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第二十六話 止めることも文明です

 水車式ドリルには、まだ問題が多かった。


 回る。

 穴も開く。


 だが、危ない。


 速い。ぶれる。焦げる。革紐が跳ねる。そして何より、止めにくい。


 ベルは朝から作業台の前で腕を組み、昨日開けた木片の穴を睨んでいた。


「やっぱり、止める仕組みがいるな。」

「停止文明。」

「そうだ。」

「ベル停止装置。」

「それは違う。」

「鈴です。」

「違う。」

「昨日は止まりました。」

「俺の話じゃねぇ。今はドリルの話だ。」

「はい。」

「それ、分かってねぇ顔だな。」

「分かっています。水車式ドリル停止文明。」

「長い。」

「停止穴文明。」

「混ぜるな。違う。」

「敬語。」

「混ぜないでください。違います。」

「変です。」

「朝からこれか。」


 ベルの風邪は、ほとんど治っていた。


 声も戻っている。

 鼻声もない。

 咳もしていない。


 小雪は静かに観測した。


「ベル。」

「何だ。」

「やっと十割です。」

「何が。」

「あなたの健康状態です。」


 ベルは少しだけ得意そうに口元を上げた。


「だろ。」

「早いですね。」

「元々丈夫なんだよ。」

「しかし、雨に濡れて風邪をひきました。」

「そこは蒸し返すな。」

「言わんこっちゃない。」

「言うと思った。」

「敬語。」

「言うと思いました。」

「自然です。」

「嬉しくねぇ。」


 ベルは昨日までに集めた木材と金具を、作業台へ並べた。


 今日の目的は二つある。


 一つ目は、ドリルをまっすぐ上下へ動かす固定台を作ること。


 二つ目は、水車から伝わる回転を、安全に切る仕組みを作ること。


 小雪も記録用紙を用意した。


「固定台と停止装置。」

「そうだ。」

「止めることも文明。」

「かなり大事な文明だ。」

「補填されても、止まる。」


 ベルの手が、少し止まった。


 昨日、小雪が記録した言葉だった。


 補填されても、止まる。


 ベルは小雪を見る。


「覚えてたのか。」

「はい。」

「なら今日は、勝手に近づくなよ。」

「はい。」

「革紐が跳ねたら危ない。」

「はい。」

「指も、袖も、髪も巻き込む。」

「はい。」

「そして、返事がいい時ほど。」

「信用ならない。」

「頼むから、言うことを聞いてくれ。」


 小雪は頷いた。


 ベルは、かなり疑っている顔だった。




 川辺へ着くと、ロイとガドはすでに来ていた。


 ロイは新しい木の枠を抱え、ガドは金具と細い鉄棒を布に包んで持っている。


 空は昨日とは違ってよく晴れていた。


 増えていた川の水も少し落ち着き、水車はいつもの速度に近い。


「今日は大丈夫そうですな。」


 ロイが言った。


「昨日よりはな。」


 ベルは水車を見ながら頷いた。


「でも、川の流れはいつも同じじゃねぇ。雨が降れば速くなるし、水が減れば遅くなる。全部を水車任せにすると危ない。」

「水車は自由ですね。」


 小雪が言う。


「そうだな。自由すぎると指が飛ぶ。」

「不自由にしましょう。」

「言い方。」


 ガドが笑いながら、持ってきた金具を広げた。


「それで、止める仕組みってのはどうするんだ。」


 ベルは地面へ図を描いた。


 水車。

 主軸。

 革紐。

 小さな軸。

 ドリル。


「昨日は、回転を止めるために革紐を直接外した。」

「危ないです。」

「そうだ。だから、紐を外すんじゃなくて、緩める。」

「緩める。」

「革紐がぴんと張ってるから、回転が向こうの軸へ伝わる。逆に緩めれば、紐が滑って力が伝わりにくくなる。もっと緩めれば、ほとんど回らなくなる。」


 小雪は図を見た。


「滑ることも文明。」

「そうだ。」

「力を逃がします。」

「そうだな。」

「昨日までは、逃げる力を減らしていました。」

「ああ。」

「今日は、止めるために逃がします。」


 ベルは一瞬、小雪を見た。


 それから、少し笑った。


「分かってきたじゃねぇか。」

「はい。これで私も技術者です。」

「それは早い。」


 ロイは地面の図を覗き込んだ。


「つまり、こちらの小さな軸そのものを少し動かして、革紐の張りを変えるわけですな。」

「ああ。」


 ベルはロイの持ってきた木枠を指す。


「軸を完全に固定しない。支点を作って、片側を少し動かせるようにする。上げたり下げたりして、革紐を張ったり緩めたりする。」

