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第十五話 大きな水車が回った日

 ロイが加わってから、水車作りは急に現実味を帯びた。


 小型水車は、一度目で回った。

 そして、流された。


 二度目は流されなかったが、今度は軸が動かなくなった。

 三度目は軸まで回ったものの、代わりに羽根が一枚外れた。

 四度目は、羽根も外れなかった。


 その代わり、ベルが川に落ちた。


「これは、水車の失敗ではありません。」

「俺の失敗みたいに言うな。」

「でも、落ちました。」

「……落ちたが、水車は回っただろ。」

「では、ベルだけが落ちた。」

「もっと嫌だ。」

「敬語。」

「もっと嫌です。」


 小雪は記録用紙に書いた。


 四度目――水車成功。

 ベル落下。


 ベルはそれを見て、無言で紙を裏返した。

 ロイは腹を抱えて笑った。


 それからも、何度も改良を重ねた。


 羽根の角度を変え、軸の太さを変え、支柱を増やした。

 川底の石へ噛ませる杭の形も変え、水が強すぎる時には逃がせるよう、小さな流れも作った。


 小雪は何度か、魔法で石を削ろうとした。


 そのたびに、ベルに止められた。


「魔法に頼らない。」

「少しだけです。」

「おまえの少しは信用ならねぇ。」

「今日は、小石一個分です。」

「昨日は、小山一つ分と言ったな。」

「誤差です。」

「誤差じゃねぇ。」

「敬語。」

「誤差ではありません。」


 ロイはそのやり取りを聞きながら、楽しそうに木を削った。


「勇者さまは、大きいことを考えますなぁ。」

「小石です。」

「小石の規模が違うんですな。」

「そうかもしれません。」

「納得するな。」

「敬語。」

「納得しないでください。」


 そうして、日が過ぎた。


 三日。

 十日。

 一か月。


 水車は少しずつ大きくなった。


 最初は両手で抱えられるほどだったものが桶ほどになり、やがて小雪の背丈の半分ほどになる。


 小雪の背丈は高くない。

 それでも、なかなか大きい。


 ベルは毎日図面を書き直し、ロイは木を削った。

 村の若者が杭や木材を運び、小雪は記録係と、時々釘を渡す係をした。


 釘渡し係は、以前より上達した。


 指は、あまり触れない。

 たまに触れる。


 そのたびに、ベルは少し止まる。


「小雪。」

「事故です。」

「本当か。」

「最近は、事故率が下がっています。」

「そういう記録を取るな。」

「重要です。」

「重要じゃねぇ。」

「ベル停止率。」

「やめろ。」

「敬語。」

「やめてください。」


 そうして、また日が過ぎた。


 ベルが山奥の家に住み始めてから、三か月が経っていた。


 三か月前、小雪の家は、あまり家ではなかった。


 床は作業台の延長で、寝床は作業台の下にある煤だらけの空間だった。

 食事は豆を噛むか、食べること自体を忘れるか、天井に張りついた何かを食べられるか悩む程度である。


 湯浴みは必要時。

 髪は復元。

 服も復元。

 危険物は床。


 鈴はなかった。


 今は違う。


 床は床で、寝床は寝床になった。

 食事はだいたい一日三回あり、二日に一度の湯浴み制度まである。

 髪は乾かされ、櫛はまだ一本しか折れておらず、危険物は箱に入っている。


 鈴は、寝床の横と作業台の間を移動している。


 そして、ベルがいる。


 呼べば来る。


 呼ばなくても、だいたいいる。


 小雪が水を飲み忘れれば、いつの間にか近くへコップが置かれる。

 床で寝ようとすれば寝床へ追いやられ、濡れた髪へ風魔法を使おうとすれば、竜巻になる前に手首を止められる。


 赤い粉と黒い粉を近づければ、遠くからでも怒鳴られる。


 褒めると赤くなる。

 笑うと、時々止まる。

 転びそうになると、手が伸びる。


 その生活は、ぬるま湯に似ていた。


 熱すぎず、冷たくもない。長く浸かっていると、身体の境目が少し分からなくなる。


