第二十五話 水車式ドリルは危ない
翌朝、ベルの風邪はほとんど治っていた。
そして本人は、少し勝ち誇った顔をしていた。
「ほらな。」
「何がですか。」
「治った。」
「まだ少し鼻声です。」
「治った。」
「喉。」
「痛くねぇ。」
「額。」
「熱はねぇ。」
「確認します。」
小雪は手を伸ばした。
ベルが少しだけ身を引く。
「待て。」
「額の温度を確認します。」
「急に触るな。」
「昨日は触りました。」
「昨日は病人だった。」
「今日も病み上がりです。」
「治った。」
「病み上がりです。」
「治った。」
「病み上がりです。」
「……この言い合い、終わらねぇな。」
「はい。」
小雪はもう一度手を伸ばした。
今度は、ベルも逃げなかった。
小雪の手が額に触れる。
昨日より熱くない。いつもの体温に近い。
小雪は少しだけ安心した。
「平熱に近いです。」
「だろ?」
「鼻は少し残っています。」
「残ってねぇ。」
「声、九割回復。」
「十割だ。」
「咳、今のところなし。」
「医者か。」
「ベル風邪観測、終了。」
「その記録を消せ。」
「まだ書いていません。」
「今から書く顔をしてる。」
「なぜ分かるのですか。」
「分かるようになった。」
ベルは少し得意そうだった。
小雪は頷く。
「ベル、成長する。」
「おまえのせいでな。」
「よいことです。」
「よくねぇ。」
「敬語。」
「よくありません。」
「今日も変です。」
「知ってるよ。」
ベルは椅子から立ち上がった。
小雪は即座に鈴へ手を伸ばす。
ちりん。
ベルが振り向いた。
「何だ。」
「座ってください。」
「もう治ったって言っただろ。」
「病み上がりです。」
「今日は作業がある。」
「休養も作業です。」
「それっぽいことを言うな。」
「昨日、私はベルが寝ている間にドリルを勝手に試しませんでした。」
ベルが止まった。
「……本当か。」
「はい。」
「弓ぎり、触ってねぇのか。」
「触りました。」
「触ったのか。」
「持ち上げました。」
「それで試したのか?」
「試していません。」
「本当だろうな。」
「善処しました。」
「そこは善処じゃなくて、守りました、だろ。」
「守りました。」
ベルは少しだけ口元を緩めた。
「なら、今日は続きをやる。」
「病み上がりです。」
「おまえが勝手にやらねぇように、俺が見る。」
「過保護です。」
「おまえ相手なら、これが普通だ。」
「ベルは良いおかん。」
「保護者にするな。」
「では、良いお父さん。」
「同じだ。」
「敬語。」
「同じです。」
ベルは頭を抱えた。
けれど、声には昨日ほどの掠れがない。
小雪はそれを観測した。
安心したことは、記録しない。
たぶん。
川辺へ向かうと、水車はいつものように回っていた。
くる、くる。
昨日の雨で川は少し増水している。流れも速く、水車の回転はいつもより力強かった。
ベルはそれを見た途端、眉を寄せた。
「今日は回りすぎてるな。」
「よいことでは。」
「よくねぇ。速すぎると危ない。」
「危険文明。」
「文明にするな。」
「では、危険。」
「そうだ。」
川辺には、ロイとガドも来ていた。
ロイは木材を抱え、ガドは昨日作った細い鉄棒を布に包んで持っている。
「おお、ベルのあんちゃん。もう大丈夫か。」
ガドが言った。
「大丈夫だ。」
「声が少し鼻声だな。」
「……大丈夫です。」
ロイがにこにこした。
「勇者さまに看病してもらったんでしょう。」
「看病というか、鈴で命令されましたね。」
「仲がよろしいですなぁ。」
「よくありません。」
「ベル、照れる。」
「言うな。」
「敬語。」
「言わないでください。」
ガドは笑いながら、鉄棒を作業台へ置いた。
「それで、今日は水車で穴を開けるんだったな。」
