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第十九話 水車ふいごと燃やすな勇者さま

 山の家に戻ると、床は床だった。


 寝床は寝床だった。


 危険物箱は、危険物箱だった。


 作業台には水車の図面が貼られ、台所には鍋がある。

 窓辺には洗った布が干され、寝室の横には鈴が置かれている。


 小雪は玄関に立ったまま、室内を見回した。


 グランツ公爵家の屋敷は、たしかに大きかった。立派だった。

 白い石の壁に、高い天井。磨かれた床と広い庭園があり、彫像の並ぶ噴水まであった。扉にも窓枠にも細かな装飾が施され、椅子は柔らかく、茶はよい香りがした。


 何もかもが正しく、整っていた。


 それに比べれば、この山の家はとても小さい。


 しかも、ところどころ焦げている。


 壁には謎の跡があり、修理したばかりの床は一部だけ色が違う。危険物箱には「分からないので危険」と書かれ、外には用途の分からない残骸や瓦礫まで積まれている。


 それでも、小雪は少し息を吐いた。


「戻りました。」


 小さく言うと、後ろからベルの声がした。


「何だ、急に。」

「戻ったので。」

「まあ、戻ったな。」

「はい。」


 小雪は振り返った。


 ベルは両腕に荷物を抱えている。


 公爵家からもらった焼き菓子の包み。着替え。小雪の白い外套。なぜか母上が持たせた果物。それから、父上が「役に立つなら」と貸してくれた古い工具箱。


 それでも、公爵家にいた時より少しだけ肩の力が抜けて見えた。


 小雪はベルを見て、もう一度言った。


「ベルも戻りました。」


 ベルの手が止まる。


「俺も?」

「はい。」

「俺は……帰ってきただけだろ。」

「はい。ベルも一緒に帰ってきました。」


 ベルは黙った。


 琥珀色の目が、少しだけ揺れる。


「……そういうのを、急に言うな。」

「なぜですか。」

「くる。」

「初心なハートに。」

「言うな。」

「瀕死ですか。」

「実家で散々死んだ。」

「補填しますか。」

「やめろ。」

「敬語。」

「やめてください。」


 小雪は頷いた。


 ベルは荷物を台所の横へ置くと、いつものように袖をまくった。


「とりあえず、茶を入れる。」

「はい。」

「菓子は少しだけだぞ。」

「はい。」

「全部食うな。昼食もある。」

「はい。」

「返事がいい時ほど信用ならねぇ。」

「実績です。」

「そうだな。」


 ベルは鍋を取り、湯を沸かし始めた。


 火打ち石を使う。


 何度か打ち合わせて小さな火種を作り、乾いた枝へ移し、それから薪へ火を育てていく。


 魔法ではない。


 グランツ公爵家では、火は魔法で灯っていた。


 廊下の灯りも、湯も、庭の噴水も、花壇の管理も。どれも均一で、速く、美しかった。


 この家では、ベルが火を起こす。


 時間がかかる。

 手間もかかる。


 それでも小雪には、この小さな火の方がなぜか落ち着いて見えた。


「ベル。」

「何でしょうか。」

「火が小さいですね。」

「茶を入れるだけだからな。」

「大きく。」

「するな。」

「まだ何も言っていません。」

「顔に出てる。」

「火力顔。」

「だから増やすな。」


 小雪は火を見た。


 お茶を入れるには十分な、小さな火。


 けれど、金属を扱うには足りないらしい。


 水車は回った。

 ふいごも動いた。


 次に必要なのは、火。


 安定した火。

 魔法ではない火。


「ベル。」

「今度は何でしょうか。」

「次は火力なんですよね。」


 ベルは鍋を見ながら頷いた。


「ああ。」

「燃やしますか。」

「まだ燃やすな。」

「火力が必要です。」

「だからって燃やすな。」

「では、焼きますか。」

「似たようなもんだろ。」

「炉ごと燃やしますか。」

「炉は燃やすものじゃねぇ!」

「敬語。」

「炉は燃やすものではありません!」


 小雪は頷いた。


 ベルは深く息を吐く。


「水車でふいごを動かせるようになった。次は、ちゃんとした炉だ。火を逃がさず、燃え広がらせず、空気を送る場所を決める。熱を集めて、灰を処理して、火の粉も飛ばさないようにする。」

