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第三話 褒美は三下くん

 豆の煮える匂いが、山の家の中に広がった。


 小雪は作業台の前に座ったまま、鍋の方を見ていた。


 ベルは台所で、鍋の中身を木匙で混ぜている。

 火加減を見て、水を少し足し、棚に置かれていた乾燥草の束を確認し、そのうち食べられそうなものだけを選び取る。


 小雪は、しばし考えた。


 手際がいい。


 試しに聞いてみただけだったのに、まさか口先だけでなく本当に料理もこなせるとは。

 貴族の中にも、自分で食事を作れる人間がいたのか。


 しかも、しれっと混ぜていた、いや、混じってしまっていた薬草と毒草を見分けている。


 ふむ。


 なかなか使える。

 悪くない。

 有用。


「……おい。」

「はい。」

「……そんな目で見るな。」

「どんな目でしょうか。」

「それは部品を見る目だ。」

「一応、人として認識はしています。」

「一応ってなんだよ。」

「今は。」

「……もっと悪くなってる。」


 ベルは文句を言いながら、器に煮豆をよそった。

 そこへ、少し焼いた硬いパンを添える。


 小雪の家にあった食材だけで作ったにしては、随分まともな食事だった。


 小雪は器を受け取り、匙で一口食べた。


 豆は柔らかい。

 塩気がある。

 乾燥草の香りもする。


 そして、なにより、焦げていない。


「……美味しい。」


 小雪が言うと、ベルは少し得意そうに口の端を上げた。


「だろ? 王宮のシェフに弟子入りを泣いて頼まれたくらいだぜ。」

「久しぶりに味のあるものを食べました。」

「……賛辞のレベルが著しく低いな。」

「褒めています。」

「……本当か。」

「はい。なにより天井に張り付いていません。」

「どう考えても比較対象がひどすぎるだろ。」


 ベルは自分の器を持って、少し離れた椅子に座った。


 小雪は煮豆をもう一口食べる。


 温かい。

 味がある。

 体が食事を認識している。


 これはかなり重要なことだった。


「ふむ。三下のくせに基本スペックが高いですね。」

「因みに爵位も高いぞ。公爵家次男。」

「そんなチャラ設定はどうでもいいです。いちいち属性を誇るな。だから三下なんだぞ。」

「その三下ってなんなんだよ。……ってか、しょうがないだろ。」


 ベルは、言ってから少しだけ表情を硬くした。


「……魔法が全く使えねぇんだから、それくらいしか褒められるとこないだろ。」


 声も、わずかに低くなる。

 冗談の形をしていたが、冗談だけではなかった。


 小雪は匙を止めた。


「なるほど。生存戦略か。」

「……おまえな。」

「違いますか。」

「違わねぇから腹が立つ。」


 ベルは器の中の豆を見下ろした。


 なんだろう。

 この空気。


 何か言った方がいいのだろうか。


 この男、やっぱりちょっと面倒くさそうだな。


 小雪は目線をずらして、静かに豆を食んだ。


「……そこで黙って食うのかよ。」

「はい。」

「俺が少し傷ついた可能性は考えねぇのか。」

「考えました。」

「考えた結果がそれか。」

「はい。豆が冷めるので。」

「強いな、おまえ。」

「勇者なので。」

「そういう意味じゃねぇ。」


 小雪は煮豆を食べ終えた。

 器の中は空になった。


 少し名残惜しい。


「おかわりは。」


 ベルが言った。


 小雪は顔を上げた。


「ありますか。」

「少しならな。」

「食べます。」

「即答だな。」

「重要なので。」

「重要だな。」


 ベルは立ち上がり、鍋からもう一杯よそった。


 小雪はそれも食べた。


 温かい。

 味がある。

 焦げていない。

 天井に張り付いていない。


 かなりよい。


 食事が終わると、ベルは器を片づけ始めた。

 小雪はそれを見ていた。


「洗うんですか。」

「洗うだろ。」

「あとで復元すれば。」

「汚れた器を復元してどうする。洗え。」

「なるほど。」

「なるほどじゃねぇ。おまえ、普段どうしてた。」

「乾いたら削る。」

「原始的すぎるだろ。」

