「それでいい。」

「中くらいの輪は、ほどほどで偉いです。」

「輪を褒めるな。」

「ベルも、もちろん偉いです。」


 ベルの耳がまた赤くなった。


「ついでみたいに刺すな。」

「ついでではありません。いつも本気です。」

「……余計刺さる。」

「痛いですか。」

「今日は熱い。」

「摩擦ですか。」

「違う。」

「手ですか。」

「……違、わねぇかもしれねぇ。」


 ベルは顔を背けた。


 小雪は自分の指先を見る。


 もう、冷たくない。

 ベルが温めたから。


 大きな手袋は、またはめている。


 作業はしにくい。

 指先文明は失われたまま。


 けれど。

 やはり温かかった。


 小雪は記録した。


 一、小さい輪は速い。忙しい。

 二、大きい輪は遅い。力持ち。

 三、中くらいの輪は、ほどほど。

 四、革紐は寒いと硬くなる。

 五、手も寒いと冷える。

 六、ベルの手は温かい。

 七、温かくて気持ちいい。

 八、ベルの初心なハートは滑車に巻き込まれる。

 九、滑車文明、試作成功。


「五から八を消せ。」


 ベルが言った。


「見てしまいましたか。」

「見えた。」

「全部、重要事項です。」

「滑車の記録じゃねぇ。」

「寒冷作業時の身体管理です。」

「六から八は違うだろ。」

「気温情報。」

「違う。」

「ベル温度情報。」

「もっと違う。」

「事故記録。」

「八だけは絶対違う。」

「安全管理です。」

「俺のハートの安全管理をするなら、まずおまえが黙れ。」

「無理です。」

「即答するな!」


 小雪は五から八を少し小さくした。


「やっぱり消してくれ。」

「消しません。」

「だろうな!」


 ベルは深いため息を吐いた。


 けれど、その後はもう消せと言わなかった。


 秋の風が吹く。

 水車が回る。

 革紐が動く。

 中くらいの輪が、ほどほどに回る。


 小雪の指先は、まだ温かかった。




 帰り道では、朝よりさらに空気が冷えていた。


 夕方が近づき、川辺から山の家へ続く道には落ち葉が増えている。


 小雪はベルの外套を着て。

 ベルの手袋をはめて。

 ベルの隣を歩いていた。


 ベルは荷物を持っている。


 中くらいの滑車。

 革紐。

 工具。


 そして、記録用紙。


「持ちます。」

「いい。」

「重くありませんか。」

「重くねぇ。」

「手が冷えます。」

「俺は平気だ。」

「私は平気ではないと言われました。」

「おまえの『平気』は信用ならねぇ。」

「ベルの『平気』は信用できますか。」

「俺は分かる。」

「でも、風邪をひきました。」

「もう蒸し返すな。」

「言わんこっちゃない。」

「言うと思った。」

「敬語。」

「言うと思いました。」

「自然です。」

「……これ、もう何回目だよ。」


 小雪は、隣を歩くベルの手を見る。


 荷物で塞がっている。


 さっきは温かかった手。


 今は、冷えているかもしれない。


「ベル。」

「何だ。」

「手は冷えていますか。」

「少しな。」

「温めますか。」


 ベルが足を止めた。


「……何を。」

「手。」

「おまえが?」

「はい。」

「荷物がある。」

「置きますか。」

「置かねぇ。」

「では、山の家で。」

「予告するな。」

「なぜですか。」

「心臓に悪い。」

「初心なハート。」

「そうだ。」

「今日、滑車に巻き込まれました。」

「まだ言うか。」

「補填されません。」

「されねぇ。」

「では、温めます。」


 ベルはしばらく黙った。


 それから顔を背けたまま、また歩き出す。


「……手が冷えてたらな。」

「はい。」

「冷えてなかったら、しなくていい。」

「確認します。」

「確認も心臓に悪い。」

「難しいです。」

「本当にな。」


 小雪は少しだけ笑った。


 秋の道は冷たい。


 けれど、山の家には火がある。


 スープもある。

 水車の音もある。

 ベルの手もある。


 冷たいものが増えていく季節に。


 温かいものも、少しずつ分かるようになってきた。


 小雪はそう思った。


 分類はしない。


 たぶん。




 山の家へ戻ると、ベルは荷物を置き、すぐに火を入れた。


 薪へ火が移る。


 ぱちぱちと音を立てながら、部屋が少しずつ温まり始める。


 小雪は大きな手袋を外した。


 指先は、まだ少し温かい。


 ベルは火の前へしゃがみ込み、自分の両手をこすり合わせていた。


「ベル。」

「何だ。」

「手。」


 ベルが固まった。


「冷えていませんか。」

「……少し。」

「では。」


 小雪は、ベルの手を取った。


 ベルの手は、川辺で小雪を温めた時より冷たかった。


 大きい。

 少し硬い。

 作業の跡がある。


 小雪はその両手を、自分の手で包んだ。


 今度は。

 小雪が温める番だった。


 ベルは完全に動かなくなった。


「小雪。」

「はい。」

「おまえの手も、まだ少し冷たい。」

「ベルよりは温かいです。」

「そうか?」

「はい。」

「……そうか。」


 ベルは手を引かなかった。


 小雪は火のそばで、ベルの手を包んでいる。


 火がぱちぱちと鳴る。

 外は冷えている。

 部屋は少しずつ温まっていく。


 ベルの耳は、火より分かりやすく赤かった。


「ベル。」

「何だ。」

「私の手は、温かいですか。」

「……温かい。」

「よかったです。」

「うん。」

「うん。」

「笑うな。」

「笑っていません。」

「少し笑ってる。」

「はい。」

「認めるな。」


 小雪は少し笑った。

 ベルも、困ったように笑った。


 火の音がする。


 遠くから、川の流れる音も聞こえる。


 今日の滑車文明は、ほどほどに成功した。


 小さい輪は忙しい。

 大きい輪は力持ち。

 中くらいの輪は、ほどほど。


 手は冷える。

 手は温められる。


 ベルの手は、火より静かに温かい。


 そして、小雪の手も、少しは温かいらしい。


 これも今日の記録に残すべきだろうか。


 小雪は少し迷った。


 たぶん、残す。

 ベルに見つかったら、小さくすればいい。


 消しはしない。

 そう決めた時、ベルが小さく言った。


「小雪。」

「はい。」

「ありがとな。」

「滑車ですか?」

「いや。」


 ベルは火を見たまま答えた。


「手。」


 小雪はベルを見た。


 ベルはこちらを見ていない。


 気まずそうに少し逸らされた横顔。

 その横で、赤くなった耳。


 手はまだ、小雪の手の中にある。


「はい。」

「あったかい。」


 小雪はベルの顔を見上げた。


 ベルの耳の方が、きっともっと温かい。


 そう言おうとして。

 やめた。


 言えば。

 ベルがまた慌てて、手を離してしまう気がしたから。


 それは。

 少し。


 嫌かもしれない。


 小雪は、そう思ってしまった。

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