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第二十一話 勇者さま、弱そうと言われる

 水車ふいごの一番の問題は、軸だった。


 水は流れている。水車は回っている。ふいごも動き、炉の火も昨日よりは強くなった。


 だが、まだ十分ではない。


 川の力が、そのまま風になるわけではない。途中で逃げる。木の軸が擦れ、支えが歪み、棒がたわみ、ふいごの革の隙間から空気が漏れる。


 昨日、ベルは言った。


 一〇〇%伝わる方がおかしい、と。


 ならば、逃げることそのものは仕方がない。


 できるのは、その量を少しずつ減らすことだけである。


 そのために、今日の課題は軸受けだった。


「軸受け。」


 小雪が呟く。


「そうだ。」


 ベルは水車の横へしゃがみ込み、木の支えを覗き込んでいた。


 今日は上半身を脱いでいない。


 少し残念である。


「小雪。」

「はい。」

「今、何か変なことを考えただろ。」

「……考えていません。」

「間があった。」

「軸受けについて考えていました。」

「本当か。」

「少し。」

「残りは。」

「黙秘します。」

「なんか嫌な言い方だな。」

「敬語。」

「嫌な言い方です。」

「変です。」

「知ってる。」


 ベルは怪しむように小雪を見たが、それ以上は追及せず、再び水車へ向き直った。


 今の軸は、木の支えへ直接通してある。回転するたびに木と木が擦れ、きし、きし、と細い音を立てていた。


 ベルはその音を聞きながら、眉を寄せる。


「まず、この音が駄目だ。」

「音。」

「音が出てるってことは、そこで力が逃げてる。擦れてるし、熱にもなってる。」

「熱。」

「触るなよ。」


 小雪は伸ばしかけていた手を止めた。


「まだ触っていません。」

「触る顔をしてた。」

「触る顔。」

「そういう顔だ。」

「ベルは顔分類が上手です。」

「嬉しくねぇ。」

「敬語。」

「嬉しくありません。」


 ベルは懐から、小さな金具を取り出した。


 昨日、ガドが試しに打ったものだった。鉄板と呼ぶには薄く、部品と呼ぶにはまだ粗い。それでも木よりは硬く、油を差せば、木同士を直接擦らせるより摩耗を減らせる可能性がある。


