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第十八話 勇者さま、実家訪問する

 三日後。


 小雪とベルは、グランツ公爵家の馬車に乗っていた。


 馬車は広く、揺れも少ない。座席は柔らかく、窓に掛けられた薄布を通して、外の光が穏やかに差し込んでいる。


 小雪は白い外套をまとって座り、袖の中の鈴に触れていた。


 ちりん。


 小さく鳴る。


 正面に座っていたベルが、即座に顔を上げた。


「何だ。」

「鳴りました。」

「知ってる。」

「反応確認です。」

「馬車の中でも確認で鳴らすな。」

「緊張していますか。」

「してる。」

「ベルが?」

「俺が。」

「なぜですか。」

「実家だからだよ。」

「帰る場所では。」

「帰る場所だから緊張することもある。」

「難しいですね。」

「難しいのです。」


 ベルは額を押さえた。


 今日のベルは、いつもよりきちんとしている。


 金色の髪は整えられ、黒を基調にした上等な外出着は、襟元まで正しく留められていた。

 普段より三下感がかなり薄い。


 ただし、落ち着きもかなり薄い。


「小雪。」

「はい。」

「最後の確認をする。」

「面接練習ですか。」

「そうだ。」

「馬車でも。」

「本番直前だからだ。」


 ベルは何度も書き直した想定問答を取り出した。


「父上に、私とヴェルヴァルドはどういう関係か、と聞かれたら。」

「研究補佐官と勇者です。」

「よし。」

「助手です。」

「それでもいい。」

「生活文明総合担当は。」

「言わない。」

「良い奥さんは。」

「絶対に言わない。」

「髪文明担当は。」

「言わない。」

「鈴で来る人は。」

「言わない。」

「チワワは。」

「問題外だ。」

「はい。」


 ベルは大きく頷いた。


「次。母上に、ヴェルヴァルドは役に立っていますか、と聞かれたら。」

「はい。魔法以外の技術に詳しく、実務能力が高く、研究に大きく貢献しています。」

「完璧だ。」

「料理が上手です、は。」

「言わない。」

「髪を拭きます、は。」

「言わない。」

「湯を沸かします、は。」

「言わない。」

「手が温かいです、は。」

「……言わない。」

「間がありました。」

「それを言われたら俺が死ぬ。」

「初心なハートが。」

「それも絶対に言うな。」

「はい。」


 ベルは深く息を吐いた。


 まだ屋敷にも着いていないのに、かなり疲れているように見える。


「次。母上に、ヴェルヴァルドの良いところはどこですか、と聞かれたら。」

「魔法が使えなくても、それ以外の方法で考え、作り、実行できるところです。」


 ベルが止まった。


「……。」

「駄目ですか。」

「いや。完璧すぎて、少し心臓に悪い。」

「初心なハートが。」

「だから言うな。」


 ベルは顔を赤くしながら、紙に大きな丸をつけた。


「よし。この調子ならいける。」

「いけますか。」

「ああ。あとは、おまえが余計なことを言わなければ完璧だ。」

「余計なこと。」

「髪、筋肉、鈴、おかん、良い奥さん、乙女、チワワ、初心なハート。この辺りは全部禁止だ。」

「禁止事項が多いです。」

「おまえのせいだ。」

「敬語。」

「あなたのせいです。」

「変です。」

「知ってる。」


 小雪は頷いた。


 禁止事項が、とても多い。


 だが、ベルがあまりにも真剣なので、きっと守るべきなのだろう。


 それなのに、なぜだろう。


 胸の奥が、少しざわつく気がする。


 小雪は窓の外を見た。


 木々が後ろへ流れていく。


 この馬車は今、ベルの帰る場所へ向かっている。


 少しだけ、胸が重い。


 けれどベルは、小雪を置いていかなかった。

 馬車に乗せた。

 面接練習までしている。


 なぜこうなったのかは、今もよく分からない。


 だが、悪くない。


「小雪。」

「はい。」

「鈴は持ってるな。」

「はい。」

