第二十九話 勇者さま、王宮で踊る
王宮舞踏会の日が来た。
秋の夕暮れだった。
夏の湿った熱はとうに消え、空は高く、薄く、どこか冷たい。山の木々も少しずつ色づき始め、川の音や虫の声まで、夏より遠く澄んで聞こえる。
そんな山の家の前に、今日はグランツ公爵家から迎えの馬車が来ていた。
黒塗りの車体には公爵家の紋章が入り、扉や金具まで丁寧に磨かれている。村で荷物を運ぶ馬車とも、街へ買い出しに行く時の馬車とも違う。
とても。
王宮へ行くための馬車だった。
小雪は、山の家の玄関前に立っていた。
身につけているのは、マダム・セリアが仕立てた月光色のドレスである。
銀灰色の布へ、淡い青の刺繍が入っている。真っ白ではないのに、小雪の長い白髪と並ぶと、月の光を薄くまとったように見えた。
袖は長く、手首のあたりだけがわずかに透けている。裾は重すぎず、身体を動かせば静かに揺れる。
靴にも、白と銀の控えめな装飾が施されていた。ベルの上背に合わせるため、普段なら絶対に選ばないほど高い踵だったが、マダム・セリアは小雪の歩き方や動きやすさまで考えてくれたらしい。
走るには向かない。
戦闘にも向かない。
けれど、最低限、何かを避けることくらいはできそうだった。
「今回は戦闘ではありません。」
小雪は、自分自身へ言い聞かせるように呟いた。
背後から声がした。
「頼むから、本当にそうしてくれ。」
小雪は振り向いた。
そして。
少し止まった。
ベルがいた。
着替えを終えたばかりなのだろう。少し窮屈そうな襟元へ指を入れ、首を動かしている。
黒の礼装だった。
深い黒の上着には、華美な装飾がほとんどない。それでも、生地の質と仕立てのよさだけで、肩から胸、腰へ落ちる線がひどく綺麗に見える。
普段より身体の輪郭がはっきりしていた。
袖口と襟元には、控えめな金の刺繍。
いつも少し跳ねている短い金髪も今日は丁寧に整えられ、琥珀色の目まで普段より鋭く見える。
山の家で鍋を持つ人ではない。
水車の横で袖をまくる人でもない。
雨の中で上着を脱ぐ人でもない。
公爵家次男。
ヴェルヴァルド・グランツ。
小雪は、しばらく見ていた。
「小雪。」
「はい。」
「何だ。」
「黒が似合います。」
ベルの顔が、一瞬で赤くなった。
「……おまえな。」
「予想通りです。」
「こんな時に観測結果を出すな。」
「格好いいです。」
ベルが完全に停止した。
馬車の横に立つ御者も、従者も、聞こえなかったふりをしている。
よく訓練されているらしい。
「小雪。」
「はい。」
「馬車に乗る前に、俺を殺す気か。」
「殺しません。」
「初心なハートが死ぬ。」
「補填されませんか。」
「されねぇよ。」
「いつも大変ですね。」
「おまえのせいだろ。」
小雪は頷いた。
それから、もう一度ベルを見た。
「ベル。」
「何だ。」
「正装も有能そうです。」
ベルは何か言おうとした。
けれど、言葉が出なかったらしい。
耳まで赤い。
正装していても、赤くなる。
小雪は少し安心した。
公爵家次男でも。
ヴェルヴァルド・グランツでも。
ベルは、ベルだった。
そのベルが一度咳払いをした。
「……おまえも。」
「はい。」
「その。変じゃねぇ。」
「変ではない。」
「いや。違う。これは駄目だな。」
ベルは一度、小雪から目を逸らした。
それから、また戻す。
「……似合ってる。」
「はい。」
「すごく、似合ってる。」
小雪は瞬きをした。
ベルの声は小さかった。
けれど、はっきり聞こえた。
「ありがとうございます。」
「……どういたしまして。」
「敬語が自然です。」
「今それを言うな。」
秋の風が吹いた。
小雪の長い白髪が、月光色の肩へ流れる。
ベルはそれを見て、また一瞬だけ黙った。
小雪は袖の内側に隠した、小さな鈴へ触れた。
鳴らさない。
今は、持っているだけ。
王宮で冷えたら、ベルを見る。
緊急なら、鈴を鳴らす。
そう決めている。
「行くぞ。」
ベルが手を差し出した。
「はい。」
小雪は、その手を取った。
馬車へ乗るための手。
今日、小雪を王宮へ連れていくエスコートの手。
礼装用の手袋越しでも、ベルの手は温かかった。
王宮は、灯りに満ちていた。