「項目が多いです。」

「文明は大変なんだろ。」

「そうでした。」

「それと、今度は鍛冶屋を巻き込む。」

「鍛冶屋。」

「村にいる。農具の修理や釘、金具を作ってるやつだ。高い火力が必要な時は魔導具か、領主経由で魔法に頼ることが多いらしいが。」

「魔法。」

「ああ。」

「水車ふいごで、火魔法は不要にできますか。」

「全部をいきなり賄うのは無理だろうな。だが、改良を続ければ一部は代替できるかもしれねぇ。」

「一部。」

「そうだ。何事も一足飛びにはいかない。少しずつだ。」


 小雪は頷いた。


 少しずつ。


 針一本。

 小型水車。

 流されない水車。

 ふいご。


 そして、火力。


 文明は、小雪が思っていたよりずっと小さな歩幅で進む。


「ベル。」

「何でしょうか。」

「少しずつは、難しいです。」

「おまえにはそうだろうな。」

「はい。」

「でも、少しずつじゃねぇと、誰でも使えるものにはならない。再現性があって、維持できて、他の場所でも使えるようにする必要がある。」


 小雪は火を見た。


 小さな炎が、時間をかけて鍋を温めている。


 魔法より遅い。


 けれど、これはたしかにベルが起こした火だ。


「はい。」


 小雪は答えた。


「少しずつ、ですね。」


 ベルが少しだけこちらを見る。


「本当に分かってるか。」

「善処します。」

「信用ならねぇな。」


 茶が入った。


 焼き菓子は、本当に少しだけ出された。


 小雪は一口食べる。


 やはり、とても甘い。


「おいしいです。」

「そうか。」

「ベルが好きな味ですか。」

「ああ。昔からな。」

「そうですか。」


 小雪は、皿に残ったもう一つの焼き菓子を見た。


 ベルがすぐに言う。


「一つだけだぞ。」

「ベルは。」

「俺も食う。」

「では、半分。」

「何でだ。」

「ベルが好きなので。」


 ベルの動きが止まった。


「……俺が好きだから、半分残すのか。」

「はい。」

「そうか。」

「はい。」


 小雪は焼き菓子を半分に割った。


 少し崩れた。


 皿に細かな粉が落ちる。


 ベルはそれを見て、小さく笑った。


「やっぱり不器用だな。」

「手はベルの方が有能です。」

「はいはい。」

「敬語。」

「はいはいです。」

「変です。」

「知ってる。」


 ベルは半分の焼き菓子を受け取った。


 小雪も自分の分を食べる。


 甘い。


 同じ焼き菓子なのに、戻ってきた家で食べると、公爵家で食べた時より少し落ち着く味がした。





 翌日。


 小雪とベルは、まず水車を見に行った。


 水車は朝の光の中で、くる、くる、と少しぎこちなく回っている。


 ロイが先に来ており、軸へ油を差していた。


「おお、勇者さま。助手さん。昨日はお疲れでしたなぁ。」

「はい。」


 小雪は頷いた。


「面接は難しかったです。」


 ベルがすぐに咳き込んだ。


「小雪。」

「はい。」

「村で言うな。」

「なぜですか。」

「すぐ広まる。」

「面接が。」

「主に俺の死亡記録だ。」

「初心なハート。」

「もう言うな。」

「瀕死。」

「頼むから口を閉じろ。」


 ロイが笑った。


「何だか分かりませんが、相変わらず仲がいいですなぁ。」

「仲はいいです。」

「小雪。」

「事実です。」

「まあ、そうだけど。」

「敬語。」

「そうですけど。」

「変です。」

「もういい。」


 ベルは赤い顔で水車へ向き直った。


「ロイさん、ふいごの接続は。」

「少し滑らかにしておきました。けど、これ以上は鍛冶屋の意見も聞かんといけませんな。」

「そのつもりだ。」





 村の中心から少し離れた場所に、小さな鍛冶場があった。


 低い屋根の煙突から細い煙が上がり、建物の外には古い農具や曲がった金具、使い込まれた槌が並んでいる。


 鍛冶屋の名はガドだった。