「知らねぇ場所で困ったら鳴らせ。」

「はい。」

「ただし、確認では鳴らすな。」

「はい。」

「父上と母上の前でも鳴らすな。」

「はい。」

「兄上の前でも、なるべく鳴らすな。」

「はい。」

「でも、本当に困ったら鳴らせ。」

「はい。」

「俺は来る。」


 ベルは少しだけ視線を逸らした。


 小雪は袖の中の鈴を握った。


「はい。」


 馬車の中が、少し静かになる。


 ベルは咳払いをした。


「最後にもう一回だけやるぞ。」

「はい。」

「俺とおまえの関係は。」

「研究補佐官と勇者です。」

「よし。」

「助手です。」

「よし。」

「ベルです。」

「それは名前だが、まあいい。」

「有能です。」

「……まあいい。」

「筋肉、良い奥さん、おかん、乙女、チワワ、初心なハートは言いません。」

「よし!」


 ベルは、ようやく安心した顔をした。


 小雪はその顔を見て、少しだけ口元を緩めた。


 ベルがすぐに固まる。


「……その笑い方も、本番では控えめにしろ。」

「なぜですか。」

「俺が死ぬ。」

「初心なハートが。」

「だから言うな。」

「はい。」


 馬車は、グランツ公爵家へ向かって進んでいった。


 グランツ公爵家の屋敷は、大きかった。


 王城ほどではない。


 だが、山奥の家とは比べることすら難しい。


 高い門を抜けた先には、季節の花々が計算されたように咲く庭園が広がり、彫像の並ぶ噴水まである。

 敷地内にはいくつもの館や棟が建ち、最も大きな本館は、白く重厚な外壁も透明度の高い硝子窓も美しく輝いていた。


 扉、蝶番、階段、窓枠には、金や銀の細かな装飾が施されている。

 おそらく、建物の維持にも清掃にも魔法が使われているのだろう。


 名門貴族の館。


 その言葉を、そのまま形にしたような屋敷だった。


 馬車が止まる。


 ベルが先に降り、小雪へ手を差し出した。


「足元。」

「はい。」


 小雪は、その手を取った。


 温かい。


 いつも通り。


 けれど、屋敷の前だからか、少しだけ固い。


「緊張していますか。」

「してる。」

「手が固いです。」

「言うな。」

「敬語。」

「言わないでください。」


 小雪が馬車を降りると、玄関前には三人が立っていた。


 一人は、先日山の家を訪れたレオンハルト。


 残る二人は、ベルの父と母だろう。


 父は背が高く、落ち着いた雰囲気の男性だった。

 金色の髪には少し白が混じり、目は息子たちと同じ琥珀色をしている。

 威圧的ではないが、ただ立っているだけで、この屋敷の主だと分かる人だった。


 その隣には、柔らかな雰囲気の美しい女性が立っている。

 淡い金髪を結い、上品な衣装をまとっていた。

 表情は穏やかだが、その目には心配の色が濃い。


 レオンハルトは、ほとんど無表情だった。


 ただし。


 なぜか、すでに少し疲れている。


 小雪は三人を見た。


 ベルの家族。

 ベルの帰る場所。


 父が一歩前へ出て、深く礼をした。


「勇者殿。グランツ公爵家当主、アルフォンス・グランツと申します。このたびは当家までお越しいただき、誠にありがとうございます。」


 母も続いて礼をする。


「妻のエレオノーラでございます。勇者さまにお目にかかれること、誠に光栄に存じます。」


「春野小雪です。」


 小雪は答えた。


「ベルの助手です。」


 その場が、一瞬静かになった。


 ベルが小雪を見る。


「……小雪。」

「はい。」

「逆だ。」

「逆。」

「俺が助手。」

「そうでした。」


 小雪は父母へ向き直った。


「ベルが私の助手です。」


 アルフォンスが一度だけ瞬きをした。


 エレオノーラは口元に手を当てる。


 レオンハルトは、目頭を押さえた。


「まずは中へ。」


 静かな声で言う。


「玄関前で痴話喧嘩を始めるべきではない。」

「痴話喧嘩。」


 エレオノーラが小さく呟いた。


