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第十六話 兄上が来た

 川から戻る途中まで、ベルは機嫌がよかった。


 水車は回った。流されなかった。ふいごも動いた。村人に褒められ、ロイも笑っていた。


 ベルは、少しだけ誇らしそうだった。


 だが、今は違う。


 ベルは木材を抱えたまま、目の前に立つ青年を見ていた。

 顔から、さっきまでの赤みが消えている。


「ベル。」


 小雪が呼ぶと、少し遅れて返事があった。


「……ああ。」

「知っている方ですか。」

「知ってる。」


 ベルは抱えていた木材を地面へ下ろした。


 いつもなら、もう少し乱暴に置く。

 今は、音を立てないように静かに置いた。


 目の前の青年は、いかにも名門貴族の人間らしい姿をしていた。


 ベルより少し年上で、背が高い。

 上等な服には皺一つなく、姿勢も美しい。

 動作には無駄がなく、穏やかに見える視線の奥にも隙がなかった。


 同じ金髪でも、ベルとは違う。


 ベルの金髪は、怒ると犬の毛のように跳ねる。

 濡れると額へ張りつき、照れると本人の手でぐしゃぐしゃにされる。


 青年の髪は、最初から最後まで正しく整えられていた。


 目の色はベルとよく似た琥珀色だったが、焦げ飴ではない。透明で、静かで、よく磨かれた琥珀。


 青年は小雪へ向かい、深く礼をした。


「拙弟がご迷惑をお掛けしております。」


 声まで整っていた。


 小雪は瞬きをした。


「はい。」


 ベルが一歩前へ出た。


「兄上。」


 青年はベルを見る。


「ヴェルヴァルド。」


 それだけだった。


 叱責ではない。嘲笑でも、見下しでもない。


 ただ、名前を呼んだ。


 それなのに、ベルの肩はほんの少しだけ強張った。


 小雪は、その顔を見た。


 三下ではない。


 怒っていない。照れてもいない。噛みつこうともしていない。


 鈴を鳴らせば来る時の顔でもない。


 小雪の知らないベルだった。


 青年は改めて小雪へ向き直った。


「私はレオンハルト・グランツと申します。ヴェルヴァルドの兄です。」

「春野小雪です。」

「存じております。魔王討伐の勇者殿。我が国を救っていただいたこと、グランツ家の者としても心より感謝しております。」


 礼は完璧だった。


 言葉も丁寧で、隙がない。


 けれど、その目は小雪をまっすぐ見ていた。


 勇者を見る目というより、弟の近くにいる人間を確かめる目だった。


 ベルが静かに言う。


「兄上。どうしてここに。」

「三か月だ、ヴェルヴァルド。」


 ベルは黙った。


「父上も母上も心配している。」


 その言葉に、ベルは何も言い返さなかった。


 小雪はベルを見る。


 いつものベルなら、何か言う。


 うるさい。

 大げさだ。

 俺は子どもじゃない。


 何かしら噛みつくはずだった。


 けれど、今のベルは言わない。


「……手紙は出した。」

「短すぎる。」

「必要なことは書いた。」

「『勇者付き研究補佐官として問題なく勤務中。帰宅予定なし』の一文を、必要なこととは呼ばない。」


 ベルは視線を逸らした。


「……そうかよ。」

「そうだ。」


 小雪は少し驚いた。


 ベルの声が静かだった。


 口調は崩れている。

 けれど、三下ではない。


 これが、家族に向けるベルの声なのかもしれなかった。


 レオンハルトは家の中へ入った。

 小雪が招いたからである。


 ベルは少し迷ったようだったが、止めなかった。


 三か月前と比べれば、この場所はずいぶん家らしくなっている。


 床は床で、食器棚には皿や鍋が並び、危険物は札のついた箱へ収められている。

 壁には生活予定表と水車の図面があり、家の裏の作業場には木材や工具が整然と並べられていた。


 小雪はそれらを見た。


 ベルが作った生活。

 ベルが整えた場所。


 小雪一人なら、こうはならなかった。


 レオンハルトも、黙って家の中を見ていた。


 やがて、危険物箱の前で足を止める。


 赤い粉――火を近づけない。

 黒い粉――混ぜない。

 白い粉――吸わない。

 青い粉――触らない。

 紫の粉――分からないので危険。

 光る粉――綺麗だが危険。


 レオンハルトの眉が、わずかに動いた。


「これは。」

「触るな。」


 ベルが即答した。


「触らない。」

「絶対にだ。」

「分かった。」


 兄弟の会話は短い。


 けれど、伝わっている。


 レオンハルトは次に、壁の生活予定表を見た。


 起床。

 朝食。

 顔を洗う。

 髪を梳く。

 作業。

 昼食。

 作業。

 夕食。

 湯浴み制度。

 就寝。

 床で寝ない。