 大柄で腕の太い男だった。顔には煤がつき、声も低い。小雪を見ると、少し慌てたように頭を下げた。


「勇者さま。うちみたいな煤だらけの場所へようこそ。」

「煤は慣れています。」

「慣れるものなんですかい。」

「時々、爆発しますので。」

「小雪。」


 ベルが止めた。


「爆発を紹介文に入れるな。」

「事実です。」

「事実でもだ。」

「敬語。」

「事実でもです。」


 ガドがベルを見た。


「で、あんたが水車の兄ちゃんか。」

「ベルだ。」

「噂は聞いてる。水で車を回して、風を送るんだって?」

「ああ。」

「変なことを考えるなぁ。」

「よく言われる。」

「褒めてるんだが。」

「なら、どうも。」

「敬語。」


 小雪が言う。


「どうもです。」

「なんか変です。」


 ガドは声を上げて笑った。


「まあ、見せてもらおうじゃねぇか。」


 ベルは、水車ふいごの仕組みを説明した。


 川の流れで水車が回り、その回転が棒へ伝わる。

 棒がふいごを押し、炉へ空気を送ることで火を強くする。


 ガドは最初、腕を組んで聞いていた。


 だが、途中から眉間の皺が深くなった。


 怒っているのではない。


 考えている。


「水が勝手に動かすってことは、人がふいごを押さなくていいのか。」

「そうだ。」

「ずっとか。」

「水が流れている間はな。ただ、今の水車はまだ弱い。風量も安定しねぇ。」

「それでも、片手が空くな。」

「ああ。」

「火の具合を見ながら、槌を持てる。」

「そのためには、まだ調整がいる。」


 ガドは少し黙った。


 それから、にやりと笑った。


「面白ぇ。」


 ベルの表情が、少しだけ明るくなる。


 小雪はそれを見た。


 また、胸の奥が少し温かくなる。


 ベルが認められている。

 魔法が使えないことではなく、考えたことで。


 今日は、それを記録してもいい気がした。

 今、ここで起きていることだから。


 水車のふいごはまだ小さく、そのままではガドの炉には合わない。


 そこでまず、水車の近くへ小さな試験炉を作ることになった。


 ロイの時と同じように、ベルはガドを正式な勇者補助業務へ加えるための書簡を、その場で王室宛てに書いた。

 技術と時間を借りる以上、無償で働かせる気はないらしい。

 給金は王室から支給される。


 ベルは、やはりこういう順番にも詳しい。


 試験炉といっても、最初は石と粘土で囲った小さな火床である。

 ガドが石を並べ、ロイが木の支えを作り、ベルはふいごから送る風の向きを確かめる。

 小雪は記録係。


 そして、勝手に火力を上げようとして三回止められた。


「小雪。」

「はい。」

「手を下ろせ。」

「火力が足りません。」

「まだ火を入れてねぇ。」

「予備加熱。」

「魔法でやるな。」

「少しだけ。」

「おまえの少しは信用ならねぇ。」

「今日は小火山くらいです。」

「火山を出すな!」

「敬語。」

「火山を出さないでください!」


 ガドが槌を持ったまま固まった。


「火山?」

「気にしないでください。」


 ベルが即答する。


「気になるだろ。」

「気にしたら負けです。」


 ロイが笑った。


「勇者さまは、やはり規模が違いますなぁ。」

「炉を温めるだけです。」

「炉が消し飛ぶ。」

「消し飛ばすこともできます。」

「だから飛ばすな。」

「敬語。」

「飛ばさないでください。」


 小雪は手を下ろした。


 ベルは念のため、そのまま小雪の隣へ立った。


「近いです。」

「監視だ。」

「敬語。」

「監視です。」

「同じです。」

「今日は同じでいい。」


 小雪はベルの横顔を見た。


 真剣である。


 火の位置。

 風の向き。

 石の隙間。


 全部を見ている。


 ベルは、やはり順番が上手い。


 小雪はそれを言おうとして、やめた。