高い門の向こうに白い石壁が続き、赤と金の旗が秋の風にはためいている。広い階段、磨かれた窓、途切れることなく入っていく馬車。
貴族たちが次々に降りていく。
笑い声。
衣擦れの音。
香水と花の匂い。
そして、あちこちに灯された魔法の光。
小雪は馬車の中から、それを見ていた。
王宮。
冷える場所。
けれど今日は、隣にベルがいる。
小雪は視線を横へ動かした。
ベルは窓の外を見ていた。
表情は、山の家にいる時とは少し違う。
顎を引き、背筋を伸ばし、目つきも静かだった。
公爵家次男の顔。
それでも。
小雪には、少し緊張しているように見えた。
「ベル。」
「今はヴェルヴァルド。」
「ヴェルヴァルド。」
ベルの肩が、ほんの少しだけ揺れた。
「何だ。」
「緊張していますか。」
「してねぇ。」
「しています。」
「……少しな。」
「王宮が嫌ですか。」
ベルは、すぐには答えなかった。
馬車の車輪が石畳を進む音がする。
遠くから、楽団の音まで聞こえ始めた。
「好きではないな。」
「はい。」
「でも。」
ベルは少し言葉を止めた。
「今日は、おまえがいる。」
小雪はベルを見る。
ベルは少しだけ目を逸らした。
「だから、まあ。いつもよりはましだ。」
「そうですか。」
「ああ。」
「私も、ベルがいるのでましです。」
ベルが口を閉じた。
そのまま目まで閉じる。
深呼吸。
「……小雪。」
「はい。」
「馬車を降りる直前に刺すな。」
「刺しましたか。」
「刺さったな。」
「瀕死ですか。」
「初心なハートがな。」
馬車が止まった。
扉が開く。
同時に、ベルの顔つきが変わった。
先ほどまで少し赤かった耳も、緊張した横顔も隠れる。
背筋がすっと伸びる。
表情が整う。
公爵家次男。
ヴェルヴァルド・グランツの顔。
小雪は、少し驚いた。
切り替わった。
これは記録したい。
けれど、今日は記録用紙を持っていない。
ベルに、絶対に持ってくるなと言われたからである。
たいへん不便だった。
先に馬車を降りたベルが振り返り、小雪へ手を差し出した。
「勇者殿。」
声まで整っている。
小雪はその手を見た。
「はい。」
手を取り、馬車から降りる。
階段の下で待っていた王宮の侍従が、二人へ深く礼をした。
「勇者コユキ様。ヴェルヴァルド・グランツ卿。お待ちしておりました。」
小雪は軽く頷いた。
ベルは自然に礼を返す。
その所作が、とてもきれいだった。
小雪は、少し長く見た。
「小雪。」
ベルが小声で言う。
「はい。」
「今は観測しすぎるな。」
「分かりますか。」
「分かる。」
「なぜですか。」
「顔。」
「顔。」
「観測する顔になってる。」
「有能ですね。」
「頼むから今は言うな。」
小雪は頷いた。
それから、改めて王宮を見上げる。
光が多い。
音も多い。
人も多い。
魔法の光も。
多い。
小雪は一瞬、指先が冷えたような気がした。
「小雪。」
ベルが、すぐに呼んだ。
「はい。」
「俺を見ろ。」
小雪はベルを見る。
黒の礼装。
整えられた金髪。
琥珀色の目。
少しだけ赤い耳。
小雪の手を取っている手。
冷えていたものが、少しだけ戻った。
「はい。」
「行くぞ。」
二人は、王宮の階段を上がった。
舞踏会場は広かった。
見上げるほど高い天井。
いくつもの灯りを抱えた大きなシャンデリア。
壁には花と布が飾られ、奥では楽団が演奏している。
中央には、鏡のように磨かれた広い床。
その周囲へ、色とりどりのドレスや礼装をまとった貴族たちが集まっていた。
宝石。
笑顔。
視線。
小雪が会場へ入った瞬間、そのいくつもが一斉にこちらを向いた。
勇者。
百年に一度現れる魔王を倒した者。
異世界から召喚された者たちの中でも、最も強い存在。
白い髪の異世界人。
王宮へ招かれた特別な人間。
小雪は、それらの視線を見た。
これは目立つ。
非常に。
「ベル。」
「何だ。」
「視線がとても多いです。」
「だろうな。」
「排除しますか。」
「するな。」
「では、観測。」
「それもほどほどにしろ。」
「はい。」
ベルは、小雪の隣を歩いた。
ほんの半歩だけ前。
小雪が進む場所を自然に空けるように。
