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第二十八話 勇者さま、ダンスを習う

 ドレスの仕立てから数日後。


 山の家の中央から、机と椅子が消えた。


 正確には、消えたわけではない。ベルが部屋の端へ寄せたのである。


 作業台もずらされた。記録用紙も、危険物箱も、鈴も、鍋も、床の中央から壁際へ避難している。


 小雪は、妙に広くなった部屋を見回した。


「引っ越しですか。」

「違う。」

「では、床掃除。」

「昨日やった。」

「室内戦闘訓練。」

「俺が死ぬ。」


 ベルは額へ手を当て、深いため息を吐いた。


「……ダンスの練習だ。」

「ダンス。」

「そうだ。」

「ここで?」

「ここで。」

「王宮ではなく?」

「王宮でいきなりやる方が怖ぇだろ。」

「確かに。」


 小雪は頷いた。


 王宮で、いきなり踊る。


 たぶん失敗する。

 失敗すれば目立つ。

 目立てば面倒が増える。


 面倒が増えても小雪はあまり困らないが、きっとベルは疲弊する。


 初心なハートも、普通の心臓も補填されない。


 それは、よくない。


「ダンス練習ですか。」

「そうだ。」

「大変そうですね。」

「そうだな。」

「ベルが。」

「おまえもやるんだよ。というか、おまえのためにやるんだよ。」


 外は、すっかり秋の空になっていた。

 窓から入る風は夏より冷たく、床板も少しひんやりしている。


 水車は今日も回っている。


 けれど、今日の作業は休みだった。


 舞踏会まで、もうあまり日がない。


 ベルがそう決めた。


「私だけ練習するのですか。では今日は、ベルは休みですね。」

「俺は休みじゃねぇ。教師だ。」

「教師。」

「そうだ。」

「ベル先生。」


 ベルが少し固まった。


「……やめろ。」

「なぜですか。」

「何か妙に刺さる。」

「初心なハートに。」

「言うな。」

「補填は。」

「されねぇ。」

「大変ですね。」

「大体いつも、おまえのせいだ。」


 小雪は少し考えた。


「では、ヴェルヴァルド先生。」

「もっとやめろ。」

「なぜですか。」

「心臓に悪い。」

「普通の心臓の方も。」

「そうだ。」

「大変です。」

「本当に大変なんだよ!いいから早く練習させてくれ!」

「はい。」


 ベルは深く息を吐いた。


 それから、姿勢を正す。


 いつもの三下らしい気配が、少しだけ薄くなった。


 背筋が伸びる。

 肩の位置が変わる。

 表情まで、少し整う。


 先日の仕立て屋で見たベルと似ていた。


 公爵家次男、ヴェルヴァルド・グランツ。


 小雪はそれを見た。


「ベル。」

「何だ。」

「少し別人です。」

「ダンスを教える時くらいはな。」

「討伐記念式典でも、そうでしたか。」


 ベルが一瞬、小雪を見る。


「ああ。あの時は正装だったし、まあ、猫は被ってたけど。」

「猫。」


 猫を被ったベル。


 猫ベル。


 切れ長の琥珀色の目は、確かに猫科に近いかもしれない。


 性格はチワワだが。


「おまえ、また変なこと考えただろ。」

「分かりますか。」

「視線で鳥肌が立った。」

「猫が。」

「礼儀の話だよ!分かるだろ!」

「あの時は見ていませんでした。」

「……だろうな。」

「視界にすら入っていませんでした。」

「正直すぎるだろ。」

「でも、今は見たいです。」


 ベルの動きが止まった。


「……何を。」

「ベルの正装。」

「今それを言うな。」

「なぜですか。」

「練習が進まねぇ。」

「着たら見ますね。」

「……見るんだろうな。きっと。」

「はい。」

「心の準備をさせろ。」

「準備が必要ですか。」

「必要だ。」

「ドレスを見せる私にも必要ですか。」


 ベルがさらに固まった。


「小雪。」

「はい。」

「その話は、今はしない。」

「なぜですか。」

「練習が始まる前に、俺が死ぬ。」

「補填されませんか。」

「されねぇな。」


 小雪は頷いた。


「では、始めましょう。」

「頼むから、そうさせてくれ。」


 ベルはもう一度、深く息を吐いた。


 なぜか、すでに少し疲れているようだった。