「魔法で。」

「魔法で原始的なことをするな。」


 ベルはぶつぶつ言いながら器を洗った。


 小雪は、しばしそれを観察した。


 水を汲む。

 灰を使う。

 布で拭う。

 乾かす。


 無駄がない。

 几帳面。


 手先が細かい上に料理ができて、几帳面。


 これも有用。


 片づけが終わると、ベルは手を拭いて作業台へ戻ってきた。


「で。」

「はい。」

「さっきの続きは何なんだ。鉄の棒に銅線を巻いて、何をする。」

「電磁石を作っています。」

「……でんじしゃく。」

「鉄に銅線を巻いて、電気を通すと磁石になるものです。」

「電気か。理屈は合いそうだが、目的は?」


 小雪は作業台に置いた鉄芯を指さした。


「魔法を使わない力を作りたいのです。」


 ベルの表情が少し変わった。

 先ほどまでの軽口が、わずかに引く。


「……魔法を使わない力。」

「はい。」

「何のために。」


 小雪は、しばし考えた。


「この世界で、科学振興をするつもりです。」

「科学振興?」

「私が元いた世界と同じ科学水準を目指します。」


 小雪はそう答えた。


 ベルは黙った。


 その琥珀色の目が、小雪を見る。

 先ほどまでの赤さは少し引いていた。


「……ずいぶん大きく出たな。」

「はい。」

「おまえ、さっき銅線巻くだけで鉄芯を潰してたよな。」

「不愉快です。」

「事実だろ。」

「不愉快です。」


 ベルは少し笑った。


「分かった。見せてみろ。」

「何をですか。」

「その、でんじしゃくとかいうやつの作り方だよ。巻けばいいんだろ。」

「はい。」

「幅は。」

「なるべく均一に。」

「重なりは。」

「ない方がいいはずです。」

「はず。」

「記憶が曖昧なので。」

「……大丈夫か、それ。」

「大丈夫ではないかもしれません。」

「……ますます不安だな。」


 そう言いながらも、ベルは鉄芯と銅線を手に取った。

 銅線の端を器用に押さえる。


 銅線が、一巻き、二巻き、三巻きと鉄芯に沿って並んでいく。


 隙間なく。

 重ならず。

 同じ幅で。


 小雪は、作業台の向こう側で、黙ってそれを見ていた。


 ベルはやはり器用だった。

 小雪が朝から三本潰し、二本折り、一本を天井へ飛ばした作業を、彼は初見でこなしていた。


 小雪は、しばし考えた。


 やっぱり有用。

 非常に有用。


「おい。」


 ベルが、手元を動かしたまま言った。


「見すぎだ。」

「はい。」

「俺は実験動物か。」

「助手候補です。」

「候補じゃなくて、さっき採用って言っただろ。」

「では、助手です。」


 小雪がそう言うと、ベルの指先が少しだけ止まった。


 銅線がわずかにずれる。

 彼はすぐにそれを直したが、耳が赤くなっていた。


 小雪は、しばし考えた。


 やはり熱があるのかもしれない。


「顔が赤いです。」

「暑いだけだ。」

「敬語。」

「暑いだけです。」

「窓を開けますか。」

「いらねぇ。……いりません。」

「そうですか。」


 小雪は頷いた。


 ベルは納得していなさそうな顔で、小雪をちらりと見る。

 だが、小雪が視線を返すと、なぜかすぐに手元へ目を落とした。


 銅線はまた綺麗に巻かれていく。


 小雪は、しばし考えた。


 この人間は、やはり使える。


 手先が器用。

 観察力もある。

 作業を雑に扱わない。

 声は大きいが、説明は聞く。

 口は悪いが、今のところ危険物を勝手に投げたりしない。


 あと、さっき小雪が壊しかけた椅子を、何も言わずに直していた。


 かなりよい。


「ベル、文字は書けますか。」

「……公爵家の人間を何だと思ってんだ。」

「三下。」

「それは違う。」

「では、書けますか。」

「書ける。……書けます。」

「計算は。」

「できる。」

「図面は。」

「読める。」


 貴族のくせに、図面まで読める。


「なぜですか?」

「ノルヴィーク共和国に留学してた。五年間。こっちでは肩身が狭いが、あそこは魔法を使える人間が少ない。世界でも随一の工業国だしな。……まあ、帰ってきたら何の意味もねぇけど。」


