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第十三話 勇者さま、髪を拭かれる

 ベルは、二日に一度、湯を沸かす。


 小雪は最初、その習慣を不思議に思った。


 水は川にあるし、身体の汚れは魔法である程度落とせる。髪も、風の魔法で乾かせばよい。

 つまり、わざわざ湯を沸かす必要はない。


 小雪がそう言うと、ベルは鍋を持ったまま、非常に嫌そうな顔をした。


「必要だ。」

「なぜですか。」

「汚れるからだ。」

「汚れは落とせます。」

「落とせてねぇ。」

「だいたい落ちます。」

「だいたいで暮らすな。」

「敬語。」

「だいたいで暮らさないでください。」


 ベルは朝から大きな桶に水を入れ、炉で湯を沸かし、浴室代わりの小部屋を整えていた。


 正確には浴室ではなく、もとは物置だった場所である。

 ベルがその一つを片付け、床に板を敷き、大きな桶を置いて、湯を運び込めるようにしたのだ。


 小雪の家には、もともと浴室という概念が薄かった。


 川。

 雨。

 魔法。

 必要時。


 以上である。


 それを聞いた時、ベルはしばらく天井を見ていた。


 そして、低い声で言った。


「……人間に戻すところからか。」

「戻す。」

「何でもねぇ。」

「敬語。」

「何でもありません。」


 その結果、二日に一度の湯浴み制度ができた。


 制度だ。


 小雪は紙を広げ、また書き付け始める。


 湯浴み制度。

 担当――ベル。

 頻度――二日に一度。

 目的――汚れを落とす。

 副作用――ベルが忙しい。


「副作用って書くな。」

「忙しそうなので。」

「おまえが汚れるからだ。」

「汚れても補填されます。」

「服や髪は補填するな。洗え。」

「魔法で。」

「洗え。」

「敬語。」

「洗ってください。」

「はい。」


 小雪は頷いた。


 生活は項目が多い。


 そして、ベルはとても細かい。




 夕方。


 水車の小型試作を片付けたあと、ベルは浴室代わりの小部屋へ何度も湯を運んだ。


「入れ。」

「今ですか。」

「今だ。」

「記録が途中です。」

「湯が冷める。」

「温め直せば。」

「俺がな。」

「有能ですもんね。」

「褒めても後回しにはさせねぇ。」

「では、入ります。」

「よし。」


 ベルは桶の横に布と着替えを置くと、小雪を見た。


「ちゃんと髪も洗え。」

「はい。」

「湯をこぼすな。」

「はい。」

「桶の中に危険物を入れるな。」

「入れません。」

「前に赤い粉を持ち込もうとしただろ。」

「あれは、湯で溶けるか確認を。」

「風呂で実験するな。」

「敬語。」

「風呂で実験しないでください。」

「はい。」

「あと、寝るな。」

「寝ません。」

「本当か。」

「湯は温かいので、眠くなる可能性はあります。」

「寝るな。」

「善処します。」

「信用ならねぇ。」


 ベルは扉の外へ出た。


 小雪が浴室へ入ると、室内には白い湯気が立っていた。

 桶の湯へ手を入れてみると、指先がじんわりと温まる。


 川の水とは違う。

 魔法で一瞬だけ温めた水とも違う。

 ベルが何度も桶を運び、火を見て、温度を確かめた湯である。


 小雪は、暫し考えた。


 湯にも手順があるのだろう。


 生活は、本当に項目が多い。


 小雪は服を脱ぎ、身体を洗い、髪も洗った。


 石鹸もベルが用意したものだった。


 泡立つ。

 流すと落ちる。

 匂いが変わる。


 不思議である。


 泡は、魔法ではないのに汚れを落とす。


 これも文明の一種かもしれない。


 小雪は浴室の壁へ記録しようとして、手元にペンがないことに気づいた。


 よかった。


 書いていたら、たぶんベルに怒られた。


 小雪が浴室から出ると、ベルは少し離れた廊下で腕を組み、待っていた。


「上がったか。」

「はい。」

「ちゃんと洗ったか。」

「はい。」

「寝てないな。」

「少しだけ。」

「寝たのか。」

「意識を休ませました。」

「寝たんだな。」

「敬語。」

「寝たのですね。」

「たぶん。」


 ベルは額を押さえた。


 それから小雪を見て、固まった。


 小雪は髪から水を滴らせていた。


 濡れた白い髪は重くなり、肩や背中へ張りついている。

