第三話 褒美は三下くん
豆の煮える匂いが、山の家の中に広がった。
小雪は作業台の前に座ったまま、鍋の方を見ていた。
ベルは台所で、鍋の中身を木匙で混ぜている。
火加減を見て、水を少し足し、棚に置かれていた乾燥草の束を確認し、そのうち食べられそうなものだけを選び取る。
小雪は、しばし考えた。
手際がいい。
試しに聞いてみただけだったのに、まさか口先だけでなく本当に料理もこなせるとは。
貴族の中にも、自分で食事を作れる人間がいたのか。
しかも、しれっと混ぜていた、いや、混じってしまっていた薬草と毒草を見分けている。
ふむ。
なかなか使える。
悪くない。
有用。
「……おい。」
「はい。」
「……そんな目で見るな。」
「どんな目でしょうか。」
「それは部品を見る目だ。」
「一応、人として認識はしています。」
「一応ってなんだよ。」
「今は。」
「……もっと悪くなってる。」
ベルは文句を言いながら、器に煮豆をよそった。
そこへ、少し焼いた硬いパンを添える。
小雪の家にあった食材だけで作ったにしては、随分まともな食事だった。
小雪は器を受け取り、匙で一口食べた。
豆は柔らかい。
塩気がある。
乾燥草の香りもする。
そして、なにより、焦げていない。
「……美味しい。」
小雪が言うと、ベルは少し得意そうに口の端を上げた。
「だろ? 王宮のシェフに弟子入りを泣いて頼まれたくらいだぜ。」
「久しぶりに味のあるものを食べました。」
「……賛辞のレベルが著しく低いな。」
「褒めています。」
「……本当か。」
「はい。なにより天井に張り付いていません。」
「どう考えても比較対象がひどすぎるだろ。」
ベルは自分の器を持って、少し離れた椅子に座った。
小雪は煮豆をもう一口食べる。
温かい。
味がある。
体が食事を認識している。
これはかなり重要なことだった。
「ふむ。三下のくせに基本スペックが高いですね。」
「因みに爵位も高いぞ。公爵家次男。」
「そんなチャラ設定はどうでもいいです。いちいち属性を誇るな。だから三下なんだぞ。」
「その三下ってなんなんだよ。……ってか、しょうがないだろ。」
ベルは、言ってから少しだけ表情を硬くした。
「……魔法が全く使えねぇんだから、それくらいしか褒められるとこないだろ。」
声も、わずかに低くなる。
冗談の形をしていたが、冗談だけではなかった。
小雪は匙を止めた。
「なるほど。生存戦略か。」
「……おまえな。」
「違いますか。」
「違わねぇから腹が立つ。」
ベルは器の中の豆を見下ろした。
なんだろう。
この空気。
何か言った方がいいのだろうか。
この男、やっぱりちょっと面倒くさそうだな。
小雪は目線をずらして、静かに豆を食んだ。
「……そこで黙って食うのかよ。」
「はい。」
「俺が少し傷ついた可能性は考えねぇのか。」
「考えました。」
「考えた結果がそれか。」
「はい。豆が冷めるので。」
「強いな、おまえ。」
「勇者なので。」
「そういう意味じゃねぇ。」
小雪は煮豆を食べ終えた。
器の中は空になった。
少し名残惜しい。
「おかわりは。」
ベルが言った。
小雪は顔を上げた。
「ありますか。」
「少しならな。」
「食べます。」
「即答だな。」
「重要なので。」
「重要だな。」
ベルは立ち上がり、鍋からもう一杯よそった。
小雪はそれも食べた。
温かい。
味がある。
焦げていない。
天井に張り付いていない。
かなりよい。
食事が終わると、ベルは器を片づけ始めた。
小雪はそれを見ていた。
「洗うんですか。」
「洗うだろ。」
「あとで復元すれば。」
「汚れた器を復元してどうする。洗え。」
「なるほど。」
「なるほどじゃねぇ。おまえ、普段どうしてた。」
「乾いたら削る。」
「原始的すぎるだろ。」
「魔法で。」
「魔法で原始的なことをするな。」
ベルはぶつぶつ言いながら器を洗った。
小雪は、しばしそれを観察した。
水を汲む。
灰を使う。
布で拭う。
乾かす。
無駄がない。
几帳面。
手先が細かい上に料理ができて、几帳面。