「これを受けに当てる。」

「金属軸受け。」

「まだそんな立派なもんじゃねぇ。薄い板を当てるだけだ。」

「立派ではない軸受け。」

「頼むから名前を増やすな。」


 横から覗き込んでいたロイが、感心したように頷いた。


「ほう。木に金具を当てて、そこへ油を差すわけですな。」

「ああ。恐らく摩耗は減る。ただ、金具自体が熱を持つかもしれねぇし、固定が甘ければ逆にずれる。まずは試してみる。」


 ベルは、誰かに説明する時だけ自然に少し丁寧になる。


 図を見せる。実物へ触れさせる。危ないところを先に言い、分からない相手には、分かるところから話す。


 小雪はそれを見ていた。


 やはり、ベルは説明が上手い。


 小雪は、最初から答えへ飛びがちである。目的が見えれば、そこへ一気に向かおうとする。


 けれどベルは違う。


 ここから。

 次はここ。

 その次はこれ。


 人が歩けるように、道を小さく分けて並べる。


「ベル。」

「何でしょうか。」

「説明が上手です。」


 ベルの手が止まった。


「今言うな。」

「なぜですか。」

「固定がずれる。」

「心の固定が。」

「そうだよ。」

「初心なハート。」

「言うな。」

「また瀕死ですか。」

「作業中に殺すな。」

「敬語。」

「作業中に殺さないでください。」


 ロイが楽しそうに笑った。


「今日も仲がいいですなぁ。」

「仲はいいです。」

「小雪。」

「事実です。」

「そうだけど。」

「敬語。」

「そうですけど。」

「変です。」

「知ってる!」


 ベルは赤い顔のまま、金具を木の支えへ当てた。


 小さな釘で仮止めし、薄く油を塗る。軸を戻して位置を確かめてから、ゆっくりと回してみる。


 きし。


 まだ音はする。


 だが、少し小さい。


 ベルは顔を上げず、耳だけを澄ませた。


「もう一回。」


 ロイが水車を手で押す。


 くるり。

 きし。

 くるり。

 きし。


 ベルは眉を寄せたまま、金具へ手を近づけた。


 今度は、小雪が言った。


「ベル。触らないで。」


 ベルがこちらを見る。


「俺は確認だ。」

「熱いかもしれません。」

「少しだけだ。」

「ベルの少しは信用できません。」

「おまえに言われたくねぇ。」

「敬語。」

「あなたに言われたくはありません。」

「なんか変です。」

「……知ってる。」


 ベルは指先で素早く金具へ触れ、すぐに手を離した。


「熱いですか。」

「少しな。」


 小雪はベルの手を見た。


 指先が、わずかに赤い。


 小雪は何も言わず、その手を取った。


 ベルが固まる。


「小雪。」

「冷やします。」

「大丈夫だ。」

「あなたは補填されません。」

「そうだけど。」

「はい。」


 小雪は水筒の水を布へ含ませ、ベルの指先へ当てた。


 ベルは何か言いたそうだったが、結局そのままじっとしている。


 顔は赤い。

 指先も赤い。


「痛いですか。」

「少し。」

「なら、冷やします。」

「……ああ。」


 小雪は丁寧に布を当てた。


 ベルの手は、やはり温かい。いつもより少し熱い。


「摩擦です。」

「分かってる。」

「動く力が、熱になりました。」

「ああ。」

「使いたい形ではなくなりました。」

「そうだな。」

「ベルの指も熱くなりました。」

「俺の指を教材にするな。」

「教材としても有能です。」

「嬉しくねぇ。」


 ベルは文句を言った。


 けれど、手は引かなかった。


 ロイは少し離れたところで、にこにことこちらを見ている。


 小雪は気づかないふりをした。




 昼近くになると、また子供たちが集まり始めた。


 最近は、いつもこうなる。


 最初は三人だった。


 それが五人になり、七人になり、今では気づけば十人近くが水車の周りをうろついている。


 水車が珍しい。

 炉も珍しい。


 そして、たぶんベルも珍しい。


「兄ちゃん、今日は脱がないの?」


 一人の男の子が言った。


 ベルが工具を落とした。


「脱がねぇ!」

「この前、すごかったっておじちゃんが言ってた!」

「何を聞いた!」

「いい身体してんなぁって!」


 ガドのせいである。


 小雪は頷いた。


「良い身体です。」

「小雪!」

「格好いいです。」

「今じゃねぇ!」


 子供たちが一斉に騒ぎ出した。


「兄ちゃん、格好いいって!」

「勇者さまに言われた!」

「顔赤い!」

「鍛冶場じゃなくても赤い!」


 ベルは片手で顔を覆った。


「おまえら、炉に近づくな。火の粉が飛ぶ。」

「はーい!」

「走るな。転ぶ。」

「はーい!」