 毛先から、ぽた、ぽた、と水が落ち、すでに床には小さな水たまりができ始めていた。


 ベルの眉が跳ねた。


「髪。」

「はい。」

「乾いてねぇ。」

「これから乾かします。」

「どうやって。」

「魔法で。」

「やめろ。」

「弱く使います。」

「おまえの弱くは信用ならねぇ。」

「今回は大丈夫です。」

「本当か。」

「たぶん。」

「たぶんは禁止だ。」


 小雪は片手を上げた。


 風の魔法。

 普通に使えば、竜巻どころか屋根が飛ぶ。


 だから、ほんの少し。

 本当に、ほんの少しだけ。


 小雪は魔力を抑えた。


「微風。」


 風が起きた。


 小さな風。

 の、つもりだった。


 次の瞬間、廊下に小さな竜巻が発生した。


 桶が揺れ、布が舞い、ベルの前髪が逆立つ。

 壁に貼られていた生活予定表まで剥がれ、ふわりと宙を飛んだ。


「小雪!」

「微風です。」

「どこがだ!」

「小さめの竜巻。」

「竜巻の時点で駄目だ!」

「敬語。」

「駄目です!」


 ベルは飛んでいく生活予定表を掴み、舞い上がった布を押さえた。

 そのまま片手で小雪の手首を取る。


 風が止まった。


 廊下には、濡れた白髪の小雪と、前髪をぐちゃぐちゃにされたベルだけが残った。


 しばらく、二人とも黙っていた。


 水が、ぽた、と床へ落ちる。


「……座れ。」

「はい。」

「髪は俺が拭く。」

「なぜですか。」

「床に水が落ちる。冷える。髪も傷む。あと、俺が気になる。」

「ベルが気になる。」

「そうだ。」

「おかん。」

「言うな。」

「敬語。」

「言わないでください。」


 小雪は椅子に座った。


 ベルは大きな乾いた布を持ってくると、小雪の後ろへ立ち、濡れた髪をそっと包んだ。


 力は強くない。ごしごしと擦るのではなく、毛先から少しずつ、押さえるように水を吸わせていく。

 髪が絡まれば指でそっとほどき、また布を当てた。


 小雪はじっとしていた。


 背中の後ろに、ベルの気配がある。布越しに手の温度が伝わってくる。


 髪を拭かれる。


 記憶のどこかに、同じようなことがあった気がした。


 けれど、遠い。霞んでいて、よく分からない。


 召喚される前、誰かに髪を乾かしてもらったことがあっただろうか。


 母か。

 祖母か。

 美容院の人か。


 もう、うまく思い出せない。


 小雪は、しばらく黙っていた。


「痛くねぇか。」


 ベルが後ろから言った。


「はい。」

「引っ張ったら言え。」

「はい。」

「眠いか。」

「少し。」

「寝るなよ。」

「なぜですか。」

「髪が乾くまで。」

「濡れていても平気です。」

「平気じゃねぇ。」

「私は風邪をひきません。」

「髪が傷む。」

「髪。」

「そうだ。」

「重要ですか。」


 ベルの手が、少しだけ止まった。


 それから、また動き始める。


「重要だろ。」

「なぜですか。」

「……綺麗だからだ。」


 小雪は瞬きをした。


 ベルは後ろにいるので、顔は見えない。ただ、声が少しだけ低かった。


「綺麗。」

「そうだよ。」

「私の髪が。」

「他に誰がいるんだよ。」

「敬語。」

「他に誰がいるのですか。」

「変です。」

「うるさいです。」


 ベルは布を替え、新しい布でまた髪を包んだ。


「焦げたら復元すればいいとか、濡れたままでいいとか、そういう扱いをするな。」

「なぜですか。」

「綺麗なものは、ちゃんと扱え。」


 小雪は黙った。


 綺麗なもの。


 小雪は、自分の髪をそう捉えたことがなかった。


 小雪の髪は、もとは黒かった。召喚された頃には、まだ黒かったはずだ。


 けれど今は、雪のように白い。


 あるいは、燃え残った灰のように。


 ベルは、それを綺麗だと言う。


 焦げたら怒る。

 濡れたままだと怒る。

 絡まればほどく。

 櫛で梳く。

 布で拭く。


 小雪は少しだけ首を動かした。


「ベル。」

「何でしょうか。」

「髪は、まだ綺麗に見えますか。」


 ベルの手が止まった。


 廊下が静かになる。


「……まだって何だ。」

「白くても。」


 少しして、ベルが低く言った。


「白くてもじゃねぇ。」


 小雪は動かなかった。


「今のおまえの髪が、綺麗なんだよ。」