これも有用。
片づけが終わると、ベルは手を拭いて作業台へ戻ってきた。
「で。」
「はい。」
「さっきの続きは何なんだ。鉄の棒に銅線を巻いて、何をする。」
「電磁石を作っています。」
「……でんじしゃく。」
「鉄に銅線を巻いて、電気を通すと磁石になるものです。」
「電気か。理屈は合いそうだが、目的は?」
小雪は作業台に置いた鉄芯を指さした。
「魔法を使わない力を作りたいのです。」
ベルの表情が少し変わった。
先ほどまでの軽口が、わずかに引く。
「……魔法を使わない力。」
「はい。」
「何のために。」
小雪は、しばし考えた。
「この世界で、科学振興をするつもりです。」
「科学振興?」
「私が元いた世界と同じ科学水準を目指します。」
小雪はそう答えた。
ベルは黙った。
その琥珀色の目が、小雪を見る。
先ほどまでの赤さは少し引いていた。
「……ずいぶん大きく出たな。」
「はい。」
「おまえ、さっき銅線巻くだけで鉄芯を潰してたよな。」
「不愉快です。」
「事実だろ。」
「不愉快です。」
ベルは少し笑った。
「分かった。見せてみろ。」
「何をですか。」
「その、でんじしゃくとかいうやつの作り方だよ。巻けばいいんだろ。」
「はい。」
「幅は。」
「なるべく均一に。」
「重なりは。」
「ない方がいいはずです。」
「はず。」
「記憶が曖昧なので。」
「……大丈夫か、それ。」
「大丈夫ではないかもしれません。」
「……ますます不安だな。」
そう言いながらも、ベルは鉄芯と銅線を手に取った。
銅線の端を器用に押さえる。
銅線が、一巻き、二巻き、三巻きと鉄芯に沿って並んでいく。
隙間なく。
重ならず。
同じ幅で。
小雪は、作業台の向こう側で、黙ってそれを見ていた。
ベルはやはり器用だった。
小雪が朝から三本潰し、二本折り、一本を天井へ飛ばした作業を、彼は初見でこなしていた。
小雪は、しばし考えた。
やっぱり有用。
非常に有用。
「おい。」
ベルが、手元を動かしたまま言った。
「見すぎだ。」
「はい。」
「俺は実験動物か。」
「助手候補です。」
「候補じゃなくて、さっき採用って言っただろ。」
「では、助手です。」
小雪がそう言うと、ベルの指先が少しだけ止まった。
銅線がわずかにずれる。
彼はすぐにそれを直したが、耳が赤くなっていた。
小雪は、しばし考えた。
やはり熱があるのかもしれない。
「顔が赤いです。」
「暑いだけだ。」
「敬語。」
「暑いだけです。」
「窓を開けますか。」
「いらねぇ。……いりません。」
「そうですか。」
小雪は頷いた。
ベルは納得していなさそうな顔で、小雪をちらりと見る。
だが、小雪が視線を返すと、なぜかすぐに手元へ目を落とした。
銅線はまた綺麗に巻かれていく。
小雪は、しばし考えた。
この人間は、やはり使える。
手先が器用。
観察力もある。
作業を雑に扱わない。
声は大きいが、説明は聞く。
口は悪いが、今のところ危険物を勝手に投げたりしない。
あと、さっき小雪が壊しかけた椅子を、何も言わずに直していた。
かなりよい。
「ベル、文字は書けますか。」
「……公爵家の人間を何だと思ってんだ。」
「三下。」
「それは違う。」
「では、書けますか。」
「書ける。……書けます。」
「計算は。」
「できる。」
「図面は。」
「読める。」
貴族のくせに、図面まで読める。
「なぜですか?」
「ノルヴィーク共和国に留学してた。五年間。こっちでは肩身が狭いが、あそこは魔法を使える人間が少ない。世界でも随一の工業国だしな。……まあ、帰ってきたら何の意味もねぇけど。」
すばらしい。
この世界の最先端の科学技術に触れている人間が、目の前にいる。
小雪は頷いた。
有用。
非常に有用。
「ベル。」
「何だ。」
「採用してよかったです。」
「何回目だよ。」
「重要なので。」
「……そうかよ。」
「敬語。」
「そうでございますね。」
「変。」
「うるせぇ。」
「敬語。」
「うるさいです。」
「それでいいです。」
「よくねぇだろ。」
