第三十一話 勇者さま、山の家へ帰る
帰りの馬車は、静かだった。
窓の外では王宮の灯りが少しずつ遠ざかり、その向こうに広がる街の明かりも、進むにつれて一つ、また一つと少なくなっていく。
車輪の下を流れていた硬い石畳の音も、やがて柔らかな土の道を踏む音へ変わり、馬車の揺れ方まで少し緩やかになった。
王宮から、山へ。
小雪は窓の外を見ていた。
膝の上では、月光色のドレスの裾が馬車の揺れに合わせて静かに動いている。
王宮ではあれほど多くの灯りを受け、歩くたび、踊るたびに淡く光って見えた布も、今は薄暗い車内で少し眠そうだった。
向かいに座るベルも、まだ黒の礼装を着ている。
背筋は伸びていた。
けれど、王宮にいた時ほど硬くはない。
少し疲れている。
小雪には、そう見えた。
「ベル。」
「何だ。」
「疲れましたか。」
「まあな。」
「私は足を踏みませんでしたので、身体的損傷はないはずです。」
「踏まなかったのは偉かった。」
「はい。」
「でも今日は、なんかもう、いろいろ削られた。」
ベルはそう言って、窓の外へ目を向けた。
王宮の方ではない。
これから帰る山の方でもない。
どこでもない場所を見ているようだった。
小雪は、その横顔をしばらく見てから訊いた。
「私は失敗しましたか。」
ベルは少し黙った。
「いや。全く。」
「では。」
「ただ、ドライエン相手にあそこまで言うやつは、たぶん初めてだろうな。」
「あれを野放しにしたら、むしろ本家に失礼です。」
「だから、その本家って何なんだよ。」
「魔法の袋、いえ、未来の科学技術を持った親切な青いたぬきです。」
「異世界の動物か?」
「いえ。世界でもトップクラスのスターです。」
「よく分からん。」
「でしょうね。」
馬車の車輪が小さな石を踏み、車体が一度だけ大きく揺れた。
ベルの視線も少し下がる。
「でも。」
低い声が、静かな車内へ落ちた。
「……助かった。」
小雪はベルを見る。
ベルはまだ窓の外へ顔を向けている。
王宮の灯りはもう届かないのに、耳だけが少し赤かった。
「助かりましたか。」
「ああ。」
「では、よかったです。」
「よくはねぇ。いや、よかったけど。危なかったし、色々まずかった。でも、助かった。」
「難しいですね。」
「俺も、どう言えばいいのか分からねぇよ。」
ベルは小さく息を吐いた。
しばらくして、また口を開く。
「いろいろあってな。あいつの前だと、黙る癖がついちまった。」
「癖。」
「ああ。言い返したところで面倒が増える。こっちが何を言っても向こうは笑うし、下手に揉めれば家族にも周りにも迷惑がかかる。だったら、黙って終わるのを待った方が早いだろ。」
「早いです。」
「そうだろ。」
ベルは一度笑った。
けれど、その笑いはあまり楽しそうではなかった。
「そう思ってた。」
少し掠れた声だった。
小雪は、初めて山の家へ来た頃のベルを思い出した。
あの頃のベルは、今よりずっと尖っていた。
三下で。
チワワで。
ハリネズミのようでもあった。
人間は、まっすぐ生まれても曲げられる。
環境に。
周囲に。
経験に。
何度も繰り返された出来事に。
それでもベルは、曲げられたまま何もしなかったわけではない。
魔法のない自分にできることを探し、国外へ出て、技術を学び、知識を持ち帰った。誰かに笑われても、自分を磨くことだけはやめなかった。
努力を続ける人間を、誰が笑えるのだろう。
誰が踏みにじってよいのだろう。
そんな権利は、誰にもないはずだ。
「ベルは、落ちこぼれではありません。」
小雪は言った。
ベルの口元に浮かんでいた薄い笑みが止まる。
「……まだ言うのか。」
「はい。」
「王宮で十分言っただろ。」
「王宮では、王宮用です。」
