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第二十四話 三下くん、風邪をひく

 翌朝、ベルはやはり風邪をひいていた。


 本人だけは、頑として認めなかった。


「ひいてねぇ。」


 声が、いつもより少し低い。

 鼻も少し詰まっている。


 額にはうっすら汗が浮かび、顔もどことなく熱そうだった。


 小雪は食卓の向こうから、じっとベルを見る。


「ひいています。」

「ひいてねぇ。」

「いつもと声が違います。」

「寝起きだ。」

「鼻。」

「花粉だ。」

「今は夏ですよ。」

「夏の花粉だ。」

「額の汗は。」

「暑いせいだ。」

「喉も掠れています。」

「乾いてるだけだ。」

「昨日、雷雨で濡れました。」

「関係ねぇ。」

「言わんこっちゃない。」


 ベルは咳き込んだ。


 かなり説得力のある咳だった。


 小雪は頷いた。


「風邪です。」

「違う。」

「普通の人間は風邪をひきます。」

「俺は丈夫だ。」

「丈夫な人間も風邪をひきます。」

「今日は作業がある。」

「寝てください。」

「寝てる暇はねぇ。火色分類も途中だし、軸受けの穴もずれてる。」

「穴。」

「ああ。金具を固定する穴だ。位置がずれると金具が斜めになる。あれをまっすぐ開けられる道具が必要だ。」

「穴文明。」

「今日も言うと思った。」


 ベルはそう言って、また咳き込んだ。


 小雪はじっと見た。


「寝てください。」

「だから、寝てる暇は――」


 小雪は袖の鈴に触れた。


 ちりん。


 ベルが反射的に顔を上げる。


「何だ。」

「寝てください。」

「鈴で命令するな。」

「緊急事態です。」

「何が。」

「なんと、ベルが風邪です。」

「風邪じゃねぇ。」

「三下くん、風邪をひく。」

「題名みたいに言うな。」

「敬語。」

「題名みたいに言わないでください。」

「変ですね。」

「知ってるよ。」


 ベルは額を押さえた。


 柔らかい金色の髪が、手の甲へ触れる。


 それから諦めたように息を吐き、椅子へ座り直した。


「……少しだけだ。」

「寝ますか。」

「少し休む。」

「同じです。」

「同じじゃねぇ。」

「では今日は、私がやります。」


 ベルの顔色が変わった。


「何を。」

「穴文明。」

「やめろ。」

「なぜですか。」

「家が穴だらけになる。」

「川辺でやります。」

「水車が穴だらけになる。」

「善処します。」

「絶対に信用ならねぇ。」


 ベルは立ち上がろうとした。


 小雪は即座に、もう一度鈴を鳴らした。


 ちりん。


「座ってください。」

「だから鈴で命令するな。」

「緊急ですので。」

「緊急が多い。」

「でも、ベルが立ちました。」

「立つくらいするだろ。」

「風邪なのに。」

「だから風邪じゃねぇ。」

「では、風邪に近い状態。」

「認めてねぇぞ。」

「ベル。」

「何でしょうか。」

「今日は私が観測と作業をします。ベルは座って、指示を出してください。」


 ベルは小雪を見た。


 全く信用していない顔だった。


 とても。

 非常に。


「……指示を聞くか?」

「聞きます。」

「本当か。」

「善処します。」

「終わったな。」

「まだ始まっていません。」


 ベルは大きく息を吐いた。


 そして、また咳き込む。


 小雪はすぐに水を差し出した。


「飲んでください。」

「……飲む。」


 ベルは水を飲んだ。


 杯を持つ手が、少し熱い。


 昨日の雨。

 濡れた金色の髪。

 小雪へ被せられた上着。

 雨の中に残ったベル。


 小雪は思い出した。


 ベルが濡れるのは嫌。


 昨日、そう記録した。


 今日、その結果が目の前にある。


「言わんこっちゃない。」

「二回目を言うな。」

「はい。」

「あと、記録するな。」

「すでに予定へ組み入れました。」

「消せ。」

「保留です。」


 ベルは頭を抱えた。




 結局、作業は家の前で行うことになった。


 川辺へ行くのは、ベルが許さなかった。


 理由は、小雪を一人で水車のそばへ行かせると何をするか分からないから、とのことである。


