第二十二話 魔法の光と魚はない
翌日も、軸受けの調整だった。
川辺には水車があり、その横には小さなふいごがある。さらにその先には、石と粘土で囲った仮設の火床が作られていた。
ガドの鍛冶場にあるような、本格的な炉ではない。
水車ふいごから送られる風を試すため、川辺の草を払った場所に作った小さな試験炉である。
ベルは朝から、その軸受けの前へしゃがみ込んでいた。
「油が合わねぇ。」
「油。」
「昨日のやつだと、すぐ流れる。熱を持つと薄くなるし、木にも吸われる。」
「では、別の油が必要ですか。」
「そうだな。獣脂を混ぜるか、もっと粘りのある油を使うか。ただ、粘りすぎると今度は回りが重くなる。」
「難しいですね。」
「難しい。」
「敬語。」
「難しいです。」
「自然ですね。」
「……基準が分からん。」
小雪は軸受けを見た。
昨日取り付けた薄い金具は、すでに少し黒ずんでいる。
木の支え。
回る軸。
その間へ金属を挟む。
油を差す。
摩擦を減らす。
逃げる力を減らす。
言葉にすれば、それだけである。
けれど、実際にやってみると、思っていたよりずっと難しい。
摩擦を減らそうとして油を差せば、油そのものが抵抗になることがある。滑らかにしすぎれば、今度は固定が甘くなる。硬いものを使えば長持ちするが、加工が難しい。
一つを直すと、別の問題が出る。
文明は、なかなか素直ではない。
「一〇〇%伝えるのは、かなり難しそうです。」
「難しいというか、無理だろうな。」
ベルは小さな刷毛で油を塗りながら言った。
「どこかで擦れる。どこかで歪む。音も出るし、熱も出る。全部なくすなんてできねぇ。」
「はい。」
「できねぇから、少なくする。」
「油を差す。」
「そうだ。」
「歪みを直す。」
「そうだ。」
「止まったら、また動かす。」
ベルが小雪を見た。
「……この前の話、覚えてたのか。」
「はい。」
「珍しく、まともな形で引用したな。」
「珍しいですか。」
「いつも変なところばっかり持ち出すだろ。」
「ベル、良いお父さん。」
「そういうところだぞ。」
「小さく書きました。」
「書くな。」
「敬語。」
「書かないでください。」
小雪は頷いた。
ベルはため息をついたが、少し笑っていた。
水車を手で押す。
くるり。
きし。
音は昨日より小さい。
だが、まだある。
ロイが軸の近くへ顔を寄せ、耳を澄ませた。
「悪くはないですな。」
ガドも腕を組んで頷く。
「風も昨日より来てる。けど、もう少し欲しいな。」
「軸受けで逃げる分を減らせば、少しはましになるはずだ。」
ベルはそう言って、今度は別の油を差した。
獣脂を混ぜた、少し重い油である。
もう一度、水車を回す。
くるり。
先ほどより音は鈍い。
だが、回り始めるまでに少し時間がかかった。
「重いな。」
ベルが眉を寄せる。
「音は減りました。」
小雪が言った。
「でも、動きが重い。」
「逃げる力は減ったのでは。」
「減ったかもしれねぇが、別のところで重くなってる。」
「油の抵抗。」
「そうだな。」
「抵抗を減らすための油が、抵抗になっています。」
「正しいが、腹立つな。」
「文明は腹立ちますか。」
「よく腹立つ。」
「敬語。」
「よく腹立ちます。」
「変です。」
「そうだよ。」
ロイが笑った。
ガドも笑った。
水車は回る。
だが、まだ完全ではない。
力はいつも、どこかへ逃げる。
昼前になると、また子供たちがやってきた。
昨日、木剣を教わった子供たちである。
今日は少ない。
男の子が二人と、小さな女の子が一人。
女の子は昨日、小雪に「あんまり強そうじゃない」と言った子だった。
「勇者さま。」
「はい。」
「今日は世界滅亡する?」
「今はしません。」
「今は、は怖い。」
ベルがすぐに振り向いた。
「小雪。」
「はい。」
「安心させろ。」
「今のところ、世界は滅亡しません。」
「期限をつけるな。」
「善処します。」
「一番怖い。」
男の子たちは水車の方へ駆けていった。
ベルがすぐに声を飛ばす。
「水車に近づきすぎるな。危ないぞ。」
「はーい!」
「いつも返事だけはいいな。」
「兄ちゃん、今日も剣教えて!」
「今日は作業だ。」
「ちょっとだけ!」
「軸受けが終わったらな。」
「軸受けって何?」
ベルは少し考えた。