 胸の奥で、何かが小さく動いた。


「元は黒でした。」

「そうなのか。」

「はい。」

「じゃあ、黒かった頃も綺麗だったんだろうな。」

「分かりません。」

「俺も見てねぇから分からねぇ。」


 ベルはまた布を動かした。


「でも、今は白い。」

「はい。」

「だから俺は、今のおまえの髪を見て、綺麗だと思ってる。」


 小雪は黙った。


 ベルの耳が、少し赤い。


 視線は髪の先へ逸らされている。


「とても綺麗だ。」


 小雪は膝の上の布を握った。


 なぜか、胸の奥が少し温かかった。


 湯に入ったからだろうか。

 ベルの手が温かいからだろうか。


 分からない。


「そうですか。」

「ああ。」

「ありがとうございます。」


 ベルの手が、また止まった。


「……急に礼を言うな。」

「予告しますか。」

「しなくていい。」

「では、突然言います。」

「それも困る。」

「難しいですね。」

「難しいです。」


 ベルは髪を拭き終えると、今度は櫛を持ってきた。

 白い髪を、絡まりを確かめながら丁寧に梳いていく。


 小雪は椅子に座ったまま、半分眠くなっていた。


「寝るなよ。」

「はい。」

「返事が眠い。」

「眠いです。」

「終わったら寝ろ。」

「記録が。」

「寝ろ。」

「敬語。」

「寝てください。」

「はい。」


 ベルは最後に毛先を軽く整え、少し離れて確認した。


「よし。」

「終わりましたか。」

「ああ。」

「ベル。」

「何でしょうか。」

「ありがとうございます。」


 ベルは櫛を落としかけた。


「……どういたしまして。」


 小雪は、自分の髪に触れた。


 乾いている。

 いつもより軽く、絡まっていない。

 少し、よい匂いもする。


 小雪は、暫し考えた。


 ベルのおかげで、自分は少し身ぎれいになった。


 床で寝ていた頃より。

 豆を噛んでいた頃より。

 髪を竜巻で吹き飛ばそうとしていた頃より。


 少し、人間のようになっている。


「ベル。」

「今度は何でしょうか。」

「生活文明は、髪にも影響しますね。」

「そうだな。」

「ベルは髪文明担当でもあります。」

「担当を増やすな。」

「では、生活文明総合担当。」

「もっと嫌だ。」

「良い奥さん。」

「蒸し返すな!」

「敬語。」

「蒸し返さないでください!」


 ベルは顔を赤くしながら櫛をしまった。


 小雪は少しだけ笑う。


 その笑顔を見て、ベルがまた固まった。


「……もう寝ろ。」

「はい。」

「それ以上笑うな。」

「なぜですか。」

「俺がもたない。」

「初心なハート。」

「言うな。」

「瀕死。」

「言うな!」

「敬語。」

「言わないでください!」


 小雪は寝室へ向かった。


 髪は軽い。

 寝具は柔らかい。

 鈴は手元にある。


 今日は、寝やすそうだった。


 小雪が寝室へ入ったあと、今度はベルが湯浴みをすることになった。


 湯は少し冷めていたが、まだ使えるらしい。

 ベルは桶へ湯を足し、浴室の扉を閉めた。




 ベルを見送った後、小雪は寝室の机で記録を書いていた。


 水車文明進捗。


 小型水車は回った。

 固定に課題。

 羽根の角度に課題。

 ベルの目は焦げ飴。


 生活文明進捗。


 湯浴み制度、二日に一度。

 髪乾燥、竜巻は不可。

 ベルによる髪拭き、有効。

 髪が軽い。

 ベルは髪を綺麗と言った。


 そこまで書いたところで、ペンの線がかすれた。


 小雪はペンを振った。

 出ない。


 もう一度書く。

 出ない。


 インクが切れた。


 机の上にはない。作業台にも、保存箱にもない。


 ベルが管理しているのかもしれない。


 小雪は鈴を見た。


 鳴らすか。


 しかし、ベルは湯浴み中である。


 鈴を鳴らしたら来るだろうか。

 湯浴み中でも来るのか。


 確認。


 小雪は鈴へ手を伸ばした。


 少し考える。

 そして、やめた。


 今日は髪を拭いてもらった。

 ベルも湯浴み中なら、休息中である。


 生活文明には、相手の休息を邪魔しないことも含まれるかもしれない。


 小雪は自分で聞きに行くことにした。


 こういう時に鈴を鳴らさない。

 きっと進歩である。


 小雪は浴室の前まで行った。


 扉の向こうから、水音がする。