「はい。」
小雪は頷く。
「水車式ドリルです。」
「水車が穴を開けるのか。」
「はい。水車が穴を開けます。」
ベルが横から訂正する。
「正確には、水車の回転を別の軸へ渡して、その先でドリルを回す。」
「水車が穴を開けます。」
「短くしすぎだ。」
「穴文明、水力化。」
「語感は最悪だが、内容は合ってる。」
ベルは地面へ図を描いた。
大きな円が水車。
その軸へ木の輪を取りつける。
少し離れた場所には、もっと小さな輪をつけた別の軸を置く。
二つの輪を、革紐でつなぐ。
「水車は、ふいごを押すだけじゃねぇ。」
ベルは木の棒で図を指した。
「回る力は、別の回るものへ渡せる。」
「回転の継承、ですね。」
「まあ、そうだ。」
「水車が回り、革紐が動き、小さな軸が回り、ドリルが回って、穴が生まれる。」
「生まれる、の言い方が嫌だ。」
「穴誕生。」
「やめろ。」
「敬語。」
「やめてください。」
ロイは地面の図を見ながら頷いた。
「なるほど。水車側の輪が革紐を動かして、向こうの小さな輪を回すわけですな。」
「ああ。大きい輪が一度回る間に革紐が長く動く。受ける側の輪が小さければ、その分、何度も回る。」
「速くなる。」
小雪が言う。
「そうだ。」
「では、速い方がよいですね。」
「そうとも限らねぇ。」
ベルはすぐに答えた。
「速くすれば危なくなる。力も足りなくなることがある。紐は滑るし、張りすぎれば軸へ負担がかかる。緩すぎれば回らねぇ。」
「問題だらけですね。」
「ああ。文明は問題だらけだ。」
「腹立ちますか。」
「大体腹立つ。」
「敬語。」
「腹が立ちます。」
「自然ですね。」
「基準が分からん。」
ガドは鉄棒を持ち上げた。
「先端は少し捻っておいた。削り屑が逃げやすいようにな。」
小雪の目が少し輝いた。
「螺旋。ツイストドリルですね。」
「ついすと?」
「ねじれ溝です。」
「最初からそう言え。」
「では、ぐるぐる文明。」
「退化したな。」
ベルは鉄棒を受け取り、先端を確かめた。
「これなら木には入る。金属は、まだ無理だ。」
「金属穴文明は先ですか。」
「先だ。」
「では、木穴文明。」
「その言い方はやめろ。」
ロイも、昨日の話を聞いて作ってきたらしい木の台座を置いた。
穴を開ける木片を挟み、動かないよう固定するための簡単な枠である。
「まだ粗いですが、手で押さえるよりはましでしょう。」
「助かる。」
ベルは素直に礼を言った。
小雪は固定具を見る。
木片を挟む。
動かないように留める。
穴を開ける対象を固定する。
「固定は大事です。」
「そうだ。」
「ベルも昨日、固定されました。」
「寝床にな。」
「鈴で。」
「もう蒸し返すな。」
「もしや、これは風邪文明。」
「やめろ。」
「敬語。」
「やめてください。」
ベルはまだ少し鼻声だった。
けれど、動きはいつも通りに近い。
小雪はそれを見て、また少し安心した。
組み立ては慎重に進んだ。
水車の軸へ、木の輪を取りつける。輪には浅い溝を掘り、そこへ革紐を掛ける。
少し離れた台には小さな軸を置いた。
その軸の先へ、ガドが作った鉄棒を固定する。
鉄棒の先端は、台座へ固定した木片へ向かう。
小雪は近くで見ようとした。
すぐに、ベルの手が肩を掴んだ。
「近い。」
「観測できません。」
「近づいたら、袖が巻き込まれる。」
「袖巻き込み文明。」
「それは文明じゃねぇ。危険だ。」
「指も巻き込まれますか。」
「巻き込まれる。」
「指穴文明。」
「頼むからやめろ。」
「敬語。」
「やめてください。」
ベルは小雪を、自分の後ろへ移動させた。
「ここ。」
「少し見えません。」
「見える位置まではいい。触れる位置は駄目だ。」