「何だ、それ。」
「今は山の家用です。」
ベルは目を伏せた。
「魔法が使えねぇのは事実だ。」
「はい。」
「この国じゃ、それだけで下に見られる。」
「はい。」
「それも、また事実だ。」
「事実は、価値ではありません。」
ベルが黙った。
小雪は膝の上に置いた自分の手を見る。
「私の祝福も、最初はただ、自分だけを治す単純なものだと思っていました。」
「補填は、回復とは違うんだよな?」
「今はそう分かります。」
小雪は頷いた。
「でも、当時は分かりませんでした。人を治すこともできませんでしたし、他の候補たちの祝福に比べれば、分かりやすく強いものでもありませんでした。」
「補填自体、聞いたことねぇけどな。」
「珍しくはあったのでしょうね。特異、とは言えるかもしれません。」
小雪は淡々と続けた。
「けれど、最後には私が一人だけ残りました。」
ベルは黙って聞いていた。
その言葉を頭の中で何度か転がしたように、少ししてから訊く。
「そういえば。他の勇者候補って、どうなったんだ?」
小雪は顔を上げた。
「確か今回は、千五百人近く召喚されたんだろ。」
「はい。」
「魔王討伐が終わったなら、元の世界へ帰ったのか?」
小雪は答えなかった。
すぐには。
「……そうですね。そうだと思います。」
それ以上、小雪は何も言わなかった。
ベルは少し眉を寄せた。けれど、小雪が続きを言わないのを見ると、それ以上は聞かなかった。
代わりに、別のところへ思考が飛んだようだ。
「じゃあ、おまえもいつか帰るのか。」
「私ですか。」
急に話が自分へ戻り、小雪の思考が一瞬止まった。
ベルは、小雪とは違うところが気になったらしい。
「元の世界。帰りたいんじゃねぇのか。」
小雪は窓の外を見る。
暗い道。
遠い月。
帰る場所。
その言葉を、頭の中で少し考えた。
「……私には、まだ為すべきことがあります。」
「為すべきこと。」
「はい。それが終わるまでは、その先の未来を考えられません。」
ベルは黙った。
それから、ぽつりと言った。
「俺は、その未来にいるのか。」
「はい?」
小雪がベルを見る。
ベルの顔が、一瞬で固まった。
「い、いや。今のは違う。」
「違いますか。」
「違うというか、その。とりあえず、科学文明をもっと発展させねぇとな。」
耳まで赤い。
あまりにも分かりやすかった。
小雪は、思わず笑った。
笑った自分に、少しだけ驚いた。
ベルも一瞬動きを止め、それから盛大に狼狽えた。
「何で笑う。」
「悪くないと思いました。」
「何が。」
「ベルが。」
「だから急に刺すな!」
悪くない。
やはり、そう思ってしまう。
底の見えない場所へ、一本の糸が垂らされている。
小雪は、そんなことを少しだけ考えた。
そしてしばらく。
為すべきことも。
王宮も。
勇者も。
全部、忘れたふりをした。
目の前で耳を赤くしている青年だけを、見ていた。
山の家へ着いた時には、夜もかなり深くなっていた。
グランツ公爵家の黒塗りの馬車が、小さな山の家の前に止まっている。
ひどく場違いだった。
公爵家の紋章。
月光色のドレス。
黒の礼装。
その向こうには、いつもの小さな家がある。
少し傾いた柵。
積まれた薪。
干したままの布巾。
道具が並んだ作業台。
小雪は馬車を降りる時、ベルの手を取った。
王宮の階段を降りた時と同じように。
けれど、ここにあるのは磨かれた石ではない。
山の土だった。
ドレスの裾が地面へ触れそうになり、ベルがすぐに持ち上げる。
「待て。引っかける。」
「はい。」
「そっちに枝がある。」
「あ。」
「踏むな。」
「すみません。」
「泥もある。」
「本当です。」
ベルは足元とドレスを交互に見ながら、やけに慎重に進んでいる。