 まだ何もしていないのに。




 最初は、立ち方だった。


「まず姿勢。」

「はい。」

「背筋を伸ばす。」

「はい。」

「肩の力を抜く。」

「はい。」

「顎を少し引く。」

「はい。」

「戦闘姿勢になるな。」

「なっていますか。」

「なってる。」


 小雪は自分の身体を見下ろした。


 背筋は伸びている。

 足元も安定している。


 すぐに動ける。

 すぐに避けられる。

 すぐに反撃できる。


「良い姿勢です。」

「戦うならな。」

「踊るには。」

「怖い。」

「怖い。」

「相手を倒す直前に見える。」

「なるほど。」


 小雪は少し力を抜いた。


 ベルが眉を寄せる。


「抜きすぎだ。今度は眠そうだ。」

「難しいです。」

「まだ立ってるだけだぞ。」

「戦闘より難しいです。」

「判断が早いな。」


 ベルは小雪の前へ立った。


「いいか。ダンスは、敵を倒すものじゃねぇ。」

「はい。」

「先に潰すな。」

「はい。」

「避けすぎるな。」

「はい。」

「相手の動きを読んで、先回りするな。」

「難しいです。」

「そこが一番大事だ。」

「敵なら隙になります。」

「敵じゃねぇ。」

「では、何ですか。」


 ベルは少しだけ考えた。


「相手だ。」

「相手。」

「合わせる相手だ。」


 小雪は、その言葉を繰り返した。


 相手。


 敵ではない。

 倒すものでもない。

 避けるものでもない。

 先に動きを読んで、潰すものでもない。


 合わせる相手。


 八年間、小雪にとって人の動きは、基本的に読むものだった。


 敵ならば、先を読んで止める。

 味方ならば、邪魔をしないよう位置を把握する。

 攻撃が来れば避ける。

 掴まれれば抜ける。

 相手より一歩先に動く。


 けれど、自分から先に動かず、相手の動きを待つというのは、少し違う。


 まして、その動きへ自分を預けるという発想は、ほとんどなかった。


 小雪はベルを見る。


「ベルは敵ではありません。」

「当たり前だ。」

「倒してはいけません。」

「そうだ。」

「避けすぎてもいけません。」

「そうだな。」

「先読みして潰してもいけません。」

「……怖ぇな。」

「難しいです。」

「だろうな。」


 ベルは少し苦笑した。


「ダンスは危険です。」

「今ので、そうなるか?」

「ベルを倒してしまう可能性があります。」

「頼むから倒すな。」

「善処します。」

「信用ならねぇ。」


 ベルは右手を差し出した。


「手。」

「はい。」


 小雪はその手を見た。


 いつも鍋を持つ手。

 木を削る手。

 水車を直す手。

 雨の中で、小雪へ上着を被せた手。

 鈴を鳴らせば来る人の手。


 小雪は、その手を取った。


 温かい。


「ベルの手。」

「何だ。」

「温かいです。」

「今は観測するな。」

「はい。」

「いや、手を離すな。」

「はい。」

「肩の力を抜け。」

「はい。」

「握り潰すな。」

「握り潰していません。」

「少し力が強い。」

「ベルは壊れますか。」

「壊れる。」

「弱い。」

「おまえが強すぎるんだよ。」


 小雪は力を緩めた。


 ベルの手が、少しだけ握り直される。


 小雪はそれを観測した。


 記録はできない。

 手が塞がっている。


 少し残念だった。


「次、左手。」


 ベルが言った。


「はい。」

「肩じゃなくて、ここ。」


 ベルは自分の上腕を示した。


 小雪はそこへ手を置く。


 服の上からでも、筋肉の硬さが分かる。


「身体――」

「言うな。」

「まだ。」

「言いかけただろ。」

「腕が有能です。」

「腕は有能じゃねぇ。」

「支えられそうです。」

「支えるんだよ。」

「すごいです。」

「小雪。」

「はい。」

「練習が進まねぇ。」

「はい。」


 ベルは少し赤い顔で、小雪の背へ手を添えた。


 腰ではない。

 肩甲骨に近い、背中の上の方。


 それでも、近い。


 とても近い。


 小雪はベルを見上げた。


「近いです。」

「ダンスだからな。」

「ベルの顔が近い。」

「見るな。」

「では、どこを見ますか。」

「俺の肩の向こう。」