 すばらしい。


 この世界の最先端の科学技術に触れている人間が、目の前にいる。


 小雪は頷いた。


 有用。

 非常に有用。


「ベル。」

「何だ。」

「採用してよかったです。」

「何回目だよ。」

「重要なので。」

「……そうかよ。」

「敬語。」

「そうでございますね。」

「変。」

「うるせぇ。」

「敬語。」

「うるさいです。」

「それでいいです。」

「よくねぇだろ。」


 ベルは文句を言いながらも、また銅線を巻き始めた。


 小雪は作業台の引き出しを開けた。

 中から紙と封筒を取り出す。

 それから、ペンを探した。


 見当たらない。


 しばし考える。


 昨日の爆発で、どこかへ行ったのかもしれない。


「ベル、ペン。」

「どこにあるんだよ。」

「分かりません。」

「分からない物を持ってこさせるな。」

「では、探してください。」

「それ、助手の役目なのか。」

「はい。立派な役目です。」

「……そうか。」

「嫌ですか。」


 小雪がそう言うと、ベルは黙った。


 手元の銅線が止まる。


「……嫌とは、言ってねぇ。」

「敬語。」

「嫌とは、言っていません。」

「では、探してください。」

「……分かった。」

「敬語。」

「分かりました。」


 ベルは立ち上がった。


 口では不満そうだったが、棚の上や床の隅を探す動きは早い。

 横倒しになっていた箱を起こし、焦げた布をどかし、割れた瓶を器用に避けていく。


 小雪はそれを見ていた。


 やはり有用。


「これか。」


 ベルが、机の下からペンを拾い上げた。


 先端が少し焦げている。

 だが、たぶん使える。


「ありがとうございます。」

「……おう。」

「敬語。」

「どういたしまして。」


 小雪はペンを受け取り、紙に文字を書き始めた。


 ベルは何となく隣に立った。

 そして、紙面を覗き込む。


「何を書いてるんだ。」

「王への手紙です。」

「王への手紙をそんな雑な紙に書くな。」

「読めればいいでしょう。」

「よくねぇ。」

「では、後で清書してください。」

「俺が?」

「字は書けると言いました。」

「言ったけどな。」


 ベルは文句を言いかけた。


 小雪はじっと琥珀色の目を見つめた。

 ベルの頬が、また少しずつ赤く染まっていく。


「……まあ、清書くらいなら、してやらなくもない。」

「敬語。」

「して差し上げなくも、ありません。」

「変。」

「うるせぇ。」

「敬語。」

「うるさいです。」

「それでいいです。」

「いいのかよ。」


 小雪は手紙を書き続けた。


 内容は簡潔だった。


 先日の魔王討伐記念式典において、褒美を問われた件。

 改めて正式に希望を伝えること。

 希望する褒美は、ヴェルヴァルド・グランツ。


 そこまで読んだベルの動きが止まった。


「待て。」

「はい。」

「今、褒美として俺の名前を書かなかったか。」

「書きました。」

「世界を救った褒美が、俺……。」

「はい。あなたは非常にゆうよ……有能です。」


 ベルは、しばらく小雪を見た。


 顔がじわじわ赤くなる。

 怒っているようにも見える。

 だが、怒りだけではなさそうだった。


「おまえな。」

「はい。」

「人を褒美にするなんて、やっぱりおかしいだろ。」

「駄目ですか。」

「駄目に決まってんだろ。」

「敬語。」

「駄目に決まっています。」

「なぜですか。」

「……人間だからだ。」


 小雪は、しばし考えた。


 それはそうだった。


「では、表現を変えます。」


 小雪は紙に線を引き、書き直した。

 ベルは恐る恐る覗き込む。


 希望する褒美は、ヴェルヴァルド・グランツの身柄。


「悪化してる!」

「そうですか。」

「そうですかじゃねぇ。身柄って何だ。犯罪者か。捕虜か。俺は何なんだ。」

「助手です。」

「助手の身柄を要求するな。」

「では、何と書けばいいですか。」

「もっとこう、任命とか、派遣とか、補佐とか、そういう言葉があるだろ。」

「なるほど。」


 小雪は頷いた。

 そして、改めて書いた。


 褒賞として、ヴェルヴァルド・グランツを勇者付き研究補佐官に任命し、当方への常駐を許可されたし。


 ベルは黙った。


 小雪は彼を見た。


「これでいいですか。」

「……。」

「ベル。」

「……まあ。」

「はい。」

「まあ、それなら、多少は。」


 ベルは腕を組んだ。


 偉そうな顔をしようとしていた。

 だが、耳が赤いので失敗していた。


「だが、俺にも家の都合というものがある。」

「嫌なら帰っていいです。」

「嫌とは言ってねぇ。」

「敬語。」

「嫌とは言っていません。」

「では、いいですね。」

「よくはない。」

「嫌ですか。」

「嫌では、ない。」


 小雪は頷いた。


「では、いいですね。」

「よくはないと言ってるだろ。」

「敬語。」

「よくはありません。」

「では、嫌ですか。」

「嫌ではありません。」

「では、いいですね。」

「おまえ、話を丸め込むのが上手いな。」

「そうですか。」


 小雪は封筒に手紙を入れた。

 そして、ドアに向かって風魔法を軽く当てる。


 がたがた、と音がした。


 少しして、外に待機していた王城の事務官が、びくびくしながら扉を開けた。

