第二十七話 勇者さま、ドレスを持っていない
招待状が届いてから、数日が過ぎた。
季節は、少しずつ秋へ傾いている。
川辺の木々はまだ青い。けれど朝晩の空気には冷たさが混じり始め、水車の音も、夏より少し澄んで聞こえるようになった。
小雪は作業台の前で、いつものように記録を書いていた。
滑車文明予定。
一、大きい輪と小さい輪。
二、速度と力の交換。
三、革紐が外れにくい溝。
四、丸い軸が必要。
五、丸い文明。
六、王宮舞踏会。
七、ベルの正装。
小雪は七で、少しペンを止めた。
ベルの正装。
黒が似合いそうだと思う。
少し跳ねた濃い金色の髪。蜂蜜のような、少し甘そうな琥珀色の瞳。鍛えられ、無駄なく引き締まった身体に、すらりとした上背。
袖をまくって工具を持つベルも悪くない。
火床の前で汗を拭うベルも悪くない。
雨の中で上着を脱ぎ、小雪へ被せたベルも、とても悪くない。
けれど、正装したベルはまだ見たことがない。
いや。
王宮の晩餐会で一度は見たのかもしれない。
しかし、あの頃の小雪にとってベルは、魔王討伐後の祝賀の席で突然突っかかってきた三下でしかなかった。服が黒かったのか。金具がついていたのか。髪をどう整えていたのか。
輪郭さえ曖昧である。
これは正確に観測する必要がある。
記憶を補完するためにも。
きっと、文明の発展にも必要。
な気がする。
――公爵家次男、ヴェルヴァルド・グランツ。
その言葉の形をしたベルは、たぶん、少し違う。
小雪は「七、ベルの正装」の横へ、小さな丸をつけた。
そこへ、台所からベルの声がした。
「小雪。」
「はい。」
「おまえ、そういえば、どういう格好で行くつもりだ。」
「どこにですか。」
「王宮舞踏会。」
「……。」
小雪は黙った。
ベルが台所から顔を出す。
手には、湯気の立つ鍋。
いつものベルである。
まだ正装ではない。
まだ。
「何で黙る。」
「考えています。」
「嫌な予感しかしねぇ。」
小雪は自分の服を見下ろした。
いつもの服。
動きやすい。
汚れてもよい。
魔法を使っても邪魔にならない。
水車も見られる。
炉にも近づける。
非常に合理的である。
「これで――」
「これで行く、は認められねぇ。」
「し……。」
「白いローブも駄目だ。」
「まだ言っていません。」
「今、言いかけただろ。」
「白いローブは、正装に近いです。」
「近くねぇ。」
「勇者らしいです。」
「王宮へ勇者として行くなら、なおさら駄目だ。威厳がない。」
「勲章のようなものです。」
「破れと焦げ跡と謎の染みを勲章にするな。」
「謎ではありません。たぶん魔物の体液です。」
「なおさら駄目だ!」
「敬語。」
「なおさら駄目です!」
「自然ですね。」
「だから、基準が分からん。」
ベルは鍋を置き、額を押さえた。
「まあいい。今はそれどころじゃねぇ。他にないのか。」
「ありません。」
「本当に?」
「はい。」
「舞踏会へ着ていける服が?」
「ありません。」
ベルはしばらく小雪を見た。
それから、深く息を吸った。
「……行くしかないな。」
「どこにですか。」
ベルはなぜか少し勢いをつけて言った。
「ショッピングだ!」
小雪は瞬きをした。
「デート?」
ベルが噴いた。
「違うっ!」
「違いますか。」
「違う!」
「二人で街へ行き、服を選びます。」
「必要な買い出しだ!」
「食料も買いますか。」
「買うかもしれねぇが、主目的は違う!」
「では、衣装買い出し。」
「そうだ。」
「デートではない。」
「そうだ!」
「では、なぜそんなに動揺しているのですか。」
「してねぇ!」
「声が裏返りました。」
「してねぇ!」
「敬語。」
「していません!」
「変です。」
「変にしたのはおまえだ!」
小雪は少し考えた。