「水車に手を入れるな。指が持っていかれるぞ。」

「こわっ!」

「怖いと思うなら近づくな。」


 口は悪い。


 けれど、ちゃんと見ている。


 子供たちの位置。

 足元。

 火の粉。

 水車の回転。

 川の流れ。


 ベルは作業を続けながら、危ない場所へ近づく子を自然に遠ざけていた。


 誰かが走れば止める。


 小さい子が川へ寄れば、何気なくその間へ立つ。


 水車へ手を伸ばそうとする子がいれば、目を離さず先に声をかける。


 小雪はそれを見ていた。


「ベル。」

「何だ。」

「子供の扱いがとても上手です。」

「そうか?」

「はい。」

「危ねぇから見てるだけだ。」

「それが上手です。」

「……そうか。」


 ベルは少しだけ照れた。


 そこへ、別の男の子が木の枝を持って走ってきた。


「兄ちゃん、剣できる?」

「枝を振り回すな。」

「できる?」

「できるけど、まず枝を下ろせ。」

「教えて!」

「今は作業中だ。」

「休憩の時は!」


 それを聞いた他の子供たちが、一斉に集まってくる。


「教えて!」

「勇者さまも剣できる?」

「兄ちゃん、強い?」

「魔法なしでも戦えるの?」


 ベルは面倒くさそうな顔をした。


 けれど、断らなかった。


「休憩になったら木剣を持ってこい。枝は駄目だ。目に刺さる。」

「やった!」

「走るな!」

「はーい!」


 子供たちは走って行った。


 走るなと言われた直後に走った。


 ベルは額を押さえる。


「聞いてねぇ。」

「子供です。」

「そうだな。」

「ベルは、良いお父さんになりそうです。」


 ベルが完全に止まった。


 ロイも止まった。


 遠くへ走っていた子供たちまで、なぜか止まった。


「……小雪。」

「はい。」

「今、何て言った。」

「良いお父さんになりそうです。」


 木剣を抱えて戻ってきた男の子が叫んだ。


「兄ちゃん、お父さんになるの!?」

「ならねぇ!」

「勇者さまと結婚するの!?」

「違う!」

「勇者さまがお母さん?」

「私はお母さんではありません。」

「じゃあ兄ちゃんがお母さん?」

「ベルは良い奥さんになれます。」

「小雪!」


 子供たちは大騒ぎになった。


「兄ちゃん、お母さん!」

「じゃあ勇者さま、お父さん?」

「でも勇者さま、小さいよ!」


 ベルは顔を真っ赤にして叫んだ。


「全部違う!おまえら、木剣を置け!まず並べ!」


 声には迫力があった。


 子供たちは、一斉に並んだ。


 小雪は感心した。


「統率力。」

「おまえは黙ってろ。」

「敬語。」

「黙っていてください。」

「はい。」


 ベルは深い溜息を吐いて、工具を置いた。


 どうやら一旦、作業は諦めたらしい。




 ベルは子供たちが持ってきた木剣を一本ずつ確認した。


 長すぎるものは取り上げる。ささくれたものはロイへ渡して削ってもらう。小さな子には軽いものを渡し、元気すぎる子は一番端へ並ばせた。


 それから地面へ一本、線を引く。


「いいか。剣を振る前に、まず足だ。」

「剣じゃないの?」

「足だ。足がぐらぐらなら、剣を振る前に転ぶ。」

「転んだら負け?」

「転んだら痛い。」

「負けじゃないの?」

「戦う前に痛いのは損だろ。」

「そっか!」

「勝とうとする前に転ぶな。相手を見る前に、自分の足元を見ろ。」


 ベルは木剣を持ち、構えを見せた。


 小雪は少し驚いた。


 普段のベルは、料理をしている。

 工具を持っている。

 水車を直している。

 顔を赤くしている。


 木剣を持ったベルは、それらとは少し違った。


 肩から余計な力が抜けている。足は自然に開かれ、地面をしっかり掴んでいるように見える。剣を持つ手にも無駄がなく、視線はまっすぐ前へ向いていた。


 強い。


 たぶん。


 かなり。


「怖がりは、後ろに下がる練習をしろ。」


 ベルは小さな男の子に言った。


「逃げていいの?」

「いい。転ばず逃げられるやつは強い。」

「逃げても?」

「生きてりゃ勝ちだ。」


 小さな男の子は目を丸くした。


 次に、負けず嫌いらしい別の男の子が前へ出る。


「俺は攻める!」

「突っ込むな。」

「何で!」

「猪は罠にかかる。」

「俺、猪じゃない!」

「なら考えろ。」


 子供たちは笑った。

 ベルも少し笑った。


 小雪は、その横顔を見た。


 やはり、良いお父さんになりそうである。


 言うと止まるので、今は言わない。


 文明的判断である。


 休憩時間の木剣練習は、思っていたより長引いた。


 子供たちは楽しそうだった。