ベルは文句を言いながらも、また銅線を巻き始めた。
小雪は作業台の引き出しを開けた。
中から紙と封筒を取り出す。
それから、ペンを探した。
見当たらない。
しばし考える。
昨日の爆発で、どこかへ行ったのかもしれない。
「ベル、ペン。」
「どこにあるんだよ。」
「分かりません。」
「分からない物を持ってこさせるな。」
「では、探してください。」
「それ、助手の役目なのか。」
「はい。立派な役目です。」
「……そうか。」
「嫌ですか。」
小雪がそう言うと、ベルは黙った。
手元の銅線が止まる。
「……嫌とは、言ってねぇ。」
「敬語。」
「嫌とは、言っていません。」
「では、探してください。」
「……分かった。」
「敬語。」
「分かりました。」
ベルは立ち上がった。
口では不満そうだったが、棚の上や床の隅を探す動きは早い。
横倒しになっていた箱を起こし、焦げた布をどかし、割れた瓶を器用に避けていく。
小雪はそれを見ていた。
やはり有用。
「これか。」
ベルが、机の下からペンを拾い上げた。
先端が少し焦げている。
だが、たぶん使える。
「ありがとうございます。」
「……おう。」
「敬語。」
「どういたしまして。」
小雪はペンを受け取り、紙に文字を書き始めた。
ベルは何となく隣に立った。
そして、紙面を覗き込む。
「何を書いてるんだ。」
「王への手紙です。」
「王への手紙をそんな雑な紙に書くな。」
「読めればいいでしょう。」
「よくねぇ。」
「では、後で清書してください。」
「俺が?」
「字は書けると言いました。」
「言ったけどな。」
ベルは文句を言いかけた。
小雪はじっと琥珀色の目を見つめた。
ベルの頬が、また少しずつ赤く染まっていく。
「……まあ、清書くらいなら、してやらなくもない。」
「敬語。」
「して差し上げなくも、ありません。」
「変。」
「うるせぇ。」
「敬語。」
「うるさいです。」
「それでいいです。」
「いいのかよ。」
小雪は手紙を書き続けた。
内容は簡潔だった。
先日の魔王討伐記念式典において、褒美を問われた件。
改めて正式に希望を伝えること。
希望する褒美は、ヴェルヴァルド・グランツ。
そこまで読んだベルの動きが止まった。
「待て。」
「はい。」
「今、褒美として俺の名前を書かなかったか。」
「書きました。」
「世界を救った褒美が、俺……。」
「はい。あなたは非常にゆうよ……有能です。」
ベルは、しばらく小雪を見た。
顔がじわじわ赤くなる。
怒っているようにも見える。
だが、怒りだけではなさそうだった。
「おまえな。」
「はい。」
「人を褒美にするなんて、やっぱりおかしいだろ。」
「駄目ですか。」
「駄目に決まってんだろ。」
「敬語。」
「駄目に決まっています。」
「なぜですか。」
「……人間だからだ。」
小雪は、しばし考えた。
それはそうだった。
「では、表現を変えます。」
小雪は紙に線を引き、書き直した。
ベルは恐る恐る覗き込む。
希望する褒美は、ヴェルヴァルド・グランツの身柄。
「悪化してる!」
「そうですか。」
「そうですかじゃねぇ。身柄って何だ。犯罪者か。捕虜か。俺は何なんだ。」
「助手です。」
「助手の身柄を要求するな。」
「では、何と書けばいいですか。」
「もっとこう、任命とか、派遣とか、補佐とか、そういう言葉があるだろ。」
「なるほど。」
小雪は頷いた。
そして、改めて書いた。
褒賞として、ヴェルヴァルド・グランツを勇者付き研究補佐官に任命し、当方への常駐を許可されたし。
ベルは黙った。
小雪は彼を見た。
「これでいいですか。」
「……。」
「ベル。」
「……まあ。」
「はい。」
「まあ、それなら、多少は。」
ベルは腕を組んだ。
偉そうな顔をしようとしていた。
だが、耳が赤いので失敗していた。
「だが、俺にも家の都合というものがある。」
「嫌なら帰っていいです。」
「嫌とは言ってねぇ。」
「敬語。」
「嫌とは言っていません。」
「では、いいですね。」
「よくはない。」
「嫌ですか。」