デートではない。
衣装買い出し。
ベルと二人で街へ行く。
服を選ぶ。
これは、一体何に分類すればよいのだろう。
分からなかったので、とりあえず記録用紙へ書いた。
八、衣装買い出し。デートではない。
「書くな!」
「重要です。」
「重要じゃねぇ!」
「分類不能です。」
「分類するな!」
「敬語。」
「分類しないでください!」
「はい。」
小雪は「デートではない」の文字を少し小さくした。
消しはしなかった。
街へ行くことになった。
山の家から村を抜け、さらに馬車で進んだ先に、領都ほどではないが大きな町がある。
ベルは、そこにある馴染みの仕立て屋へ連れて行くと言った。
「仕立て屋。」
「そうだ。既製品で済むなら早いが、王宮舞踏会となると多少の直しは必要だ。」
「面倒です。」
「面倒でも必要だ。」
「やはり白いローブで。」
「駄目だ。」
「動きやすいです。」
「踊るんだぞ。」
「戦闘に似ていませんか。」
「戦闘にするな。」
「でも、王宮です。」
ベルは少し黙った。
小雪も黙る。
王宮。
その言葉は、まだ少し冷たい。
ベルは一度、小雪を見た。
「……まあ、戦闘じゃねぇとは言い切れねぇけどな。」
「やはり。」
「でも、決して物理ではない。」
「では、社交闘争。」
「そうだ。」
「社交闘争服。」
「そこはドレスと言え。」
「ドレス。」
「そうだ。」
「ドレス文明。」
「勝手に文明にするな。」
「敬語。」
「文明にしないでください。」
「変です。」
「知ってるよ。」
馬車の中で、ベルは何度も小雪へ言った。
「仕立て屋では、絶対に余計なことを言うな。」
「余計なこと。」
「鈴で来る人とか、生活文明総合担当とか、おかんとか、チワワとか。」
「全部ベルを指しますが。」
「全部言うな。」
「なぜですか。」
「俺の外聞が死ぬ。」
「外聞は補填されませんか。」
「されねぇ。」
「大変ですね。」
「だから守れ。」
「はい。」
「あと、店主が何か聞いたら、必要最低限で答えろ。」
「はい。」
「ドレスに物理的な戦闘力を求めるな。」
「求めません。」
「本当か。」
「善処します。」
「なぜだろう。不安しかない。」
小雪は馬車の窓から外を見た。
秋の風が、少しだけ入ってくる。
夏の熱が抜け始め、空が高い。
街道沿いの木の葉も、ところどころ黄色くなっていた。
「秋です。」
「ああ。」
「舞踏会も秋です。」
「そうだな。」
「秋の服は重いですか。」
「夏よりはな。生地も少し厚くなる。」
「動きにくいですか。」
「ものによる。」
「戦闘に不向き。」
「だから戦闘にするな。」
「社交闘争。」
「そっちも、まあ、動けた方がいいだろうな。」
「では、動きやすいドレス。」
「それは伝える。」
ベルはそう言って、少し真面目な顔になった。
「おまえは、立ってるだけでも目立つ。」
「白髪ですか。それとも灰色の目ですか。」
「それもある。」
「勇者だからですか。」
「それもある。」
「他には。」
ベルは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……雰囲気。」
「雰囲気。」
「何か、こう。ふわっとしてんのに、急に物騒だろ。」
「ふわっと。」
「いや。違う。そうじゃなくて。」
「物騒。」
「そこだけ拾うな。」
「今回は説明が下手ですね。」
「おまえだから難しいんだよ。」
小雪は少し考えた。
ベルは以前、村の子供たちへ小雪を説明してくれた。
魔王を倒した勇者ではなく。
世界を滅ぼせるほどの火力を持つ者でもなく。
今は、皆が使えるものを作っている人。
あの説明は、悪くなかった。
「ベルは、私を説明するのが上手です。」
ベルは小雪を見る。
「……そうか?」
「はい。」