「てこのように。」

「そうだな。」


 小雪は記録する。


 一、革紐が張ると、回転が伝わる。

 二、革紐が緩むと、回転が逃げる。

 三、止めるには、逃がす。

 四、止めることも文明。

 五、ベルも鈴で止まる。


「なぜ今日も五を書いた。」

「重要です。」

「重要じゃねぇ。」

「昨日、止まりました。」

「俺は革紐じゃねぇ。」

「ベル紐。」

「やめろ。」

「敬語。」

「やめてください。」


 ガドが肩を震わせていた。


 ロイも口元を押さえている。


 ベルは耳を赤くしながら、作業へ戻った。




 固定台作りは、思っていたより難しかった。


 ドリルをまっすぐ下ろすには、左右へぶれないよう支えなければならない。


 けれど、固く締めすぎれば動かない。


 緩すぎれば、今度はぶれる。


 動かしたいところだけを動かし、動かしたくないところは止めておく。


 言葉にすれば簡単だが、実際には少しの隙間や歪みで動きが変わる。


「一部だけ不自由にするのも難しいですね。」


 小雪が言った。


「そうだな。」

「止まらせたいところは止めて、動かしたいところだけ動かす。」

「ああ。」

「人間の文明と同じでしょうか。」

「急に話がでかくなったな。」

「違いますか。」

「まあ、似てるところはあるかもしれねぇけど。」

「ベルは昨日、止まりませんでした。」

「結局止まっただろ。」

「鈴で。」

「出すな。」


 小雪は袖へ手を伸ばしかけた。


「本当に出すな。」

「はい。」


 ベルは木の支柱を二本立て、その間へドリルの軸を通す枠を作った。


 ロイが、軸が触れる部分を丁寧に削る。

 ガドが薄い金具を当てる。


 小雪は近くから見ようとした。


 ベルの手が、すぐに伸びた。


「近い。」

「観測。」

「離れろ。」

「はい。」

「今、刃物がある。」

「はい。」

「木屑も飛ぶ。」

「はい。」

「髪も危ない。」

「はい。」


 小雪は素直に一歩下がった。


 ベルは満足そうに頷く。


「よし。」

「ベル。」

「何だ。」

「過保護です。」

「安全管理だ。」

「良いおかん。」

「保護者に戻すな。」

「良いお父さん。」

「だから同じだって。」

「敬語。」

「同じです。これ、あと何回やるんだ。」


 ガドが横から言った。


「まあ、兄ちゃんはいい父親になりそうだな。」


 ベルは持っていた金具を落としかけた。


「ガドさんまで!」

「面倒見がいいじゃねぇか。」

「これは危ないから――」

「それを面倒見がいいって言うんだ。」


 ロイも頷いた。


「勇者さまは、かなり危なっかしいですからなぁ。」

「はい。私は危ないです。」


 小雪は素直に認めた。


「認めるな。」

「実績です。」

「そうだけど。」

「なので、ベルが必要です。」


 ベルの動きが止まった。


「……。」

「安全管理担当。」

「そこで、それを出すな!」

「生活文明総合担当でもあります。」

「勝手に増やすな。」

「ドリル文明停止担当。」

「もっと増えるのか。」

「鈴で来る人。」


 ベルは深く息を吐いた。


「もう作業に戻っていいか。」

「はい。」




 昼前には、固定台と停止装置の試作品ができた。


 木の台座。

 左右の支柱。

 その間を上下へ動くドリル軸。


 そして足元には、小さな踏み板。


 踏み板を押すと、てこの仕組みで小さな軸の位置がわずかに動き、革紐が緩む。


 完全に回転を止められるわけではない。


 けれど、手で回っている革紐を外すよりは、ずっと安全だった。


「踏むと止まります。」


 小雪が言う。


「正確には、回転が伝わりにくくなる。」


 ベルが訂正した。


「止まるのではなく、逃がす。」

「そうだ。」

「逃がして、止める。」

「そうだ。」

「逃亡文明。」

「違う。」

「敬語。」

「違います。」

「自然ですね。」

「もう嫌だ。」


 最初の試験では、まだ水車の力を使わなかった。


 革紐も掛けず、ドリルの軸を手で回して動きを見る。


 昨日より、軸はまっすぐ下りた。

 先端が木片へ当たる。


 ぎり。

 浅い穴が開く。


 昨日より、ずれが少ない。


「まっすぐに近いです。」


 小雪が言った。


「まだ近いだけだ。」


 ベルは穴を覗き込む。


「でも、昨日よりはいい。」

「進歩です。」

「ああ。」