それから、水車の中心を指す。
「回る棒を支えるところだ。ここが悪いと、力が逃げる。」
「力って逃げるの?」
「逃げる。音になったり、熱になったり、揺れになったりな。」
「へえ。」
男の子は、あまり分かっていない顔をした。
ベルは近くに落ちていた木の棒を一本拾い、地面へ線を引く。
「水の力が、ここから来る。」
「うん。」
「水車が回る。」
「うん。」
「棒が動く。」
「うん。」
「ふいごが押される。」
「うん。」
「風が出る。」
「おお。」
「でも、途中で擦れたり歪んだりすると、全部は風にならねぇ。」
「じゃあ、もったいない?」
「そうだ。」
男の子が感心したように言った。
「兄ちゃん、説明うまいね。」
ベルが一瞬止まった。
小雪は横から頷く。
「はい。ベルは有能です。」
「小雪。」
「事実です。」
「今言うな。」
「なぜですか。」
「子供の前だ。」
「子供にも説明が伝わりました。」
「そうじゃねぇ。」
男の子たちがにやにやし始めた。
「兄ちゃん、また赤い。」
「炉ないのに赤い。」
「うるせぇ。木剣没収するぞ。」
「ひどい!」
「敬語。」
小雪が言う。
「木剣を没収します。」
「なんか怖い!」
子供たちは笑った。
ベルも少しだけ笑う。
小雪は、その笑い声を聞いていた。
子供の声。
水車の音。
川の流れ。
ベルの怒る声。
悪くない。
悪くないものが、少しずつ増えている。
それは、よいことなのだろうか。
それとも、悪いことなのだろうか。
また、分類できないことが増えていく。
試験炉へ火を入れる準備をしていると、男の子の一人が得意そうに前へ出た。
「俺、火つけられるよ!」
ベルが即座に止めた。
「駄目だ。」
「ちょっとだけだよ!」
「今日は火打ち石からやる。」
「何で?」
「魔法なしでもできるようにするためだ。」
「でも、魔法なら早いよ!」
男の子は小さな指先を火床へ向けた。
ベルが止めるより、ほんの少し早かった。
ぽっ、と小さな火が灯る。
豆粒ほどの火だった。
火魔法としては、ひどく弱い。
子供の遊びの延長のようなもので、魔力の通りも不安定だった。
だからこそ。
その瞬間、小雪にはよく見えた。
小さな光の粒。
火の周囲へ散り、空気へほどけるように広がっていく淡い光。
金色にも見える。
白にも見える。
光って。
消える。
ベルが男の子の手を押さえた。
「勝手にやるな。」
「ちょっとだけだもん。」
「ちょっとでも駄目だ。火床の中身を確認してからだ。」
「はーい。」
「返事はいいんだがな。」
ベルは小さな火を消し、改めて火床の中を確認する。
ガドが苦笑した。
「子供の火魔法は危ねぇな。」
「大人でも危ない。」
ベルはそう言いながら、火打ち石を取り出した。
けれど、小雪は動けなかった。
魔法を使う時に現れる、小さな光。
この世界の者には、あまりにも見慣れたもの。
魔素が動く時に見えるもの。
使われた魔素は、魔法が終われば散って、また世界へ戻る。
そう教えられている。
小雪も、何度も見てきた。
旅の間。
戦場で。
町で。
城で。
そして、魔王城で。
魔法を使うたびに、光は散った。
ずっと見てきた。
けれど、今まで、それを水車と同じように見たことはなかった。
水車では、川の力すべてがふいごの風にはならない。
軸で擦れる。
熱になる。
音になる。
揺れになる。
使いたい形では残らない。
ならば。
魔素は。
小雪は無意識に指先を握った。
あの話を聞いた時には、ただ事実として理解した。
けれど。
こうして目の前で見れば、むしろ当然のことだった。
一度使われたものが、すべて元と同じ形で戻る方がおかしい。
「小雪。」
ベルの声で、我に返った。
「はい。」
「どうした。」
「何がですか。」
「ぼうっとしてた。」
「観測していました。」
「何を。」
小雪は少し黙った。
「……ベル。」
「何だ。」
「魔法を使う時に散る光について、考えたことはありますか。」
ベルは眉を寄せた。
「光?」
「魔法の周囲へ散る、小さな粒です。」
「ああ。」
ベルは少し考えた。
「魔素が動いた時に見えるやつだろ。」
「はい。」
「魔力で周囲の魔素を集めて、魔法を使う。使ったあとは、また大気へ戻る。」
「そう教えられていますね。」