「なら、仕立て屋でもうまく説明する。」
「お願いします。」
「任せろ。」
ベルは少しだけ胸を張った。
公爵家次男ではない。
山奥の助手でもない。
けれど、やはり頼れるベルだった。
仕立て屋は、街の中心にあった。
石造りの通りへ面した、三階建ての店である。
大きな窓には、色とりどりの布が飾られていた。
深い緑。
葡萄色。
月光のような銀。
夜空のような紺。
薄い金。
小雪は足を止めた。
「布が多いです。」
「仕立て屋だからな。」
「分類が大変そうです。」
「分類しに来たんじゃねぇ。」
ベルが扉を開ける。
からん、と小さな鈴が鳴った。
小雪は反射的に、袖の中の鈴へ触れた。
違う。
ベルを呼ぶための鈴ではない。
店の鈴だった。
「いらっしゃいませ。」
奥から出てきたのは、上品な年配の女性だった。
背筋が伸び、髪をきっちり結っている。目は少し鋭いが、浮かべた笑みは柔らかい。
ベルを見ると、その目がわずかに丸くなった。
「まあ。ヴェルヴァルド様ではございませんか。」
ベルの背筋が少し伸びた。
「ご無沙汰しております、マダム・セリア。」
小雪はベルを見た。
言葉が整っている。
声も少し違う。
馬車の中のベルとも、山の家のベルとも違う。
仕立て屋のベル。
公爵家次男のベル。
「ベル。」
「今はベルって呼ぶな。」
「ヴェルヴァルド。」
ベルが一瞬だけ固まった。
マダム・セリアの目が、楽しそうに細くなる。
「本日は、こちらのお嬢様のお仕立てで?」
「はい。王宮舞踏会用のドレスを。急ぎで申し訳ありませんが、三週間後です。」
「承知いたしました。」
マダム・セリアは小雪を見る。
その目が、少し変わった。
職人の目である。
白く長い髪。
灰色の目。
白い肌。
成年した女性であるはずなのに、どこか年齢を測りにくい幼さ。
それに似つかわしくない、ひどく淡々とした表情。
そして、少し雑に扱われた服。
「勇者コユキ様でいらっしゃいますね。」
「はい。」
小雪は頷いた。
「ドレスは一着も持っていません。」
ベルが隣で額を押さえた。
「最初にそれを言うな。」
「必要な情報だと思います。」
「まあ、必要ではありますわね。」
マダム・セリアは笑った。
「では、せっかくの勇者様の一着目でございます。一からお作りしましょう。既製のものを合わせるより、その方がよろしいでしょうね。」
「間に合いますか。」
ベルが訊く。
「仮縫いを二度に減らせば。ヴェルヴァルド様のお連れ様ですもの。最優先で仕立てます。」
「お連れ様。」
小雪が呟いた。
ベルがすぐに反応する。
「そこを拾うな。」
「私は、ベルのお連れ様ですか。」
「舞踏会では、俺がエスコートすることになるだろうな。」
「鈴で来る人が。」
「小雪。」
「生活文明総合担当が。」
「やめろ。」
「おかんが。」
「やめろ!」
「チワワが。」
「泣いてもいいか。」
マダム・セリアの笑みは、それでも崩れなかった。
さすがプロである。
「仲がよろしいのですね。」
「違います。」
ベルが即答した。
小雪は首を傾げる。
「仲はいいです。」
ベルが噴きそうになった。
「小雪!」
「事実です。」
「だから、人前で!」
「はい。」
「やめろ。」
「敬語。」
「やめてください。」
「はい。」
マダム・セリアは完全に楽しんでいる顔だった。
「では、仲のよいお連れ様のお仕立てを始めましょう。」
「マダム。」
「はい。」
「あなたも楽しんでいますね。」
「少し。」
「隠してください。」
「善処いたします。」
ベルの顔が引きつった。
「その言葉は信用できねぇと、もう知ってる。」
小雪は頷いた。
「はい。善処は信用できません。」
「おまえが言うな。」
「実績ですか。」
「今、目の前で増えた実績だよ!」