「固定台文明。」

「それなら合ってるな。」

「またやりましたね。」

「ああ。そこは喜んでいい。」


 小雪は少しだけ口元を緩めた。


 ベルがそれを見る。


 なぜか、少しだけ目を逸らした。


「ベル。」

「何だ。」

「照れていますか。」

「照れてねぇ。」

「耳。」

「火床が近い。」

「今日は火床に火がありません。」

「暑い。」

「曇ってきました。」

「うるせぇ。」

「敬語。」

「うるさいです。」

「変です。」

「分かってる。」




 次は、水車の力を使う試験である。


 ベルは始める前に、全員の位置を確認した。


 ロイは台座の横。

 ガドはドリルの先端を見る。

 ベルは水車と革紐の近く。

 小雪は後ろ。


 かなり後ろ。


「私だけ遠いです。」

「そこでいい。」

「観測できません。」

「目はいいだろ。」

「ベルの背中しか見えません。」

「なら背中を観測しろ。」

「よいのですか。」

「やっぱり見るな。」

「どちらですか。」

「ドリルを見ろ。いや、でも近づくな。」

「難しいです。」

「難しくしてるのはおまえだ。」


 ベルは革紐を掛けた。


 水車が回る。

 革紐が動く。

 小さな軸へ回転が伝わる。


 ドリルが回り始めた。

 昨日より、ぶれが少ない。


 ぎぎ、と音がする。

 先端が木へ入る。

 細かな木屑が出る。


 焦げた匂いも、昨日より少ない。


「よし。」


 ベルの声が弾んだ。


 小雪は後ろから見ていた。


 ベルの肩越しに、回る軸が見える。


 ドリルが少しずつ下がる。

 穴が深くなる。

 まっすぐ。


 まだ完全ではない。


 けれど、まっすぐに近い。


「停止。」


 ベルが言った。


 ロイが踏み板を踏む。


 軸の位置が動く。

 革紐が緩む。

 回転が滑る。


 ドリルの勢いが落ちる。


 さらにベルが手元の木片を引き、ドリルを上げた。


 回転が止まった。


 全員が一度、息を吐く。


 木片には、昨日よりずっときれいな穴が開いていた。


「開きました。」


 小雪が言う。


「ああ。」


 ベルは穴を覗き込んだ。


「まだ少し斜めだ。焦げもある。止まり方も遅い。」

「でも、昨日よりましです。」

「そうだな。」

「水車式ドリル固定台、成功。」

「試作成功、だな。」

「停止文明も成功。」

「半分成功だ。」

「ベルも停止しましたか。」

「それは関係ねぇ。」

「鈴なしで。」

「だから関係ねぇ。」


 ベルはそう言いながら、笑っていた。


 ガドが木片を受け取り、穴を確かめる。


「これなら、金具を作る時の下穴には使えそうだな。」


 ロイも嬉しそうに頷いた。


「同じ位置へ何度も穴を開けるなら、印になる板も作った方がよさそうですな。」

「型板。」


 ベルが言った。


「穴の位置を揃えるための板ですか。」


 小雪が訊く。


「そうだ。」

「穴を開けるために、穴の位置を決める板。」

「そうだな。」

「穴の親。」

「やめろ。」

「敬語。」

「やめてください。」


 ガドが笑った。


「穴の親はいいなぁ。」

「よくありません。」


 ベルは即座に否定した。


 けれど、その顔は少し嬉しそうだった。


 文明は、少し進んだ。


 危なかったものが、少しだけ使えるものになった。


 止められなかったものが、少しだけ止められるようになった。


 小雪は記録する。


 一、固定台により、ぶれ減少。

 二、踏み板で革紐を緩める。

 三、止めるには、逃がす。

 四、穴、昨日よりまっすぐ。

 五、ベル、鈴なしでも止まる。

 六、ベル、嬉しそう。

 七、ベル、照れる。

 八、穴の親。


「五から八を消せ。今すぐ。」

「重要です。」

「重要じゃねぇ。」

「ベルの観測記録です。」

「ドリルの記録を書け。」

「ベルもドリル文明の一部です。」

「俺を部品にするな。」

「ベル部品。」

「やめろ。」

「敬語。」

「やめてください。」


 ロイもガドも笑っていた。




 午後は、台座の改良だけにした。


 ドリルを何度も回すと、木の支柱が少しずつ熱を持つ。

 軸が通る穴の内側も削れ、時間が経つと、またぶれ始める。

 革紐は伸びる。

 川の流れが変われば、水車の速度も変わる。


 完全な機械には、まだ遠い。


 けれど、確かに前へ進んでいる。


「次は、滑車だな。」


 ベルが言った。


「滑車。」