「触りません。」
「信用ならねぇ。」
「また実績ですか。」
「分かってるじゃねぇか。」
ベルは革紐を手でゆっくり動かした。
水車側の輪が回る。
革紐が動く。
向こうの小さな軸も回る。
ドリルの先端が、くるくると回った。
だが、少しぶれている。
「まだ揺れるな。」
ガドが目を細めた。
「軸の固定が甘い。」
「紐に引っ張られてますな。」
ロイも台を押さえながら言う。
「支えを増やしましょうか。」
「いるな。」
ベルが咳払いをした。
小雪はすぐに見る。
「咳。」
「咳じゃねぇ。咳払いだ。」
「同じ系統です。」
「系統で分類するな。」
「喉観測結果。」
「観測するな。」
ベルの耳が少し赤くなる。
病み上がりである。
小雪は、毛布を持ってこなかったことを少し後悔した。
「ベル。」
「何だ。」
「休みますか。」
「まだ始めたばかりだろ。」
「病み上がりです。」
「治った。」
「声、九割。」
「もう十割だ。」
「鼻。」
「平気だ。」
「ベル。」
「何だ。」
「無理をすると、また風邪をひきます。」
ベルは一瞬黙った。
それから、小雪をちらりと見る。
「……おまえが心配するなら、休憩は挟む。」
小雪は瞬きをした。
心配。
これは、心配なのか。
感情に名前がついた。
「はい。」
「だから今は、後ろにいろ。」
「はい。」
「本当に後ろにいろ。」
「はい。」
「返事がいい時ほど。」
「信用ならないです。」
「分かってんなら、信用させてくれ。」
小雪は一歩下がった。
ベルはそれを確認してから、もう一度試験へ戻った。
最初は、水車へつながない。
革紐を手でゆっくり動かし、回転のぶれを見る。
くるり。
革紐が動く。
小さな軸が回る。
鉄棒も回る。
木片の表面へ、浅い円ができた。
「回りました。」
小雪が言う。
「まだ手回しだ。」
ベルはしばらく回転を見た。
鉄棒の先が、少し跳ねる。
ぎり、と音がした。
「先端が逃げる。」
ガドが言う。
「上から押さえるだけじゃ足りねぇな。」
「左右にも支えが欲しいですな。」
ロイが固定具を見ながら言った。
ベルは頷く。
「支えを増やす。木片の方も、もう少し強く固定する。」
「固定文明。」
小雪が言った。
「それは正しい。」
「やりましたね。」
「喜ぶことか?」
「はい。」
ロイが横支えを追加する。
ガドが鉄棒の付け根を締め直す。
ベルが革紐の張りを調整する。
小雪は記録した。
一、手回し試験。
二、ドリル先端、逃げる。
三、左右支えが必要。
四、木片固定、強化。
五、ベル、休憩を忘れがち。
「五を書くな。」
「重要です。」
「重要じゃねぇ。」
「病み上がり。」
「治った。」
「声、九割。」
「だから十割だ。」
ベルが記録用紙を覗き込もうとした。
小雪は少し後ろへ下がる。
ベルも一歩近づく。
その瞬間だった。
張りを確かめるために動かしていた革紐が、ぱしん、と外れた。
乾いた音を立てて、横へ跳ねる。
小雪は反射的にそちらを見た。
足が、一歩前へ出る。
その腰を、ベルの腕がさらうように引き戻した。
「近づくな!」
小雪の背中が、ベルの胸に当たった。
少しだけ。
けれど、はっきりと。
ベルの腕が腰にある。
小雪は瞬きをした。
「ベル。」
「何だ。」
「近いです。」
「危なかった。」
「でも、近いです。」
「今はそこじゃねぇ!」
「ベルの体温、平熱に近いです。」
「観測するな!」
「少し安心しました。」
ベルの腕が固まった。
ガドが咳払いをした。
ロイは空を見た。
今日は、とてもよい天気である。
「……小雪。」
「はい。」
「危ないから、前へ出るな。」
「はい。」
「今の紐が目に当たったら大変だ。」
「はい。」
「指でも切れる。」
「はい。」
「分かってるか。」
