第十二話 小さな水車が回る
水車は、いきなり大きく作らない。
ベルはそう言った。
小雪は作業台の前で、小さな木の部品を見ていた。
丸く切られた板。
細い軸。
水を受ける羽根。
釘。
縄。
小さな支柱。
どれも小さい。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「小さいです。」
「試作だからな。」
「実物を作ればよいのでは。」
「いきなり実物大に行くな。」
「なぜですか。」
「失敗した時、材料も労力も無駄になる。」
「復元すれば。」
「魔法に頼らない。」
「……そうでした。」
小雪は頷いた。
魔法に頼らない。
最近、よく言われる。
川を削らない。
山を爆破しない。
雷を落とさない。
復元で誤魔化さない。
補填されるからといって、怪我を前提にしない。
項目が多い。
文明は、とても大変である。
ベルは図面を見ながら、板を一枚ずつ合わせていく。
「まず小さく作る。回るか見る。回るなら、次は安定させる。安定したら、何に使うか考える。」
「項目が多いです。」
「文明は大変なんだろ。」
「はい。」
「あと、釘を渡す時にわざと指へ触るな。」
小雪は手元の釘を見た。
「まだ何もしていません。」
「顔に出てる。」
「どんな顔ですか。」
「また俺で遊ぼうとしている顔だ。」
「遊んでいません。」
「嘘つけ。」
「少しだけです。」
「認めるな。」
「敬語。」
「認めないでください。」
小雪は釘を一本つまんだ。
そっと渡す。
ベルは受け取る。
指は触れない。
次の釘も、触れない。
その次も。
ベルは少しずつ警戒を解いた。
「よし。」
「偉いですか。」
「偉い。」
「ありがとうございます。」
ベルは自分で言って、自分で少し固まった。
小雪は首を傾げる。
「どうしました。」
「いや……やっぱり、素直に受け取られると調子が狂うな。」
「褒められたので。」
「そうだけど。」
小雪は次の釘を渡した。
今度は、ほんの少しだけ指先が触れた。
ベルの手が止まる。
「小雪。」
「はい。」
「今のは。」
「事故です。」
「本当か。」
「少しだけ事故です。」
「それは故意だ。」
「難しいですね。」
「難しくねぇ。」
「敬語。」
「難しくありません。」
ベルは釘を打ち込んだ。
小さな水車の羽根が、一枚ずつ形になっていく。
小雪はその手元を見ていた。
ベルの手は大きい。
釘を持つ。
木を押さえる。
図面を描く。
鍋を持つ。
髪を梳く。
倒れそうになった小雪を庇う。
その手が、今は小さな水車を作っている。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「やはり、手が有能ですね。」
ベルは金槌を落としかけた。
「またそれか。」
「褒めています。」
「手を褒めるな。」
「なぜですか。」
「照れるからだろ。」
ベルは言ってから黙った。
小雪も黙った。
「……今のは忘れろ。」
「照れる。」
「忘れろ。」
「敬語。」
「忘れてください。」
「難しいです。」
「忘れろ。」
「敬語。」
「忘れてください。」
「また二回目です。」
「うるさいです。」
ベルは顔を赤くしながら、次の釘を打ち込んだ。
伏せられた琥珀色の目が、細かな作業を追っている。
小雪はその色を見た。
火の色ではない。
金貨の色でもない。
蜂蜜。
あるいは、飴。
怒っている時は獣の目のように鋭いのに、こうして照れている時は少し柔らかく見える。
「ベル。」
「今度は何だ。」
「敬語。」
「今度は何でしょうか。」
「目の色が、飴みたいです。」
ベルは完全に止まった。
手元の羽根が、少し傾く。
「……何を急に言ってんだ。」
「琥珀色です。」
「知ってる。」
「飴。」
「繰り返すな。」
「おいしそうです。」
「食うな!」
「食べません。」
「当たり前だ!」
「敬語。」
「当たり前です!」
ベルは片手で顔を覆った。
「おまえは本当に、突然変なところを撃ってくるな。」