 心地よい。


 けれど、時々くすぐったい。


 ベルが近くにいると、作業は進む。食事は出る。水車は形になり、部屋は片付き、髪は絡まらない。


 一人の時より、ずっと楽しい。


 小雪は、それを記録しようとして、何度かやめた。


 書けば、分類してしまう。

 分類すれば、置き場所ができる。

 置き場所ができれば、手放しにくくなる。


 本当は、これがよくないことだと分かっている。


 分かっては、いる。


 小雪はまだ、この先どうするかを決めていない。


 正確には。

 決めなければならないとは思っている。


 おそらく、数年以内に。


 それまで、すべての可能性を捨ててはいけない。


 だから、ベルが近くにいることを何と呼ぶのか。

 ベルが褒められると嬉しいことを何と呼ぶのか。

 ベルが手を差し出すと、触れたところが温かくなることを何と呼ぶのか。


 それは、書けない。


 ただ今は、決断を先送りにして。


 ぬるま湯に浸かっていたい。


 それだけでよい。


 今は、それだけがよかった。




 水車の設置日。


 村の川辺には、人が集まっていた。


 ロイ。

 作業を手伝った若者が三人。

 畑仕事の合間に来た老人。

 町でよく会う老婆。

 子どもたち。


 それから、通りがかりという顔をしているが、明らかに見物に来た村人たち。


 ベルは川辺で腕を組んでいた。


 今日は濡れていない。


 まだ。


「小雪。」

「はい。」

「今、まだ、って思っただろ。」

「はい。」

「思うな。」

「可能性です。」

「可能性を期待するな。」

「筋肉。」

「言うな。」

「敬語。」

「言わないでください。」


 ベルは額を押さえた。


 隣でロイが笑う。


「若いですなぁ。」

「違います。」

「何がだい?」

「いろいろです。」

「敬語。」

「いろいろです。」

「同じです。」

「くそ。」

「敬語。」

「くそです。」

「もっと駄目です。」


 小雪が言うと、周囲の村人たちが笑った。

 ベルは顔を赤くしながら、水車へ向き直った。


 今日の水車は、これまでで一番大きい。


 川の流れを受ける羽根はロイが削り、軸には硬い木を使って油を塗った。

 太い支柱は川底の石へ噛ませ、さらに岸へ打ち込んだ杭と縄で固定している。

 水が強すぎる時のために、流れを逃がす細い水路も作った。


 水車の横には、小さなふいごがつながっている。


 本格的な鍛冶仕事には、まだ足りない。

 だが、火へ空気を送ることはできる。


 まずは、それでよい。


 ベルは支柱を確認し、軸へ手を当て、羽根の位置を一枚ずつ見た。


 ロイが横から頷く。


「いいですな。」

「水を入れるぞ。」

「はいよ。」


 村の若者が、せき止めていた木板を外した。


 水の流れが少し変わる。

 羽根へ水が当たった。


 最初、水車は動かなかった。


 村人たちが息を止める。


 小雪も黙って見ていた。


 ベルは水車の横で、じっと軸を見ている。


「少し、角度が浅い。」


 ベルが呟いた。


 ロイがすぐに羽根の一枚を押す。


 水が入り直す。


 かた。


 水車が揺れた。


 かた、かた。


 そして。


 くるり。


 水車が回った。


 小雪は瞬きをした。


 くる、くる、くる。


 今度は止まらない。

 流されない。


 軸は少しぶれるが、外れない。


 羽根は水を受け、逃がし、また受ける。


 くる、くる、くる。


 水の力が、回転になっている。


 魔法なしで。


 川の流れだけで。


「回った!」


 子どもの一人が声を上げた。


 老婆も手を叩く。


「まあ。本当に回るんだねぇ。」


 ロイが満足そうに頷いた。


「よしよし。回りますな。」


 ベルだけは、まだ黙っていた。


 慎重に軸を見ている。


「ふいご。」


 短く言った。


 若者が、ふいごの先を小さな炉へ向ける。


 水車の回転が、ぎこちなく棒を動かした。