「大きい輪と小さい輪を使って、速度と力を調整する。革紐が外れにくいよう、溝の形も考えたい。」

「回転取引文明。」

「まだそれを言うか。」

「速度と力を交換します。」

「間違ってはねぇけど。」

「では、回転取引文明。」

「名前が嫌だ。」

「滑車文明。」

「それでいい。」

「その次は。」

「台座をもっと直す。あと、丸い軸を作れるようにしたい。」

「丸い軸。」

「今の軸は手で削ってる。見た目は丸くても、完全な丸じゃねぇ。だから回すとぶれる。」

「では、どうしますか。」

「木そのものを回しながら削る。」


 小雪は少し目を見開いた。


「回して、削る。」

「ああ。そうすれば、今よりは丸くできる。」

「丸い文明。」

「雑だが重要だ。」


 小雪は頷いた。


 丸い文明。

 滑車文明。

 停止文明。

 穴文明。


 文明は増えている。


 増えすぎている。


 小雪はベルを見た。


 水車の前に立つベルは、いつものように袖をまくり、工具を持っている。


 料理をする。

 火を起こす。

 髪を拭く。

 鈴を鳴らせば来る。

 危なければ止める。

 水車式ドリルも止める。


 小雪にとってベルは、そういう人だった。


 分類は難しい。


 けれど、いつも近くにいる。

 呼べば来る。

 身近な人間。


 小雪は、そう考えた。


 それ以上の名前は、まだつけなかった。




 夕方、片づけを終えて山の家へ戻った。


 ドリル固定台の試作品は、川辺の小屋へ置いてきた。濡れないよう布を掛け、革紐だけは外して持ち帰る。


 小雪は記録用紙を抱えていた。


 ベルは金具と鉄棒を持っている。


「重くありませんか。」

「重くねぇ。」

「病み上がりです。」

「もう治った。」

「十割。」

「そうだ。」

「明日、九割へ戻る可能性も。」

「戻らねぇ。」

「風邪は、ぶり返すこともあります。」

「ぶり返さねぇ。」

「ベルには、言わんこっちゃない実績があります。」

「不名誉な実績だ。」


 山の家が見えた。


 その前に、見慣れない馬車が停まっていた。


 黒塗りの車体。

 細い金の縁取り。

 扉には、王家の紋章。


 ベルの足が止まった。


 小雪も止まる。


「爆破しますか。」

「やめろ。まず要件を聞け。」

「でも、きっと面倒です。」

「面倒だからって爆破するな。」


 馬車の横に立っていた使者が、二人に気づいて深く礼をした。


 身なりの整った男だった。


 山道を上がってきたはずなのに、靴も外套もきれいに見える。


 王宮の人間は、山の泥にも礼儀を持ってくるらしい。


「勇者コユキ殿。」


 使者は小雪へ向き直り、封書を差し出した。


「王宮より、正式なご招待状をお持ちいたしました。」


 小雪は封書を見る。


 厚い紙。

 赤い封蝋。

 王家の紋章。


 受け取らなければならないものだと分かる。


 小雪は手を伸ばした。


「はい。」


 使者は、さらにもう一通の封書を取り出した。


 今度はベルへ向ける。


「ならびに、グランツ公爵家次男、ヴェルヴァルド・グランツ卿へ。」


 ベルの顔から、少しだけ血の気が引いた。


「……俺にもかよ。」


 使者は丁寧に頷いた。


「はい。王宮舞踏会への正式なご招待でございます。」


 小雪はベルを見る。


「舞踏会。」

「……そうだな。」

「踊るのですか。」

「そうなるな。」

「ベル、踊れますか。」

「踊れる。」

「意外です。」

「おまえ、公爵家次男を何だと思ってんだ。」


 小雪は少し考えた。


「鈴で来る人。」

「人前でそれを言うな!」


 使者の表情が、ほんの少しだけ揺れた。


 だが、すぐに礼儀正しい顔へ戻る。


 さすが王宮の使者である。


「日程は三週間後でございます。魔王討伐を祝う、九年ぶりの大規模な王宮舞踏会となります。勇者殿には、ぜひご臨席賜りたく。」


 小雪は封書を見た。


 魔王討伐。

 勇者。

 祝賀。

 王宮舞踏会。


 華やかな言葉である。


 紙も美しい。

 封蝋も整っている。


 けれど、その向こう側にあるものを、小雪は知っている。


 王宮。

 王。

 勇者。

 祝福。

 救国。

 拍手。


 小雪は、ほんの少しだけ指先へ力を入れた。


 封書の角が、わずかに曲がる。


「小雪。」


 ベルが低く呼んだ。


 小雪は瞬きをした。


「はい。」

「封筒、潰れてる。」

「はい。」