 協議の結果を王城へ持ち帰るよう命じられていたらしく、ベルが来てからずっと馬車のそばで待っていた男だった。


「お、お呼びでしょうか、勇者様。」

「はい。これを王に。」


 小雪は封筒を差し出した。

 事務官は両手で受け取る。


 封筒の宛名を見た瞬間、顔色が少し悪くなった。


「こ、これは。」

「褒美の件です。」

「褒美。」

「はい。」


 事務官は、ちらりとベルを見た。

 ベルは顔を逸らした。


 なぜか、少しだけ落ち着かない様子だった。


 事務官は何かを察した顔になった。


 察しなくていいものを察した顔だった。


「し、至急、王城へお届けいたします。」

「お願いします。」

「は、はい!」


 事務官は封筒を胸に抱え、ほとんど逃げるように出ていった。


 小雪はそれを見送った。

 ベルも見送った。


 しばらく沈黙が落ちる。


 ベルが、低い声で言った。


「……今の事務官、何か誤解してなかったか。」

「何をですか。」

「分からねぇならいい。」

「敬語。」

「分からないなら、いいです。」

「そうですか。」


 小雪は作業台へ戻った。


「では、続きを。」

「何の。」

「コイルです。」

「この状況で?」

「はい。」

「俺の人生が王城に送られていったんだぞ。」

「手紙です。」

「中身は俺の人生だろうが。」

「敬語。」

「中身は俺の人生でしょうが。」

「大丈夫です。」

「何が。」

「王は断りません。」

「そこが一番怖いんだよ。」


 小雪は、しばし考えた。


 確かに、王は断らないだろう。


 小雪が魔王を討った勇者だから。

 小雪が、今この世界で最も強力な魔法使いだから。

 そして王が、小雪を恐れているから。


 だが、それを説明するのは面倒だった。


「ベル、続きを巻いてください。」

「……。」

「ベル。」

「……分かったよ。」

「敬語。」

「分かりました。」


 ベルは作業台に戻った。

 手元の銅線を取り、途中だった鉄芯に再び巻き始める。


 少しだけ動揺しているのか、一巻き目はわずかにずれた。

 だが、すぐに直る。


 小雪はそれを見ていた。


「やはり、綺麗です。」


 ベルの指が止まった。


「……何が。」

「巻き方です。」

「そっちか。」

「他に何が。」

「いや、何でもねぇ。」

「敬語。」

「何でもありません。」


 ベルは手元を見たまま答えた。


 頬が赤い。


 小雪は、しばし考えた。


 熱。

 もしくは、暑い。

 あるいは、よく分からない。


 だが、作業に支障はない。



  ◇ ◇ ◇



 王城では、その頃、大変なことになっていた。


 王は玉座に座っていなかった。


 立っていた。


 座ると落ち着かないからである。


 宰相は、封筒を手にして青ざめていた。

 王室事務官は、扉の近くで汗をかいていた。


 彼はいつも汗をかいているが、今日は特に汗をかいていた。


「それで。」


 王が低い声で言った。


「勇者殿は、結局何を望まれた。」


 宰相は封筒を見た。


 見たくなかった。

 だが、見ないわけにもいかなかった。


「ヴェルヴァルド・グランツ卿を、勇者付き研究補佐官に任命し、山奥の住居への常駐を許可されたし、と。」


 王は黙った。

 宰相も黙った。

 事務官も黙った。


 広い部屋に、嫌な沈黙が落ちる。


「……金銀財宝ではなく?」

「はい。」

「爵位でもなく?」

「はい。」

「領地でもなく?」

「はい。」

「魔導研究所の設備でもなく?」

「それも後日要求される可能性はあります。」

「やめよ。怖いことを言うな。」


 王は頭を抱えた。


 宰相も頭を抱えたかったが、職務上、我慢した。


「グランツ公爵家の次男か。」

「はい。」

「あの、魔法が使えぬ次男であろう。」

「そのように聞いております。」

「なぜ勇者殿が。」

「分かりません。」

「何かしたのか。」

「昨日の式典で、勇者様の近くにいたことは確認されております。魔物襲撃時には、勇者様を庇おうとしたとも。」


 王は目を閉じた。


「庇った。」

「はい。」

「勇者殿を。」

「はい。」

「この世界で最も強い、あの勇者殿を。」

「はい。」


 王は天を仰いだ。


「若いな。」


 宰相は静かに頷いた。


「若いですな。」

「しかし、勇者殿が望まれたなら、断るのは難しい。」

「はい。」

「難しいというか、無理だ。」

「はい。」

「グランツ公爵は怒るだろうな。」

「怒るでしょう。」

「だが、勇者殿の方が怖い。」

「はい。」


 王は深く息を吐いた。


 小雪が帰った後の式典会場を、王はまだ忘れられない。


 灰が舞う中、勇者は静かに立っていた。

 王城の壁に大穴を開けた魔物を、片手で止め、一瞬で燃やした。


 そして、帰った。


 料理が出る前に。


 王はあの時、心の底から思った。


 何が不満だったのかと。


 料理か。

 席か。

 褒美か。

 それとも、自分たちか。


 分からない。


 分からないものは、怖い。


「よし。」


 王は決断した。


「ヴェルヴァルド・グランツを、勇者付き研究補佐官に任命する。当面の間、勇者殿の研究補助のため、山奥の住居への常駐を認める。グランツ公爵家には、王命として伝えよ。」