「はい。ベルが守ってくれました。」
ベルの顔が赤くなる。
「そういう話じゃ――」
「良いおかん。」
「だから保護者に戻すな!」
「良いお父さん。」
「同じだ!」
小雪は少しだけ笑った。
ベルは腰から手を離した。
名残のように、そこだけ少し温かい。
小雪は記録しようかと考えた。
やめた。
今書くと、ベルが止める。
あとで書こう。
覚えていたら。
支えを増やし、革紐の張りを少し緩めた。
今度こそ、水車の力を使う。
ベルは水車のそばへ立ち、ロイとガドへ言った。
「少しずつだ。いきなり全部つなぐな。紐を掛けるのは俺がやる。外す時も俺がやる。」
「ベルは病み上がりです。」
小雪が言う。
「ここは俺がやる。」
「なぜですか。」
「一番危ないからだ。」
「では、私が。」
「一番危ないから俺がやるって言ったんだよ!」
「敬語。」
「一番危ないから私がやります、と言っています!」
「すごく変です。」
「おまえが変にさせてるんだよ!」
ガドが笑った。
「本当に元気になったな。」
「元々元気です。」
ベルは即答した。
小雪は少し眉を寄せる。
「八割五分。」
「何で下がった!?」
「怒ったので。」
「怒ると下がるのかよ!」
「体力消費です。」
「おまえのせいだろ!」
ベルは深呼吸した。
それから慎重に、回っている水車側の輪へ革紐を掛けた。
革紐が動く。
向こうの小さな輪が回る。
軸が回り始める。
鉄棒が回る。
思っていたより、ずっと速い。
「速いですね。」
「大きい輪から小さい輪へ渡してるからな。」
ベルが言う。
「大きい輪が一度回る間に、小さい方は何度も回る。」
「速さと力の交換ですね。」
「大体そういうことだ。ただ、まだ調整がいる。」
「回転取引文明。」
「言い方は嫌だが、まあ合ってる。」
回るドリルの先が、木片へ当たった。
ぎぎ、と音がする。
細かな木屑が出た。
少しずつ。
本当に少しずつ。
木が削れていく。
「穴。」
小雪が言った。
「まだ浅い。」
ベルは慎重に押さえを調整する。
ガドが台を支える。
ロイが横支えを押さえる。
水車が回る。
ドリルも回る。
ぎぎぎ。
木屑が増える。
やがて、少し焦げたような匂いがした。
「焦げています。」
「摩擦だ。」
「熱になりました。」
「そうだ。」
「力が逃げています。」
「逃げてる。」
ベルの目が、穴から離れない。
「でも、穴も開いてる。」
声に少しだけ興奮があった。
小雪はベルを見た。
ベルは、こういう時だけ目が明るくなる。
琥珀色の瞳が、火もないのに光って見える。
「ベル。」
「何だ。」
「目が、焦げ飴です。」
ベルの手元が、ほんのわずかに狂った。
ドリルの先が跳ねる。
「今言うな!」
「すみません。」
「危ねぇだろ!」
「焦げ飴が。」
「目の話じゃねぇ!」
「敬語。」
「目の話ではありません!」
「変です。」
「だから今は――」
革紐が、また大きく震えた。
ベルはすぐに手を伸ばし、紐を外す。
回転が止まった。
全員が、一度息を吐いた。
木片には、穴が開いていた。
完全ではない。
途中まで。
少し斜め。
縁は、わずかに焦げている。
それでも、手動よりずっと早かった。
「開きました。」
小雪が言った。
ベルは木片を手に取り、穴を覗き込む。
「浅い。斜め。焦げてる。危ない。」
「はい。」
「でも、開いた。」
「はい。」
「水車で、穴が開いた。」
ベルは小さく笑った。
小雪も頷く。
「はい。水車が穴を開けました。」
「その言い方は嫌だが、今日は許す。」
「穴文明、水力化。」
「それは許さねぇ。」
「なぜですか。」
「語感が嫌だ。」
「重要です。」
「重要なのは、安全性だ。」
ベルは木片を作業台へ置いた。
「次は、止める仕組みがいる。」