 ベルの肩が跳ねる。


「兄上。」

「何だ。」

「余計なことを言わないでください。」

「玄関前ですべきではないと言っただけだ。」

「それ以降が余計です。」

「事実だろう。」


 小雪は兄弟を見た。


 ベルは家族相手だと三下にならない。

 けれど、焦る。


 そして小雪がいると、かなり変になる。


 分類は難しい。




 応接室は広かった。


 大きな窓、厚い絨毯、磨かれた机、香りのよい茶。

 それから、小雪には用途の分からない装飾品がたくさんある。


 勧められた椅子へ小雪が座ると、ベルはその斜め横へ座った。


 向かいには父と母。

 その少し横には兄。


 完全に面接の配置である。


 小雪はベルを見た。

 ベルも小雪を見る。

 小さく頷く。


 面接練習は完璧だった。

 きっと大丈夫。


 たぶん。


 アルフォンスが穏やかに切り出した。


「まず、勇者殿。愚息が三か月もの間、大変お世話になりました。」


 小雪は首を傾げた。


「いえ。私がお世話されています。」


 まず、ベルが咳き込んだ。


「小雪。」

「はい。」

「それは駄目だ。」

「禁止事項に入っていませんでした。」


 アルフォンスが少し目を見開く。


 エレオノーラも瞬きをした。


「……ヴェルが、お世話を?」

「はい。」


 小雪は頷いた。


「料理、掃除、危険物管理、寝床、水車、順番。」


 ベルが机へ手をついた。


「待て。」

「はい。」

「禁止事項。」

「先ほどの項目は含まれていませんでした。」

「そうだったか?」

「含まれていた類似項目は、髪、筋肉、鈴でした。」

「そこで言うな!」

「敬語。」

「そこで言わないでください!」


 応接室が静かになった。


 エレオノーラが、ゆっくりとベルを見る。


「ヴェル。」

「母上。」

「あの……髪とは。あなた、勇者さまの髪を……?」

「違います。いや、違わないですが、そういう意味ではありません。」


 レオンハルトが即座に言った。


「違わないなら、違わないのだろう。」

「兄上は黙っていてください。」

「今の敬語は正しいが、意味は悪いな。」


 小雪は補足した。


「毎日、髪を拭いてもらっています。とても丁寧です。」

「小雪!」

「梳くのも上手です。綺麗になります。」

「言うな!」

「私も時々、ベルの髪を拭きます。」


 ベルが固まった。


 エレオノーラの目が大きくなる。


 アルフォンスが何か言おうとして、やめた。


 小雪は続けた。


「浴槽で筋肉も見ました。なんかすごかったです。」

「言うなと言ってる!」

「総合的に見て、ベルは良い奥さんになると思います。」


 ベルが噴いた。


 アルフォンスが固まった。


 エレオノーラが扇を落とした。


 レオンハルトは目を閉じた。


「ヴェルヴァルド。」


 兄の声が低い。


「……何ですか。」

「これは、どこから訂正すればいい。」

「俺が聞きたいです。」

「一体、この三日間何をしていた。」

「練習していたんです!」

「まったく成果が出ていないようだが。」

「それは俺が一番分かっています!」


 小雪は首を傾げた。


「たしか、面接練習では良い奥さんは言わないことになっていました。」

「では、なぜ言った。」


 レオンハルトが即座に問う。


「禁止事項を思い出していました。」

「頼むから、それは頭の中だけにしてくれ。」

「しかし、事実なので。」

「事実なのか。」


 レオンハルトがベルを見る。


 ベルは両手で顔を覆った。


「料理も掃除も、家事全般を完璧にこなせます。すでに有能なおかんでもあります。」

「おかん?」


 エレオノーラが呟く。


「そして、鈴への反応も早いです。」


 小雪は袖の中から鈴を出した。


 ちりん。


 ベルが反射的に顔を上げる。


「何だ。」


 応接室の全員が、ベルを見た。


 沈黙。


 長い沈黙。


 エレオノーラが震える声で言った。