マダム・セリアは小さく笑い、店の奥へ二人を案内した。
採寸は、思っていたより大変だった。
小雪は、じっとしていることはできる。
何時間でも立っていられる。
戦場で、もっと長く同じ場所にいたこともある。
けれど、仕立て屋で腕を上げ、肩幅を測られ、腰の位置を確かめられ、何枚もの布を身体へ当てられるのは、それとは少し違った。
「動かないでくださいませ。」
「はい。」
「腕を少し上げて。」
「はい。」
「いいえ。そこまで上げなくて結構です。」
「はい。」
「戦闘姿勢ではありません。」
「そうですか。」
後ろで、ベルの肩が震えた。
「笑っていますか。」
「笑ってねぇ。」
「声が震えています。」
「気のせいだ。」
「敬語。」
「気のせいです。」
「不快指数が上がりました。」
「さっきの仕返しだ。」
マダム・セリアは、小雪の髪をそっと持ち上げた。
「本当に美しい髪ですね。」
小雪は瞬きをする。
「白いだけです。」
「ええ。雪のようです。」
「雪。」
「本当にな。」
ベルが、ぼそりと言った。
「ベル。」
「何だ。」
「私の髪は、ドレスに合わせにくいですか。」
「いや。」
ベルは一度、小雪を見る。
そして、少しだけ目を逸らした。
「合わせにくくはねぇと思う。」
「なぜ目を逸らしますか。」
「逸らしてねぇ。」
「逸らしました。」
「マダム。色は何がよろしいでしょうか。」
ベルは強引に話を戻した。
マダム・セリアは布見本をいくつか運んでくる。
白。
銀。
淡い青。
薄紫。
真珠色。
月光のような灰色。
「真っ白もお似合いにはなりますが、勇者様の白いローブと印象が重なりすぎますわね。」
「白いローブでは駄目だと、ベルが言いました。」
「駄目です。」
「ヴェルヴァルド様の判断は正しいですわ。」
小雪は少し残念だった。
ローブは合理的だ。
動きやすい。
それに、ベルも以前、似合うと言った。
マダム・セリアは何枚かの布を見比べたあと、銀灰色の一枚を手に取った。
静かに、小雪の肩へ当てる。
柔らかい光を含んだような色だった。
真っ白ではない。
青すぎない。
秋の夕方に浮かぶ月のような色。
白い髪にも、静かに馴染む。
ベルが黙った。
小雪は鏡を見る。
「灰色です。」
「月光色と呼びましょう。」
マダム・セリアが言った。
「月光。」
小雪は布を見る。
「魔法の光とは、違います。」
「小雪。」
ベルの声が少し低くなった。
小雪は瞬きをする。
「はい。」
「今はドレスの話だ。」
「はい。」
マダム・セリアは二人を少し見た。
何かを聞きたい顔をした。
けれど、聞かなかった。
職人は、布と言葉の扱いに慎重であるらしい。
「こちらへ、薄い青の刺繍を入れましょう。秋の舞踏会ですから、霜が降りる前の朝のように。」
「霜。」
「白すぎず、冷たすぎず。勇者様には、その方がよろしいでしょう。」
小雪は鏡を見る。
よく分からない。
ただ。
ベルが黙っている。
「ベル。」
「何だ。」
「変ですか。」
「変じゃねぇ。」
「では。」
ベルは少し喉を鳴らした。
「……綺麗だ。」
マダム・セリアが、針山を落としかけた。
小雪はベルを見る。
ベルは、自分が何を言ったのか少し遅れて理解したらしい。
顔が赤くなった。
「いや、布が!」
「布。」
「布が綺麗だ!」
「私は。」
「おまえも。いや、だから、その。」
「敬語。」
「今は勘弁してください!」
「変です。」
「分かってる!」
マダム・セリアは楽しそうだった。
小雪は鏡を見る。
布が綺麗。
小雪も。
たぶん。
少し。
綺麗。
ベルがそう言った。
小雪は胸の奥を観測した。
ちりん、に近い。
けれど、鈴は鳴っていない。
分類はできない。
今は。
試着は、さらに大変だった。
まだ完成したドレスではない。