 鈴、確認で鳴らさない。


 最後の一文で、レオンハルトが少しだけ目を細めた。


「鈴。」


 小雪は袖の中から鈴を出した。


 ちりん。


 ベルが反射的にこちらを見る。

 小雪もベルを見る。


 レオンハルトもベルを見る。


 ベルは一瞬で顔を赤くした。


「……今のは事故だ。」

「反射でした。」

「小雪。」

「はい。」

「兄上の前だ。」

「はい。」

「鳴らすな。」

「事故です。」

「今、わざと鳴らしただろ。」

「少し。」

「やっぱりか。」


 小雪は鈴を袖へ戻した。


 レオンハルトは弟を見ていた。


 その目は少し意外そうで。

 どこか、安心したようにも見えた。


「ずいぶん、忙しそうだな。」


 ベルは視線を逸らす。


「忙しい。」

「だろうな。」


 レオンハルトは水車の図面の前で足を止めた。


 壁には何枚もの紙が貼られている。


 小型水車。

 羽根の角度。

 軸の太さ。

 支柱の位置。

 ふいごへの接続。

 炉の予定図。

 削り台の構想。


 文字はベルのものが多い。


 その中に、ところどころ小雪の文字が混じっていた。


 文明が回った。

 ベル落下。

 流されない水車。

 魔法ですれば早い。


 でも、誰でも使えるものがよい。


 レオンハルトは最後の一文を見て、少し黙った。


「水車を作っていると、村で聞いた。」

「ああ。」

「これか。」

「図面だ。実物は川にある。」

「そうか。」


 レオンハルトは図をじっと見た。


 何も分からないという顔ではない。

 構造を理解しようとしている。


 ただ。


 これを必要とする土壌が、彼にはないのだと小雪は思った。


 魔法の国の人間にとって、水で車を回すことは奇妙なのだ。


 火をつけるなら魔法。

 水を汲むなら魔法。

 粉を挽くなら魔法。

 重いものを動かすなら魔法。


 あるものを使う。

 便利なものを使う。


 それは悪ではない。


 誰も、悪意を持っていない。


「面白い試みだとは思う。」


 レオンハルトは静かに言った。


「だが、ヴェルヴァルド。」


 ベルが顔を上げる。


「おまえが、ここで人生を費やすべきことなのか。」


 部屋の空気が、少しだけ冷えた。


 ベルはすぐには答えなかった。


「これは、魔法が使えない者にも使える。」

「そうだろうな。」

「平民でも、魔力の弱い者でも、魔導士を呼べない時でも。」

「分かる。」

「なら。」

「だが、それなら家でもできる。」


 ベルは黙った。


 レオンハルトの声は、責めていない。

 怒ってもいない。

 ただ、正しいことを静かに置いていく。


「領地でできる。父上のもとで学びながら、領民のために試せばいい。おまえが魔法以外の技術を学んできたことは、父上も評価している。」


 ベルは何も言わない。


「この国で生きにくいのなら、他国に拠点を作る道もある。おまえに爵位を与え、グランツ家の支援をつけることも、父上は考えている。」


 小雪はベルを見る。


 ベルは、まだ何も言わない。


「おまえは不要ではない。家に戻れば、おまえにできることはある。」


 ベルの手が、わずかに握られた。


 小雪はその手を見る。


 料理をする手。

 髪を拭く手。

 水車を作る手。

 小雪を庇う手。


 その手が、今は何も持っていない。


「勇者殿。」


 レオンハルトが小雪を見た。


「はい。」

「弟がお世話になっていることは、感謝しております。」


 小雪は瞬きをした。


「お世話。」

「ええ。」


 小雪は少し考えた。


「どちらかというと、私がお世話されています。」


 ベルが小さく咳き込んだ。


「小雪。」

「事実です。」

「今言うな。」

「敬語。」

「今言わないでください。」


 レオンハルトは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、少し笑った。


「そうですか。」

「はい。ベルは料理、掃除、髪、湯、危険物管理、順番、水車を担当しています。」

「小雪。」

「生活文明総合担当です。」

「やめろ。」

「敬語。」

「やめてください。」


 レオンハルトの表情が、また少し和らいだ。


「元気そうで安心した。」


 ベルは眉を寄せる。


「子ども扱いするな。」

「していない。」

「してる。」

「心配しているだけだ。」


 ベルは言葉に詰まった。


 心配。


 その言葉は、ベルにとって反論しにくいものらしい。


 小雪はそれを見ていた。


 ベルは、家族に馬鹿にされているわけではない。

 不要だと思われているわけでもない。

 恥だと思われているわけでもない。


 本当に、心配されている。