「撃っていません。」
「撃たれてんだよ。俺の初心なハートが。」
「初心なハートは、飴に弱い。」
「書くな。」
「まだ何も。」
「顔で分かる。」
小雪はペンを置いた。
ベルの目は、飴。
記録は後でよい。
小さな水車は、昼前に形になった。
直径は、両手で抱えられるくらい。
軸はまだ少し不安定で、羽根も完全には揃っていない。
それでも、ちゃんと水車の形をしていた。
ベルはそれを持ち上げた。
「よし。川に行くぞ。」
「はい。」
「鈴は。」
「持っています。」
小雪は袖の中の鈴を見せた。
ちりん。
小さく鳴る。
ベルが反射的に一歩近づいた。
小雪はベルを見る。
ベルも小雪を見る。
「……今のは事故だ。」
「近づきました。」
「反射だ。」
「ベルは反射で来る。」
「言うな。」
「敬語。」
「言わないでください。」
小雪は鈴を袖の奥へしまった。
水車、工具箱、紐、杭。
荷物は多い。
ベルは水車と工具箱を持ち、小雪は紐と軽い杭を持った。
小雪が水車を持つと言ったら、当然のように止められた。
「持てます。」
「持てるのは知ってる。」
「では。」
「握り潰すな。」
「水車は柔らかいですか。」
「柔らかくはねぇが、おまえは信用ならねぇ。」
「失礼です。」
「実績だ。」
「実績。」
「櫛を三本買った理由を思い出せ。」
「二本目はまだ折れていません。」
「偉い。」
「ありがとうございます。」
ベルはまた、少し困った顔をした。
小雪は少しだけ楽しくなった。
川へ着くと、水は昨日と同じように流れていた。
音を立てながら、石の間を抜けていく。
ベルは岸辺に荷物を置いた。
「まず、この浅いところで試す。」
「はい。」
「流れが強すぎる場所は駄目だ。持っていかれる。」
「持っていかれたら。」
「追うなよ。」
「まだ何も。」
「顔に出てる。」
「追跡顔。」
「増やすな。」
小雪は川を見た。
向こう岸には、昨日ベルが印をつけた石がある。
そこを確認するためには、川を渡る必要があった。
小雪は普通に歩き出そうとした。
ベルが手を出す。
「待て。」
「はい。」
「石が滑る。」
「落ちても平気です。」
「濡れる。」
「乾きます。」
「冷える。」
「風邪はひきません。」
「そういう問題じゃねぇ。」
「敬語。」
「そういう問題ではありません。」
ベルは小雪の前に手を差し出した。
「手。」
小雪はその手を見た。
「手。」
「取れ。」
「なぜですか。」
「滑ったら支える。」
「私は補填されます。」
「痛いだろ。」
小雪は黙った。
先日の言葉を思い出す。
痛いなら、庇う。
痛いなら、避ける。
そして。
痛いなら、支える。
小雪はベルの手を取った。
大きい。
温かい。
少し硬い。
釘を持つ手。
水車を作る手。
食事を作る手。
髪を梳く手。
小雪を庇う手。
小雪は、その手を見た。
まだ川へ入っていないのに。
触れたところだけ、少し温かい。
「小雪。」
「はい。」
「どうした。」
「触れたところが、温かいです。」
ベルの手が、びくりと跳ねた。
「……川が冷たいからだろ。」
「まだ水に入っていません。」
「気分の問題だ。」
「そうですか。」
「そうだ。」
ベルの耳が赤い。
小雪は手をつないだまま、彼を見上げた。
「ベルも温かいですか。」
「聞くな。」
「なぜですか。」
「減る。」
「初心なハートが。」
「言うな!」
「敬語。」
「言わないでください!」
ベルは顔を赤くしながら、小雪の手を引いた。
川の中へ入る。
冷たい水が靴に触れた。
石は確かに滑りやすい。
小雪の足が少し揺れるたびに、ベルの手へ力がこもる。
「ゆっくり。」
「はい。」
「その石は滑る。」
「はい。」
「次は右。」
「はい。」
「反対だ。」
「難しいですね。」
「左右は覚えろ。」
「敬語。」
「覚えてください。」
「初心なハートで。」
「うるさいです。」
小雪はベルの手を握ったまま、川を渡った。
転ばなかった。
落ちなかった。
手は、ずっと温かかった。