「ヴェル?」


 アルフォンスが慎重に尋ねる。


「今、呼ばれたのか?」


 レオンハルトが静かに言った。


「犬のように。」

「違う!」


 ベルが立ち上がった。


「違います!」


 小雪は鈴をしまった。


「犬ではありません。」

「小雪。」

「チワワとは言ってはいけないはずです。」

「なら言うな!」

「では、ベルで来るベルです。」

「うまいこと言った気でごまかすな!」


 エレオノーラは扇を拾いながら、まだ混乱している。


「チワワ……。」

「母上、絶対に違います。」

「でも、反応しているわ。」

「反射です。」

「つまり、反射で来るように……。」

「その先を言わないでください!」


 アルフォンスは額へ手を当てた。


 レオンハルトが淡々と言う。


「父上。まずは王宮からの書状を思い出してください。」

「そ、そうだな。」

「勇者殿を刺激しないよう、何卒穏便に、と。」

「そうだった。その通りだ。」

「そして現在、刺激されているのはヴェルヴァルドだけです。ご安心ください。」

「兄上!」

「事実だろう。」


 小雪は頷いた。


「はい。ベルはよく刺激されます。」

「小雪!」

「初心なハートが。」

「言うな!」

「頻繁に瀕死に。」

「それ以上言うな!」


 エレオノーラが胸を押さえた。


「初心な……?」


 アルフォンスが咳払いをした。


「その話は、いったん置こう。」

「はい。置きましょう。」


 レオンハルトが即座に同意した。


 ベルが疲れた声で言う。


「置けるんですか。」

「置くしかない。」


 兄は冷静だった。


 面接は、仕切り直された。


 アルフォンスは茶を一口飲み、気を取り直したように咳払いをする。


「勇者殿。ヴェルヴァルドは、あなたの研究に役立っているのでしょうか。」


 今度こそ。


 ベルが小雪を見る。

 小雪もベルを見る。


 何度も練習した。


 これは覚えている。


「はい。」


 小雪は頷いた。


「魔法以外の技術に詳しく、実務能力が高く、研究に大きく貢献しています。」


 ベルは、ここへ来て初めてほっとした顔をした。


 アルフォンスも深く頷く。


「それは何よりです。」


 エレオノーラも安心したように微笑んだ。


 小雪は続ける。


「ときどき乙女ですが、それも生活文明に貢献していると思います。」


 ベルが机へ額を打ちかけた。


「小雪! やめろ!」

「では、詳細は差し控えます。」

「差し控えられてねぇ!」

「髪と筋肉は、今は言っていません。」

「それはさっき言った!」

「今は言っていません。」

「そういう問題じゃねぇ!」

「敬語。」

「そういう問題ではありません!」


 レオンハルトが静かに言う。


「ヴェルヴァルド。勇者殿はどうやら、言うべき回答と言ってはならない回答を交互に出しているようだ。」

「冷静に分析しないでください。」

「事実だ。」

「兄上!」


 小雪は少し感心した。


「兄上は分析が上手ですね。」

「ありがとうございます。」


 レオンハルトは普通に礼を言った。


 ベルが兄を睨む。


「礼を言わないでください。」

「褒められたので。」

「小雪みたいな返しをするな。」

「うつったのかもしれない。」

「やめてください。」


 アルフォンスは二人の息子を見比べていた。


 エレオノーラも、じっとベルを見ている。


 ベルは兄に噛みついている。


 ただし、昔のような拗ねた言い返しではないらしい。


 必死で。

 騒がしくて。


 どこか、生き生きしている。


 エレオノーラが小さく呟いた。


「ヴェル。元気そうね。」


 ベルの動きが止まった。


「母上。」

「三か月、心配していたのよ。」

「……すみません。」


 ベルは素直に頭を下げた。


 小雪は、それを見た。


 家族相手のベル。


 三下ではない。

 乙女でもない。


 ただ、心配される息子。