誰かが近づきすぎれば静かに間へ入り、誰かが話しかけようとすれば礼儀正しく応じながら、必要以上には距離を詰めさせない。
小雪は気づいた。
ベルは、王宮での歩き方を知っている。
視線の受け流し方も。
人との距離の取り方も。
会話を終わらせる方法も。
誰かと誰かの間へ、目立たず入る方法も。
ベルは王宮でも、小雪のそばから離れない。
安心する。
「ベル。」
「今はヴェルヴァルド。」
「ヴェルヴァルド。」
また、少し効いたらしい。
「何だ。」
「エスコートが上手です。」
「……習ったからな。」
「誰に。」
「家で。」
「公爵家ですか。」
「ああ。」
「グランツ公爵家は有能です。」
「何で家ごと褒める。」
「ベルが、とても有能なので。」
ベルの耳が赤くなった。
「小雪。」
「はい。」
「王宮で刺すな。」
「初心なハートが瀕死。」
「今は声を潜めろ。」
「はい。」
その時だった。
横から、気安い声が飛んできた。
「おいおいおい。誰かと思ったら、ヴェルじゃねぇか。」
「本物か?」
「本物だ。なんか顔が赤いな。」
ベルの肩が、分かりやすく落ちた。
「……来た。」
小雪は声の方を見る。
二人の青年が立っていた。
一人は茶色の髪で、よく笑う顔。
もう一人は黒灰色の髪で、少し眠そうな目をしている。
二人ともきちんと礼装を着ているのに、どこか気安い。
小雪は見覚えのある顔を見て言った。
「あ。」
茶髪の青年が笑顔で近づいてくる。
「久しぶりだな、ヴェル。おまえ、勇者さまと一緒に暮らしてるんだって?隅に置けねぇな。」
小雪は言った。
「三下の腰巾着。」
青年が固まった。
「違う! ライナスだ!」
灰髪の青年が横で笑いを堪えている。
「じゃあ俺は、腰巾着二号か?」
「二号ですか。」
「違う。エリックだ。」
「ライナスとエリック。」
「そうだ!」
ライナスは小雪を見て、少しだけ姿勢を正した。
「勇者様にお目にかかれて光栄です。ライナス・ヘイルと申します。決して腰巾着ではありません。」
エリックも軽く礼をする。
「エリック・モーリスです。二号でもありません。」
「はい。」
小雪は頷いた。
「ベルの悪友。」
「それは否定しない。」
ライナスが言う。
エリックも頷いた。
「むしろ名誉だな。」
ベルは疲れた顔をした。
「おまえら、王宮で騒ぐなよ。」
「おお。」
ライナスが目を丸くする。
「あのヴェルが、まともなことを言ってるぞ。」
「たった数か月で何があったんだ?」
エリックも言った。
「水車と穴です。」
小雪が答えた。
二人が同時に止まる。
「水車と穴?」
「はい。」
ベルが即座に割って入った。
「説明しなくていい。」
「水車式ドリル。」
「しなくていい。」
「穴文明。」
「するな。」
ライナスはベルを見る。
次に、小雪を見る。
それから、にやりと笑った。
「安心した。」
「何がだ。」
「偉そうなところは変わってねぇな。勇者様相手でも。」
エリックも頷いた。
「顔つきはよくなった。偉そうなところは変わらないが。」
「うるせぇ。何か文句あるか。」
ベルが低く言った。
いつもの三下口調だった。
ライナスとエリックが目を合わせる。
それから、二人とも少し安心したように笑った。
「それだよ、それ。」
「久しぶりに聞いた。」
「聞きに来たんじゃねぇだろ。」
「半分は。」
「帰れ。」
「舞踏会に来たんだよ。」
小雪は三人を見た。
ベルが、少し違う。
ライナスとエリックの前では、肩の力が少し抜けている。
公爵家次男だけでもない。
山の家の助手だけでもない。
小雪の知らない、昔のベルが少し混ざっている。
悪くない。
「ベル。」
「何だ。」
「なんだか楽しそうです。」
「楽しそうじゃねぇ。」
「少しも?」
ベルは少し黙った。
「……少しだけな。」
ライナスが、にやりとした。
「勇者様。こいつ、昔からこういう顔をしてる時は楽しいんですよ。」
「ライナス。」
「あと、照れると怒る。」
「おい。エリックまで。」
「知っています。」
小雪が言うと、ベルが完全に固まった。
「おお!分かりますか。」
ライナスが目を輝かせる。
「はい。ベルは照れると怒ります。耳が赤くなります。初心なハートが頻繁に瀕死になります。」