「ベル。」


 返事を待たず、小雪は扉を少し開けた。


 中で、水音が跳ねた。


「ひぃっ!」


 奇妙な声がした。


 小雪は首を傾げた。


 扉の隙間から見ると、ベルが桶の中で肩まで湯に浸かり、こちらを凝視していた。


 濡れた金髪が額へかかり、湯気の向こうでは琥珀色の目が大きく見開かれている。

 肩が出ていて、鎖骨も見える。濡れた首筋から、鍛えられた腕の線が続いていた。


 川で見た時より、湯気のせいで輪郭が少し柔らかい。


 だが。


 やはり筋肉はある。


「ベル、ペンのインクが切れました。」

「お、おま……!」

「はい。」

「閉めろ!」

「インクが。」

「今じゃねぇ!」

「今切れました。」

「だからって今来るな!」

「鈴は鳴らしませんでした。」

「そういう問題じゃねぇ!」

「敬語。」

「そういう問題ではありません!」


 ベルは湯の中で腕を交差させた。


 顔が真っ赤だった。


「見るな!」

「筋肉。」

「見るなって言ってんだろ!」

「肩もあります。」

「肩はある!」

「川の時より湯気があります。」

「観察するな!」

「少し見えづらいです。」

「見るな!変態!」

「敬語。」

「見ないでください!変態です!」


 小雪は、暫し考えた。


「ですが、ベル。」

「何だ!」

「どちらかというと、そちらの格好の方が変態です。」


 ベルは絶句した。


 湯気だけが上がる。


 小雪は真顔で続けた。


「私は服を着ています。」

「好きで見せてるわけじゃねぇ!」

「敬語。」

「好きで見せているわけではありません!」

「そうですか。」

「そうですかじゃねぇ!」

「敬語。」

「そうですかではありません!」

「変です。」

「おまえのせいだ!」

「敬語。」

「あなたのせいです!」


 ベルは片手で桶の縁を掴み、もう片手で顔を覆った。


「何で入ってくるんだよ……。」

「インクが切れたので。」

「待て。」

「記録が途中です。」

「待て。」

「ベルが髪を綺麗と言ったところで。」


 ベルは完全に固まった。


「……何を書いてる。」

「生活文明進捗。」

「消せ。」

「重要です。」

「今すぐ消せ。」

「インクが切れています。」

「よかった!」

「なぜですか。」

「書けないからだ!」

「インクをください。」

「やらねぇ!」

「なぜですか。」

「今渡せる状態じゃねぇだろ!」

「湯から出れば。」

「出られるか!」


 小雪は首を傾げた。


「出られます。」

「出られねぇんだよ!」

「なぜですか。」

「おまえがいるからだ!」

「私は気にしません。」

「俺が気にする!」

「乙女か。」

「言うな!」

「初心なハート。」

「瀕死だよ!」

「自己申告。」

「もう何でもいいから閉めろ!」


 ベルの声が裏返った。


 小雪は少しだけ口元を緩める。


「面白いです。」

「俺で遊ぶな!」

「少し。」

「認めるな!」

「敬語。」

「認めないでください!」


 小雪はようやく扉から手を離した。


「では、待ちます。」

「待たなくていい!今すぐ寝ろ!」

「インクは。」

「明日だ!」

「記録が。」

「明日!」

「敬語。」

「明日です!」

「はい。」


 小雪は扉を閉めた。


 閉める直前、ベルが湯の中で頭を抱えているのが見えた。


 湯気の向こうの琥珀色の目は、川の時よりさらに濃く見えた。


 焦げ飴。


 いや。

 湯気飴。


 小雪は廊下で立ち止まった。


 書きたい。

 これはきっと、重要な項目だ。


 だが、インクがない。


 非常に残念である。





 しばらくして、ベルが浴室から出てきた。


 きちんと服を着ている。

 ただ、短い金髪はまだ濡れており、首には布を掛けていた。顔も赤い。


 急いだのかもしれない。


 小雪は廊下で待っていた。


 ベルが足を止める。


「……何で待ってる。」

「インク。」

「寝ろって言っただろ。」

「敬語。」

「寝てくださいと言いました。」

「まだ眠くありません。」

「嘘つけ。さっき半分寝てただろ。」

「インクが切れたので目が覚めました。」

「インクで覚醒するな。」


 ベルは深く息を吐いた。


 それから自分の部屋へ行き、小さな瓶を持って戻ってきた。


「ほら。」