 小雪とは違う。


 帰る場所のある人。


 その事実は、まだ少しだけ胸に重い。


 けれど今日は、ベルが隣にいる。


 小雪を連れてきた。


 置いていかなかった。


 だから、まだ大丈夫だった。


 エレオノーラが少し身を乗り出した。


「勇者さま。」

「はい。」

「ヴェルは、その……ご迷惑をおかけしていませんか。」

「迷惑。」


 小雪は考えた。


 ベルは怒る。

 赤くなる。

 面接訓練をする。

 鈴を確認で鳴らすなと言う。

 危険物を取り上げる。

 床で寝ると怒る。

 髪を濡らすと怒る。


「困ることはあります。」


 ベルが固まった。


 エレオノーラも息を呑む。


「小雪。」

「はい。」

「何を言う気だ。」

「事実です。」

「やめろ。」


 小雪は、少し考えた。


「でも、悪くないです。」


 ベルが黙った。


 小雪は続ける。


「すぐ怒ります。すぐ赤くなります。敬語が変です。初心なハートは乙女で、瀕死になりやすいです。」

「小雪!」

「でも、ごはんがおいしいです。髪を丁寧に拭きます。手が温かいです。水車を作れます。順番を考えられます。」


 応接室が静かになった。


「私が転びそうになると、支えます。」


 小雪はベルを見た。


「困る時もあります。でも、それも悪くないです。」


 ベルは完全に止まっていた。


 エレオノーラは両手で口元を押さえている。


 アルフォンスは、まばたきを忘れている。


 レオンハルトが、ゆっくりと息を吐いた。


「……これは。」

「兄上。」

「夫婦漫才か。」

「違います!」

「夫婦ではありません。」


 小雪は即座に訂正した。


「ベルは助手です。」

「その説明で押し切るには、今の発言は濃すぎたな。」


 レオンハルトの指摘は冷静だった。


 ベルは机へ突っ伏した。


「三日間、練習したはずなんだが……。」

「練習したのに、なぜこうなる。」

「俺が知りたい。なぜか禁止事項をほぼ全部踏んでいる。」


 小雪は少しだけ申し訳ないと思った。


 しかし、直前に何度も口にしたことは、むしろ口から出やすくなるのではないだろうか。


 たぶん、小雪はそれほど悪くない。


 たぶん。


「面接は難しいです。」

「難しいのは面接ではない。」


 レオンハルトが言った。


「恐らく、あなた方の関係性だろう。」


 小雪は瞬きをした。


 ベルは突っ伏したまま、耳まで赤くなった。


 昼食が運ばれてきた。


 豪華だった。

 焼き菓子もある。

 ベルが昔から好きだったものらしい。


 エレオノーラが、少し嬉しそうに言った。


「ヴェル。これ、昔好きだったでしょう。」

「覚えています。」

「今も好き?」

「好きです。」


 ベルは素直に答えた。


 小雪は、その横顔を見る。


 ベルは家族の前では、少し幼く見える。


 良いこと。


 きっと、良いこと。


 小雪が皿の上の焼き菓子を見ていると、ベルが一つ取って、小雪の皿へ置いた。


「食べてみろ。」

「はい。」

「甘いから、少しずつな。」

「はい。」

「口の端につけるなよ。」

「子どもではありません。」

「前につけてた。」

「実績。」

「そうだ。」


 ベルは、当然のように布まで手元へ置いた。


 父、母、兄が、一斉にベルを見る。


 ベルはその視線に気づいた。


「……何ですか。」


 アルフォンスが慎重に言う。


「ヴェルヴァルド。」

「はい。」

「ずいぶん、自然に世話を焼くのだな。」


 ベルが固まった。


 エレオノーラの目が潤んでいる。


「あなたが……誰かのお世話を、そんなに甲斐甲斐しく……。」

「母上、そこで泣かないでください。」

「だって。」

「まったく泣くところではありません。」


 レオンハルトが焼き菓子を眺めながら言った。


「昔は、自分の皿を守る方だった。」

「兄上。」

「取られまいとして、私の手を叩いた。」

「何年前の話ですか。」