「肩。」

「そうだ。」

「ベルの肩が近い。」

「実況するな。」

「はい。」


 ベルの額には、すでにうっすら汗が浮かんでいる。


 まだ、一歩も歩いていない。


 秋なのに。


「ベル。」

「何だ。」

「汗が。」

「おまえのせいだ。」

「私は何もしていません。」

「存在が強い。」

「私は強いです。」

「そういう意味じゃねぇ。」

「敬語。」

「そういう意味ではありません。」

「自然です。」

「嬉しくねぇ。」


 ベルは一度、目を閉じた。


 ゆっくり息を吐く。


「いいか。俺が動く。」

「はい。」

「おまえは合わせる。」

「はい。」

「先に動くな。」

「はい。」

「俺を倒そうとするな。」

「はい。」

「足を踏むな。」

「はい。」

「返事がいい時ほど。」

「信用ならない。」

「今日は本当に頼むぞ。俺の命がかかってる気がする。」


 小雪は真剣に頷いた。


 そして、一歩目でベルの足を踏んだ。


「痛っ。」

「すみません。」

「早い。」

「一歩目でした。」

「一歩目で踏むな。」

「敵の足を封じる動きに似ていました。」

「似てねぇ!」

「反射です。」

「その反射を捨てろ。」

「難しいです。」

「知ってる。」


 ベルは足を軽く振った。


 小雪は心配になり、足元を見る。


「折れましたか。」

「折れてねぇ。」

「痛いですか。」

「大丈夫だ。」

「よかったです。」

「本当に心配してる顔で踏むな。」

「善処します。」


 二歩目。


 今度は踏まなかった。


 代わりに、ベルの動きを先読みし、先に回り込んだ。


 ベルが止まる。


「先に動くな。」

「ベルがこちらへ来ると思いました。」

「思っても待て。」

「敵なら。」

「敵じゃねぇ。」

「相手。」

「そうだ。」

「合わせる相手。」

「そうだ。」

「難しいです。」

「慣れるしかねぇな。」


 三歩目。


 ベルが小雪を軽く右へ導く。


 小雪は反射的に身体を沈め、ベルの腕の下から抜けようとした。


 ベルが慌てて止める。


「どこへ行く!」

「回避しました。」

「回避するな!」

「掴まれたので。」

「これはリードだ!」

「リード。」

「拘束じゃねぇ!」

「似ていますね。」

「似てねぇ!」

「敵だったら危険です。」

「だから敵じゃねぇ!」

「……相手。」

「そうだ!」


 ベルの額の汗が増えた。


 小雪は真剣だった。


 とても。

 非常に。


 真剣に間違えていた。


 ベルは額を拭う。


「これは……思ってたより大変だな。」

「私は不器用ですか。」

「運動神経はいい。」

「はい。」

「反応もいい。」

「はい。」

「体幹もいい。」

「はい。」

「でも、ダンスでは全部裏目に出てる。」

「やっぱり駄目ですか。」

「いや。」


 ベルはすぐに答えた。


「何とかする。」

「私は不器用です。」

「違う。向いてる方向が違うだけだ。」

「方向。」

「戦闘の動きが染みつきすぎてる。」

「はい。」

「今は、勝とうと思わなくていい。」


 小雪はベルを見る。


「勝たない。」

「そうだ。」

「それでは、負けますか。」

「それも違う。」

「どちらですか。」

「勝ち負けじゃねぇ。」

「難しいです。」

「だろうな。」


 ベルは少しだけ笑った。


「俺に任せろ。」

「ベルに。」

「そうだ。俺を信じて、任せればいい。」

「ベルを信頼する。」

「そうだ。」

「もう信頼しています。」


 ベルの顔が固まった。


「……そういうのを急に言うな。」

「急でしたか。」

「急だ。」

「でも、事実です。」

「事実でもだ。」

「ベルは信頼できます。」

「小雪。」

「はい。」

「嬉しいが、練習が進まねぇ。」

「はい。」


 ベルは顔を赤くしながら、小雪の手を握り直した。




 練習は続いた。


 一歩。

 二歩。

 三歩。


 小雪は足を踏む。

 先回りする。

 反射で避ける。

 姿勢を低くする。


 ときどき、ベルを倒しかける。


 ベルはそのたびに止めた。


 汗を拭う。

 息を吐く。


 それでも、また最初から教える。


