第十七話 三下くん、勇者さまの顔見せに備える
翌朝、ベルは静かだった。
静かすぎた。
小雪は食卓の前で、スープの入った皿を見下ろしていた。
いつもなら、ベルは朝から何かしら怒っている。
顔を洗え。
髪を梳け。
床でまた寝ようとするな。
赤い粉を朝食の横に置くな。
スープをこぼすな。
鈴を確認で鳴らすな。
寝癖を魔法で吹き飛ばすな。
だいたい、何かを言っている。
だが、今日は静かだった。
ベルは椅子に座り、腕を組んだまま皿の前で黙っている。
スープは冷めていく。
これはよくない。
小雪はスプーンを持ったまま、ベルを見た。
「ベル。」
「……。」
「ベル。」
「……何でしょうか。」
「スープが冷めます。」
「……そうだな。」
「食べないのですか。」
「食べる。」
ベルはスプーンを持った。
だが、食べない。
小雪は首を傾げた。
「体調不良ですか。」
「違う。」
「背中が痛いですか。」
「違う。」
「初心なハートが瀕死ですか。」
「朝から殺すな。」
「敬語。」
「朝から殺さないでください。」
「殺していません。」
「そうだな。」
ベルはまた黙った。
小雪はスープを一口飲む。
今日も、とてもおいしい。
しかし、ベルが静かすぎる。
昨日の兄上事案のせいだろうか。
もしかすると、これは異常事態なのかもしれない。
小雪は袖の中の鈴へ触れた。
鳴らすか。
目の前にいるが、緊急確認が必要かもしれない。
ちりん。
小さく鳴る。
ベルが反射的に顔を上げた。
「何だ。」
「反応しました。」
「確認で鳴らすな。」
「緊急確認です。」
「混ぜるな。」
「敬語。」
「混ぜないでください。」
ベルは額を押さえた。
少しだけ、いつものベルに戻った。
小雪は安心した。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「何を考えていますか。」
ベルの手が止まった。
琥珀色の目が、少しだけ泳ぐ。
「……昨日のことだ。」
「兄上。」
「ああ。」
「三日後、帰る件ですか。」
「そうだ。」
ベルは深刻な顔をした。
小雪は静かに待った。
ベルには帰る場所がある。
昨日、そのことを知った。
父と母がいて、兄がいて、心配している人がいる。
好物の焼き菓子を用意して、待っている人がいる。
それはよいこと。
よいことのはずだ。
小雪は昨日から、何度もそう考えた。
そう整理した。
ベルはスプーンを置くと、低い声で言った。
「一度、家に戻って説明しろ、と。」
「はい。」
「父上と母上に、自分の口で。」
「はい。」
「兄上は、たしかにそう言った。」
「はい。」
「つまり。」
ベルが顔を上げた。
目が真剣だった。
小雪も少し姿勢を正す。
ベルは、こほん、と咳払いした。
「これは、家族への顔見せでは?」
小雪は瞬きをした。
一回。
二回。
三回。
「顔。」
「そうだ。」
「見せるのですか。」
「違う。いや、違わねぇけど、そうじゃない。」
「顔は毎日見ています。」
「そういう意味じゃねぇ。」
「では、どの顔ですか。」
「関係性の顔だ!」
ベルは立ち上がった。
椅子が少し鳴る。
先ほどまでの静けさは消えていた。
小雪はスープの皿を持ったまま、ベルを見上げる。
「関係性の顔。」
「そうだ。」
「難しいですね。」
「難しいんだよ!」
「敬語。」
「難しいのです!」
「変です。」
「知ってる!」
ベルは食卓の周りを歩き始めた。
「三か月だ。」
「はい。」
「俺はここに三か月住んでる。」
「はい。」
「飯を作ってる。」
「はい。おいしいです。」
「髪も拭いてる。」
「はい。髪文明です。」
「湯も沸かしてる。」
「はい。湯浴み制度です。」
「寝床も用意した。」
「はい。床は床になりました。」
「鈴を鳴らせば来る。」
「はい。便利です。」
「村では夫婦って言われた。」
「はい。違います。」
「違う。いや、違うんだが。」
ベルは両手で頭を抱えた。
「外から見ると、どう見えると思う?」
「助手です。」
「そうか?」
「研究補佐官です。」
「そうか?」
「生活文明総合担当です。」
「家政夫じゃねぇか!」
「おかん。」
「それも違う!」
「チワワ。」
「絶対違う!」
「敬語。」
「絶対違います!」