 だから怒れない。

 噛みつけない。

 三下にならない。


 レオンハルトは小雪へ向き直った。


「勇者殿には、重ねて感謝申し上げます。この国を救っていただいたことも、弟を認めてくださったことも。」

「認める。」

「はい。弟は魔法の使えない身ですが、それでも手先も頭も悪くない。」

「悪くありません。かなり有能です。」


 ベルがまた咳き込んだ。


 小雪は続ける。


「ベルがいないと、生活文明が止まります。」

「……小雪。」

「水車文明も止まります。」

「やめろ。」

「髪文明も。」

「やめてくれ。」

「敬語。」

「やめてください。」


 レオンハルトはベルを見た。


 少しだけ、面白そうな顔をしている。


「ずいぶん評価されているな。」

「……そうだな。」

「よかったじゃないか。」


 ベルは視線を逸らした。


「茶化すな。」

「茶化していない。」

「してる。」

「少しだけだ。」


 兄弟の空気が、ほんの少し柔らかくなった。


 けれど、レオンハルトはすぐに表情を戻した。


「だが、それと今後は別だ。」


 ベルの顔から、また色が消えた。


「ヴェルヴァルド。今すぐ帰れとは言わない。」


 ベルは黙っている。


「だが、一度家に戻って説明しろ。父上と母上に、自分の口で。」

「三か月だ。手紙一枚で済む期間ではない。」

「分かってる。」

「分かっているなら、戻れ。」

「……。」

「父上も母上も、心配している。」


 また、その言葉だった。


 心配。


 ベルは何も言わなかった。


 小雪は部屋の中を見る。


 危険物箱。

 生活予定表。

 鈴。

 食器。

 鍋。

 寝床。

 水車の図面。

 ベルの椅子。

 ベルの工具箱。


 三か月の間に、それらはすべて当たり前になった。


 ベルがいることも。

 呼べば来ることも。

 怒ることも。

 世話を焼くことも。

 ごはんが出ることも。

 髪を乾かされることも。

 一緒に水車を作ることも。


 いつの間にか、当たり前になっていた。


 けれど。


 当たり前ではなかった。


 ベルは、この家の備品ではない。


 生活文明担当でも、髪文明担当でもない。

 鈴を鳴らせば来る人間でも。

 犬でも。

 おかんでもない。


 グランツ公爵家の次男。


 家族がいる。

 帰る場所がある。


 小雪とは、違う。


 小雪は、その事実を静かに見た。


 胸の奥が、重くなった。


 痛みではない。

 補填も必要ない。


 けれど、重い。


 分類はできない。


 したくない。


「小雪。」


 ベルが呼んだ。


 小雪は顔を上げる。


「はい。」

「……悪い。」

「なぜ謝るのですか。」

「いや。」


 ベルは言葉を探していた。


 小雪はそれを見て、首を横に振る。


「謝ることではありません。」

「でも。」

「ベルには、帰る場所があります。」


 ベルが黙った。


 レオンハルトも黙った。


「よいことです。」


 小雪はそう言った。


 声は、自分でも少し平坦に聞こえた。


 よいこと。


 それは本当だ。


 帰る場所があるのは、よいこと。

 心配してくれる家族がいるのも。

 ベルが不要ではないのも。


 全部、よいことのはずだった。


 なのに、胸の奥は重い。


 小雪は、それを書かないことにした。


 レオンハルトは長居しなかった。


 小雪へ丁寧に礼を言い、ベルへいくつか確認したあと、最後にもう一度だけ告げた。


「三日後、迎えを寄越す。」

「三日後?」

「都合が悪いか。」

「水車の固定を見ないと。」

「三日あれば十分だろう。」

「炉の準備も。」

「それは帰ってからでも考えられる。」

「……兄上。」

「一度戻るだけだ。」


 レオンハルトの声は穏やかだった。


「ここでのことを続けたいなら、なおさら説明しろ。父上と母上に、おまえ自身の言葉で。」


 ベルは、しばらく黙った。


 そして、小さく答えた。


「……分かった。」


 レオンハルトは頷いた。


「勇者殿。」

「はい。」

「弟を、三日後にお借りします。」


 小雪は少しだけ考えた。


「ベルは、私のものではありません。」


 レオンハルトの目がわずかに揺れた。


 ベルも、こちらを見る。


「借りる、ではないと思います。」


 小雪は続けた。


「ベルは、ベルです。」


 部屋が静かになった。


 レオンハルトは、深く礼をした。


「失礼しました。確かに、その通りです。」


 ベルは何か言いたそうにしていた。


 けれど、言わなかった。


 小雪も、それ以上は言わなかった。


 これ以上言えば、何かに触れてしまいそうだった。