「止める仕組み。」
「紐を外すのが遅れたら危ない。手で外すのも危ねぇ。回転だけを切れる仕組みがいる。」
「停止文明。」
「そうだ。」
「止めることも文明。」
「かなり大事な文明だ。」
「ベルも止める必要があります。」
ベルが小雪を見る。
「……何を。」
「病み上がりの作業。」
「今は止めるな。」
「止めます。」
「まだ改良点を――」
ちりん。
鈴が鳴った。
ベルは反射的に振り向く。
「何だ。」
「休憩時間です。」
「鈴で作業を止めるな。」
「停止文明です。」
ガドが吹き出した。
ロイも笑う。
ベルは額を押さえた。
「おまえ、今うまいこと言ったと思ってるだろ。」
「はい。」
「くそ。少しうまい。」
「やりました。」
「喜ぶな。」
「敬語。」
「喜ばないでください。」
結局、ベルは休憩することになった。
病み上がりだからである。
本人は、もちろん認めていない。
昼食は川辺で簡単に済ませた。
ベルはいつも通り動こうとしたが、小雪が水を渡し、座る場所を示し、最後には鈴まで見せた。
ベルは非常に不満そうだった。
「俺は病人じゃねぇ。」
「病み上がりです。」
「治った。」
「八割五分。」
「まだその評価か。」
「怒らなければ九割です。」
「怒らせてるのはおまえだ。」
「では、私が原因ということで。」
「認めるのか。」
「はい。」
「改善しろ。」
「善処します。」
「信用ならねぇ。」
小雪は自分の干し肉を一つ、ベルの方へ押した。
ベルが気づく。
「何だ。」
「食べてください。」
「おまえの分だろ。」
「ベルは補填されません。」
ベルは黙った。
小雪も黙る。
昨日の言葉が、二人の間へ少しだけ落ちた。
空気が重くなりかける。
その前に、ベルは干し肉を半分へ割った。
片方を小雪へ戻す。
「半分。」
「全部食べてください。」
「半分。」
「病み上がり。」
「半分だ。」
ベルは譲らなかった。
小雪は干し肉を受け取る。
「ベルは頑固です。」
「おまえほどじゃねぇ。」
「敬語。」
「あなたほどではありません。」
「変です。」
「もういい。」
小雪は干し肉を食べた。
ベルも食べる。
少しだけ、いつもの空気へ戻った。
小雪は、それでよいと思った。
午後は、改良点の確認だけにした。
ベルが強く言ったからではない。
小雪が鈴を持って離さなかったからである。
今日分かったこと。
一、水車の回転は、革紐で別の軸へ渡せる。
二、大きな輪から小さな輪へ渡すと、回転が速くなる。
三、速いと危ない。
四、ドリルは木に穴を開けられる。
五、穴はまだ斜め。
六、摩擦で焦げる。
七、固定具が足りない。
八、停止装置が必要。
九、ベルを止める装置も必要。
「九を消せ。」
ベルが言った。
「重要です。」
「全く重要じゃねぇ。」
「病み上がりのベルが、なかなか止まりません。」
「止まっただろ。」
「鈴で。」
「鈴で止めるな。」
「停止文明。」
「便利に使うな。」
「便利です。」
「くそ。」
ベルは悔しそうだった。
けれど、少し楽しそうでもあった。
水車式ドリルは、まだ危ない。
それでも、確かに回った。
穴も開いた。
小雪は木片を見る。
浅く。
斜めで。
少し焦げている。
完全ではない。
けれど、昨日までは人の手で開けていた穴を、今日は水車が開けた。
ふいごを動かすだけだった水車が、別の仕事をした。
力が、違う場所へ渡された。
回転が、回転のまま受け継がれた。
少し逃げて。
少し焦げて。
少し暴れて。
それでも、穴は開いた。
「ベル。」
「何だ。」
「文明は、少しずつですね。」
ベルは小雪を見た。
それから、木片の穴へ目を落とす。
「ああ。少しずつだ。」
「一気には進みません。」
「急に進めすぎると、逆に危ない。」