「十五年ほど前だな。しかし今は、自分から勇者殿の皿へ置いている。」

「観察しないでください。」

「観察せざるを得ない。」


 小雪は焼き菓子を食べた。


 甘い。


「おいしいです。」


 ベルが少しだけ安心した顔をする。


「そうか。」

「はい。」

「よかった。」


 エレオノーラが胸を押さえた。


「ヴェルが……よかったって……。」

「母上。」


 ベルは疲れた声を出した。


「私は、そんなに冷たい人間だと思われていたんですか。」

「違うの。ただ、こんなに柔らかい顔をするなんて。」


 ベルは何も言えなくなった。


 小雪はベルを見る。


「柔らかい顔。」

「見るな。」

「よい顔です。」


 ベルが焼き菓子を落とした。


 レオンハルトが即座に拾う。


「今のは勇者殿が悪い。」

「兄上まで。」

「不意打ちすぎる。」

「小雪!」

「はい。」

「家族の前で、そういうことを言うな。」

「面接練習では、禁止事項に入っていませんでした。」

「入れ忘れた!」


 アルフォンスは深く息を吐いた。


 それから、エレオノーラとレオンハルトを見る。


 三人の間で、何かが共有された。


 小雪にも少し分かった。


 混乱。

 困惑。

 心配。

 安堵。

 諦め。


 最後に。


 まあ、いいか。


 アルフォンスは小さく頷いた。


「ヴェルヴァルド。」

「はい。」

「おまえが元気そうで、少し安心した。」


 ベルの動きが止まる。


「……はい。」

「勇者殿も、悪い方ではなさそうだ。」

「悪くありません。」


 小雪は答えた。


 レオンハルトがすぐに言う。


「勇者殿。ここは自分で言うところではないと思います。」

「そうですか。」

「そうです。」

「兄上はツッコミ担当ですか。」

「恐縮です。」


 ベルが兄を見る。


「受け入れないでください。」

「必要だろう。」

「否定できないのが非常に悔しいです。」


 エレオノーラが小さく笑った。


 アルフォンスも、少しだけ笑う。


「王宮からも、勇者殿を刺激しないよう何卒穏便に、と何度も念を押されているしな。」

「陛下が。」


 小雪は頷いた。


「王様は心配性です。」

「恐らく、勇者殿に関しては心配性で済む問題ではないと思います。」


 レオンハルトが言う。


 ベルも頷いた。


「爆発しますから。」

「ベル。」

「事実だろ。」

「敬語。」

「事実でしょう。」

「変です。」

「今それを直すな。」


 アルフォンスは、また額へ手を当てた。


「まあ……よい。」


 エレオノーラも頷く。


「ええ。よいことにしましょう。」


 レオンハルトも、少し遠い目で頷いた。


「元気そうです。楽しそうです。勇者殿に悪意はなさそうです。王宮からも刺激するなと言われています。」

「兄上。」

「総合的に、よいことにするのが最も安全だ。」

「安全基準なんですか。」

「この場では。」


 小雪は首を傾げた。


「安全。」

「はい。」


 レオンハルトは真顔で言った。


「少なくとも、赤い粉と黒い粉よりは安全です。」

「覚えてたのか。」

「先日見た。」

「忘れてください。」

「努力する。」


 小雪は少しだけ笑った。


 グランツ家の面接は、たぶん失敗した。

 三日間の練習は、ほとんど役に立たなかった。


 ベルの家族は混乱している。

 かなり混乱している。


 だが、怒ってはいない。


 そして、ベルを見る目は優しい。


 ベルはこの家で心配されている。

 小雪も、追い出されてはいない。


 それは、悪くない。


 帰り際、エレオノーラは小雪へ包みを渡した。


「焼き菓子です。よろしければ、お持ちください。」

「ありがとうございます。」

「ヴェルが好きだったものです。」

「ベルが好き。」

「はい。」

「では、大事に食べます。」


 エレオノーラは、少しだけ目を細めた。