「小雪!」
ベルが真っ赤になった。
ライナスは腹を抱えかけ、エリックも肩を震わせている。
「瀕死。」
「初心なハート。」
「忘れろ!」
「無理だろ。」
「一生使うぜ。」
「使うな!」
小雪は頷いた。
「良い悪友です。」
ベルは顔を覆った。
「今の流れで、何でそうなる。」
「楽しそうです。」
「……。」
「ベルが。」
ベルは少し黙った。
ライナスとエリックも、少しだけ黙る。
やがて、ライナスが小さく笑った。
「勇者様。いい目してますね。」
「目。」
「ヴェルを、ちゃんと見てる。」
小雪はベルを見る。
ベルは顔を背けていた。
耳が赤い。
黒の礼装で赤くなると、よく分かる。
「はい。」
小雪は頷いた。
「今も見ています。」
ベルがさらに固まった。
「小雪。」
「はい。」
「もう勘弁してくれ。」
「また瀕死の模様です。」
ライナスとエリックは、完全に楽しんでいた。
やがて、楽団の音が変わった。
最初の舞曲が始まる。
会場の空気が少し動き、人々が中央の床へ出ていく。
ベルが小雪を見た。
「行けるか。」
「はい。」
「本当に?」
「善処します。」
「信用ならねぇ。」
「練習しました。」
「そうだな。」
「ベルが相手なら、少しできます。」
ベルは一瞬、目を閉じた。
「……よし。本番だからな。」
それから姿勢を正し、手を差し出す。
「勇者殿。一曲、お願いできますか。」
声が整っている。
いつものベルより少し低く。
少しだけ。
甘く聞こえた。
「はい。」
小雪は、その手へ自分の手を重ねた。
ベルに導かれ、会場の中央へ進む。
視線が集まった。
長い白髪。
月光色のドレス。
黒い礼装のベル。
勇者と、公爵家次男。
小雪の胸の奥が、一瞬だけ冷えかけた。
視線が多い。
音も多い。
魔法の光も多い。
王宮の床は、山の家の床より冷たい。
ベルの手が、少しだけ強くなった。
「俺を見ろ。」
小さな声だった。
小雪はベルを見る。
琥珀色の目。
焦げ飴。
ベルも少し緊張している。
けれど、逃げない目。
「はい。」
「足元を見るな。」
「はい。」
「先に動くな。」
「はい。」
「俺を倒すな。」
「はい。」
「踏むな。」
「善処します。」
「そこは守れ。」
小雪は少しだけ口元を緩めた。
音楽が始まる。
一歩。
二歩。
三歩。
小雪は、ベルへ合わせた。
手の力。
腕の角度。
背中へ添えられた手。
呼吸。
練習と同じだった。
ここは山の家ではない。
王宮である。
人もいる。
視線もある。
魔法の光もある。
けれど、ベルは同じだった。
小雪はベルを見る。
冷たい床が、少し遠くなる。
周囲の視線も、少し遠くなる。
一歩。
二歩。
横へ。
戻る。
悪くない。
ベルの顔にも、ほんの少し安堵が浮かんだ。
小雪も思う。
できる。
ベルが相手なら。
そう思った、その時だった。
横をすり抜けた貴婦人のドレスの裾が、ほんのわずかに小雪の足元へ触れた。
反射が動く。
避ける。
踏まない。
制圧しない。
止まる。
いくつもの判断が、一瞬に重なった。
足の位置がずれる。
身体が、半歩遅れる。
このままでは、踊りの流れが崩れる。
周囲の視線が、一瞬だけ鋭くなる。
ベルが動いた。
迷わなかった。
小雪の腰へ手を回し、ぐっと引き寄せる。
そのまま身体を軽く浮かせるように支え、音楽へ合わせて大きく回った。
裾が、ふわりと広がる。
月光色の布が、王宮の光の下で大きな円を描く。
長い白髪が、秋の夜の灯りの中で揺れた。
失敗になるはずだった半歩が、ターンへ変わる。
崩れるはずだった流れが、見せ場になる。
小雪は一瞬、床から離れていた。
ベルの腕に支えられている。
腰にある手。
近い身体。
黒の礼装。
焦げ飴の目。
音楽。
視線。
拍手の気配。
そして、着地する。
ベルの手は離れなかった。
「……大丈夫か。」
小声だった。
「はい。」
「大丈夫だ。」
「ミスでした。」
「いや。」
ベルは小雪を見た。
「成功した。」
「ベルはすごいです。」
「今は褒めるな。」
「格好いいです。」
「だから今は!」
ベルの耳が赤くなる。
けれど、足は止まらない。
小雪を導き、そのまま次の動きへ戻す。