「嫌では、ない。」
小雪は頷いた。
「では、いいですね。」
「よくはないと言ってるだろ。」
「敬語。」
「よくはありません。」
「では、嫌ですか。」
「嫌ではありません。」
「では、いいですね。」
「おまえ、話を丸め込むのが上手いな。」
「そうですか。」
小雪は封筒に手紙を入れた。
そして、ドアに向かって風魔法を軽く当てる。
がたがた、と音がした。
少しして、外に待機していた王城の事務官が、びくびくしながら扉を開けた。
協議の結果を王城へ持ち帰るよう命じられていたらしく、ベルが来てからずっと馬車のそばで待っていた男だった。
「お、お呼びでしょうか、勇者様。」
「はい。これを王に。」
小雪は封筒を差し出した。
事務官は両手で受け取る。
封筒の宛名を見た瞬間、顔色が少し悪くなった。
「こ、これは。」
「褒美の件です。」
「褒美。」
「はい。」
事務官は、ちらりとベルを見た。
ベルは顔を逸らした。
なぜか、少しだけ落ち着かない様子だった。
事務官は何かを察した顔になった。
察しなくていいものを察した顔だった。
「し、至急、王城へお届けいたします。」
「お願いします。」
「は、はい!」
事務官は封筒を胸に抱え、ほとんど逃げるように出ていった。
小雪はそれを見送った。
ベルも見送った。
しばらく沈黙が落ちる。
ベルが、低い声で言った。
「……今の事務官、何か誤解してなかったか。」
「何をですか。」
「分からねぇならいい。」
「敬語。」
「分からないなら、いいです。」
「そうですか。」
小雪は作業台へ戻った。
「では、続きを。」
「何の。」
「コイルです。」
「この状況で?」
「はい。」
「俺の人生が王城に送られていったんだぞ。」
「手紙です。」
「中身は俺の人生だろうが。」
「敬語。」
「中身は俺の人生でしょうが。」
「大丈夫です。」
「何が。」
「王は断りません。」
「そこが一番怖いんだよ。」
小雪は、しばし考えた。
確かに、王は断らないだろう。
小雪が魔王を討った勇者だから。
小雪が、今この世界で最も強力な魔法使いだから。
そして王が、小雪を恐れているから。
だが、それを説明するのは面倒だった。
「ベル、続きを巻いてください。」
「……。」
「ベル。」
「……分かったよ。」
「敬語。」
「分かりました。」
ベルは作業台に戻った。
手元の銅線を取り、途中だった鉄芯に再び巻き始める。
少しだけ動揺しているのか、一巻き目はわずかにずれた。
だが、すぐに直る。
小雪はそれを見ていた。
「やはり、綺麗です。」
ベルの指が止まった。
「……何が。」
「巻き方です。」
「そっちか。」
「他に何が。」
「いや、何でもねぇ。」
「敬語。」
「何でもありません。」
ベルは手元を見たまま答えた。
頬が赤い。
小雪は、しばし考えた。
熱。
もしくは、暑い。
あるいは、よく分からない。
だが、作業に支障はない。
◇ ◇ ◇
王城では、その頃、大変なことになっていた。
王は玉座に座っていなかった。
立っていた。
座ると落ち着かないからである。
宰相は、封筒を手にして青ざめていた。
王室事務官は、扉の近くで汗をかいていた。
彼はいつも汗をかいているが、今日は特に汗をかいていた。
「それで。」
王が低い声で言った。
「勇者殿は、結局何を望まれた。」
宰相は封筒を見た。
見たくなかった。
だが、見ないわけにもいかなかった。
「ヴェルヴァルド・グランツ卿を、勇者付き研究補佐官に任命し、山奥の住居への常駐を許可されたし、と。」
王は黙った。
宰相も黙った。
事務官も黙った。
広い部屋に、嫌な沈黙が落ちる。
「……金銀財宝ではなく?」
「はい。」
「爵位でもなく?」
「はい。」
「領地でもなく?」
「はい。」
「魔導研究所の設備でもなく?」
「それも後日要求される可能性はあります。」
「やめよ。怖いことを言うな。」
王は頭を抱えた。
宰相も頭を抱えたかったが、職務上、我慢した。
「グランツ公爵家の次男か。」
「はい。」
「あの、魔法が使えぬ次男であろう。」