「どうぞ、ヴェルのことをよろしくお願いいたします。」


 ベルがぎょっとした。


「母上。」

「何かおかしいかしら。」

「言い方が。」

「普通でしょう。」

「普通ではありません。」


 小雪は包みを持ったまま頷いた。


「こちらこそ、ベルをお借りしています。」


 レオンハルトが即座に言う。


「先日、ベルはベルであり、借りるものではないとおっしゃっていました。」

「そうでした。」

「小雪。」

「はい。」

「兄上は細かい。」

「正確と言ってほしい。」

「細かいです。」

「正確です。」


 小雪は少し考えた。


「では、ベルには来てもらっています。」


 エレオノーラが微笑んだ。


「ええ。」


 アルフォンスも頷く。


「ヴェルヴァルド。」

「はい。」

「おまえが決めたことなら、しばらく続けてみなさい。ただし、今後は報告をすること。」

「……はい。」

「困った時は戻ってこい。」

「はい。」

「勇者殿を困らせすぎるな。」


 ベルは小雪を見る。


 小雪もベルを見る。


「どちらかというと、私が困らせています。」

「でしょうね。」


 レオンハルトが即答した。


「兄上!」

「今日一日で十分に分かった。」

「否定できない。」

「しない方がいい。」


 アルフォンスは疲れたように笑った。


「とにかく、元気で。」

「はい。」


 ベルは少しだけ頭を下げた。


 その顔は、三下でも乙女でもない。


 息子の顔だった。


 小雪は、それを見ていた。


 ベルには帰る場所がある。


 けれど今日は。


 一緒に帰る。


 山の家へ。


 それは、悪くない。


 とても、悪くない。


 帰りの馬車で、ベルは燃え尽きていた。


 座席へ深く沈み込み、両手で顔を覆っている。


「終わった……。」

「面接ですか。」

「俺が。」

「初心なハートが。」

「もう灰だ。」

「補填しますか。」

「やめろ。」

「敬語。」

「やめてください。」


 小雪は焼き菓子の包みを膝へ置いた。


「ベル。」

「何でしょうか。」

「面接は失敗ですか。」

「大失敗だ。」

「そうですか。」

「馬車では完璧だったのに……。」

「本番は難しいです。」

「難しすぎる。」

「でも。」

「でも?」

「ご家族は、ベルを心配していました。」

「……ああ。」

「ベルは元気そうだと言われました。」

「そうだな。」

「続けてよいとも言われました。」

「しばらくな。」

「では、悪くないと思います。」


 ベルは顔から手を離した。


 小雪を見る。


「……悪くないか。」

「はい。」

「そうか。」

「はい。」


 少しだけ静かになった。


 馬車が揺れる。


 小雪は袖の中の鈴へ触れた。


 鳴らさない。


 今は、ベルが目の前にいる。


「ベル。」

「何でしょうか。」

「今日は、ベルのご家族に会えてよかったです。」


 ベルは完全に止まった。


「……そういうのを。」

「はい。」

「最後に急に言うな。」

「面接練習にはありませんでした。」

「だろうな。」

「悪かったですか。」

「悪くねぇ。」

「敬語。」

「悪くありません。」


 ベルは顔を赤くして、窓の外を見た。


「俺も。」

「はい。」

「連れてきて、よかった。」


 小雪は焼き菓子の包みを抱え直した。


 胸の奥が、少し温かい。

 これは、分類してはいけないものかもしれない。


 けれど。

 今日だけは。


 小雪は小さく頷いた。


「はい。」


 馬車は、山の家へ戻っていく。


 ベルの帰る場所から。

 小雪とベルのいる家へ。


 その呼び方も、まだ書けない。


 ただ、今は。


 焼き菓子の包みが膝の上にある。

 鈴が袖の中にある。


 ベルが目の前にいる。


 それだけで、悪くないと。


 本当に、そう思えた。

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