 ベルは汗をかきながら、一人ずつ構えを直していく。


「握りすぎるな。」

「こう?」

「もっと軽く。落とさねぇ程度でいい。」

「兄ちゃん、これでいい?」

「足が近い。もう少し開け。」

「兄ちゃん、見て!」

「人の方を向けて振るな!」


 ベルはよく怒る。


 けれど、怒りながらも、ちゃんと見ている。


 泣きそうな子には声を少し落とす。

 調子に乗った子は、危ないことをする前に止める。

 怖がる子を無理に前へ出さない。

 できた子は、大げさには褒めないが、ちゃんと頷く。


 小雪は、ずっと見ていた。


「勇者さま。」


 ふいに、一人の女の子が小雪の前へ来た。


「はい。」

「勇者さま、百年に一度現れる伝説の魔王を倒したんだよね?」

「はい。」

「本当に?」

「はい。倒した、という理解で問題ありません。」

「でも、勇者さま、あんまり強そうじゃないね。」


 小雪は瞬きをした。


 周りの子供たちも集まってくる。


「勇者候補って、すごくいっぱいいたんでしょ?」

「本当に一番強かったの?」

「でも、なんか小さくて白いよね。」

「剣も杖も持ってない。」

「兄ちゃんの方が強そうじゃん!」


 小雪は、なんだか少しだけむっとした。


 ほんの少しである。


 たぶん。


「強いです。」

「どれくらい?」

「この世界を滅亡させられるくらいの火力はあります。」


 子供たちが、すん、と静かになった。


 一人が木剣を抱きしめる。


「……勇者さま、怖い。」

「怖くありません。」

「今、滅亡って言った。」

「火力の説明です。」

「兄ちゃん、この人、本当に大丈夫?」


 ベルが慌てて間へ入った。


「大丈夫だ。たぶん。」

「たぶん?」

「いや、火力の方向では大丈夫じゃねぇが、今は大丈夫だ。」

「今は。」


 小雪が繰り返す。


「わざわざそこを強調するな!」

「弱そうと言われました。」

「むっとするな。可愛いけど怖い。」

「可愛い。」

「そこは拾うな!」

「ベル。」

「何だ。」

「私は可愛いですか。」

「今は子供がいるだろ!」

「子供の前では駄目ですか。」

「駄目だ!」

「敬語。」

「駄目です!」


 子供たちは、また一斉に騒ぎ始めた。


「兄ちゃん、勇者さま可愛いって!」

「やっぱり結婚するの?」

「お父さん?」

「お母さん?」

「そこに戻るな!」


 ベルは叫んだ。


 小雪は少しだけ口元を緩めた。


 弱そうと言われたのは少し不服だった。


 でも、可愛いと言われたのは悪くない。


 とても悪くない。




 その後、子供たちは小雪にも木剣を持たせようとした。


「勇者さまもやって!」

「剣。」

「魔王倒したんでしょ?」

「はい。」

「見せて!」


 小雪は木剣を受け取った。


 軽い。


 軽すぎる。


 片手で持ち、構える。


 その瞬間、ベルの表情が変わった。


「小雪。」

「はい。」

「それ、下ろせ。」

「まだ振っていません。」

「分かってる。下ろせ。」

「なぜですか。」

「怖い。」


 子供たちは首を傾げた。


「えー?」

「ただ立ってるだけじゃん。」

「怖くないよ?」


 ベルだけが見ている。


 小雪の足。

 肩。

 手首。

 目。


 小雪は、少し不思議に思った。


「弱く振ります。」

「おまえの弱くは信用ならねぇ。」

「木剣です。」

「木剣が砕ける。」

「善処します。」

「絶対振るな。」


 けれど、子供たちが期待している。


 小雪はできるだけ弱く振った。


 ほんの少し。


 木剣が空気を切る。


 ぱん、と乾いた音がした。


 近くの木の葉が、数枚落ちる。


 しまった。


 習慣で、瞬間的に魔素を使ってしまったかもしれない。


 子供たちが固まった。


 ベルが額を押さえる。


「弱く振れって言っただろ。」

「弱くしました。」

「葉っぱが落ちた。」

「木ごとは落ちていません。」

「基準が怖い。」


 少し遅れて、子供たちが歓声を上げた。


「すげー!」

「勇者さますげー!」

「かっこいい!」

「でも兄ちゃんの方が教えるのうまいぜ!」


 小雪は木剣を返した。


「そうですね。ベルは教えるのが上手です。」


 ベルが少しだけ目を逸らす。


「そういうことを、急に言うな。」

「良いお父さんです。」

「戻るな!」


 子供たちは、また大騒ぎになった。


 ロイは笑いすぎて腰を押さえている。


 小雪はベルを見た。


 子供たちに囲まれている。


 顔は赤い。

 怒っている。

 照れている。


 けれど、楽しそうだ。


 小雪は思った。


 ベルには家族がいる。