ベルは食卓に両手をついた。
顔は赤い。
だが、目は真剣だった。
真剣に錯乱している。
「小雪。」
「はい。」
「俺たちって、どういう関係なんだっけ?」
小雪は、暫し考えた。
関係。
ベルは助手。
研究補佐官。
生活文明総合担当。
髪文明担当。
鈴で来る人間。
水車文明担当。
料理担当。
順番担当。
焦げ飴の目。
手が温かい。
からかうと赤くなる。
たまに格好いい。
帰る場所がある人。
項目が多すぎる。
「分類中です。」
「分類するな。」
「では、助手です。」
「戻るな。」
「研究補佐官。」
「役職から離れろ。」
「ベルです。」
「名前!」
「有能です。」
ベルが少し止まった。
「……それは、まあ、悪くねぇ。」
「では、有能です。」
「関係性じゃねぇ。」
「難しいですね。」
「難しいんだよ。」
「敬語。」
「難しいのです。」
「変です。」
「もういい。」
ベルは椅子へ座り直した。
そして、真剣な顔で小雪を見る。
「面接訓練をする。」
「面接。」
「そうだ。」
「何の。」
「父上と母上に会う時のだ。」
「私は会うのですか。」
「当たり前だろ。」
小雪はスプーンを止めた。
「当たり前。」
「ああ。」
「私も行くのですか。」
「行く。」
「なぜですか。」
「なぜって……。」
ベルは言葉に詰まった。
それから、少し顔を赤くして言う。
「俺が何をしてるのか説明するんだぞ。誰といて、何を作って、これから何をしたいのか。」
「私は、説明対象ですか。」
「そうだ。」
「兄上は、私も来ると言っていませんでした。」
「兄上は言ってねぇが、俺が連れていく。」
ベルは当然のように言った。
小雪は瞬きをした。
「置いていかないのですか。」
ベルの表情が変わった。
先ほどまでの乙女の暴走が、少しだけ止まる。
「置いていく?」
「はい。」
「何でだよ。」
「ベルは家に戻るので。」
「一度だ。」
「はい。」
「それに、おまえを置いて行ったら、三日で床に戻るだろ。」
「床。」
「飯も抜く。」
「可能性があります。」
「髪も濡れたままにする。」
「可能性があります。」
「赤い粉と黒い粉を近づける。」
「善処します。」
「信用ならねぇ。」
ベルは腕を組んだ。
「一人にしておいたら、帰ってくる頃には家と俺の三か月が消し炭になってる未来が見える。だから、おまえも来る。」
「そうですか。」
小雪は皿の中のスープを見た。
温かい。
ベルが作ったスープ。
置いていかない。
ベルは、自分を家族に説明しようとしている。
なぜそれが面接になるのか。
なぜ顔見せになるのか。
関係性の顔とは何なのか。
小雪にはよく分からない。
だが。
悪くない。
「嫌か?」
ベルが、少しだけ不安そうに聞いた。
小雪は顔を上げる。
「嫌ではありません。」
ベルが止まった。
「悪くないです。」
さらに止まった。
琥珀色の目が大きくなり、耳が赤くなる。
口を開き、閉じ、また開いた。
「……そういうのを。」
「はい。」
「不意打ちで言うな。」
「面接訓練ですか。」
「何の面接だよ!」
「敬語。」
「何の面接ですか!」
「変です。」
「知ってる!」
ベルは顔を覆った。
小雪はスープを飲んだ。
少し冷めていた。
それでも、おいしい。
朝食後、面接訓練が始まった。
ベルは作業台を片付け、紙とペンを置いた。
水車の図面の横に、なぜか「想定問答」と書かれた紙が貼られる。
小雪は椅子に座り、ベルはその前へ立った。
「いいか。」
「はい。」
「父上と母上は、おまえに失礼なことは言わねぇ。」
「はい。」
「だが、たぶん聞かれる。」
「何を。」
「俺と、どういう関係なのか。」
「助手です。」
「早い。」
「駄目ですか。」
「駄目じゃねぇが、もう少し温度を足せ。」
「温度。」
「そうだ。」
「温めますか。」
「物理じゃねぇ。」
「敬語。」
「物理ではありません。」
小雪は、暫し考えた。
「温かい助手。」
「変だ。」
「有能な助手。」
「俺が言わせてるみたいだろ。」
「有用な助手。」
「道具感が強い。」
「生活文明総合担当。」
「家政夫だ。」
「良い奥さん。」
ベルが噴いた。
「それは絶対に言うな!」
「なぜですか。」
「父上が固まる。母上が誤解する。兄上が目頭を押さえる。」