「……なんか、王宮より緊張するな。」
「なぜですか。」
「ドレスを破いたら、マダム・セリアに殺される。」
「修復魔法で。」
「細かいものは難しいんだろ。」
「そうでした。」
ベルは王宮で小雪を踊りへ導いた時よりも、少し必死な顔で玄関まで連れていった。
小雪はそれを見て、また少し笑った。
「ベル。」
「何だ。」
「王宮より、今の方が焦っていますね。」
「ドレスと山道の相性が悪すぎるんだよ。」
「確かに、戦闘には向きません。」
「だから戦闘するな。」
「はい。」
玄関へ入ると、空気が変わった。
王宮に満ちていた香水や花の匂いではない。
木。
薪。
少しの油。
水車のそばから持ち帰った革紐。
小雪は小さく息を吸った。
「戻りました。」
「そうだな。」
ベルも靴を脱ぎながら言った。
「帰ってきた。」
帰ってきた。
その言葉は、悪くなかった。
小雪は部屋を見た。
作業台。
記録用紙。
鈴。
鍋。
椅子。
ここには王はいない。
観客もいない。
拍手もない。
向けられる視線もほとんどない。
ベルだけいる。
小雪は袖の中に隠していた鈴を外し、いつもの場所へ置いた。
ちりん。
小さな音がした。
ベルがそれを見る。
「今日は鳴らさなかったな。」
「はい。」
「偉い。」
「ベルが、ずっとそばにいました。」
「……そうか。」
「はい。」
「なら、よかった。」
ベルは礼装の手袋を外した。
露わになった指先が、少し赤い。
「手。」
「何だ。」
「冷えましたか。」
「少しな。外は寒かったから。」
「温めますか。」
ベルが固まった。
「何を。」
「手。」
「自分で温める。」
「そうですか。」
「そうだ。」
「残念です。」
「何がだ。」
「観測対象が減りました。」
「観測するな。」
ベルはそう言いながら、両手をこすり合わせた。
耳が少し赤い。
指よりも、そちらの方が温かそうだった。
次に問題になったのは、ドレスだった。
ドレスは美しい。
舞踏会でも、十分に役に立った。
ベルの手で回った時には、月光色の布が確かにきれいに広がった。
けれど、構造は非常に面倒だった。
着る時は、マダム・セリアに教えられた順番を思い出しながら、どうにか一人で着られた。
しかし。
脱げない。
小雪は部屋の奥で、しばらくドレスと格闘していた。
紐。
留め具。
背中側の釦。
見えない場所にある、何か。
どれを先に外せばよいのか分からない。
破いてしまえば早い。
けれど、それをすれば間違いなくベルとマダム・セリアに怒られる。
「ベル。」
小雪は扉越しに呼んだ。
「何だ。」
「どうしても脱げません。」
外で何かが落ちる音がした。
「何が!?」
「ドレスです。」
「……ああ。」
ベルの声が、少し落ち着いた。
「それは、確かにそうかもしれねぇな。」
「構造が複雑です。」
「マダムに聞いとくべきだった。」
「ほどけません。」
「どこだ。」
ベルの声が近づきかける。
そして、すぐ止まった。
「いや。待て。俺は入らねぇ。」
「なぜですか。」
「なぜでもだ。」
「構造確認。」
「しない。」
「不便です。」
「不便でもだ。」
扉の向こうで、ベルが深呼吸しているようだった。
「背中側か?」
「はい。」
「紐はあるか。」
「あります。」
「上から順番に緩めろ。」
「すでに絡まりました。」
「何でだ。」
「見えません。そして、私は器用ではありません。」
「ゆっくりやればできる。」
「もう魔法で切ってもいいですか。」
「切るな!ドレスが紙吹雪になる未来しか見えねぇ!」
「では、風で。」
「駄目だ。この家まで吹き飛ぶ。」
「飛んで――」
「いや、それでは脱げねぇだろ。」
「そうですか。」
しばらく沈黙があった。