 かなり不本意だった。


 ベルは毛布を肩へ掛け、家の前に出した椅子へ座り、そこから指示を出すことになった。


 今日の課題は、穴をまっすぐ開ける道具である。


 軸受けの金具を固定するには、穴の位置が重要だった。


 穴がずれれば、金具が斜めになる。

 金具が斜めになれば、軸がぶれる。

 軸がぶれれば摩擦が増え、力が逃げる。


 そして最後には、ベルの指まで熱くなる。


 つまり、穴は重要である。


「穴文明。」

「だから、その名前は嫌だって。」

「まっすぐ穴文明。」

「少しましか?」

「ベルの指先保護文明。」

「……もういい。」


 ベルは毛布の中で咳をしながら、作業台へ紙を広げた。


「まずは手動だ。いきなり水車の力で回すと危ねぇ。」

「水車式穴文明。」

「それは後だ。」

「後でやりますか。」

「できればな。まず、小さい穴をまっすぐ開けられるか試す。」


 ベルは細い鉄棒を取り出した。


 昨日、ガドが打ってくれたものである。


 先端は少し尖っていた。


「これを押し込むだけじゃなく、回して削る。問題は、人の手だけで回すと回転がぶれることだ。」

「ぶれると。」

「穴が曲がる。」

「穴が曲がると。」

「金具がずれる。」

「金具がずれると。」

「軸がぶれる。」

「軸がぶれると。」

「俺の指が熱くなる。」

「それは重要です。」

「そこだけ食いつくな。」


 小雪は真剣に頷いた。


 ベルの顔が少し赤くなる。


 風邪のせいではないかもしれない。


「それで、弓を使う。」

「弓。」

「こういうやつだ。」


 ベルは細い木の枝へ紐を張った。

 小さな弓のような形である。


 その紐を鉄棒へ一度巻きつけ、弓を前後へ動かす。


 すると。


 鉄棒が、くるくると回った。


 小雪は目を瞬く。


「回りました。」

「弓ぎりだ。火起こしにも使う。これを穴開けに使う。」

「弓穴文明。」

「語感が悪い。」

「回転穴文明。」

「まだ悪い。」

「小型手動回転式穴開け器。」

「急に説明が長いな。」

「では、ドリル。」


 ベルが少し止まった。


「どりる?」

「穴を開ける道具です。」

「また異世界語か。」

「はい。」

「短いな。」

「便利です。」

「じゃあ、ドリルでいい。」


 小雪は紙へ書いた。


 ドリル文明。


 ベルもそれを見て、少しだけ頷いた。


「まあ、語感は悪くねぇ。」


 そこで、また咳をした。


 小雪は即座に水を差し出す。


「飲んでください。」

「飲む。」

「寝ますか。」

「寝ねぇ。」

「毛布を増やしますか。」

「いらねぇ。」

「額を冷やしますか。」

「作業中だ。」

「ベル。」

「何でしょうか。」

「風邪です。」

「違う。」

「三下くん、風邪を――」

「ひいてねぇ。」


 小雪は少し考えた。


「三下くん、風邪を認めない。」

「やめろ。」

「敬語。」

「やめてください。」


 ベルは疲れた顔で、弓ぎり式のドリルを指した。


「いいから試せ。ゆっくりだぞ。押しすぎるな。木を割るな。手を近づけるな。」

「はい。」

「本当に聞けよ。」

「はい。」

「返事がいい時ほど。」

「信用ならないです。」

「分かってるなら、信用させろ。」


 小雪は弓を持った。


 鉄棒の先を木片へ当て、上から小さな木の押さえを乗せる。


 ベルが横から言う。


「垂直。」

「垂直。」

「力を入れすぎるな。」

「はい。」

「ゆっくり前後へ動かす。」

「はい。」


 小雪は弓を動かした。


 鉄棒が回る。


 木片の表面に、小さな跡がついた。


 細かな削り粉が出る。


「穴。」

「まだ跡だ。」

「穴の幼体。」

「変な生き物にするな。」

「敬語。」

「変な生き物にしないでください。」


 小雪はさらに弓を動かした。


 くるくる。

 くるくる。


 小さな窪みが、少しずつ深くなる。


 しかし途中で、鉄棒がわずかに傾いた。


「止めろ。」


 ベルが言った。


「はい。」

「傾いた。」

「はい。」

「押す手がずれてる。」

「難しいです。」

「そうだ。だから固定具がいる。」

「固定具。」