「そのように聞いております。」
「なぜ勇者殿が。」
「分かりません。」
「何かしたのか。」
「昨日の式典で、勇者様の近くにいたことは確認されております。魔物襲撃時には、勇者様を庇おうとしたとも。」
王は目を閉じた。
「庇った。」
「はい。」
「勇者殿を。」
「はい。」
「この世界で最も強い、あの勇者殿を。」
「はい。」
王は天を仰いだ。
「若いな。」
宰相は静かに頷いた。
「若いですな。」
「しかし、勇者殿が望まれたなら、断るのは難しい。」
「はい。」
「難しいというか、無理だ。」
「はい。」
「グランツ公爵は怒るだろうな。」
「怒るでしょう。」
「だが、勇者殿の方が怖い。」
「はい。」
王は深く息を吐いた。
小雪が帰った後の式典会場を、王はまだ忘れられない。
灰が舞う中、勇者は静かに立っていた。
王城の壁に大穴を開けた魔物を、片手で止め、一瞬で燃やした。
そして、帰った。
料理が出る前に。
王はあの時、心の底から思った。
何が不満だったのかと。
料理か。
席か。
褒美か。
それとも、自分たちか。
分からない。
分からないものは、怖い。
「よし。」
王は決断した。
「ヴェルヴァルド・グランツを、勇者付き研究補佐官に任命する。当面の間、勇者殿の研究補助のため、山奥の住居への常駐を認める。グランツ公爵家には、王命として伝えよ。」
「よろしいのですか。」
「よろしいかどうかではない。」
王は疲れた顔で言った。
「勇者殿が、これを褒美として選ばれたのだ。ならば差し出すしかあるまい。」
「人聞きが悪いですな。」
「事実だ。」
宰相は頷き、書類を用意した。
王命の文書。
任命状。
グランツ公爵家への通知。
勇者殿への回答。
文面は丁寧に整えられた。
要約すると、こうだった。
どうぞ。
◇ ◇ ◇
夕方、山奥の家に再び王室の馬車が来た。
小雪は家の前で、四本目の電磁石を試していた。
ベルは、その隣で五本目を巻いていた。
五本目の方が綺麗だった。
事務官が馬車から降りる。
彼は朝より汗をかいていた。
「勇者コユキ・ハルノ様。王より、ご返答をお預かりしております。」
「はい。」
小雪は封筒を受け取った。
開く。
読む。
王命により、ヴェルヴァルド・グランツを勇者付き研究補佐官に任命すること。
小雪の研究補助のため、当面の間、山奥の住居への常駐を許可すること。
必要な物資については、後日別途相談すること。
小雪は頷いた。
「通りました。」
「通ったのかよ。」
ベルが言った。
小雪は彼を見る。
「敬語。」
「通ったのですか。」
「はい。」
「本当に?」
「はい。」
「俺、今日からおまえの助手なのか。」
「はい。」
「常駐って書いてあるのか。」
「はい。」
「それはつまり、ここに住むということか。」
「解釈は一任します。」
「一任するな。……一任なさらないでください。」
ベルは片手で顔を覆った。
耳が赤い。
首まで赤い。
小雪は、しばし考えた。
もう、これは熱かもしれない。
「ベル。」
「なんだ。」
「敬語。」
「何でしょうか。」
「体調が悪いなら、今日は帰ってください。」
ベルの手が止まった。
彼は顔を覆ったまま、しばらく黙っていた。
それから、少しだけ指の隙間から小雪を見る。
「……悪くねぇ。」
「敬語。」
「悪くありません。」
「顔が赤いです。」
「暑いだけです。」
「夕方です。」
「夕方でも暑いんだよ。」
「敬語。」
「夕方でも暑いのです。」
「そうですか。」
小雪は頷いた。
ベルは大きく息を吐いた。
それから、王命の文書を小雪の手元からそっと取る。
「見るだけだ。」
「はい。」
彼は文書を読んだ。
何度も読んだ。
眉間に皺を寄せている。
口元は引き結ばれている。
とても不服そうな顔だった。
だが、紙を持つ指は、妙に丁寧だった。
「……勇者付き研究補佐官。」
「はい。」
「常駐。」
「はい。」
「王命。」
「はい。」
「逃げ道がねぇな。」
「嫌ですか。」
小雪が聞くと、ベルは文書から顔を上げた。