「はい。」
「止めることも必要だ。」
「はい。」
「休むこともな。」
「それはベルですね。」
「おまえもだ。」
小雪は瞬きをした。
「私も。」
「そうだ。」
「私は補填されます。」
「それでもだ。」
ベルの声は、昨日よりしっかりしている。
けれど、言っていることは昨日の続きだった。
「補填されるからって、止まらなくていいわけじゃねぇ。」
「……はい。」
「それは覚えとけ。」
「記録します。」
「しろ。」
小雪は少し驚いた。
「よいのですか。」
「その記録は、しろ。」
「はい。」
小雪は紙へ書いた。
十、補填されても、止まる。
ベルはそれを見て、少しだけ頷いた。
「そうだ。」
小雪も、その文字を見た。
補填されても、止まる。
少し変な文である。
けれど。
悪くない。
たぶん。
帰り道、ベルは荷物を持とうとした。
小雪が止める。
「病み上がりです。」
「軽い。」
「私が持ちます。」
「おまえが持つと、どこかへ落とす。」
「落としません。」
「信用がない。」
「では、半分。」
ベルは少し笑った。
「また半分か。」
「はい。」
「分かった。」
二人で荷物を分けた。
木片。
鉄棒。
革紐。
記録用紙。
浅く、斜めに開いた穴。
ベルはそれを見ながら歩く。
「次は台座だな。」
「台座。」
「ドリルを固定する。上下へ真っすぐ動かせるようにしたい。あと、停止装置。」
「停止文明。」
「そうだ。」
「ベル停止装置。」
「それは鈴なんだろ。」
小雪はベルを見た。
ベルも、自分で言ってから気づいたように小雪を見る。
二人とも、少し黙った。
鈴。
呼ぶもの。
止めるもの。
来るもの。
小雪は袖の中の鈴へ触れた。
「ベルは、鈴で止まりますか。」
ベルは少しだけ考えた。
「……止まる。」
「呼ばれたら。」
「行く。」
「止められたら。」
「止まる。」
「非常に便利ですね。」
「便利扱いするな。」
「重要です。」
「……まあな。」
ベルは少しだけ耳を赤くした。
小雪はそれを見た。
記録はしない。
たぶん。
山の家へ戻ると、ベルは少し疲れた顔をしていた。
小雪はすぐに椅子を指す。
「座ってください。」
「座る。」
「素直ですね。」
「病み上がりだからな。」
「認めました。」
「……しまった。」
「記録します。」
「するな。」
「ベル、病み上がりを認める。」
「消せ。」
「まだ書いていません。」
「書く顔だ。」
「もうかなり分かるようになりましたか。」
「なりたくなかった。」
小雪は台所の炉へ火をつけようとした。
ベルが即座に立ち上がりかける。
小雪が鈴を持つ。
ベルは座り直した。
「……指示する。」
「はい。」
「薪は細いのから。」
「はい。」
「それは太い。」
「これですか。」
「そうだ。違う。待て。いや、そっちでもいけるが。」
「ベル。」
「何でしょうか。」
「立たないでください。」
「分かってる。」
結局、ベルの指示で火はついた。
夕食は簡単なスープだった。
小雪は焦がさなかった。
ベルは少し驚いた顔をする。
「料理文明、二歩目。」
「まだ一歩半だ。」
「これから刻んでまいります。」
「刻むな。」
夕食のあと、小雪は今日の記録を書いた。
水車式ドリル文明進捗。
一、水車の回転を革紐で別軸へ渡す。
二、回転の継承。
三、小さい輪は速い。危ない。
四、木に浅い穴が開いた。
五、穴は斜め。焦げあり。
六、固定具、改良必要。
七、停止装置、必要。
八、ベル、病み上がり。心配。
九、鈴はベル停止装置。
十、補填されても、止まる。
十一、ベル、腰を掴んで小雪を引き戻す。
十二、ベルの体温、平熱に近い。安心。
小雪は十二で止まった。
心配。
安心。
書いてしまった。
ベルが水を持って戻ってくる。