「上から押さえる部品だ。手で押さえるからぶれる。穴をまっすぐ開けるためには、鉄棒をまっすぐ支える道具が必要になる。」

「文明は入れ子ですか。」

「言い方は変だが、そうだな。」

「穴のための穴。」

「それもやめろ。」

「敬語。」

「やめてください。」


 ベルは説明しながら、何度も咳をした。


 そのたびに、小雪は水を差し出した。


 ベルはだんだん抵抗しなくなった。


 よい傾向である。




 昼前には、最初の試作品ができた。


 小さな弓ぎり式のドリル。

 鉄棒の上端を支える木の押さえ。

 穴を開ける木片を動かないよう固定する、簡単な枠。


 見た目は粗い。


 けれど、手で直接鉄棒を回すより、ずっとまっすぐ穴が開いた。


「穴、まっすぐになりました。」


 小雪が言った。


「まだ少し曲がってる。」


 ベルが答える。


「でも、前より良いです。」

「そうだな。」

「文明が穴を得ました。」

「その言い方はなんか嫌だ。」

「では、穴が文明に。」

「もっと嫌だ。」


 ベルはそう言って、また咳き込んだ。


 今度は長かった。


 小雪は立ち上がった。


「中止です。」

「まだ。」

「中止です。」

「もう少しで固定具が――」

「ベル。」


 ちりん。


 鈴が鳴る。


 ベルは反射的に顔を上げた。


「何だ。」

「寝てください。」

「鈴で――」

「緊急です。」

「……。」

「ベルが長い咳をしました。」

「咳くらい。」

「長いです。」

「……。」

「寝てください。」


 ベルは明らかに不満そうだった。


 しかし、さすがに少し苦しそうでもある。


 小雪は毛布を持った。


「寝床へ。」

「俺は子供か。」

「風邪の人です。」

「風邪じゃ――」

「ベル。」

「……はい。」


 ベルは渋々、寝床へ移動した。


 小雪もその後をついていく。


 ベルが寝床へ座ると、小雪は布を水で濡らし、額へ乗せた。


 ベルが目を瞬く。


「冷てぇ。」

「冷やします。」

「熱はそんなに――」

「あります。」

「……そうか。」

「はい。」


 小雪は念のため、ベルの額へ手を当てた。


 熱い。


 いつもの手の温かさとは違う。


 よくない熱だった。


「ベル。」

「何でしょうか。」

「具合が悪いですか。」

「少しだ。」

「少し。」

「大したことねぇ。」

「大したことあります。」

「おまえだって。」


 ベルは少し掠れた声で言った。


「いくら強いっつっても、具合が悪くなることくらいあるだろ。」

「ありません。」


 小雪は即答した。


「私は補填されます。」


 ベルの眉が寄った。


「前から思ってたけど、その補填って何なんだよ。」

「固有スキルです。」

「勇者候補が、召喚された時に祝福として授かるってやつだっけか。」

「はい。」

「おまえのは、身体の不具合を直す能力なのか。回復とか、状態異常を治すとか。」

「少し違います。」

「違うのか。」

「はい。」

「じゃあ、何なんだ。」


 小雪は少し考えた。


 どう説明すればよいのだろう。


 回復ではない。

 癒やすのでもない。

 元へ戻すのとも、少し違う。


 傷んだところを治しているのではない。


 足りなくなったものを、足している。


「回復は、傷ついたものを治すことです。」

「ああ。」

「補填は、足りなくなったものを足します。」


 ベルは黙った。


「……同じじゃねぇのか。」

「少し違います。」

「どう違う。」


 小雪はさらに考えた。


「トカゲのしっぽ。」

「トカゲ?」

「しっぽが切れても、また生えます。」

「それは回復じゃねぇのか。」

「近いですが、違います。」

「何が。」

「同じしっぽではありません。」


 ベルは黙った。


 小雪も黙る。


 言いすぎただろうか。


 けれど、ほかに適切な喩えも思いつかなかった。


 ベルは額の布を少しずらし、小雪を見た。


「同じじゃない。」

「はい。」

「小雪。」

「はい。」

「それ、怖い話か。」


 小雪は少し考えた。


「たぶん。」

「たぶんって何だよ。」

「私は慣れています。」

「慣れるな。」

「便利です。」

「便利で済ませるな。」