 今言うと、ベルが止まる。


 そして、火の前で止まると危ない。


 文明は本当に大変である。





 火が入った。


 最初は普通の火だった。

 薪が燃え、炭が赤くなり、細い煙が上がる。


 ガドがふいごの口を調整し、ベルが水車側の棒を動かした。


 水車の回転が伝わる。

 ぎこちなく、ふいごが押される。


 ふっ。


 火が揺れた。


 もう一度。


 ふっ。


 炎が少し強くなる。


 遠巻きに見ていた村の子どもたちが身を乗り出した。


 ガドが目を細める。


「来てるな。」

「けど、風量が弱い。」


 ベルが言った。


「でも来てる。」

「ああ。来てる。」


 水車が回る。

 棒が動く。

 ふいごが押される。

 風が入る。


 炭の赤が、少しずつ強くなる。


 火が明るくなった。


 魔法なしで。


「火力が上がりましたね。」


 小雪が呟いた。


「ああ。」


 ベルは炉を見たまま答えた。


 ガドが一本の鉄釘を、火の中へ入れる。


 しばらく待つ。


 釘の先が、暗い赤に変わった。


 小雪は身を乗り出す。


「赤いです。」

「触るなよ。」

「はい。」

「本当に触るなよ。」

「でも、補填されます。」

「痛みはあるんだろ。」

「痛覚はあります。」

「なら触るな!」

「敬語。」

「触らないでください!」


 ガドは火ばさみで釘を取り出し、金床へ置いた。


 槌を一つ。


 かん。

 釘の先が、少し曲がる。


 もう一つ。


 かん。

 さらに曲がった。


 ガドは満足そうに笑った。


「おお。弱いが、使えるぞ。」


 ベルが息を吐く。


 小雪は、曲がった釘を見た。


 水が回る。

 風が送られる。

 火が強くなる。

 鉄が赤くなる。

 槌で、形が変わる。


 魔法ではない。


 ただの釘。

 小さな変化。


 けれど。


「文明が、熱を持ちました。」


 小雪が言うと、ベルが少し笑った。


「大げさだな。」

「大げさですか。」

「釘一本だ。」

「でも、針一本から始まりました。」


 ベルは少し黙った。


「……そうだな。」

「釘一本も、文明です。」


 ベルは曲がった釘を見た。


 それから、頷く。


「ああ。たしかに文明だ。」


 ガドが釘を持ち上げた。


「水で風を送って、鉄を曲げる。変な話だが、実際に曲がったな。」


 ロイが得意そうに頷く。


「水車は面白いでしょう。」

「面白ぇ。もう少し風が強くなれば、小さい金具くらいなら人手が楽になるかもしれねぇな。」

「ふいごを大きくする必要がありますか。」


 小雪が聞くと、ベルがすぐに答えた。


「それもあるが、水車の力も足りない。棒の伝え方も悪い。炉も熱を逃がしすぎてる。石の組み方と粘土も変えたい。」


 ガドは笑った。


「兄ちゃん、口は悪いが、目はいいな。」

「口は余計だ。」

「事実だろう。」


 ガドとロイが笑う。


 ベルは顔をしかめた。


 けれど、少し嬉しそうだった。


 小雪も、少し嬉しくなった。


 今日は、書く。


 ベルが認められると、水車文明が進む。


 これは、もう事実である。





 夕方。


 山の家へ戻ると、ベルはすぐに手を洗い、鍋へ水を入れた。


「ごはんですか。」

「ごはんだ。」

「火力文明の続きは。」

「飯の後だ。」

「なぜですか。」

「人間は飯を食う。」

「私は勇者です。」

「勇者も食う。」

「補填で。」

「食え。」

「敬語。」

「食べてください。」

「はい。」


 ベルは野菜を切り始めた。


 小雪は作業台へ向かい、今日の記録を書く。


 水車文明進捗。


 一、水車ふいご、小型炉へ接続。

 二、火力、少し上がる。

 三、鉄釘、赤くなる。

 四、釘、曲がる。

 五、炉の構造、課題。

 六、ふいごの風量、課題。

 七、鍛冶屋ガド、協力。