 棒がふいごを押し、ふいごから空気が送られる。


 弱い。

 まだ安定しない。


 だが、炉の火が少しだけ強くなった。


 村人たちから、また声が上がる。


「おお。」

「風が出た。」

「水で火が強くなるのか。」

「変な感じだなぁ。」


 小雪は、炉の火を見た。


 水が回す。

 回転が押す。

 空気が動く。

 火が強くなる。


 魔法ではない。


 けれど、確かに力が移っている。


「文明が、また回りました。」


 小雪が呟いた。


 ベルがこちらを見る。


 琥珀色の目が、いつもより少し明るい。


「まだ弱い。」

「でも、回りました。」

「ああ。」

「流されません。」

「まだな。」

「ふいごも動きました。」

「ぎこちねぇけどな。」

「ベル。」

「何でしょうか。」

「すごいです。」


 ベルは少しだけ目を伏せた。


 いつものように派手には止まらなかった。


 村人の前だからかもしれない。


 ただ、耳が赤い。


「……ロイさんと、皆のおかげだ。」

「はい。」

「俺だけじゃねぇ。」

「でも。」


 小雪はベルを見た。


「ベルがいなければ、始まりませんでした。」


 ベルが、今度こそ止まった。


 ロイがにやりと笑う。


「そうですなぁ。兄ちゃんが図面を持ってこなきゃ、わしもこんなものを作ろうとは思わなんだ。」


 村の若者たちも、水車を見ながら口々に言った。


「助手さん、すげえな。」

「魔法なしでこれか。」

「他国にはあるんだろ? でも、これをここで作ったのはすごいよな。」


 ベルは何か言おうとした。


 だが、言葉が出なかった。


 小雪は、その横顔を見た。


 ベルが褒められている。


 魔法を使えないことではなく。


 魔法を使わずに考えたことで。


 哀れみではない。

 慰めでもない。


 ただ、すごいと言われている。


 小雪の胸の奥が、温かくなった。


 自分が褒められたわけではない。


 今回の水車も、自分一人で作ったものではない。


 それなのに。


 ベルが認められると、なぜか嬉しい。


 小雪は、その感覚を記録しないことにした。


 書かない。

 分類しない。


 ただ、今だけ。


 ぬるま湯に浸かる。


 村の老婆が、小雪の隣へ来た。


「勇者さま、いい助手さんですねぇ。」

「はい。」


 小雪は頷いた。


「ベルは、いい助手です。」


 ベルが横で小さく咳き込んだ。


 老婆はにこにこしている。


「仲もよさそうで。」


 小雪は少しだけ考えた。


 未来の言葉ではない。


 今、ここにある事実なら、言ってよい。


「仲はいいです。」


 ベルが、ふいごの棒へ額をぶつけた。


「ベル。」

「大丈夫ですか。」

「大丈夫だ。」

「敬語。」

「大丈夫です。」


 村人たちが笑った。


 ベルは赤い顔のまま、ふいごの動きを直し始める。


 小雪は、それを見て少し笑った。


 水車は、そのあとも回り続けた。


 止まらない。

 流されない。


 途中で少し軸が鳴ったが、ロイが油を差すと静かになった。


 子どもたちは飽きずに水車を眺め、若者たちは、これをもっと大きくできるか話し合っている。

 老婆は「これで麦も挽けるようになるのかねぇ」と言い、ロイは「その前に石臼が要りますな」と答えた。


 するとベルがすぐに言った。


「いきなり大きくしない。まずは、ふいごだ。次に小さい削り台。それができたら粉挽き。」


 小雪は頷いた。


「順番。」

「そうだ。」

「ベルは、順番が上手です。」

「今それを言うな。」

「なぜですか。」

「人前だ。」

「人前では駄目ですか。」

「駄目じゃねぇけど。」

「敬語。」

「駄目では、ありませんけど。」

「では。」

「でも、今はやめろ。」

「初心なハート。」

「言うな。」


 ロイが笑った。


「助手さんは照れ屋ですな。」

「照れてない。」

「敬語。」

「照れていません。」