ベルの目が、少しだけ鋭くなった。
「……何だ、その言い方。」
小雪は答えなかった。
川の音がする。
水車が回る。
くる、くる。
軸受けが、きし、と小さく鳴った。
「小雪。」
「お腹が空きました。」
「急に逃げるな。」
「今日は魚が食べたいです。」
「魚はない。」
「では、魚介類。」
「同じだろ。」
「では、ベル。」
「俺を食材にするな。」
「敬語。」
「私を食材にしないでください。」
「変です。」
「元の文章がおかしいんだよ。」
ベルは小雪をじっと見ていた。
いつものように突っ込んでいる。
けれど、目はまだ笑っていない。
小雪は少しだけ視線を外した。
川を見る。
水車を見る。
軸受けを見る。
逃げる力を見る。
子供たちは笑っている。
ガドは火床を確認している。
ロイは木の支えを削っている。
ベルは、小雪を見ている。
悪くないものが、増えている。
増えすぎている。
小雪は、それを少し怖いと思った。
その後も、作業は続いた。
火は火打ち石から起こした。
子供の火魔法は使わなかった。
小さな火種を育て、炭へ移す。水車が回り、ふいごが風を送り、炭の赤が少しずつ強くなっていく。
軸受けは、昨日より静かだった。
油を変えた。
金具を磨いた。
軸の角も少し丸めた。
それだけで、きしむ音が少し軽くなった。
逃げる力は、ほんの少し減った。
ガドが炉を見て頷く。
「いいな。前より安定してる。」
ロイも嬉しそうに水車を眺めていた。
「音も軽くなりましたな。」
ベルは軸を見た。
「まだ熱は持つな。」
「完全には消えません。」
小雪が言う。
「そうだな。」
ベルは短く答えた。
それ以上は何も言わない。
けれど、時々、火を見る。
正確には、火を見ながら何か別のことを考えている。
今燃えているのは火魔法ではない。
ただの火だ。
それでも、ベルはさきほどの話を忘れていない。
小雪には分かった。
忘れてくれない。
それは少し困る。
けれど。
少しだけ、安心でもある。
小雪が何かを言いかければ、ベルは拾う。
小雪が逃げても、完全には見逃さない。
とても面倒で。
悪くない。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「軸受け、よくなりました。」
「ああ。」
「逃げる力が少し減りました。」
「ああ。」
「油を差すのは大事ですね。」
「そうだな。」
「人間にも、油が必要ですか。」
ベルがこちらを見る。
「急に何だ。」
「動きが悪い時。」
「寝ろ。食え。水を飲め。」
「油はいりませんか。」
「人間に油を差すな。」
「ベルは先日、上半身を脱ぐと放熱効率が上がりました。」
「その話を戻すな!」
「今日は脱がないのですか。」
「脱がねぇ!」
「残念です。」
ベルが完全に停止した。
小雪も止まった。
今。
何と言ったか。
残念。
言った。
自分で。
子供たちは耳ざとく反応した。
「勇者さま、兄ちゃんが脱がなくて残念なの?」
「やっぱり結婚するの?」
「兄ちゃん、顔赤い!」
ベルは両手で顔を覆った。
「小雪。」
「はい。」
「今のは、何だ。」
「……観測箇所が少し減っているので。」
「言い訳が下手すぎる。」
「分類中です。」
「分類するな。」
「善処します。」
「信用ならねぇ。」
さきほどまでの重いものが、少しだけほどけた。
ガドが笑う。
ロイも笑う。
子供たちも騒ぐ。
ベルは赤い顔で怒る。
小雪はそれを見ていた。
日常は戻ってくる。
何度でも。
怖い話に触れかけても。
言ってはいけないことを考えても。
魚がなくても。
ベルが怒れば、日常になる。
それは、とても強いことなのかもしれない。
夕方。
山の家へ戻る道で、ベルはいつもより少し黙っていた。
小雪も黙っている。
子供たちは途中までついてきたが、村へ続く道で別れた。ロイとガドも、明日の軸受け改良について話しながら帰っていった。
山道へ入ると、二人だけになる。
蝉の声がする。
夏の匂いが濃い。
「小雪。」
ベルが言った。
「はい。」
「昼の話。」
「魚ですか。」
「違う。」
「魚介類。」
「違う。」
「ベルは食材ではない。」
「それはそうだ。」
「では。」
ベルは少し黙った。
「おまえが、何か知ってる顔をしてた話だ。」
小雪は黙った。
ベルは前を向いたまま続ける。