「違う。そこは下がる。」

「はい。」

「速い。」

「はい。」

「待て。」

「はい。」

「今のは待ちすぎ。」

「難しいです。」

「知ってる!」


 真剣な小雪は強い。

 真剣な小雪は先を読む。

 真剣な小雪は最短で相手を制する。


 そして、ダンスでは、それをしてはいけない。


「これは調教か……。」


 ベルが、ぼそりと呟いた。


 小雪は聞き逃さなかった。


「調教。」

「そこは流せ。」

「私は馬ではありません。」

「分かってる。」

「竜でもありません。」

「そうだ。」

「魔物でもありません。」

「当たり前だ。」

「では。」

「勇者さまだよ。」


 ベルは少し疲れた声で言った。


「俺の初心なハートを踏み荒らす勇者さまだ。」

「踏みましたか。」

「今日は足も踏んだ。」

「すみません。」

「一緒にハートも踏んでる。」

「すみません。」

「謝られると、余計刺さる。」

「難しいです。」

「本当にな。」


 小雪はベルの足元を見る。


「痛いですか。」

「少し。」

「冷やしますか。」

「平気だ。」

「私が踏みました。」

「そうだな。」

「ベルが痛いのは嫌です。」


 ベルが黙った。


 小雪は顔を上げる。


 琥珀色の目が、少しだけ揺れていた。


「……なら、足元を見るな。」

「なぜですか。」

「足元を見るから、余計踏む。」

「では、どこを。」

「俺を見ろ。」


 ベルは言った。


 そして、自分で言ってから少し赤くなった。


「いや。違う。いや、違わねぇけど。」

「ベルを見る。」

「顔を凝視するな。」

「難しいです。」

「俺の肩の辺りを見ろ。あとは、動きを感じる。」

「感じる。」

「手の力とか、身体の向きとか、歩幅とか。」

「観測。」

「観測でいい。でも、先読みして勝手に動くな。」

「観測して、待つ。」

「そうだ。」

「観測待機文明。」

「何か違うが、もうそれでいい。」


 小雪はベルの肩の向こうを見た。


 手の温度。

 腕の動き。

 背中へ添えられた手。

 ベルの呼吸。

 足の運び。


 先読みしない。

 潰さない。

 避けない。

 待つ。

 合わせる。


 一歩。

 二歩。

 三歩。


 今度は踏まなかった。

 先に動かなかった。

 避けなかった。


 ベルの手の力が、ほんの少し変わる。


 右。


 小雪は右へ動いた。


 次は、後ろ。


 小雪は一歩下がる。


 回る。


 小さく。


 白い髪が、ふわりと揺れた。


 ベルの目が少し見開かれる。


「できました。」


 小雪が言った。


「……ああ。」


 ベルの声は、少し低かった。


「できた。」

「ベルのおかげです。」

「いや。おまえが合わせたんだ。」

「合わせる相手。」

「そうだ。」

「ベルが相手なら、少しできます。」


 ベルが息を止めた。


「……だから。」

「はい。」

「急に刺すな。」

「刺しましたか。」

「刺した。」

「痛いですか。」

「初心なハートがな。」

「補填されませんか。」

「されねぇよ。」


 小雪は少しだけ笑った。


 ベルも、疲れたように笑った。


 額の汗が、こめかみを伝っている。


「ベル。」

「何だ。」

「汗。」

「おまえのせいだ。」

「拭きましょうか。」


 ベルが固まった。


「……何を。」

「汗。」

「自分で拭く。」

「そうですか。」

「そうだ。」

「残念です。」

「何が!?」

「観測対象が減りました。」

「汗を観測するな!」

「はい。」


 ベルは布で額を拭った。


 耳が赤い。


 汗のせいではない。


 たぶん。




 少し休憩することになった。


 ベルは椅子へ座り、水を飲んだ。


 小雪はすぐに記録を書く。


 ダンス練習進捗。


 一、ダンスは戦闘ではない。

 二、相手は敵ではない。

 三、先に潰さない。

 四、避けすぎない。

 五、ベルの足を踏まない。

 六、ベルを倒さない。

 七、ベルを見る。

 八、ベルの手は温かい。

 九、ベル、汗。

 十、ベルが相手なら少しできる。


「八から十を消せ。」


 ベルが言った。


「見ましたか。」

「見えた。」