「兄上は目頭を押さえがちですか。」
「たぶん押さえる。」
「記録します。」
「するな!」
「敬語。」
「しないでください!」
小雪はペンを置いた。
ベルは深呼吸をする。
「次だ。」
「はい。」
「母上に、『ヴェルヴァルドは役に立っていますか』と聞かれたら。」
「はい。非常に。」
ベルが止まった。
「……非常に。」
「はい。」
「それは、まあ、いい。」
「料理が上手です。」
「それも、まあ、いい。」
「髪を拭きます。」
「それは言うな。」
「湯を沸かします。」
「それも言うな。」
「床を床にしました。」
「事情を知らないと怖い。」
「危険物を分類します。」
「それは言ってもいいかもしれねぇが、中身は言うな。」
「赤い粉。」
「言うな。」
「黒い粉。」
「言うな。」
「紫の粉は綺麗です。」
「絶対言うな。」
「敬語。」
「絶対言わないでください。」
小雪は頷いた。
ベルは紙へ線を引く。
「次。父上に、『なぜヴェルヴァルドを必要としているのですか』と聞かれたら。」
「必要だからです。」
「答えになってねぇ。」
「ベルがいないと困ります。」
ベルの手が止まった。
小雪は続ける。
「食事が出ません。」
「それは最初に言うな。」
「髪が濡れます。」
「それも違う。」
「床で寝る可能性があります。」
「俺が完全に保護者だな。」
「水車も止まります。」
「それはいい。」
「順番が分からなくなります。」
「……それも、まあ。」
「鈴を鳴らしても、来ません。」
ベルは黙った。
小雪は首を傾げる。
「駄目ですか。」
「……駄目じゃねぇ。」
「では。」
「でも、それは。」
「はい。」
「ちょっと、くる。」
「初心なハートに。」
「言うな。」
「瀕死ですか。」
「言うな。」
「敬語。」
「言わないでください。」
ベルは顔を赤くして、視線を逸らした。
「必要性を説明するなら、水車と研究を中心にしろ。」
「はい。」
「生活面は控えめに。」
「なぜですか。」
「俺が死ぬ。」
「初心なハートが。」
「そうだよ!」
「認めましたね。」
「もういい。」
小雪は少しだけ口元を緩めた。
ベルはそれを見て、さらに赤くなる。
「笑うな。」
「駄目ですか。」
「駄目じゃねぇ。」
「では。」
「でも今はやめろ。」
「なぜですか。」
「面接訓練が進まねぇ。」
「ベルが止まるので。」
「おまえが止めてんだよ!」
「敬語。」
「あなたが止めています!」
「変です。」
「知ってる!」
面接訓練は続いた。
想定問答は、どんどん増えていく。
父上に聞かれた場合。
母上に聞かれた場合。
兄上に補足された場合。
使用禁止語句。
説明してよいこと。
説明してはいけないこと。
質問がよく分からなかった場合の対応。
小雪は途中で眠くなった。
「寝るな。」
「はい。」
「返事が眠い。」
「面接は眠いです。」
「本番で寝るなよ。」
「善処します。」
「信用ならねぇ。」
ベルは紙を一枚めくった。
「次。母上に、『ヴェルヴァルドのどこが良いのですか』と聞かれたら。」
小雪は瞬きをした。
「良いところ。」
「そうだ。」
「ベルの。」
「……そうだ。」
なぜか、ベルは自分で言って赤くなっている。
小雪は、暫し考えた。
「手。」
ベルが紙を落とした。
「手!?」
「はい。」
「何で手!?」
「温かいです。」
ベルは完全に停止した。
小雪は続ける。
「釘を打てます。髪を拭けます。水車を作れます。転びそうになった時、支えます。」
「……。」
「ごはんを作ります。」
「手から離れたな。」
「全部、手を使います。」
「……そうだけど。」
「手は有能です。」
ベルは顔を覆った。
「それは言っていい。いや、よくない。いや、母上なら喜ぶ。だが、俺が死ぬ。」
「混乱していますか。」
「してる。」
「敬語。」
「しています。」
「そうですか。」
「おまえが言うからだ。」
「面接訓練です。」
「こんなに殺傷力の高い訓練があるか。」
「殺傷力。」
「俺への。」
「初心なハート。」
「……もう心臓ごと吹き飛んでる。」
「補填しますか。」
「やめろ。」
「敬語。」
「やめてください。」
ベルはしばらく机へ突っ伏した。
小雪は、その頭を見る。