店にある仮のドレスや布を何度も身体へ当て、形を決めるだけである。
それでも、小雪は何度も着替えさせられた。
一着目は、白に近い薄布だった。
鏡の前へ立つと、マダム・セリアは首を傾げる。
「美しいですが、少し儚すぎますね。」
ベルも真剣な顔で言った。
「白い王宮に立ったら、触れたら消えそうに見えるな。」
「消えません。」
「知ってる。」
「補填されます。」
「服屋でその話をするな。」
「分かりました。」
二着目は、濃い紺。
ベルは小雪を見るなり、少し黙った。
「これは。」
「どうですか。」
「夜に紛れるな。」
「暗殺向きということですか。」
「ドレスに暗殺向きという分類を増やすな。」
マダム・セリアも笑って首を振った。
「勇者様には、少し重いですね。」
三着目は、淡い青。
小雪は鏡を見る。
悪くない。
けれど、ベルは少し考えていた。
「悪くねぇけど、王宮の灯りだと薄く見えるかもしれねぇな。」
「詳しいですね。」
「何回か出たことはあるからな。」
「舞踏会に。」
「ああ。」
「踊ったことも。」
「ある。」
「誰と。」
ベルが固まった。
「……何でそこを聞く。」
「必要な情報です。」
「何に。」
「分類に。」
「何の分類だ。」
「まだ分かりません。」
「怖ぇよ。」
「女性ですか。」
「舞踏会では、普通は女性と男性で踊る。」
「……そうですか。」
小雪は少し黙った。
何かが引っかかる。
悪いことではない。
ベルは公爵家次男である。
舞踏会にも出た。
女性とも踊った。
普通である。
それなのに、少しだけ。
何かが。
「何で黙る。」
ベルが訊いた。
「分類を試みています。」
「何を。」
「よく分かりません。」
「何だそりゃ。」
マダム・セリアが、完全に微笑んでいる。
ベルはそれに気づき、顔を赤くした。
「マダム。」
「はい。」
「また楽しんでいますね。」
「かなり。」
「隠してください。」
「善処いたします。」
「だから、それは信用できません。」
小雪は頷いた。
「はい。善処は信用できません。」
「だから、おまえが言うな。」
四着目は、銀灰色へ薄い青を重ねたものだった。
まだ仮の布である。
けれど、肩から落ちる線は柔らかく、腰のあたりで控えめに絞られている。
袖は長め。
手首のあたりだけ、少し透ける。
動くたび、布が秋の月明かりのように揺れた。
小雪は鏡を見る。
そこにいるのは、白いローブを着た勇者ではなかった。
山奥で水車を眺めている小雪でもない。
少しだけ。
知らない人だった。
「これは、誰ですか。」
小雪は呟いた。
ベルが答えた。
「おまえだろ。」
「私、ですか。」
「ああ。」
「なんだか、別人みたいです。」
小雪は鏡を見た。
この世界へ来る前。
こんなふうに全身が映る鏡の前へ立ったことがあった気がする。
高校の制服を初めて着た時だろうか。
髪は黒かった。
瞳も黒かった。
背も、今よりもう少し高かった。
と思う。
今は。
長い白い髪。
灰色の目。
少し低くなった背。
どこか幼くなった顔。
そこへ、淡い月光色のドレス。
表情は、いつも通りである。
けれど。
やはり少しだけ、知らない。
まるで燃え上がった炎の後に残された、灰のような姿。
小雪は鏡の中の自分を見つめた。
昔の自分を思い出そうとする。
黒い髪。
黒い目。
今より少し高い背。
それ以上は、うまく輪郭にならなかった。
「ベル。」
「……何だ。」
「変ですか。」
「だから、変じゃねぇ。」
「では。」
ベルは喉を鳴らした。
一度、逃げるように視線を外す。
けれど、また戻した。
「……似合ってる。」
「布が。」
「おまえに。」
小雪は瞬きをした。
ベルは、もう限界のようだった。
耳まで赤い。
マダム・セリアは何も言わず、仮の布を整えている。