 まだ分類していないものへ、名前がついてしまいそうだった。


 レオンハルトは馬車へ戻った。

 従者が扉を開ける。


 乗り込む直前、レオンハルトはベルを見た。


「ヴェルヴァルド。」

「はい。」


 ベルの返事は、少しだけ幼く聞こえた。


「母上が、おまえの好きな焼き菓子を用意すると言っていた。」


 ベルは一瞬、顔を歪めた。


「……覚えてるのか。」

「忘れるわけがないだろう。」

「そうか。」

「そうだ。」


 レオンハルトはそれだけ言い、馬車へ乗った。


 車輪の音が遠ざかる。


 家の前には、小雪とベルだけが残った。


 夕方の空は、すっかり暗くなりかけている。


 水車が回った日。

 ベルが村人に認められた日。

 小雪が、少し嬉しかった日。


 その終わりに。


 ベルの兄が来た。


 ベルは馬車が見えなくなるまで、しばらく立っていた。

 小雪は、その横にいる。


 鈴は袖の中。


 鳴らさない。


 ベルは目の前にいる。


 けれど。


 どこか、遠い。


「ベル。」

「……何でしょうか。」

「三日後、帰るのですか。」

「一度な。」

「そうですか。」

「ああ。」

「よいことです。」


 ベルは何も言わなかった。


「ご家族が心配しています。」

「そうだな。」

「よいことです。」

「小雪。」

「はい。」

「二回言ってる。」

「はい。」

「本当に、そう思ってるか。」


 小雪は少し黙った。


 ベルがこちらを見る。


 琥珀色の目。


 焦げ飴でも。

 湯気飴でもない。


 少しだけ揺れている。


 小雪は答えを探した。


 よいこと。


 それは本当だ。


 けれど、それだけでは足りない。


「よいことです。」


 三回目を言った。


 ベルの眉が、少しだけ下がった。


「……そうか。」

「はい。」


 小雪は袖の中で鈴を握った。


 鳴らさない。


 今、鳴らしても、ベルは来ないわけではない。


 もう隣にいる。


 けれど、三日後には帰る。


 一度だけ。


 そう言っている。


 それなのに、胸が重い。


 ベルはこの家のものではない。

 小雪のものでもない。

 ただの助手でもない。


 小雪は、気づいてしまった。


 ただの助手なら、帰る場所があることを、こんなふうに重く感じない。

 ただの研究補佐官なら、三日後の予定として記録すればいい。

 生活文明担当なら、代替案を考えればいい。

 髪文明担当なら、別の乾燥方法を考えればいい。

 鈴で来る人間なら、鈴をしまえばいい。


 でも。


 そうではない。


 小雪はもう、ベルをただの助手として分類できなくなっている。


 それは、とても困ることだった。


 いつか、すべてを壊すという選択をしなければならなくなるかもしれないのに。


 未来を見てはいけないのに。


 小雪は静かに息をした。


「ベル。」

「何だ。」

「敬語。」

「何でしょうか。」

「今日は、夕食を食べますか。」


 ベルは少し驚いた顔をした。


 それから、苦笑する。


「食べるだろ。」

「そうですか。」

「ああ。作る。」

「私が作りますか。」

「やめろ。」

「なぜですか。」

「家が壊れる。」

「壊れる。」

「冗談だ。」


 いつもの軽口だった。


 けれど、貴族の青年が残していった冷たい空気の中で、その言葉はいつもより静かに部屋へ落ちた。


 小雪は何も言わなかった。


 ベルも、それ以上は言わなかった。


 しばらくして、ベルは台所へ向かった。


「スープでいいか。」

「はい。」

「水車が回った祝いだ。肉を入れる。魚も出す。」

「豪華です。」

「そうだ。」

「ベル。」

「何でしょうか。」

「ありがとうございます。」


 ベルは振り向かなかった。


 ただ、少しだけ肩が動いた。


「……どういたしまして。」


 小雪は、その背中を見た。


 いつもの背中。


 ごはんを作る背中。

 怒る背中。

 世話を焼く背中。


 三日後、帰る背中。


 小雪は鈴を机の上へ置いた。


 ちりん。


 小さく鳴った。


 ベルが台所から顔を出す。


「何だ。」

「事故です。」

「本当か。」

「はい。」

「……そうか。」


 ベルは少しだけ笑った。


「呼ばれたかと思った。」


 小雪は鈴を見る。


「いつ呼んでも、来ますか。」


 ベルは黙った。


 ほんの少しだけ。


 それから、いつものように答えた。


「来る。」


 小雪は頷いた。


「そうですか。」

「ああ。」


 少しだけ、安心した。


 けれど。


 それも、まだ書かなかった。

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