「何を書いた。」
「水車式ドリル文明進捗です。」
「嫌な予感がする。」
「見ますか。」
「見る。」
小雪は紙を渡した。
ベルは一から七まで読み、頷く。
八で、少し頬に赤みが差した。
同時に眉を寄せる。
「病み上がりは消せ。」
「認めました。」
「一瞬だ。」
「記録しました。」
「くそ。」
九で動きが止まる。
「鈴はベル停止装置?」
「はい。」
「呼び鈴じゃなかったのか。」
「停止にも使えます。」
「勝手に機能を増やすな。」
「便利です。」
十で、ベルは少し黙った。
補填されても、止まる。
そこには、何も言わなかった。
十一で顔が赤くなる。
「これは消せ。」
「重要です。」
「重要じゃねぇ。」
「危険回避です。」
「書き方が悪い。」
「ベル、腰を掴んで小雪を危険から遠ざける。」
「長い!」
「では、ベル、守る。」
ベルはさらに赤くなった。
「それもやめろ。」
「では、十一は保留。」
「消せ。」
「保留。」
「小雪。」
「はい。」
「保留は、消してない。」
「はい。」
ベルは諦めたように、十二へ進んだ。
そこで、長く止まる。
「……安心?」
「はい。」
「何が。」
「ベルの体温が、平熱に近かったので。」
「……。」
「安心しました。」
ベルは黙った。
小雪も黙る。
火の音がする。
遠くから、川の音が聞こえる。
やがて、ベルは紙を返した。
「十二は、残していい。」
「はい。」
「十一は小さくしろ。」
「はい。」
「九も小さくしろ。」
「はい。」
「八は消せ。」
「保留。」
「消せ。」
「保留。」
ベルはため息をついた。
「頑固だな。」
「ベルほどではありません。」
小雪は十一を小さくした。
九も小さくする。
八は消さなかった。
ベルはそれを見ていたが、もう何も言わなかった。
たぶん、病み上がりだからである。
小雪はそう分類した。
それは記録しなかった。
夜。
ベルは早めに寝ることになった。
小雪が鈴を持って立っていたからである。
「脅迫だろ。」
「健康管理です。」
「鈴で健康管理するな。」
「便利です。」
「便利じゃねぇ。」
「ベル停止装置。」
「だからやめろ。」
「敬語。」
「やめてください。」
ベルは寝床へ入った。
昨日より、呼吸はずっと楽そうだった。
小雪は額へ触れようとして、途中で手を止めた。
ベルが目を開ける。
「何だ。」
「確認しようとしました。」
「……すればいいだろ。」
「急に触るなと言われました。」
「……今はいい。」
「なぜですか。」
ベルは少し黙った。
「……心配なんだろ。」
小雪も黙った。
「はい。」
「なら、いい。」
小雪はベルの額へ手を置いた。
熱くない。
平熱。
昨日のような、よくない熱ではない。
小雪は手を離した。
「大丈夫です。」
「だろ?」
「九割五分。」
「十割だって。」
「明日、十割。」
「分かった。もうそれでいい。」
ベルは目を閉じた。
「明日は台座だ。」
「はい。」
「停止装置も。」
「はい。」
「あと、鈴を勝手に停止装置扱いするな。」
「善処します。」
「信用ならねぇ。」
ベルは小さく笑った。
小雪は鈴を机の上へ置いた。
水車は、明日も回る。
ドリルも、明日また回る。
穴はまだ斜めで、焦げていて、危ない。
けれど、少しずつ進んでいる。
文明も。
ベルとの距離も。
小雪は記録用紙の十を見た。
補填されても、止まる。
やはり、よく分からない。
けれど、ベルがそう言った。
だから、きっと覚えておいた方がいいのだろう。
小雪は灯りを小さくした。
ベルは眠っている。
今日は、鈴を鳴らさない。
止めなくても、ベルは今、ちゃんと休んでいる。
小雪はその呼吸を少しだけ聞いた。
それはたぶん。
安心、だった。