やがて、ベルの声がひどく慎重になる。
「……扉を少しだけ開けろ。」
「はい。」
「俺は後ろだけ見る。絶対に前は見ねぇ。」
「はい。」
「いや、待て。これ、本当に大丈夫か?」
「私は構いません。」
「俺が構うんだよ。」
「ベルは難しいです。」
「おまえが全ての事態を難しくしてるんだよ!」
結局、扉をほんの少しだけ開けることになった。
ベルは目を逸らしながら、背中側の紐だけを確認する。
顔が真っ赤だった。
「これは……絡まってるな。」
「はい。」
「何でこんな結び方になってんだ。着る時から間違えただろ。」
「戦闘服としては、あり得ない構造です。」
「舞踏会衣装を戦闘基準で評価するな!おまえの方があり得ねぇんだよ!」
ベルは指先だけを使い、絡まった紐をほどき始めた。
慎重に。
本当に慎重に。
手袋は外している。
指が小雪の背中へ触れないよう、必要以上に気をつけているのが分かった。
小雪はそれを観測した。
「ベル。」
「何だ。」
「指が器用ですね。」
「今言うな。」
「はい。」
「もう少しでほどける。」
「はい。」
「動くな。」
「はい。」
「息もするな。」
「苦しいです。」
「そこまではしなくていい。」
「難しいです。」
「……俺も難しい。」
やがて、紐がほどけた。
ベルはすぐに離れた。
「よし。あとは自分でできるか。」
「はい。」
「本当に?」
「たぶん。」
「たぶんか。」
「善処します。」
「信用ならねぇ。」
扉が閉まる。
小雪はようやくドレスを脱ぎ、いつもの服へ着替えた。
軽い。
動きやすい。
腕が上がる。
走れる。
戦える。
水車も見られる。
小雪は少し安心した。
月光色のドレスには布を掛け、丁寧に椅子へ置いた。
雑に扱えば、きっとベルとマダム・セリアに怒られる。
部屋へ戻ると、ベルは台所で水を飲んでいた。
顔がまだ赤い。
「着替えました。」
「ああ。」
「いつもの私です。」
ベルは小雪を見る。
それから、少しだけ息を吐いた。
「……落ち着くな。」
「ドレスは落ち着きませんか。」
「似合ってた。」
「はい。」
「でも、こっちも落ち着く。」
「いつもの服。」
「ああ。」
「どちらがよいですか。」
ベルが水を噴きかけた。
「急に何を聞く。」
「情報です。」
「どちらも、でいいだろ。」
「どちらも。」
「ドレスは綺麗だった。今の服は、おまえらしい。」
「私らしい。」
「ああ。」
「それは、よいことですか。」
「よいことだ。」
小雪は頷いた。
「では、よかったです。」
ベルは顔を背けた。
「……本当に今日は、心臓に悪い。」
「補填されません。」
「知ってる。」
「守りますか。」
「俺の心臓を?」
「はい。」
「なら、急に刺すな。」
「善処します。」
「信用ならねぇ。」
小雪は少しだけ笑った。
夜食は、王宮の料理ではなかった。
豆と野菜のスープ。
硬めのパン。
買っておいた林檎。
ベルが手早く作った、いつもの食事だった。
王宮では、皿の上へ美しい料理が並んでいた。
花の形に切られた野菜。
薄くきれいに盛られた肉。
光を含んだような菓子。
小雪も少しは食べた。
けれど、味をあまり覚えていない。
今、目の前にあるスープの方が、よく分かる。
温かい。
塩の味がする。
豆が柔らかい。
野菜が甘い。
「おいしいです。」
「そうか。」
「王宮より分かります。」
「分かる?」
「はい。食べ物です。」
「王宮の方が豪華だっただろ。」
「飾りは多かったです。」
「まあな。」
「ベルの料理は、食べ物です。」
「褒めてるのか、それ。」
「はい。」
「ならいい。」
ベルは向かい側へ座り、自分もスープを飲んだ。
もう黒い礼装ではない。
いつもの服。
まだ袖はまくっていない。