少しだけ驚いたような顔だった。
「嫌なら、取り消します。」
小雪はそう言った。
それは本心だった。
有能なので惜しい。
非常に惜しい。
だが、本人が嫌がるなら、作業効率は落ちる。
無理に置いても邪魔になるかもしれない。
ベルは何かを言おうとした。
言えなかった。
代わりに、視線だけが落ち着かなく揺れる。
不機嫌そうで、偉そうで、口が悪そうな顔をしているのに、今はどこか迷子のようだった。
「……嫌じゃねぇ。」
「敬語。」
「嫌では、ありません。」
「では、いいですね。」
「よくはねぇ。」
「嫌ですか。」
「嫌ではありません。」
「では、いいですね。」
「だから、その理屈をやめろ。」
「敬語。」
「その理屈を、おやめください。」
「善処します。」
「絶対やめないやつだろ。」
小雪は王命の文書を受け取った。
そして、近くの棚にしまおうとした。
ベルが慌てて止める。
「待て。そんな焦げた棚にしまうな。」
「では、どこに。」
「俺が持っておく。」
「必要ですか。」
「必要だ。」
「なぜ。」
「……正式な、任命状だからだ。」
ベルは少しだけ声を落とした。
小雪は、しばし考えた。
よく分からないが、本人にとっては重要らしい。
「では、お願いします。」
「おう。」
「敬語。」
「お預かりします。」
ベルは任命状を丁寧に折りたたんだ。
大事そうに懐へ入れる。
その仕草を見て、小雪は少しだけ不思議に思った。
王命の紙一枚である。
燃えれば復元すればいい。
破れれば書き直せばいい。
だが、ベルはそれを大事そうにした。
小雪は、しばし考えた。
紙ではなく、意味が大事なのかもしれない。
よく分からない。
だが、覚えておくことにした。
「では、ベル。」
「なんだ。」
「敬語。」
「何でしょうか。」
「明日から常駐です。」
「今日からじゃねぇのか。」
「荷物がないでしょう。」
「ある程度は馬に積んできた。」
小雪は馬の方を見た。
確かに、鞍の横に荷物が括りつけられている。
小雪は、しばし考えた。
「泊まる気だったのですか。」
「違う。」
「違うのですか。」
「違う。念のためだ。」
「何の念ですか。」
「……色々だ。」
「そうですか。」
小雪は頷いた。
ベルは視線を逸らした。
耳が赤かった。
小雪は再び、しばし考えた。
暑いのかもしれない。
「部屋はありません。」
「は?」
「寝る場所ならあります。」
「どこだ。」
「床。」
「却下だ。」
「では、作ってください。」
「俺が?」
「はい。助手なので。」
「助手は大工じゃねぇ。」
「できますか。」
「……できる。」
「有能ですね。」
ベルは、今度こそ黙った。
完全に黙った。
小雪は首を傾げる。
「ベル?」
「……。」
「聞こえていますか。」
「……聞こえてる。」
「敬語。」
「聞こえて、おります。」
「では、部屋をお願いします。」
「……分かった。」
「敬語。」
「分かりました。」
ベルは顔を背けたまま、荷物を取りに馬の方へ歩いていった。
足取りは、少しふらついていた。
小雪はそれを見送る。
その後ろ姿を見て、しばし考えた。
手先が器用。
文字が書ける。
計算ができる。
図面が読める。
料理ができる。
家の修理もできるらしい。
それに、呼ぶと来る。
非常に便利。
小雪は作業台に戻り、ベルが巻いた電磁石を手に取った。
銅線は綺麗に並んでいる。
小雪は小さく頷いた。
「採用してよかったです。」
少し離れた場所で、荷物を下ろしていたベルが、派手に木箱を落とした。
がしゃん、と音がする。
小雪はそちらを見る。
「ベル。」
「……何でもねぇ。」
「敬語。」
「何でも、ありません。」
「箱が落ちました。」
「分かってる。……分かっております。」
「中身は壊れましたか。」
「たぶん壊れてねぇ。」
「敬語。」
「たぶん壊れておりません。」
「よかったです。」
小雪はそう言って、再び電磁石を見た。
ベルは木箱を抱えたまま、しばらく動かなかった。
山奥の夕方は、少し冷える。
だが、ベルの顔は、今日一番赤かった。