 指の力を抜く。


 ベルは使者へ視線を戻した。


 声が少し変わっていた。


 いつもの三下口調ではない。

 低く、落ち着いた、整った声。


「使者殿。確かに受け取りました。グランツ家へは、別途連絡が?」

「はい。公爵家にも同様の案内が届いております。」

「承知しました。」


 小雪はベルを見た。


 ベルが違う。


 背筋が伸びている。

 言葉が整っている。

 顔つきも少し硬い。


 いつもの「うるせぇ」も、「やめろ」もない。


 公爵家次男。

 ヴェルヴァルド・グランツ。


 鈴で来る人と同じ人。


 のはず。


 小雪は、少しだけ目を細めた。


「ベル。」

「今はベルって呼ぶな。」

「ヴェルヴァルド。」


 ベルが一瞬だけ固まった。


 使者の前で。

 とても分かりにくく。


 けれど、小雪には分かった。


 これは効いた。


「……何でしょうか、勇者殿。」


 ベルが、かろうじて答える。


「まるで別人ですね。」

「今、それを言うな。」

「敬語。」

「今は言わないでください。」

「はい。」


 使者は、今度こそわずかに目を伏せた。


 笑いを堪えたのかもしれない。


 小雪は封書を持ったまま、山の家を見た。


 水車。

 ドリル。

 固定台。

 鈴。

 スープ。

 濡れた上着。

 焦げ飴の目。


 そこへ、王宮舞踏会が来た。


 急に。


 華やかな顔をして。


「ベル。」

「何だ。いや、何でしょうか。」

「舞踏会には、穴文明を持っていきますか。」

「持っていくな。」

「停止文明は。」

「持っていくな。」

「鈴は。」


 ベルは少し黙った。


 それから、小さく息を吐く。


「……鈴は持ってろ。」

「はい。」

「ただし、王宮でむやみに鳴らすな。」

「緊急時は。」

「緊急時だけだ。」

「聞こえるかどうかの確認は。」

「それは緊急じゃねぇ。」

「それは含めます。」

「含めるな。」

「敬語。」

「含めないでください。」

「変です。」

「今は変でいい。」


 小雪は袖の中の鈴へ触れた。


 反対の手には、王宮からの招待状がある。


 勇者への招待。

 公爵家次男への招待。


 科学文明は今日、止まるための仕組みを覚えた。


 止めることも文明だと、ベルは言った。


 回転は、力を逃がせば弱くなる。

 革紐を緩めれば、伝わらなくなる。

 踏み板を押せば、止められる。


 けれど。


 王宮へ向かおうとしているこの流れは、どうやって止めればいいのだろう。


 また、よく分からなくなった。


 ベルも封書を見ながら、空を仰いだ。


「……舞踏会か。」

「はい。」

「面倒くせぇ。服も持ってきてねぇし。」

「服?」

「舞踏会だぞ。正装していかなきゃならねぇだろ。」


 正装。


 ベルの正装。


 小雪は少し考えた。


 舞踏会は面倒だ。

 王宮も好きではない。

 行きたくない。


 けれど、舞踏会へ行けばベルの正装を観測できるらしい。


 悪くない。


 これは、とても悪くない。


「……ベルの正装。」


 ベルが顔を赤くした。


「何だよ。おかしいか。」

「黒が似合いそうです。」

「突然そういうことを言うな。」

「初心なハートが瀕死ですか。」

「久しぶりに聞いたな。」

「ベルは踊れますか。」

「だから、さっきも踊れるって言っただろ。」

「私は踊れません。」


 ベルは小雪を見た。


 少し意外そうに。


 それから、口元をわずかに上げた。


「なら、教えてやろうか。」

「ベルが。」

「そうだ。」

「鈴で来る人が。」

「公爵家次男が、だ。」


 小雪は瞬きをした。


 ベルは少しだけ胸を張った。


 まだ耳は赤い。


 けれど、その立ち方は確かに、山奥の三下助手だけではなかった。


「踊れるようにしてやるよ、勇者さま。」

「敬語。」

「踊れるようにして差し上げます、勇者殿。」

「変です。」

「おまえが言わせたんだろ。」


 小雪は少しだけ笑った。


 王宮は嫌いだ。

 舞踏会も、きっと面倒である。


 けれど。


 ベルの正装は見たい。

 とても見たい。


 ベルに踊りを教わることも、少しだけ。


 楽しみかもしれない。


 小雪は瞬きをした。


 楽しみ。


 また一つ。


 よく分からなかったものに、名前がついた。

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