けれど、もう公爵家次男の顔でもなかった。
山の家のベル。
小雪はそれを見て、少し安心した。
「ベル。」
「何だ。」
「今日の黒い服も似合っていました。」
「食事中に、いきなり刺すな。」
「でも、私も今の服の方が落ち着きます。」
「……そうか。」
「はい。」
「それは、まあ。」
ベルは少しだけ笑った。
「悪くねぇ。」
小雪はスープを飲む。
温かい。
王宮で冷えたものが、少しずつ溶けていく。
「王宮は、冷えました。」
「ああ。」
「でも、山の家は温かいです。」
「火を入れてるからな。」
「それもあります。」
「他には。」
「スープ。」
「ああ。」
「川の音。」
「聞こえるか?」
「少し。」
「耳がいいな。」
「ベルもいます。」
「俺もか。」
「はい。」
ベルは、スープの椀を置いた。
黙った。
小雪は続ける。
「ベルがいるので、温かいです。」
「……おまえ、今日はどうした。俺を殺す気か。」
「初心なハートが瀕死ですか。」
「もう何回か死んだ気がする。勘弁してくれ。」
小雪は頷いた。
今は山の家である。
記録用紙がある。
そうだ。
書かなければならないことが、たくさんある。
小雪は少しだけ作業台へ目を向けた。
ベルがすぐに気づく。
「書くな。」
「まだ何もしていません。」
「顔が、書く顔だった。」
「便利ですね。」
「便利扱いするな。」
「はい。」
小雪は、もう一口スープを飲んだ。
記録はあとで書けばいい。
食後。
ベルは椅子へもたれ、ぐったりしていた。
疲れた、よりも。
ぐったり。
その方が正確である。
小雪は作業台へ座り、記録用紙を広げた。
「書くのか。」
「はい。」
「何を。」
「王宮舞踏会記録。」
「……すげぇ嫌な予感がする。」
小雪はペンを持った。
王宮舞踏会記録。
一、月光色のドレスは戦闘に不向き。
二、ベルの黒い正装は似合う。
三、ベルは王宮で別人になる。
四、でも耳は赤くなる。
五、ライナスは腰巾着ではない。
六、エリックも二号ではない。
七、ベルの悪友は、よい悪友。
八、ダンスで落ちかけたが、ベルが支えた。
九、ベルは落ちこぼれではない。
十、王宮は冷える。
十一、山の家は温かい。
十二、ベルがいる。
小雪は十二でペンを止めた。
これは、消す必要がない。
小さくする必要も。
たぶん。
ない。
ベルが立ち上がり、後ろから覗き込んだ。
「……一から八までは、まあいい。」
「はい。」
「でも四は消せ。」
「重要です。」
「重要じゃねぇ。」
「王宮でも、ベルはベルでした。」
ベルは口を閉じた。
「……そういう意味なら、まあ。」
「残します。」
「小さくしろ。」
「はい。」
小雪は四を少し小さくした。
「七は、あいつらが見たら喜ぶな。」
「渡しますか。」
「それはやめろ。」
「はい。」
ベルは九で止まった。
ベルは落ちこぼれではない。
小雪はペンを置いた。
「これは、小さくしません。」
「……。」
「消しません。」
「……そうか。」
「はい。」
ベルはしばらく紙を見ていた。
それから、小さく言った。
「ありがとな。」
「はい。」
「何回も言わせるな。」
「私は、何回でも聞きたいです。」
「俺が無理だ。」
「なぜですか。」
「照れる。」
「耳。」
「言うな。」
ベルは十二まで読んだ。
山の家は温かい。
ベルがいる。
そこでもう一度、黙った。
「十二。」
「はい。」
「これは。」
「事実です。」
「……そうか。」
「はい。」
「なら、残していい。」
「はい。」
ベルは少しだけ笑った。
疲れた顔だった。
けれど、王宮で第一王子の前に立っていた時の顔とは違う。
山の家のベル。
小雪は、その顔の方が好きだと思った。
好き。