「ありがとうございます。」

「ただし。」

「はい。」

「今後は、湯浴み中に入ってくるな。」

「はい。」

「鈴も鳴らすな。」

「はい。」

「扉を開ける前に、返事を待て。」

「はい。」

「人が湯浴みをしている時は、用事があっても基本的に後にしろ。」

「はい。」

「例外は、火事、爆発、怪我、魔物、赤い粉、黒い粉、青い粉、紫の粉、光る粉。」

「多いですね。」

「すべておまえのせいだ。」

「敬語。」

「あなたのせいです。」


 小雪はインク瓶を受け取った。


 ベルの指に、ほんの少し触れた。


 触れたところが、また温かくなる。


 湯の熱だろうか。

 ベルが風呂上がりだからだろうか。

 それとも、川で手をつないだ時と同じ現象だろうか。


 小雪は指先を見た。


「また何か考えてるな。」

「はい。」

「何を。」

「触れたところが温かいです。」


 ベルは天を仰いだ。


「この状況で言うな。」

「なぜですか。」

「減る。」

「初心なハートが。」

「そうだよ!」

「敬語。」

「そうです!」

「認めましたね。」

「もういい。」


 ベルは首に掛けていた布で、自分の髪を乱暴に拭いた。


 水が少し飛ぶ。


 小雪はそれを見た。


「ベル。」

「今度は何だ。」

「敬語。」

「今度は何でしょうか。」

「髪。」

「あ?」

「ちゃんと拭かないと、床に水が落ちます。冷えます。髪も傷みます。」


 ベルは黙った。


 小雪は、さっき自分が言われたことを思い出しながら続ける。


「綺麗なものは、ちゃんと扱うのでは。」


 ベルは完全に止まった。


 廊下が静かになる。


 小雪は、ベルの濡れた髪を見た。


 金色の髪は湯気を含み、いつもより少し暗く見える。濡れた毛先から、水が一滴落ちそうになっていた。


「ベルの髪も、綺麗です。」


 ベルは口を開けた。


 閉じた。


 もう一度、開いた。


「……おまえな。」

「はい。」

「そういうのは。」

「はい。」

「本当に。」

「はい。」

「……反則だろ。」

「反則。」

「そうだ。」

「恋にも順番があるからですか。」


 ベルは布を落とした。


 小雪はそれを拾った。


「落ちました。」

「拾うな。いや、拾ってくれて助かる。違う、そうじゃねぇ。」

「敬語。」

「拾ってくださってありがとうございます。違う、そうではありません。」

「変です。」

「知ってる。」

「敬語。」

「存じております。」


 小雪は布をベルへ渡した。


「拭きますか。」

「自分でやる。」

「ベルは私の髪を拭きました。」

「それは、おまえが竜巻を起こしたからだ。」

「ベルも床に水を落としています。」

「……。」

「おかんなのに。」

「言うな。」

「私も、生活文明担当を少しします。」


 小雪は布を持ったまま、ベルを見上げた。


 ベルは固まっている。


「嫌ですか。」

「……嫌では、ねぇけど。」

「敬語。」

「嫌では、ありませんけど。」

「では、座ってください。」

「……少しだけだ。」


 ベルは廊下の椅子に座った。


 小雪はその後ろに立つ。


 ベルの髪は、小雪よりずっと短い。

 濡れた金髪の下から、首筋が見えていた。


 小雪は布を頭へ乗せた。


 押さえる。


 少し動かす。


「痛くありませんか。」

「痛くねぇ。」

「敬語。」

「痛くありません。」

「そうですか。」


 小雪は、ベルがしてくれたように拭こうとした。


 だが、力加減が難しい。


「強い。」

「すみません。」


 ベルが少し黙った。


「……急に謝るな。」

「駄目ですか。」

「駄目じゃねぇ。」

「敬語。」

「駄目では、ありません。」


 小雪は力を弱めた。


 濡れた髪から、少しずつ水が布へ移っていく。


 拭く。


 濡れているものを、乾かす。


 冷えないように。

 水が落ちないように。

 髪が傷まないように。


 ベルが、小雪にしたこと。


 今。


 小雪が、ベルにしていること。


「ベル。」

「何でしょうか。」

「こうすると、少し安心します。」


 ベルの肩が固まった。


「……誰が。」

「私が。」

「おまえが?」

「はい。」

「俺の髪を拭いてるのに?」

「はい。」

「何でだよ。」


 小雪は、暫し考えた。