 帰る場所がある。


 そして。


 たぶん、未来もある。


 子供たちに囲まれて、木剣を教えて、良いお父さんになりそうだと言われて怒る未来。


 小雪は、その未来を分類してはいけない。


 未来を見てはいけない。


 そう思っていた。


 それでも、見えてしまった。


 ほんの少し。


 悪くない未来だった。




 午後の作業では、軸受けの金具をもう一度調整した。


 子供たちは少し離れた場所で、木剣の足運びを真似している。


 ベルは時々そちらを見ながら、軸の固定を直していた。


「こっちの釘、少し斜めです。」


 小雪が言う。


「分かってる。」

「直しますか。」

「直す。」

「魔法で。」

「やめろ。」

「少しだけ。」

「釘穴が消える。」

「善処します。」

「信用ならねぇ。」


 ベルは手作業で釘を抜き、金具の位置をほんの少しずらした。


 再び釘を打つ。

 油を足す。

 水車を回す。


 きし。


 前より、さらに音が小さい。


 ベルは耳を澄ませた。


 ロイも頷く。


「よくなりましたな。」

「ああ。まだ熱は持つけど、ましだ。」

「風も少し強くなりました。」


 小雪は、ふいごの動きを見た。


 水車が回る。

 棒が押す。

 ふいごが動く。

 炉へ風が入る。


 無駄はまだ多い。


 けれど、昨日よりは少ない。


 逃げる力を、少しだけ減らせたからだ。


「軸受け文明。」

「その名前はどうなんだ。」

「摩擦低減文明。」

「説明になってるだけだ。」

「ベルの指先保護文明。」

「俺を中心にするな。」

「大事です。」


 ベルが止まった。


「……何が。」

「指先。」

「……。」

「怪我をすると、ごはんに影響します。」

「結局、飯か。」

「水車にも影響します。」

「ついでみたいに言うな。」

「鈴にも。」

「鈴?」

「ベルが指を怪我すると、鈴で来た時に困ります。」


 ベルは黙った。


 耳が赤くなる。


「……それは。」

「はい。」

「まあ、困るな。」

「はい。」


 小雪は頷いた。


 ベルは顔を背ける。


「油を差す。」

「はい。」


 水車が、また回る。


 少しだけ軽くなった音で。




 夕方、子供たちはようやく帰っていった。


「兄ちゃん、また教えて!」

「気が向いたらな。」

「明日?」

「気が向いたらだ。」

「勇者さま、世界滅亡させないでね!」

「今はしません。」

「なんか怖い!」

「小雪!」

「はい。」

「子供たちを安心させてやれ!」

「善処します。」

「それが一番怖い!」


 子供たちは笑いながら走っていった。


 走るな、とベルが叫ぶ。


 誰も聞かなかった。


 ベルは深く息を吐いた。


「疲れた。」

「良いお父さん。」

「やめろ。」

「疲れたお父さん。」

「もっとやめろ。」

「敬語。」

「やめてください。」


 小雪は少し笑った。


 ベルはそれを見て、顔を赤くする。


「笑うな。」

「駄目ですか。」

「駄目じゃねぇ。」

「では。」

「人前ではやめろ。」

「今は人前ではありません。」

「ロイさんがいる。」


 ロイがにこにこしながら言った。


「わしは木です。」

「それは無理があります。」


 ベルが即座に返す。


 ロイは楽しそうに笑った。


「いやぁ、今日も面白かった。」

「面白がらないでください。」

「助手さんは、子供にも人気が出ますなぁ。」

「出なくていいです。」

「勇者さまも、少し怖がられておりましたが。」

「弱そうと言われました。」

「それで世界滅亡は、少し強すぎますな。」

「火力の説明です。」

「説明は相手に合わせるもんだ。」


 ベルが言った。


 小雪はベルを見る。


「相手に合わせる。」

「ああ。」

「ベルは、前に私を子供たちへ説明してくれました。」

「したか?」

「はい。」

「何て言ったっけか。」

「皆が使える道具を作っている、と。」

「ああ。」

「勇者でも、魔王討伐者でも、滅亡火力でもなく。」


 ベルは少し黙った。


「……おまえが説明すると、子供を怖がらせるからだ。」

「はい。」

「でも、まあ。」

「はい。」

「今やってることは、それだろ。」


 小雪は水車を見た。


 くる、くる。

 少し軽くなった音で回っている。


 炉は冷え始めている。

 軸受けには油が差されている。


 皆で使えるもの。

 今、小雪はそれを作っている。


 ベルは、小雪をそう説明した。


 勇者ではなく。

 魔王を倒した者でもなく。

 世界を滅ぼせるほどの火力を持つ者でもなく。