その単語が、頭の中へ浮かぶ。
小雪は、そこで止まった。
顔が好きなのか。
山の家にいるベルが好きなのか。
ベルそのものが好きなのか。
分類しようとして。
やめた。
今はまだ、書けない。
翌朝。
秋の空は晴れていた。
昨夜の王宮が嘘だったように、山の朝は静かだった。
小雪はいつもの服で外へ出る。
ベルもいつもの服で、すでに薪を運んでいた。
袖をまくっている。
黒の礼装ではない。
それでも、小雪は足を止めた。
「ベル。」
「何だ。」
「いつもの服も、やはり似合いますね。」
薪が一本落ちた。
「朝から刺すな。」
「初心なハートが。」
「補填されねぇ。」
「大変です。」
「本当にな。」
ベルは落とした薪を拾った。
耳が赤い。
朝の冷たい空気の中でも、赤い。
小雪は少し安心した。
「今日は水車を見ますか。」
「ああ。しばらく、まともに触れてねぇからな。」
「滑車文明。」
「その準備だ。」
「王宮より、滑車が大切です。」
「比べるものか?」
「未来が懸かっていますから。」
「……それもそうか。」
二人は川辺へ向かった。
秋の道には、落ち葉が少し混じっている。
踏むたび、乾いた音がする。
川の水は、夏よりずっと冷たそうだった。
水車は変わらず回っている。
ぎい、と少し音を立てながら。
ベルは近づくなり軸を確認した。
「少し油が切れてるな。」
「足しますか。」
「ああ。熱が溜まりすぎるとよくねぇ。」
ベルは油を差し、軸の具合を確かめる。
手つきが早い。
慣れている。
王宮で礼をした手。
ダンスで小雪の腰を支えた手。
ドレスの紐をほどいた手。
薪を運ぶ手。
水車へ油を差す手。
全部、同じ手だった。
小雪はそれを見ていた。
「小雪。」
「はい。」
「軸を見ろ。」
「見ています。」
「俺の手を見てるだろ。」
「手も軸の一部です。」
「だから俺を部品にするな。」
「最重要部品。」
「やめろ。」
「敬語。」
「やめてください。」
「はい。」
ベルはため息を吐いた。
けれど、少し笑っていた。
王宮の重さは、まだ完全には消えていない。
それでも、水車の音へ少しずつ混ざり、薄くなっている。
小雪は、そう思った。
ベルは水車の横へしゃがみ、革紐を手に取った。
「次は滑車だな。」
「はい。」
「大きい輪と小さい輪で、回転の速さと力を調整する。」
「回転取引文明。」
「その名前は、まだ嫌だ。」
「速度と力を交換します。」
「内容は合ってるんだがな。」
「では、取引です。」
「もう滑車文明でいい。」
「はい。」
ベルは立ち上がり、川の流れを見る。
小雪も、その横へ立った。
「戻りましたね。」
小雪が言う。
「山の家へか。」
「はい。」
「水車へか。」
「ええ。」
「文明へか。」
「その通りです。」
ベルは少し笑った。
「返事がいいな。」
「全部、本当ですから。」
小雪は水車を見る。
昨日の王宮は遠い。
けれど、なかったことにはならない。
ベルが馬鹿にされたことも。
ベルが黙ったことも。
小雪が前へ出たことも。
王が青ざめたことも。
全部、残っている。
それでも。
今は水車が回っている。
ベルが隣にいる。
そして、次は滑車文明である。
「戻りました。」
小雪は言った。
「ベル文明に。」
「俺じゃねぇ。」
「でも、ベルが作っています。」
ベルは少し黙った。
それから、水車の軸へ手を置いた。
「……そうだな。」
「はい。」
「作ってる。」
水車が回る。
秋の川の音がする。
王宮よりずっと地味で。
王宮よりずっと分かりやすい音だった。
小雪は今日は、記録用紙を持っていなかった。
けれど。
これは覚えておこうと思った。
山の家は温かい。
水車は回る。
次は、滑車文明。
今は。
それでいい。