「よろしいのですか。」

「よろしいかどうかではない。」


 王は疲れた顔で言った。


「勇者殿が、これを褒美として選ばれたのだ。ならば差し出すしかあるまい。」

「人聞きが悪いですな。」

「事実だ。」


 宰相は頷き、書類を用意した。


 王命の文書。

 任命状。

 グランツ公爵家への通知。

 勇者殿への回答。


 文面は丁寧に整えられた。


 要約すると、こうだった。


 どうぞ。



  ◇ ◇ ◇



 夕方、山奥の家に再び王室の馬車が来た。


 小雪は家の前で、四本目の電磁石を試していた。

 ベルは、その隣で五本目を巻いていた。


 五本目の方が綺麗だった。


 事務官が馬車から降りる。


 彼は朝より汗をかいていた。


「勇者コユキ・ハルノ様。王より、ご返答をお預かりしております。」

「はい。」


 小雪は封筒を受け取った。


 開く。

 読む。


 王命により、ヴェルヴァルド・グランツを勇者付き研究補佐官に任命すること。

 小雪の研究補助のため、当面の間、山奥の住居への常駐を許可すること。

 必要な物資については、後日別途相談すること。


 小雪は頷いた。


「通りました。」

「通ったのかよ。」


 ベルが言った。


 小雪は彼を見る。


「敬語。」

「通ったのですか。」

「はい。」

「本当に?」

「はい。」

「俺、今日からおまえの助手なのか。」

「はい。」

「常駐って書いてあるのか。」

「はい。」

「それはつまり、ここに住むということか。」

「解釈は一任します。」

「一任するな。……一任なさらないでください。」


 ベルは片手で顔を覆った。


 耳が赤い。

 首まで赤い。


 小雪は、しばし考えた。


 もう、これは熱かもしれない。


「ベル。」

「なんだ。」

「敬語。」

「何でしょうか。」

「体調が悪いなら、今日は帰ってください。」


 ベルの手が止まった。


 彼は顔を覆ったまま、しばらく黙っていた。

 それから、少しだけ指の隙間から小雪を見る。


「……悪くねぇ。」

「敬語。」

「悪くありません。」

「顔が赤いです。」

「暑いだけです。」

「夕方です。」

「夕方でも暑いんだよ。」

「敬語。」

「夕方でも暑いのです。」

「そうですか。」


 小雪は頷いた。


 ベルは大きく息を吐いた。

 それから、王命の文書を小雪の手元からそっと取る。


「見るだけだ。」

「はい。」


 彼は文書を読んだ。


 何度も読んだ。


 眉間に皺を寄せている。

 口元は引き結ばれている。


 とても不服そうな顔だった。


 だが、紙を持つ指は、妙に丁寧だった。


「……勇者付き研究補佐官。」

「はい。」

「常駐。」

「はい。」

「王命。」

「はい。」

「逃げ道がねぇな。」

「嫌ですか。」


 小雪が聞くと、ベルは文書から顔を上げた。


 少しだけ驚いたような顔だった。


「嫌なら、取り消します。」


 小雪はそう言った。


 それは本心だった。


 有能なので惜しい。

 非常に惜しい。


 だが、本人が嫌がるなら、作業効率は落ちる。

 無理に置いても邪魔になるかもしれない。


 ベルは何かを言おうとした。


 言えなかった。


 代わりに、視線だけが落ち着かなく揺れる。


 不機嫌そうで、偉そうで、口が悪そうな顔をしているのに、今はどこか迷子のようだった。


「……嫌じゃねぇ。」

「敬語。」

「嫌では、ありません。」

「では、いいですね。」

「よくはねぇ。」

「嫌ですか。」

「嫌ではありません。」

「では、いいですね。」

「だから、その理屈をやめろ。」

「敬語。」

「その理屈を、おやめください。」