「顔が赤いです。」

「おまえは黙ってろ。」

「敬語。」

「黙っていてください。」

「はい。」


 小雪は黙った。


 数秒だけ。


「ベル。」

「早い。」

「敬語。」

「早いです。」

「何がですか。」

「黙る時間が。」

「善処します。」

「善処ばっかりだな。」


 ベルはそう言いながらも、少し笑っていた。


 小雪はその顔を見た。


 ベルは最近、よく笑う。


 小雪も、たぶん大分笑うようになった。


 ぬるま湯は、怖い。


 気づけば、身体に馴染んでいる。


 冷たい外へ出るのが、億劫になる。


 小雪はその考えを、胸の奥へ沈めた。


 今は、水車を見る。


 回っているものを見る。

 ベルが作ったものを見る。

 皆が笑っているのを見る。


 それでよい。




 昼過ぎ、村人たちは少しずつ帰っていった。


 ロイとベルは最後まで残り、支柱と軸を確認している。

 小雪は川辺の石へ座り、記録を書いていた。


 水車文明進捗。


 一、改良版水車、設置。

 二、流されない。

 三、ふいご、動く。

 四、火力、少し上がる。

 五、軸、油が必要。

 六、次、削り台。

 七、ベル、村人に認められる。


 そこで、ペンを止めた。


 七は、水車の進捗ではないかもしれない。


 けれど、書いてしまった。


 小雪は、じっとその文字を見た。


 ベル、村人に認められる。


 悪くない。

 これは未来の言葉ではない。

 今、起きたことだ。


 書いてもいい。


 たぶん。


「小雪。」


 ベルが川から上がってきた。


「はい。」

「何書いてる。」

「水車文明進捗です。」

「見せろ。」

「はい。」


 小雪は紙を渡した。


 ベルは読み、七で止まる。


 そして、何とも言えない顔をした。


「……これ、水車の進捗か?」

「はい。」

「俺は水車じゃねぇ。」

「ベルが認められたので、水車文明が進みました。」

「どういう理屈だ。」

「ベルが評価されると、協力者が増えます。」

「……。」

「協力者が増えると、水車文明が進みます。」

「まあ、間違ってはねぇけど。」

「では、進捗です。」


 ベルは紙を返した。


 耳が赤い。


「……消さなくていい。」

「はい。」

「ただし、初心なハートとか書くなよ。」

「今日は書いていません。」

「今日は。」

「はい。」

「明日は。」

「善処します。」

「信用ならねぇ。」


 小雪は紙をしまった。


 ベルは、その隣へ腰を下ろした。


 川の音がする。

 水車の音もする。


 くる、くる、くる。


 一定ではない。

 少しぎこちない。

 時々、軸がきしむ。


 それでも、回っている。


「ベル。」

「何でしょうか。」

「嬉しいですか。」


 ベルは少し考えた。


「……嬉しいな。」

「そうですか。」

「ああ。」

「よかったです。」


 ベルが小雪を見た。


「おまえが言うのか。」

「はい。」

「何でだよ。」


 小雪は川を見た。


 水車が回っている。


「ベルが嬉しいのは、よいことです。」


 ベルは黙った。

 小雪も黙った。


 これ以上は、言葉にしない方がいい。

 書かない方がいい。

 分類しない方がいい。


 けれど。


 ベルが嬉しいのは、よいこと。

 それだけなら、たぶん言ってもよい。


 ベルはしばらく黙ったあと、低い声で言った。


「……そうか。」

「はい。」

「ありがとな。」

「敬語。」

「ありがとうございます。」

「はい。」


 小雪は少しだけ笑った。


 ベルは顔を覆わなかった。


 ただ、同じように少しだけ笑った。


 とても静かな笑顔だった。


 小雪は、胸の奥がまた温かくなるのを感じた。


 ぬるま湯。


 心地よくて。

 くすぐったくて。

 名前をつけてはいけないもの。


 今だけ。


 今だけなら。


 小雪は、そう思った。





 山の家へ戻る道で、ベルはいつもより少し機嫌がよかった。