「ベルが冷えないので。」


 ベルは黙った。


「ベルが痛いのは嫌です。冷えるのも、たぶん嫌です。」


 小雪は布を動かしながら言った。


「だから、少し安心します。」


 ベルは、しばらく何も言わなかった。


 廊下の空気が、少しだけ温かくなった気がした。


「……そうか。」

「はい。」

「なら、助かる。」

「はい。」

「ありがとう。」

「敬語。」

「ありがとうございます。」

「はい。」


 小雪は少しだけ口元を緩めた。


 後ろにいるので、ベルには見えない。


 そう思った。


「今、笑っただろ。」

「後ろにも目がありますか。」

「気配で分かる。」

「有能ですね。」

「今はやめろ。」

「なぜですか。」

「本当に減る。」

「初心なハートが。」

「そうだよ。」

「瀕死ですか。」

「もう何回目か分からねぇ。」

「治療しますか。」

「それはやめろ。」

「敬語。」

「それはやめてください。」


 小雪はベルの髪を拭き終えた。


 まだ少し湿っているが、水はもう落ちない。


「終わりました。」

「……ああ。」

「髪文明。」

「言うと思った。」

「進歩しました。」

「そうだな。」

「ベル。」

「何でしょうか。」

「ベルも、少し身ぎれいになりました。」


 ベルは顔を伏せた。


「……それ、言われる側も結構くるな。」

「くる。」

「心臓に。」

「病気ですか。」

「違う。」

「敬語。」

「違います。」


 小雪はインク瓶を持ち、寝室へ戻ろうとした。


 その背中へ、ベルが声をかける。


「小雪。」

「はい。」

「今日はもう、書いたら寝ろ。」

「はい。」

「湯冷めするな。」

「はい。」

「鈴は手元に。」

「はい。」

「でも、俺の入浴中は鳴らすな。」

「はい。」

「扉も開けるな。」

「はい。」

「筋肉も忘れろ。」

「難しいです。」

「そこは頷け。」

「善処します。」

「信用ならねぇ。」


 小雪は少しだけ笑った。


 ベルはまた顔を覆った。





 その夜。


 小雪は新しいインクで、記録を書き足した。


 生活文明進捗。


 一、湯浴み制度、継続。

 二、髪乾燥に竜巻は不可。

 三、ベルによる髪拭き、有効。

 四、髪が軽い。

 五、ベルは今の髪を綺麗と言った。

 六、ベル入浴中の訪問は禁止。

 七、ベルの筋肉は湯気でも確認可能。

 八、ベルの髪も綺麗。

 九、髪を拭くと安心する。

 十、初心なハートは頻繁に瀕死。


 書き終えて、小雪はペンを置き、寝具へ入った。


 枕は反発し、髪は乾いている。

 床には水が落ちておらず、鈴は手元にある。

 廊下の向こうには、ベルがいる。


 小雪は自分の髪に触れた。


 綺麗。


 ベルは、そう言った。


 今の髪が綺麗だと。


 小雪は目を閉じた。


 胸の奥が、まだ少し温かい。


 湯のせいか。

 髪を拭かれたせいか。

 ベルの手のせいか。

 自分がベルの髪を拭いたせいか。


 分類は難しい。


 けれど、今日はいつもより少しだけ、眠るのが惜しい気がした。


 小雪は鈴へ触れた。


 鳴らさない。

 今日は、鳴らさなくてもいい。


 少しして、廊下の向こうからベルの声がした。


「おやすみ。」


 小雪は目を閉じたまま答える。


「おやすみなさい。」


 少し間が空いた。


 それから、ベルが小さく言った。


「……髪、できるだけ下敷きにするなよ。」

「はい。」

「あと、明日の朝、記録は確認させてもらう。」

「全部重要です。」

「重要じゃねぇ。」

「明日、検討します。」

「信用ならねぇな。」


 小雪は少し笑った。


 ベルの足音が遠ざかる。


 家は静かになった。


 床は床で、寝床は寝床。湯は温かく、髪は乾いている。ベルはよく怒り、よく赤くなる。


 そしてベルは、小雪の今の髪を綺麗だと言う。


 ベルの髪も綺麗だ。


 生活は、面倒で、項目が多くて、非効率だ。


 けれど、それが少しずつ、小雪をどこかへ戻していく気がする。


 そのどこかが何なのかは、まだ分からない。


 ただ、今日は。


 人間の生活というものが、少しだけ温かいもののように思えた。

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