金色の髪が少し乱れている。
綺麗な髪。
前に拭いた髪。
小雪は手を伸ばしかけて、止めた。
今触れると、ベルがさらに止まるかもしれない。
面接訓練が進まない。
文明は大変である。
恋愛らしきものも。
たぶん、大変である。
「次。」
ベルが復活した。
早い。
「母上に、『ヴェルヴァルドと一緒にいて困ることはありませんか』と聞かれたら。」
「あります。」
ベルが固まった。
「あるのか。」
「はい。」
「何が。」
「すぐ赤くなります。」
「言うな。」
「すぐ怒ります。」
「それは事実だが、言うな。」
「時々、敬語が変です。」
「おまえが直させるからだろ。」
「初心なハートが瀕死になりやすいです。」
「絶対言うな。」
「でも、面白いです。」
ベルは黙った。
小雪は少し考えてから、続けた。
「困る時もありますが、それも悪くないです。」
ベルは机に手をついたまま、動かなくなった。
「……悪くない。」
「はい。」
「そうか。」
「はい。」
「困るけど、悪くない。」
「はい。」
「……それは。」
「はい。」
「非常に、くる。」
「初心なハートに。」
「分かってるなら言うな。」
「面接訓練です。」
「面接訓練を盾にするな。」
小雪は少し笑った。
ベルは机へ顔を伏せた。
「駄目だ。」
「何がですか。」
「俺がもたねぇ。」
「休憩しますか。」
「する。」
「お茶を入れますか。」
「俺がやる。」
「私が。」
「やめろ。茶葉が死ぬ。」
「茶葉が。」
「茶葉が。」
「敬語。」
「茶葉です。」
「合っています。」
「合ってねぇよ。」
ベルは立ち上がり、台所へ向かった。
小雪はその背中を見た。
朝の重さは、少し薄くなっていた。
ベルは家へ帰る。
けれど、自分を置いていくつもりではない。
自分を連れていく。
家族に、この生活を説明しようとしている。
研究を。
水車を。
小雪を。
その展開は、よく分からない。
面接訓練も、よく分からない。
だが。
悪くない。
昼食後、今度は服装確認が始まった。
「その服で行くな。」
「なぜですか。」
「焦げ跡がある。」
「復元します。」
「細かいものは難しいんだろ。」
「……忘れていました。」
「忘れるな。」
「敬語。」
「忘れないでください。」
ベルは小雪の服を何着か並べた。
以前、村で買った布の服。
動きやすい服。
少しきれいな服。
そして、なぜか一着だけ、ベルが買った覚えのない白い外套。
「これは?」
「王都から支給されたものです。」
「何で出してなかった。」
「しまっていました。」
「どこに。」
「危険物ではない箱。」
「分類が雑だ。」
「しかし、これは危険ではありません。」
「そういう問題じゃねぇ。」
「敬語。」
「そういう問題ではありません。」
ベルは白い外套を広げた。
小雪の白い髪。
白い外套。
小雪は、ただそこに立っている。
ベルが固まった。
「ベル。」
「……。」
「ベル。」
「……似合う。」
「そうですか。」
「ああ。」
「では、これで行きます。」
「待て。」
「なぜですか。」
「心の準備が。」
「ベルの。」
「俺の。」
「必要ですか。」
「必要だ。」
「面接訓練ですか。」
「俺の訓練だ。」
「初心なハート。」
「今は本当にやめろ。」
ベルは白い外套を、小雪の肩へ掛けた。
指先が、髪に触れる。
小雪は少しだけ動きを止めた。
触れたところが温かい。
ベルも気づいたのか、すぐに手を引っ込める。
「……悪い。」
「なぜ謝るのですか。」
「いや。」
「嫌ではありません。」
ベルは外套を落としかけた。
「不意打ち。」
「はい。」
「今のは不意打ちだ。」
「面接訓練です。」
「もう何でも面接訓練にするな。」
「便利です。」
「便利に使うな。」
小雪は外套の裾を見た。
汚れていない。
焦げてもいない。
少し、落ち着かない。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「変ではありませんか。」
「変じゃねぇ。」
「敬語。」
「変ではありません。」
「そうですか。」
ベルは少し黙った。
「……綺麗だ。」
小雪は瞬きをした。
ベルは、自分で言って顔を赤くする。
「今のは。」
「はい。」
「服の話だ。」