「善処します。」

「絶対やめないやつだろ。」


 小雪は王命の文書を受け取った。

 そして、近くの棚にしまおうとした。


 ベルが慌てて止める。


「待て。そんな焦げた棚にしまうな。」

「では、どこに。」

「俺が持っておく。」

「必要ですか。」

「必要だ。」

「なぜ。」

「……正式な、任命状だからだ。」


 ベルは少しだけ声を落とした。


 小雪は、しばし考えた。


 よく分からないが、本人にとっては重要らしい。


「では、お願いします。」

「おう。」

「敬語。」

「お預かりします。」


 ベルは任命状を丁寧に折りたたんだ。

 大事そうに懐へ入れる。


 その仕草を見て、小雪は少しだけ不思議に思った。


 王命の紙一枚である。


 燃えれば復元すればいい。

 破れれば書き直せばいい。


 だが、ベルはそれを大事そうにした。


 小雪は、しばし考えた。


 紙ではなく、意味が大事なのかもしれない。


 よく分からない。


 だが、覚えておくことにした。


「では、ベル。」

「なんだ。」

「敬語。」

「何でしょうか。」

「明日から常駐です。」

「今日からじゃねぇのか。」

「荷物がないでしょう。」

「ある程度は馬に積んできた。」


 小雪は馬の方を見た。


 確かに、鞍の横に荷物が括りつけられている。


 小雪は、しばし考えた。


「泊まる気だったのですか。」

「違う。」

「違うのですか。」

「違う。念のためだ。」

「何の念ですか。」

「……色々だ。」

「そうですか。」


 小雪は頷いた。


 ベルは視線を逸らした。

 耳が赤かった。


 小雪は再び、しばし考えた。


 暑いのかもしれない。


「部屋はありません。」

「は?」

「寝る場所ならあります。」

「どこだ。」

「床。」

「却下だ。」

「では、作ってください。」

「俺が?」

「はい。助手なので。」

「助手は大工じゃねぇ。」

「できますか。」

「……できる。」

「有能ですね。」


 ベルは、今度こそ黙った。


 完全に黙った。


 小雪は首を傾げる。


「ベル?」

「……。」

「聞こえていますか。」

「……聞こえてる。」

「敬語。」

「聞こえて、おります。」

「では、部屋をお願いします。」

「……分かった。」

「敬語。」

「分かりました。」


 ベルは顔を背けたまま、荷物を取りに馬の方へ歩いていった。


 足取りは、少しふらついていた。


 小雪はそれを見送る。


 その後ろ姿を見て、しばし考えた。


 手先が器用。

 文字が書ける。

 計算ができる。

 図面が読める。

 料理ができる。

 家の修理もできるらしい。


 それに、呼ぶと来る。


 非常に便利。


 小雪は作業台に戻り、ベルが巻いた電磁石を手に取った。


 銅線は綺麗に並んでいる。


 小雪は小さく頷いた。


「採用してよかったです。」


 少し離れた場所で、荷物を下ろしていたベルが、派手に木箱を落とした。


 がしゃん、と音がする。


 小雪はそちらを見る。


「ベル。」

「……何でもねぇ。」

「敬語。」

「何でも、ありません。」

「箱が落ちました。」

「分かってる。……分かっております。」

「中身は壊れましたか。」

「たぶん壊れてねぇ。」

「敬語。」

「たぶん壊れておりません。」

「よかったです。」


 小雪はそう言って、再び電磁石を見た。


 ベルは木箱を抱えたまま、しばらく動かなかった。


 山奥の夕方は、少し冷える。


 だが、ベルの顔は、今日一番赤かった。

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