「目がいいです。」

「おまえが堂々と書いてるからだ。」

「重要です。」

「重要じゃねぇ。」

「八は手の情報です。」

「ダンスに必要か?」

「必要です。手の力で動きを感じます。」


 ベルは少し詰まった。


「……まあ。それは、そうだな。」

「九はベルの疲労情報です。」

「いらねぇ。」

「教師としての負荷。」

「いらねぇな。」

「十は成果です。」


 ベルは十を見る。


 ベルが相手なら少しできる。


 そこだけ、少し長く黙った。


「……十は、まあ。」

「残します。」

「小さくしろ。」

「はい。」

「八も小さくしろ。」

「はい。」

「九は消せ。」

「保留。」

「小雪。」

「保留です。」

「頑固だな。」

「はい。」


 小雪は八と十を少し小さくした。


 九も少し小さくした。


 消しはしなかった。


 ベルはため息を吐く。


「本番へ、その記録帳を持ってくるなよ。」

「ドレスに入りますか。」

「入れるな。」

「鈴は。」

「鈴は持ってろ。」

「記録用紙は。」

「持つな。」

「不便です。」

「舞踏会で記録するな。」

「観測だけ。」

「それも、ほどほどにしろ。」

「善処します。」

「信用ならねぇ。」


 小雪は頷いた。


 記録用紙は持っていけない。

 鈴は持っていく。

 観測は、たぶんする。


 王宮には、観測するものが多いだろう。


 王。

 貴族。

 魔法。

 舞踏。

 ベルの正装。


 最後が、一番気になる。


 小雪はそう思った。


 分類はしない。




 休憩の後は、回る練習になった。


 ベルは少しだけ困った顔をした。


「本番だと、簡単なターンくらいはいる。」

「ターン。」

「回る。」

「回避に似ていますか。」

「似てねぇ。」

「敵の背後を取る。」

「取るな。」

「はい。」

「俺が導く。おまえは回る。勝手に加速するな。」

「はい。」

「跳ぶな。」

「はい。」

「着地で床を割るな。」

「割りません。」

「本当だろうな。」

「善処します。」

「嫌な予感しかしねぇ。」


 ベルは小雪の手を持ち上げた。


 小雪は、その下を回る。


 一度目は速すぎた。


 白い髪が、ひゅん、と大きく揺れる。


 ベルが慌てて止める。


「速い!」

「回りました。」

「回りすぎだ。」

「遠心力。」

「王宮で遠心力を披露するな。」

「はい。」


 二度目。


 今度は遅すぎた。


 途中で止まる。


「止まりました。」

「止まるな。」

「停止文明。」

「ここで使うな。」


 三度目。


 ベルが手を少し高く上げる。


「俺の手の下を通る。」

「はい。」

「視線を落としすぎるな。」

「はい。」

「足元を見るな。」

「踏みます。」

「見た方が踏む。」

「不思議です。」

「慣れろ。」


 小雪は回った。


 今度は、ちょうどよかった。


 ベルの手の下を通り、半歩戻る。


 足は踏まない。

 避けない。

 先に潰さない。


 小雪はベルの前へ戻った。


「成功です。」

「成功だ。」


 ベルは少し笑った。


「今のはよかった。」

「はい。」

「本番でも、これなら。」

「本番。」


 小雪は少し止まった。


 王宮。

 灯り。

 人。

 王。

 拍手。

 勇者。


 胸の奥が、少し冷える。


 ベルの手が、小雪の手を握り直した。


「小雪。」

「はい。」

「今、王宮のことを考えただろ。」

「はい。」

「足元が固くなった。」

「足元。」

「身体が、少し戦闘姿勢に戻った。」

「そうですか。」

「そうだ。」


 ベルは小雪を見る。


「王宮は、嫌か。」


 小雪は、すぐには答えなかった。


 少し考える。


 嫌。

 面倒。

 寒い。

 行きたくない。


 けれど、行かないという選択肢も、もう取りにくい。


「王宮は、冷えます。」


 小雪は言った。


 ベルは黙って聞いていた。


「秋だからではありません。」

「ああ。」

「石だからでもありません。」

「ああ。」

「でも、冷えます。」

「そうか。」

「はい。」


 ベルは、小雪の手を離さなかった。