小雪は鏡を見る。
似合っている。
ベルが、そう言った。
「ありがとうございます。」
「……どういたしまして。」
「敬語が自然ですね。」
「今それを言うな。」
「はい。」
ベルは片手で顔を覆った。
小雪は少しだけ、口元を緩めた。
次に、ベルの正装の話になった。
ベルは逃げようとした。
「俺は手持ちがある。」
「ありますか。」
「公爵家に。」
「着ますか。」
「着る。」
「黒ですか。」
「たぶんな。」
「見たいです。」
ベルが目に見えて動揺した。
「ここで言うな。」
「ここでなくても言います。」
「言うな。」
「なぜですか。」
「心臓に悪い。」
「初心なハート。」
「それもだが、普通の心臓もだ。」
「補填されませんか。」
「されねぇ。」
マダム・セリアが手を叩いた。
「でしたら、ヴェルヴァルド様の礼装も確認いたしましょう。」
「マダム。」
「サイズが変わっている可能性がございますでしょう。」
「いや、俺は。」
「水車を作り、炉のそばで働き、川辺で荷物を運び、風邪をひくほど雨に濡れたのでしょう?」
ベルが小雪を見る。
「おまえ、何を話した。」
「必要情報です。」
「必要じゃねぇ!」
「採寸には、体格変化の確認が必要です。」
「風邪情報はいらねぇ!」
「言わんこっちゃない、ですか。」
「だから言うな!」
マダム・セリアは、すでに採寸用の紐を持っていた。
「さあ、ヴェルヴァルド様も。」
「俺は。」
「舞踏会で、勇者様のお隣に立つのでしょう?」
ベルが黙った。
小雪もベルを見る。
勇者様のお隣。
ベルは少し視線を落とした。
それから、諦めたように息を吐く。
「……分かりました。」
小雪は店の端の椅子へ座り、ベルの採寸を見ることになった。
ベルが上着を脱ぐ。
シャツ姿になる。
仕立て屋の中である。
炉の前ではない。
雨の中でもない。
それなのに。
小雪はなぜか、以前より少しだけ、見てはいけないものを見ているような気がした。
マダム・セリアが肩幅を測る。
「少し広くなりましたね。」
「そうですか。」
「腕も。」
「そうですか。」
「鍛え直されました?」
「木材と、水車と、勇者様のせいです。」
「私。」
「おまえの安全管理で鍛えられた。」
「良いことです。」
「よくねぇ。」
「ベル、身体が。」
ベルが即座に振り向いた。
「言うな。」
「まだ言っていません。」
「言いかけただろ。」
「すごいです。」
「言った!」
「人前でしたね。」
「分かってるならやめろ!」
「敬語。」
「やめてください!」
「変です。」
「知ってるよ!」
マダム・セリアは慣れた手つきで採寸を続けながら、笑いを堪えていた。
「黒の礼装は、お似合いになるでしょうね。」
「ほら。」
小雪が言う。
「何が、ほら、だ。」
「私の予想は正しいです。」
「まだ着てねぇ。」
「似合います。」
ベルは黙った。
小雪を見る。
少し困ったような顔。
少しだけ、嬉しそうな顔。
「……見てから言え。」
「はい。」
「見て、変だったら言えよ。」
「変ではないと思います。」
「だから、見てから言え。」
「はい。」
小雪は頷いた。
ベルの正装。
黒。
たぶん似合う。
楽しみ。
その言葉が、また頭に浮かんだ。
これも記録した方がいいのだろうか。
店を出る頃には、夕方になっていた。
秋の空は高く、風は少し冷たい。
ドレスは、まだ完成していない。
今日は色と形が決まっただけである。
それでも、何か大きなことをした気がした。
「疲れました。」
「採寸だけでか。」
「戦闘とは種類の違う疲労があります。」
「まあ、分からんでもない。」
「ベルも疲れましたか。」
「俺は別に。」
「採寸されました。」
「されたな。」
「身体がすごかったです。」