 皆が使えるものを作っている人。


 小雪は、それが少し嬉しかった。


「ベル。」

「何でしょうか。」

「やはり、あなたは説明が上手です。」

「またか。」

「はい。」

「……そうか。」

「はい。」

「それは、まあ。」


 ベルは少し視線を逸らした。


「悪くねぇ。」




 その夜。


 山の家で夕食を食べたあと、小雪は作業台へ座った。


 今日の記録を書く。


 軸受け文明進捗。


 一、金具を軸受けに使用。

 二、油、重要。

 三、摩擦音、少し低下。

 四、軸の熱、確認。

 五、ベルの指先、冷却。

 六、ふいごの風、少し改善。

 七、子供たち、木剣訓練。

 八、ベル、子供の扱いが上手い。

 九、ベル、良いお父さんになる。

 十、勇者、弱そうと言われる。

 十一、世界滅亡火力は子供に不評。

 十二、ベルは、私を説明するのが上手い。


 小雪はそれを眺めた。


 重要な記録である。


 ベルが台所から戻ってきた。


「また何か書いてるな。」

「はい。」

「……嫌な予感がする。」

「軸受け文明進捗です。」

「見せろ。」

「はい。」


 小雪は紙を渡した。


 ベルは読み始める。


 一から六までは真面目な顔で頷いた。


 七で少し眉を上げる。

 八で耳が赤くなる。

 九で完全に止まった。


「消せ。」

「なぜですか。」

「良いお父さんは消せ。」

「事実です。」

「これは軸受けと明らかに関係ない。」

「未来分類です。」


 ベルが少しだけ黙った。


「……それに、まだ分かんねぇだろ。」

「そうですね。」


 小雪は少し考えた。


「良いお父さんになりそう、です。」

「消せ!」

「敬語。」

「消してください!」

「小さくしますか。」

「消せ!」

「では、保留。」

「保留にするな。」


 ベルは続きを読んだ。


 十で少し笑いかける。

 十一で真顔になる。

 そして、十二で止まった。


 長く止まった。


「……十二。」

「はい。」

「これは。」

「駄目ですか。」


 ベルは紙を見たまま黙っていた。


 それから、小さく言う。


「……消さなくていい。」

「はい。」

「十一は消せ。」

「なぜですか。」

「子供に不評とか書くな。あと、世界滅亡火力も書くな。」

「重要です。」

「重要じゃねぇ。」

「弱そうと言われました。」

「まだ気にしてるのか。」

「少し。」


 ベルは紙を置いた。


 そして、小雪を見る。


「おまえは弱くねぇよ。」


 小雪は瞬きをした。


「知っています。」

「だろうな。」

「でも、ベルに言われるのは悪くないです。」


 ベルの顔が赤くなった。


「……そういうのを、急に言うな。」

「はい。」

「あと、子供相手に滅亡って言うな。」

「はい。」

「本当に言うな。」

「善処します。」

「信用ならねぇ。」


 小雪は少しだけ笑った。


 ベルは紙を返す。


「九は消せ。」

「保留です。」

「保留にするな。」

「十二は残します。」

「……それは残していい。」


 小雪は頷いた。


 十二。


 ベルは、私を説明するのが上手い。


 今日の中で、たぶん一番大事な記録だった。


 ベルは小雪を、怖い勇者として説明しなかった。


 魔王を倒した人とも。

 世界を滅ぼせるほどの火力を持つ者とも。


 説明しなかった。


 皆が使えるものを作っている人。


 そう説明した。


 小雪には、自分をそう見ることがまだ少し難しい。


 けれど、ベルには見えているらしい。


 そのことが。


 悪くなかった。


 とても。


「ベル。」

「何でしょうか。」

「明日も軸受けをしますか。」

「ああ。金具をもう少し滑らかにしたい。あと、油の種類も試す。」

「はい。」

「子供たちも来るかもしれねぇ。」

「はい。」

「滅亡という言葉は禁止だ。」

「はい。」

「弱そうと言われてもだ。」

「善処します。」

「信用ならねぇ。」


 ベルはため息をつきながらも、少し笑っていた。


 小雪も、少し笑った。


 水車は、まだ完全ではない。


 力は逃げる。

 軸は熱を持つ。

 油は足りない。


 それでも、昨日より少しよくなった。


 ベルの説明も。

 小雪の居場所も。


 ほんの少しずつ、形になっていく。


 小雪は記録用紙の十二を、もう一度見た。


 それから、九の文字を小さくした。


 ベル、良いお父さんになりそう。


 消しはしなかった。


 ベルはそれを見つけて、また騒いだ。

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