「なら、王宮では俺を見ろ。」


 小雪はベルを見る。


「ベルを。」

「そうだ。」

「肩の向こうを。」

「ダンス中はな。」

「冷えた時は、ベルを見る。」

「そうだ。」


 ベルは少しだけ言葉を止めた。


「その時は、俺を見てればいい。」

「鈴は。」

「持ってろ。」

「鳴らしても。」

「緊急ならな。」

「寒い時は。」


 ベルは少し考えた。


「それは、緊急に入れていい。」


 小雪は瞬きをした。


「入りますか。」

「入る。」

「便利ですね。」

「便利扱いするな。」

「重要です。」

「……それは、そうだな。」


 ベルは少しだけ笑った。


「重要だ。」


 小雪は胸の奥を観測した。


 ちりん。


 鈴は鳴っていない。


 けれど、似た音がした。


 冷えていた場所へ、少しだけ温かいものが触れたようだった。


「ベル。」

「何だ。」

「ダンスを再開しましょう。」

「ああ。」

「王宮で、ベルを見る練習です。」

「目的が変わってる。」

「重要です。」


 ベルは少し考えた。


「……まあ、重要か。」


 ベルは小雪の手を取り直した。




 夕方まで、練習は続いた。


 小雪はまだ、ときどき足を踏む。

 ときどき先に動く。

 ときどき、反射で避ける。


 それでも、最初よりはずっとましになった。


 ベルは汗だくになっていた。


 秋なのに。


 小雪は涼しい顔で立っている。


「理不尽だ。」


 ベルが言った。


「何がですか。」

「俺の方が疲れてる。」

「ベルが教師だからです。」

「生徒の癖が強すぎるんだよ。」

「癖。」

「野生動物みてぇな癖だ。」

「私も一応、人間です。」


 ベルの表情が、少しだけ和らいだ。


「知ってるよ。」

「違う世界の。」

「それも、少し知ってる。」

「はい。」


 小雪は、それ以上言わなかった。


 ベルも聞かなかった。


 今は、ダンスの練習である。


 過去の話ではない。


「最後に一回だけ、通すぞ。」


 ベルが言った。


「はい。」

「一歩、二歩、三歩。横。戻る。小さいターン。」

「はい。」

「足を踏むな。」

「はい。」

「俺を倒すな。」

「はい。」

「王宮のことを考えるな。」

「ベルを見ます。」


 ベルは一瞬黙った。


「……そうだ。」


 小雪はベルの手を取った。


 ベルの手は熱い。


 疲れている。


 けれど、しっかりしている。


 一歩。

 二歩。

 三歩。


 小雪は合わせた。


 先読みしない。

 潰さない。

 避けない。


 ベルの手の力。

 腕の角度。

 足の運び。

 呼吸。


 小雪は、それを観測する。


 そして、待つ。


 横へ。

 戻る。


 ベルの手が上がる。


 小雪は回る。


 白い髪が、ふわりと揺れた。


 秋の夕方の光が、窓から差し込む。


 小雪はベルの前へ戻った。


 足は踏まなかった。

 ベルも倒れなかった。

 床も割れなかった。


「できました。」


 小雪が言った。


「……ああ。」


 ベルは少し息を切らしていた。


 額には汗。

 耳は赤い。

 目は焦げ飴。


「できたな。」

「はい。」

「本番でも、それでいい。」

「ベルが相手なら、できます。」


 ベルは目を閉じた。


「……最後まで刺すな。」

「刺しましたか。」

「刺した。」

「痛いですか。」

「初心なハートが穴だらけだ。」

「穴文明。」

「今それを言うか?」


 小雪は少しだけ笑った。


 ベルも、疲れ切った顔で笑った。


 そして。


 二人とも、そのまま距離が近いことに気づいた。


 ベルの手は、小雪の背にある。

 小雪の手は、ベルの腕にある。


 ダンスの形のまま。


 小雪はベルを見上げた。


「近いです。」

「……ダンスだからな。」

「もう終わりました。」

「そうだな。」

「離れますか。」


 ベルは、少し黙った。


「……離れる。」


 手が離れるまで、ほんの少しだけ時間があった。


 小雪はそれを観測した。


 記録はしない。


 たぶん。




 夜。


 部屋は元に戻った。


 机も椅子も、作業台も元の場所へ戻されている。