「蒸し返すな。」
「事実です。」
「人前じゃなくても刺さる。」
「痛いですか。」
「初心なハートがな。」
「補填されません。」
「されねぇ。」
二人は街の通りを歩いた。
仕立て屋で遅くなったので、そのまま少しだけ買い物もする。
干し肉。
乾魚。
豆。
秋の果物。
パン。
布巾。
小雪は果物の並んだ店先で足を止めた。
「これは林檎ですか。」
「そうだな。」
「真っ赤です。」
「そうだな。」
「まるでベルの耳のようです。」
「買いたいのか。」
「おいしそうです。」
「何がだ。」
「林檎が。」
「まどろっこしい!」
「敬語。」
「まどろっこしいです!」
「変です。」
「分かってるよ。」
結局、林檎は買った。
ベルの耳に似ているからではない。
たぶん。
馬車へ戻る途中、小雪はふと足を止めた。
石畳がまっすぐ伸びている。
まるで王宮へ向かう際の白い街道に見えた。
王宮。
招待状。
舞踏会。
拍手。
勇者。
指が、袖の中の鈴へ触れた。
ちりん。
鳴らしてはいない。
ただ、触れただけ。
「小雪。」
ベルが呼んだ。
「はい。」
「大丈夫か。」
「何がですか。」
「顔。」
「顔。」
「なんか強張って見える。」
小雪はベルを見る。
説明は難しい。
王宮は、寒い。
秋だからではない。
石畳だからでもない。
「ベル。」
「何だ。」
「やはり舞踏会は、行かなければいけませんか。」
ベルは少し黙った。
「おまえが決めればいい。」
「……はい。」
「でも。」
「はい。」
「行くなら、俺ができるだけ面倒を減らす。」
「ベルが。」
「そうだ。」
「鈴で来る人が。」
「公爵家次男が、だ。」
小雪は瞬きをした。
ベルは少しだけ胸を張る。
街の中だからか。
仕立て屋を出たあとだからか。
いつもより少し、背筋が伸びていた。
「エスコートくらいはできる。」
「エスコート。」
「王宮で迷わないように、隣にいる。」
「ベルが。」
「そうだ。」
「それは助かります。」
小雪はそう言った。
ベルは少しだけ耳を赤くした。
「……なら、いい。」
「はい。」
「あと、鈴は持ってろ。」
「王宮では鳴らしてはいけないのでは。」
「緊急時だけな。」
「聞こえるかどうかの確認は。」
「それは緊急に含めるな。」
「では、迷ったら。」
「含める。」
「困ったら。」
「含める。」
「あまりにもベルが遠かったら。」
ベルは少しだけ黙った。
「……含める。」
「便利ですね。」
「便利扱いするな。」
「重要です。」
「まあな。」
小雪は少しだけ安心した。
王宮は、まだ冷たい。
けれど、ベルが隣にいる。
鈴もある。
ドレスも、これからできる。
ベルの正装も、たぶん見られる。
舞踏会は、まだ分類できない。
嫌なもの。
面倒なもの。
寒いもの。
でも。
少しだけ。
悪くないものも混ざり始めている。
山の家へ戻る頃には、すっかり日が暮れていた。
ベルはすぐに夕食の準備を始めた。
小雪は作業台へ座り、今日の記録を書く。
衣装買い出し文明進捗。
一、白いローブは不可。
二、いつもの服も不可。
三、ショッピングはデートではない。
四、仕立て屋、マダム・セリア。
五、月光色の布。
六、薄い青の刺繍予定。
七、ベル、綺麗と言う。
八、ベル、黒の礼装が似合う予定。
九、ベル、採寸される。
十、身体がすごい。
十一、王宮を見ると少し冷える。
十二、ベルが隣にいる。
十三、鈴は持っていく。
小雪は七で少し止まり、八でまた止まり、十二で長く止まった。
ベルが隣にいる。
これは、衣装買い出し文明進捗なのだろうか。
分からない。
けれど、重要である。
小雪は、そのまま残した。
ベルが皿を持って戻ってくる。
「何を書いた。」
「衣装買い出し文明進捗です。」
「嫌な予感がする。」