周囲から、小さな感嘆が漏れた。
拍手も少し聞こえる。
遠くから、ライナスとエリックの声もした。
「今の見たか。」
「見た。ヴェル、やるじゃねぇか。」
小雪はベルを見る。
「ベル。」
「何だ。」
「抱き上げました。」
「支えただけだ。」
「腰。」
「言うな。」
「近いです。」
「ダンスだからな。」
「もう終わりに近いです。」
「最後まで言うな。」
「はい。」
曲は終わりへ向かっていた。
最後の一歩。
回る。
戻る。
ベルが静かに礼をする。
小雪も、少し遅れて礼をした。
拍手が起きた。
大きすぎず。
小さすぎず。
それでも、確かに。
小雪は顔を上げた。
ベルは小さく息を吐いていた。
額には、うっすら汗。
秋なのに。
「ベル。」
「何だ。」
「汗。」
「おまえのせいだ。」
「緊張ですか。」
「半分な。」
「残り半分は。」
「おまえを落とさないためだ。」
「落ちませんでした。」
「ああ。」
「ベルが支えました。」
ベルは少しだけ笑った。
「そうだな。」
小雪は胸の奥を観測した。
ちりん。
鈴ではない。
けれど、近い。
王宮は冷たい。
それでも。
今は少しだけ、温かかった。
曲が終わり、二人は中央から戻った。
ライナスとエリックが待ち構えている。
「いやあ。見事だったな。」
ライナスが、にやにやしていた。
「いつの間に、あんな技を覚えたんだよ。ヴェル。」
「うるせぇ。」
ベルの三下口調が戻った。
エリックが嬉しそうに笑う。
「さっきまで公爵家次男だったのに。」
「今もだ。」
「今のはいつものヴェルだな。」
「黙れ。」
小雪は言った。
「どちらもベルです。有能で、格好いい。」
三人が止まった。
最初に動いたのはライナスだった。
声を上げて笑う。
「勇者様。本当にいい目してるな。」
「目。」
「こいつを、そう言える人は少ない。」
ベルは顔を背けた。
「余計なこと言うな。」
「褒めてるんだよ。」
「いらねぇ。」
「照れてる。」
「照れてねぇ。」
「耳。」
小雪が言った。
「赤いです。」
「小雪まで!」
エリックが笑う。
「変わったな。本当に。」
「変わってねぇ。」
「いや。変わった。」
今度は、ライナスの声も少しだけ真面目だった。
「前より、ずっといい顔してる。」
ベルは黙った。
小雪はベルを見る。
黒の礼装。
少しの汗。
赤い耳。
焦げ飴の目。
確かに。
良い顔だった。
「はい。」
小雪は頷いた。
「今日のベルは、すごく格好いいです。」
「小雪!」
「あ。」
小雪は少し考えた。
「今日も、です。」
ベルが完全に動かなくなった。
ライナスが口笛を吹く。
エリックは片手で顔を覆い、笑っていた。
「おい、ヴェル。生きてるか。」
「初心なハートが瀕死だな。」
「はい。瀕死です。」
小雪が言う。
「補填されません。」
「されねぇから困るんだよ!」
ベルがようやく叫んだ。
近くにいた貴族たちが、ちらりとこちらを見る。
ベルはすぐに姿勢を正した。
一度咳払い。
何事もなかった顔へ戻る。
ただし。
耳は赤い。
ライナスとエリックは、さらに笑った。
小雪は少しだけ思った。
楽しい。
王宮なのに。
冷える場所なのに。
ここにも、悪くないものが少しだけある。
ベルがいるから。
ベルの悪友がいるから。
小雪は、そのことを記録できないのが少し残念だった。
その時。
会場の空気が変わった。
笑い声の向こう側で、人垣がわずかに割れる。
あちこちに散っていた視線が、一つの方向へ流れた。
ライナスの笑顔が消える。
エリックも口を閉じた。
そして。
隣にいるベルの肩が、ほんの少しだけ固くなった。
「ベル。」
小雪が呼ぶ。
「……。」
ベルは答えなかった。
人々が空けた道の向こうから、一人の青年が歩いてくる。
華やかな金の髪。
王族らしい整った顔。
上質な白と金の礼装。
胸元には、王家の紋章。
その周囲には、数人の貴族子息が付き従っている。
誰もが道を空けた。
この国で。
恐らくベルより上の身分を持つ若者。
隣に立つベルから、わずかな緊張が伝わってきた。
小雪は、袖の中の鈴へ触れた。
鳴らさない。
まだ。
王宮の空気が。
また少しだけ、冷えた。