 八、ベル、鍛冶屋に認められる。

 九、火山は禁止。

 十、ベルが戻ってきたので、文明が進む。


 書いてから、小雪はペンを止めた。


 十。


 ベルが戻ってきたので、文明が進む。


 これは本当に、水車文明の進捗だろうか。


 少し違う気もする。


 でも、事実である。


 ベルが戻ってきたから、今日のごはんがある。

 ベルが戻ってきたから、鍛冶屋へ行った。

 ベルが戻ってきたから、火力へ進む順番が分かった。


 ベルが戻ってきたから。


 鈴を鳴らせる。


 小雪は、そのままにした。


「小雪。」


 台所からベルが声をかける。


「はい。」

「何を書いてる。」

「水車文明進捗です。」

「見せろ。」

「はい。」


 小雪は紙を渡した。


 ベルは読み始める。


 一から七までは、真面目な顔で頷いていた。


 八。


 ベル、鍛冶屋に認められる。


 そこで、耳が少し赤くなる。


「……これは要るのか。」

「要ります。」

「水車文明進捗か?」

「はい。ベルが認められると、協力者が増えます。」

「……まあ、たしかに間違ってはねぇけど。」

「協力者が増えると、文明が進みます。」

「そうだな。」

「では、進捗です。」


 ベルは小さく咳払いをして、続きを読んだ。


 九。


 火山は禁止。


「ここは太字にしろ。」

「重要ですか。」

「最重要だ。」

「はい。」


 そして、十。


 ベルが戻ってきたので、文明が進む。


 ベルは、そこで止まった。


 長く止まった。


「……小雪。」

「はい。」

「これは、水車文明進捗か?」

「はい。」

「俺が戻ってきたので、文明が進む。」

「はい。」


 ベルは紙を見たまま、少しだけ眉を寄せた。


「水車だけかよ。」


 少し、拗ねたような声だった。


 小雪は考える。


「ごはんも出ます。」

「もっと悪い。」

「髪も乾きます。」

「それも悪い。」

「鈴を鳴らせます。」


 ベルが黙った。


 小雪は続ける。


「ベルが戻ってきたので、鈴を鳴らせます。」


 ベルは紙を持ったまま固まっている。


「……それは。」

「はい。」

「まあ。」


 ベルは視線を逸らした。


「悪くねぇ。」

「悪くないです。」


 小雪は頷いた。


 ベルは顔を赤くして、紙を返す。


「その十は、消さなくていい。」

「はい。」

「ただし、火山は禁止は太字にしろ。」

「重要ですか。」

「重要だ。」

「はい。」


 小雪は九の文字を、何度かなぞった。


 火山は禁止。


 ベルが満足そうに頷く。


 鍋から湯気が上がり、家の中へ夕食の匂いが広がった。


 小雪は椅子に座る。

 鈴は、机の端にある。

 鳴らさない。


 ベルは台所にいる。

 呼べば来る。

 呼ばなくても、いる。


 実家から。

 帰ってきた。


 水車は回る。

 ふいごは風を送る。

 火は強くなる。

 釘は曲がる。

 ごはんは出る。


 日常が、戻ってきた。


 小雪は、それを何と呼ぶのかまだ知らない。


 けれど、今日は書いてもよい気がした。


 ベルが戻ってきたので、文明が進む。


 小雪はその文字を見て、少しだけ口元を緩めた。


 台所から、すぐにベルの声が飛んでくる。


「今、笑ったか?」

「見えますか。」

「気配で分かる。」

「やはり有能ですね。」

「今それを言うな。」

「なぜですか。」

「スープをこぼす。」

「では、後で言います。」

「後でもこぼす。」

「難しいですね。」

「難しいです。」


 ベルの声は、いつもの声だった。


 小雪はそれを聞いて、少し安心した。


 火力文明は、まだ釘一本。


 けれど。


 日常は戻った。


 それは、とても悪くなかった。

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