「ベルは不便です。」

「普通の人間だからな。」

「はい。」


 ベルは少し目を閉じた。


「人間は寝れば、少し治る。」

「はい。」

「だから、俺は寝る。」

「はい。」

「おまえは、補填に頼りすぎるな。」


 小雪は瞬きをした。


「なぜですか。」

「怖いからだ。」

「ベルが。」

「俺が。」

「私は痛くありません。」

「それでも怖い。」


 ベルの声は、熱のせいでいつもより少し弱かった。


 それでも、その言葉はまっすぐだった。


「おまえが、自分をトカゲのしっぽみたいに扱うのが嫌だ。」


 小雪は黙った。


 胸の奥が、また少し重くなる。


 痛みではない。


 補填されないもの。


「善処します。」

「信用ならねぇ。」

「また実績ですか。」

「そうだな。」


 ベルは少しだけ笑った。


 それから、目を閉じる。


「ドリルは?」

「今日は終わりです。」

「固定具だけでも。」

「寝てください。」

「……分かった。」


 ベルは、本当に眠そうだった。


 小雪は額の布を新しいものへ替えた。


 金色の髪が少し汗で湿っている。


 昨日は雨で濡れていた。


 今日は熱で濡れている。


 小雪は、その髪を見た。


「ベル。」

「何だ。」

「髪を拭きますか。」

「今は寝る。」

「その方がよさそうですね。」

「起きたら。」

「はい。」

「水。」

「どうぞ。」

「あと、ドリルも。」

「寝てください。」

「……はい。」


 ベルは目を閉じた。


 今度こそ、静かになった。




 ベルが眠っている間、小雪は作業台へ戻った。


 ドリルの試作品が置かれている。

 木片には、小さな穴が開いていた。


 完全ではない。

 少し斜め。


 でも、昨日よりまっすぐ。


 水車文明は進んでいる。

 ベルが風邪でも、少し進んでいる。


 小雪は弓ぎりを手に取った。


 もう一度、試したくなる。


 固定具の位置を少し変えれば、さらにまっすぐ開くかもしれない。


 けれど。


 寝床の方を見る。


 ベルが眠っている。


 今、勝手に作業を続ければ、きっと起きる。


 熱があっても起きて、怒る。


 それは嫌だった。


 小雪は弓ぎりを置いた。


「善処。」


 小さく呟く。


 それから、記録を書き始めた。


 ドリル文明進捗。


 一、軸受け金具の穴がずれる。

 二、まっすぐ穴を開ける必要あり。

 三、弓ぎり式ドリル、試作。

 四、手回しより安定。

 五、押さえと固定具が必要。

 六、穴の幼体。

 七、ベル、風邪。

 八、ベル、風邪を認めない。

 九、補填は回復ではない。

 十、トカゲのしっぽ。

 十一、ベル、怖がる。

 十二、ベル、寝る。


 小雪は九と十を見た。


 書くべきだったのだろうか。


 少し迷う。


 けれど、ベルにはもう話した。


 書かなければ、なかったことになるかもしれない。


 それも少し違う気がした。


 小雪はペンを置いた。


 寝床の方から、ベルの咳が聞こえる。


 すぐに立ち上がった。




 夕方、ベルは一度目を覚ました。


 熱はまだある。


 けれど、少し眠ったせいか、朝より顔色はましだった。


「水。」

「はい。」


 小雪はすぐに水を渡した。


 ベルはゆっくり飲む。


「飯、作らねぇと。」

「私がお粥を作ります。」

「作れるのか。」

「米と水ですよ。」

「不安しかねぇ。」

「善処します。」

「やっぱり俺が作る。」

「寝ていてください。」

「おまえが台所に立つ方が危険だ。」

「ベル。」

「何でしょうか。」

「風邪です。」


 ベルは少し黙った。


「……分かった。指示する。」


 結局、ベルは寝床から指示を出し、小雪が粥を作った。


 焦げなかった。

 少し水が多かった。


 けれど、食べられる。


 ベルは一口食べ、少し目を丸くした。


「食える。」

「失礼です。」

「褒めてる。」

「本当ですか。」

「本当だ。」

「おいしいですか。」

「まあ。」

「まあ?」

「病人食としては。」

「記録します。」

「するな。」

「ベル、粥を食べる。」

「それはいい。」