「私ではなく。」
ベルは黙った。
「ベル。」
「……両方だよ。」
ベルは顔を背けた。
小雪は外套の裾を握った。
胸の奥が、また温かい。
これは湯ではない。
手でもない。
たぶん。
ベルの言葉である。
小雪はそれを、まだ分類しない。
ただ。
悪くないと思った。
「ありがとうございます。」
「……どういたしまして。」
ベルは小さく答えた。
そして、はっとしたように顔を上げる。
「違う。今の空気は危険だ。面接訓練に戻る。」
「危険。」
「危険だ。」
「光る粉より。」
「ある意味な。」
「ベルの初心なハートが。」
「そうだよ!」
「また認めましたね。」
「もう認める!」
ベルは紙を持ち直した。
「次。禁止事項。」
「はい。」
「赤い粉を持っていかない。」
「はい。」
「黒い粉も。」
「はい。」
「紫の粉も。」
「はい。」
「光る粉も。」
「綺麗です。」
「持っていかない。」
「はい。」
「鈴は持て。」
小雪は顔を上げた。
「鈴は、持っていいのですか。」
「持て。」
「なぜですか。」
「知らねぇ場所で困ったら鳴らせ。」
「ベルが来ますか。」
「来る。」
「実家でも。」
「来る。」
「ご家族の前でも。」
ベルは少しだけ黙った。
「……来る。」
顔が少し赤い。
「ただし、確認で鳴らすな。」
「はい。」
「暇だからと鳴らすな。」
「はい。」
「俺が本当に犬だと思われる。」
「違いますか。」
「違う。」
「チワワ。」
「違う!」
「敬語。」
「違います!」
小雪は袖の中の鈴へ触れた。
持っていく。
ベルの帰る場所へ。
知らない家で困ったら、鳴らしてよい。
ベルは来る。
小雪は、それを少し嬉しいと思った。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「鈴を持っていけるのは、悪くないです。」
ベルは紙を見つめたまま、動かなくなった。
「……そうか。」
「はい。」
「なら、持っていけ。」
「はい。」
「ただし、本当に確認で鳴らすなよ。」
「善処します。」
「信用ならねぇ。」
小雪は少しだけ笑った。
その夜。
小雪は作業台の横へ、新しい紙を貼った。
実家訪問準備。
一、三日後、グランツ家へ行く。
二、ベルも行く。
三、小雪も行く。
四、面接訓練、難しい。
五、父上、母上、兄上。
六、ベルの説明、要検討。
七、赤い粉、黒い粉、紫の粉、光る粉は禁止。
八、鈴は持つ。
九、ベルは来る。
十、外套は変ではない。
小雪はそこでペンを止めた。
十一。
ベルは、置いていかない。
そう書きかけて、やめた。
書くと、少し重くなる気がした。
分類すれば、そこに置いてしまう。
だから、書かない。
小雪はペンを置いた。
すると、背後からベルの声がした。
「何書いた。」
「実家訪問準備です。」
「見せろ。」
「はい。」
ベルは紙を読んだ。
九で止まる。
ベルは来る。
小雪はベルを見た。
「駄目ですか。」
「……駄目じゃねぇ。」
「では。」
「いや。」
「はい。」
「来る。」
ベルは小さく言った。
「鳴らしたら、来る。」
「はい。」
「だから、知らねぇ場所で困ったら鳴らせ。」
「はい。」
「でも、確認で鳴らすな。」
「はい。」
「……たまになら、いい。」
小雪は瞬きをした。
「たまに。」
「本当に、たまにだ。」
「確認で。」
「……たまにだ。」
「はい。」
小雪は鈴へ触れた。
鳴らさない。
今は、鳴らさなくてもベルがいる。
小雪は少しだけ口元を緩めた。
ベルはそれを見て、顔を赤くする。
「……その笑い方も、実家では控えめにしろ。」
「なぜですか。」
「俺が死ぬ。」
「初心なハートが。」
「そうだよ。」
「補填しますか。」
「やめろ。」
「敬語。」
「やめてください。」
小雪は頷いた。
「善処します。」
「信用ならねぇ。」
ベルはそう言って、少し笑った。
その笑顔は、昨日より軽かった。
小雪は、それを見て安心した。
やはり、書かない。
ベルが置いていかないことも。
自分が安心したことも。
まだ、書かない。
ただ、三日後。
小雪は、ベルの帰る場所へ行く。
ベルが、自分を連れていく。
それは、よく分からないけれど。
悪くない。
とても、悪くない。