「言いたくねぇなら、今は聞かねぇ。」
「はい。」
「でも、なんでもありません、ではねぇだろ。」
「……。」
「それくらいは分かる。」
「はい。」
「いつか話せ。」
小雪はベルを見た。
ベルは前を向いている。
強制ではない。
問い詰めでもない。
ただ、道の途中へ置いていくように言った。
いつか。
小雪は、その言葉が苦手だった。
未来につながる言葉。
分類してはいけないものを、遠くまで伸ばしてしまう言葉。
けれど、ベルの「いつか」は、少しだけ重さが違った。
逃げ場を塞ぐ言葉ではない。
軸へ油を差すような言葉だった。
今すぐ回らなくてもいい。
止まっていてもいい。
いつか。
また動かせばいい。
そういう言葉。
「はい。」
小雪は答えた。
「いつか。」
ベルは少しだけ頷いた。
「それでいい。」
それ以上、ベルは聞かなかった。
山の家へ戻ると、ベルは本当に干し肉のスープを作った。
魚はない。
肉も少ない。
だが、野菜はある。
小雪は作業台へ座り、今日の記録を書いた。
軸受け文明進捗。
一、油の種類を変更。
二、獣脂入り油、音は減るが回転が重い。
三、金具を磨く。
四、軸の角を丸める。
五、摩擦音、さらに低下。
六、軸の熱、完全には消えない。
七、子供、火魔法を使いかける。
八、魔法使用時、光の粒。
九、ベル、話を忘れていない。
十、魚はない。
十一、ベルは食材ではない。
小雪は九でペンを止めた。
ベル、話を忘れていない。
何の話を。
そこまでは書かない。
書けば輪郭ができる。
輪郭ができれば、いつか言葉になる。
今はまだ、言葉にしてはいけない。
小雪は九の横へ、小さく線を引いた。
消しはしない。
ただ、少し薄くした。
ベルがスープを持って戻ってきた。
「何を書いた。」
「軸受け文明進捗です。」
「嫌な予感しかしねぇ。」
「見ますか。」
「見る。」
小雪は紙を渡した。
ベルは一から六まで読み、真面目な顔で頷いた。
七で眉を寄せた。
八で止まった。
そして、九で長く黙った。
「……話を忘れていない。」
「はい。」
「俺が?」
「はい。」
「何の話だ。」
小雪はスープを見た。
「魚がないことに。」
「嘘をつくな。」
「魚と魚介類が同じことに。」
「小雪。」
「はい。」
ベルはしばらく小雪を見ていた。
それから、紙を返した。
「今は聞かねぇ。」
「はい。」
「でも、いつか聞く。」
小雪は黙った。
いつか。
未来につながる言葉。
小雪は、その言葉を記録しなかった。
「はい。」
ただ、そう答えた。
ベルは少しだけ息を吐く。
「十は太字にしろ。」
「魚はない。」
「そうだ。期待するな。」
「重要ですか。」
「重要だ。」
「はい。」
小雪は十の文字を何度かなぞった。
魚はない。
仕方がない。
ベルはスープを置いた。
「食え。」
「はい。」
「熱いから気をつけろ。」
「はい。」
「本当に気をつけろ。」
「はい。」
「返事がいい時ほど信用ならねぇ。」
「実績です。」
「そうだ。」
小雪はスープを一口飲んだ。
熱い。
魚ではない。
けれど、悪くない。
ベルは向かいへ座った。
いつもの夕食。
いつもの家。
いつもの鈴。
少しだけ違うのは、記録用紙に「ベル、話を忘れていない」と書かれていることだった。
小雪は、それを見ないようにした。
ベルも、見ないようにしている。
今はまだ、話さない。
今はまだ、スープを飲む。
小雪は皿を見た。
干し肉が、少しだけ多い。
ベルが自分の皿から分けたのだと分かる。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「肉が増えています。」
「気のせいだ。」
「気のせい。」
「そうだ。」
「ベルの皿は減っています。」
「気のせいだ。」
「ベルは嘘が下手です。」
「おまえに言われたくねぇ。」
「敬語。」
「あなたに言われたくありません。」
「変です。」
「知ってる。」
小雪は少し笑った。
ベルも、少しだけ笑った。
小雪はまだ、何も言えない。
ただの先延ばしなのかもしれない。
言わなくてもいい未来を、信じたいだけなのかもしれない。
けれど。
今夜のスープも温かかった。
小雪はその温かさを、できるだけ手放さずにいたいと思ってしまった。