「小雪、料理文明。」

「それはまだ早い。」

「焦げませんでした。」

「大進歩ではあるな。」

「では、やはり料理文明。」

「調子に乗るな。」


 小雪は少しだけ口元を緩めた。


 ベルも弱く笑った。


 風邪で弱っているベルは、いつもより静かだった。


 怒る声も小さい。

 突っ込みも遅い。


 その分、少し落ち着かない。


 ベルは、元気に怒っている方がいい。


 小雪はそう思った。


「ベル。」

「何でしょうか。」

「早く治ってください。」


 ベルの手が止まった。


「……。」

「ドリル文明が進みません。」

「そっちかよ。」

「ごはんも。」

「そっちもかよ。」

「鈴も。」


 ベルが小雪を見る。


「鈴?」

「風邪だと、鈴で呼ぶのをためらいます。」


 ベルは黙った。


「不便です。」


 ベルの顔が少し赤くなる。


 熱のせいかもしれない。


 たぶん、違う。


「……治す。」

「はい。」

「明日には治す。」

「無理は駄目です。」

「善処する。」

「信用なりません。」

「おまえに言われたくねぇ。」

「敬語。」

「あなたに言われたくありません。」

「変です。」

「分かってる。」


 ベルは粥をもう一口食べた。


 小雪はそれを見て、少し安心した。




 夜。


 雨は、すっかり止んでいた。


 開けた窓から、濡れた土の匂いが入ってくる。


 小雪は作業台の記録を、もう一度見た。


 九、補填は回復ではない。

 十、トカゲのしっぽ。


 ベルは、怖いと言った。


 小雪が補填に頼りすぎるのが嫌だと言った。


 けれどよく分からない。前だったら理解できたのだろうか。


 補填は便利だ。


 痛みも、傷も、疲労も、ある程度はなかったことに近づく。


 だから、旅の間も進めた。


 立てた。

 戦えた。

 死ななかった。


 けれど、ベルはそれを嫌がる。


 怖がる。


 小雪は寝床の方を見た。


 ベルは眠っている。


 少し苦しそうに息をしている。


 補填されない身体。


 傷めば痛む。

 濡れれば冷える。

 無理をすれば熱が出る。


 不便な身体。


 けれど。


 温かい手。

 ごはんを作る手。

 水車を直す手。

 雨の中で、小雪の手を掴む手。


 小雪はペンを持った。


 記録の最後へ、一行足す。


 十三、ベルは補填されないので、大事にする。


 小雪はその文字を見た。


 これは、ドリル文明進捗ではない。


 けれど、重要である。


 とても。


 ベルが起きたら、消せと言うかもしれない。


 小雪は少し考えた。


 そして、そのまま残した。


 寝床から、ベルの声がした。


「……小雪。」

「はい。」

「何書いてる。」

「ドリル文明進捗です。」

「嫌な予感がする。」

「今は寝てください。」

「見せろ。」

「明日。」

「今。」

「病人は寝るものです。」

「……あとで見る。」

「はい。」

「消すなよ。」


 小雪は瞬きをした。


「見ていないのに。」

「おまえが消すか迷う時は、だいたい変だけど、大事なことだ。」


 小雪は黙った。


 ベルは目を閉じたまま、少しだけ笑った。


「明日見る。」

「はい。」

「だから、今日はおまえももう寝ろ。」

「私は眠くありません。」

「寝ろ。」

「敬語。」

「寝てください。」

「はい。」


 小雪はペンを置いた。


 火を少し小さくする。

 鈴を寝床の横へ置く。

 ベルの額の布を替える。


 ベルは目を閉じたまま、少しだけ眉を寄せた。


「冷てぇ。」

「冷やします。」

「……ありがとな。」

「敬語。」

「ありがとうございます。」

「はい。」


 小雪は椅子へ座った。


 雨は止んだ。


 水車は、明日また回る。

 ドリルも、明日また試す。

 ベルも、明日には少しよくなっているといい。


 小雪は記録の十三を、もう一度見た。


 ベルは補填されないので、大事にする。


 分類としては、また不完全だ。


 けれど。


 今夜は、それでいいと思った。

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