 危険物箱も。

 記録用紙も。

 鈴も。

 鍋も。


 ベルは夕食を作ったあと、椅子へ座り、ぐったりしていた。


「疲れましたか。」

「疲れた。」

「教師は大変です。」

「生徒が強すぎるからな。」

「褒めていますか。」

「半分。」

「残り半分は。」

「大変だった。」

「調教。」

「言うな。」

「私は馬ではありません。」

「分かってる。」

「勇者です。」

「分かってるから。」

「ベルの生徒です。」


 ベルが少しだけ顔を上げた。


「……そうだな。」

「はい。」

「生徒なら、復習しろ。」

「記録します。」

「それは復習とは少し違う。」


 小雪は作業台へ座り、記録を書いた。


 ダンス練習文明進捗。


 一、ダンスは戦闘ではない。

 二、相手は敵ではない。

 三、ベルは敵ではない。

 四、ベルを倒さない。

 五、ベルの足を踏まない。

 六、ベルを見る。

 七、ベルが相手なら少しできる。

 八、王宮で冷えたらベルを見る。

 九、鈴は緊急時。冷えたら緊急。

 十、ベル先生。

 十一、ベル、汗だく。

 十二、初心なハート、穴だらけ。


 小雪は十二でペンを止めた。


 穴だらけ。

 これは、ダンス練習文明進捗なのだろうか。


 少し悩む。


 けれど、ベル自身が言った。

 なら、記録してよい気がする。


 ベルが横から覗き込んだ。


「……十から十二を消せ。」

「重要です。」

「重要じゃねぇ。」

「十は教師情報です。」

「消せ。」

「十一は疲労情報です。」

「消せ。」

「十二は、ベルの心臓情報です。」

「絶対に消せ。」

「補填されません。」

「分かってるなら守れ。」

「ベルの初心なハートを。」

「そうだ。」


 小雪は少し考えた。


 ベルの初心なハート。

 補填されない。


 守る。


 小雪は十二を小さくした。


 消しはしなかった。


「小雪。」

「小さくしました。」

「消せ。」

「保留です。」

「頑固だな。」


 ベルはため息を吐いた。


 けれど、紙を取り上げなかった。


 小雪は六を見る。

 ベルを見る。


 八を見る。

 王宮で冷えたらベルを見る。


 九を見る。

 鈴は緊急時。

 冷えたら緊急。


 悪くない記録に思えた。


「ベル。」

「何だ。」

「今日の練習は、悪くありませんでした。」

「そうか。」

「戦闘より難しいですが。」

「そこは変わらねぇんだな。」

「はい。」

「でも、できるようになる。」

「はい。」

「そうなるように、俺が教える。」

「はい。」

「本番で足を踏むなよ。」

「善処します。」

「信用ならねぇ。」

「ベルが相手なら、たぶん。」

「たぶんかよ。」

「はい。」


 ベルは笑った。


 小雪も少し笑った。


 秋の夜は静かだった。


 遠くから、川のせせらぎが聞こえる。


 王宮はまだ遠い。

 舞踏会も、まだ先。

 ドレスも完成していない。

 ベルの正装も、まだ見ていない。


 けれど、小雪は今日、少しだけ覚えた。


 敵ではない相手へ、合わせること。


 先に潰さず。

 避けず。

 待つこと。


 冷えた時に、見るもの。

 鳴らしていい鈴。


 小雪は記録用紙を閉じた。


 ベルは椅子へもたれ、目を閉じている。


「ベル。」

「何だ。」

「明日も練習しますか。」


 ベルは目を開けた。


 少し絶望した顔だった。


「……する。」

「疲れますか。」

「疲れる。」

「では、やめますか。」

「やめねぇ。」

「なぜですか。」


 ベルは少し黙った。


「本番で、おまえが少しでも冷えないように。」


 小雪も黙った。


 ベルは顔を背けた。


「あと、足を踏まれないように。」

「はい。」

「俺の命を守るためでもある。」

「重要ですね。」

「そうだ。」


 小雪は少しだけ笑った。


「では、明日もお願いします。ベル先生。」

「だから、それはやめろ。」

「敬語。」

「やめてください。」

「はい。」


 ベルの耳は、林檎より少し薄い赤だった。

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