 口は悪い。


 それは変わらない。


 だが、足取りが軽い。


「次は削り台だな。」

「はい。」

「その次に、ふいごをもう少し大きくする。」

「はい。」

「炉も作り直す。家の近くでやると危ねぇから、水車の近くに別で作る。」

「はい。」

「おまえは赤い粉を持ってくるな。」

「はい。」

「黒い粉もだ。」

「はい。」

「紫の粉は論外だ。」

「綺麗です。」

「綺麗でも駄目だ。」

「はい。」

「返事がいい時ほど危ないんだよな。」

「実績です。」

「そうだ。」


 ベルが笑った。


 小雪は、その横顔を見た。


 なぜだろう。

 たまに、ひどく格好よく見える。


 三下のくせに。


 今日も、そうだった。


 水車の前で村人に説明していた時。

 軸を直していた時。

 ロイと話していた時。

 嬉しそうに笑った時。


 小雪は、少しだけ視線を下げた。


 見すぎると、ベルは気づく。


 気づくと、赤くなる。


 それは面白い。


 けれど今日は、からかわないでおく。


 ベルが嬉しそうだから。


 そのままにしておきたい。


「小雪。」

「はい。」

「今、何か企んでるか。」

「いいえ。」

「本当か。」

「今日は、からかわないでおこうと思いました。」

「言った時点でからかってるんだよ。」

「難しいですね。」

「難しいです。」


 ベルは呆れたように笑った。


 小雪も、少し笑った。


 山の家が見えてくる。


 焦げ跡の残る壁。

 修理された屋根。

 増えた作業場。

 危険物箱。

 干された布。

 ベルが作った椅子。

 水車の図面が貼られた窓辺。


 三か月前は、ただの拠点だった。


 今は、家に近い。


 小雪は、そのこともまだ書かない。


 何を記録してよいのか。

 何を記録すべきではないのか。


 それも考えなければならない。


 そんなことを思いながら、家の方へ視線を向けた時。


 小雪は気づいた。


 家の前に、馬車が停まっている。


 上等な馬車だった。

 村の荷馬車ではない。


 黒く磨かれた車体に、銀の金具。

 扉には、見覚えのない紋章が刻まれている。


 ベルの足が止まった。

 小雪も止まる。


 空気が変わった。


 ぬるま湯の表面へ、冷たいものが一滴落ちたようだった。


「ベル。」


 小雪が呼ぶ。


 ベルは答えなかった。


 馬車の横に立っていた従者が二人に気づき、静かに頭を下げる。


 そして、扉が開いた。


 降りてきたのは、金髪の青年だった。


 ベルより少し年上。


 背が高く、姿勢が美しい。上等な服には乱れがなく、動作の一つ一つにも隙がない。


 同じ金髪でも、ベルのような明るさとは違った。


 整えられ。

 磨かれ。

 正しく置かれた金色。


 目は、ベルとよく似た琥珀色だった。


 けれど、その光は柔らかくない。


 冷静で、澄んでいて。


 少し遠い。


 青年は小雪を見ると、深く礼をした。


「勇者殿。突然の訪問、失礼いたします。」


 声まで整っていた。


 貴族の声。


 それだけで、人を動かし、人を退かせるような声。


 小雪は青年を見た。

 それから、ベルを見る。


 ベルの顔から、さっきまでの赤みが消えていた。


 水車の前で笑っていたベルではない。

 怒るベルでもない。

 照れるベルでもない。

 鈴で来るベルでも。

 髪を拭くベルでもない。


 小雪の知らない顔だった。


 青年が、ベルへ視線を移す。


「ヴェルヴァルド。」


 ベルの肩が、わずかに強張った。


 ほんの一瞬。


 けれど、小雪には分かった。


 ベルは木材を下ろすことすら忘れたまま、立ち尽くしている。


 そして、低い声で言った。


「……兄上。」


 水車が回った日の終わりに。


 ぬるま湯は、静かに波立った。

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