「見ますか。」
「見る。」
小雪は紙を渡した。
ベルは一から六まで読み、頷いた。
三で少し眉を寄せたが、何も言わなかった。
七で止まる。
「……七。」
「はい。」
「これは。」
「事実です。」
「布が、だ。」
「おまえに、と言いました。」
「聞き間違いだ。」
「耳は正常です。」
「くそ。」
八で、ベルの耳が赤くなる。
「予定って何だ。」
「似合う予定です。」
「まだ見てねぇだろ。」
「予想です。」
「外れたらどうする。」
「外れません。」
ベルは口を閉じた。
少しだけ嬉しそうだった。
九で顔をしかめ、十で紙を折りかける。
「十を消せ。」
「重要です。」
「重要じゃねぇ。」
「採寸結果です。」
「違う。」
「体格情報。」
「違う。」
「ベル観測。」
「消せ。」
「保留。」
「消せ。」
「保留。」
ベルは諦めたように十一へ進んだ。
そこで、表情が少し変わった。
「……王宮を見ると少し冷える。」
「はい。」
「そうか。」
「はい。」
「十二。」
「はい。」
「これは。」
「ベルが隣にいる。」
「……。」
「重要です。」
ベルはしばらく黙った。
それから、紙を返した。
「十二は残していい。」
「はい。」
「十三も。」
「はい。」
「七と八は小さくしろ。」
「はい。」
「十は消せ。」
「保留。」
「小雪。」
「はい。」
「十は消せ。」
「保留。」
「頑固だな。」
「ベルほどではありません。」
小雪は七と八を少し小さくした。
十も少し小さくする。
消しはしなかった。
ベルはそれを見ていたが、もう何も言わなかった。
たぶん、疲れているのだ。
衣装買い出しには、戦闘とは違う疲労がある。
小雪はそう分類した。
夜。
食後に、ベルは買ってきた林檎を切った。
赤い皮。
白い実。
小雪は皿の上の林檎を見る。
「ベルの耳。」
「食うな。」
「林檎です。」
「さっき耳って言っただろ。」
「似ています。」
「やめろ。」
「敬語。」
「やめてください。」
「はい。」
小雪は林檎を食べた。
甘い。
少し酸っぱい。
秋の味だった。
「おいしいです。」
「そうか。」
「買ってよかったです。」
「耳には似てねぇからな。」
「はい。」
小雪はもう一切れ食べた。
向かいのベルは、少しぼんやりしている。
たぶん、舞踏会のことを考えている。
小雪は林檎を噛みながら、ベルを見た。
王宮を見ると、ベルも冷えるのだろうか。
小雪と同じではない。
けれど。
ベルにも、何かあるのかもしれない。
王宮。
ドレス。
ダンス。
ベルの正装。
鈴。
そして、隣にいるベル。
「ベル。」
「何だ。」
「ドレスができたら、見たいですか。」
ベルが林檎を喉へ詰まらせかけた。
「急に言うな!」
「見る必要がありますよね。」
「何の。」
「変ではないか。」
「マダムが見るだろ。」
「ベルも見たいですか。」
ベルは黙った。
耳が、林檎の色へ少し近づく。
「……見る。」
「はい。」
「見るけど。」
「はい。」
「急に出てくるな。」
「どこから。」
「試着室とか。」
「普通に出ます。」
「普通に出てきても心臓に悪い。」
「初心なハートが瀕死。」
「それもだが、普通の心臓もだ。」
「補填されません。」
「されねぇ。」
「大変ですね。」
「おまえのせいだ。」
小雪は少しだけ笑った。
ベルも、顔を背けながら少し笑う。
秋の夜は、夏より静かだった。
王宮はまだ遠い。
舞踏会も、まだ先。
ドレスも、まだ布のまま。
ベルの正装も、まだ見ていない。
けれど。
小雪は少しだけ思った。
今日の衣装買い出しは、デートではない。
ベルが、そう言った。
だから、デートではない。
けれど。
分類できない何かではあった。
小雪はその何かを、今日もまだ、記録しなかった。