小型水車の試運転は、最初から少し難しかった。
ベルが支柱を川底の石に挟み、紐で仮止めする。
小雪は岸で水車を支える係になった。
「力を入れすぎるな。」
「はい。」
「潰すな。」
「はい。」
「流されても追うな。」
「はい。」
「返事がいい時ほど信用ならねぇ。」
「実績ですか。」
「実績だ。」
ベルは水車を流れの中へ入れた。
最初、水は羽根に当たるだけで、水車は動かなかった。
小雪はそれを見た。
「回りません。」
「角度が悪い。」
ベルは羽根の向きを少し変えた。
水が当たる。
かた、と水車が揺れた。
もう一度。
かた、かた。
そして。
くるり。
小さな水車が回った。
小雪は息を止めた。
くる、くる、くる。
水が羽根を押し、水車が回る。
魔法の光はない。
詠唱もない。
誰も命令していない。
ただ。
川が流れて。
水車が回る。
「回りました。」
「ああ。」
「魔法なしです。」
「そうだな。」
「ベル。」
「何だ。」
「敬語。」
「何でしょうか。」
「すごいです。」
ベルが水の中で固まった。
そのせいで、支柱が少しずれた。
「あ。」
小雪が声を出す。
次の瞬間、水車が大きく傾いた。
ばしゃ、と水を受け、支柱から外れる。
小さな水車は、勢いよく流され始めた。
「待て!」
ベルが慌てて手を伸ばす。
小雪も一歩動いた。
「来るな!」
「でも。」
「俺が行く!」
ベルが川の中を追う。
小雪は岸を走った。
袖の中で鈴が揺れる。
だが、鳴らさなかった。
ベルはもう、そこにいる。
「ベル。」
「来るなって言っただろ!」
「敬語。」
「来ないでください!」
「はい。」
「そこで待ってろ!」
「敬語。」
「待っていてください!」
「はい。」
ベルは流れる水車へ追いつき、片手で掴んだ。
だが、その瞬間、足元の石が滑る。
「ベル。」
「大丈夫だ!」
今度は落ちなかった。
片膝を水につきながら、水車をしっかり抱え込む。
水しぶきが跳ね、金色の髪が少し濡れた。
ベルが顔を上げる。
琥珀色の目が、ぎらりとこちらを向いた。
「……捕まえた。」
「有能ですね。」
「今は褒めるな。」
「なぜですか。」
「気が抜ける。」
「気が抜けると、流されますか。」
「俺がな。」
「ベルが流される。」
「書くな。」
「まだ何も。」
ベルは水車を抱えて戻ってきた。
服は、また少し濡れている。
前回ほどではない。
小雪は少し残念に思った。
「今、残念そうな顔をしただろ。」
「はい。」
「何でだ!」
「前回ほど濡れていません。」
「濡れるのを期待するな!」
「筋肉。」
「言うな!」
「敬語。」
「言わないでください!」
ベルは水車を岸へ置き、深く息を吐いた。
「とにかく、回った。」
「はい。」
「だが、固定が弱い。支柱もぶれる。羽根の角度もまだ悪い。流れが強いと外れる。」
「項目が多いです。」
「文明は大変なんだろ。」
「そうでした。」
小雪は、小さな水車を見た。
濡れている。
少し傷がついている。
羽根が一枚、曲がっている。
それでも。
回った。
魔法なしで。
川の流れだけで。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「小さい文明が回りました。」
ベルは少し笑った。
「流されもしたけどな。」
「はい。」
「まだ使い物にはならねぇ。」
「でも、回りました。」
「……そうだな。」
小雪は川を見た。
水は変わらず流れている。
世界は、いつも大きすぎる。
変えるには、あまりにも大きい。
けれど。
小さな水車は回った。
針一本分の文明の次に、水車一つ分の文明が回った。
「世界は、きっと少しずつでも変えられますよね。」
小雪は小さく呟いた。
ベルがこちらを見る。
少しだけ驚いた顔だった。
だが、すぐに口元を歪めた。
「まずは、流されない水車にしてから言え。」
「はい。」
「あと、川を爆破するな。」
「しません。」
「本当か。」
「約束しました。」
「山も削るな。」
「はい。」
「水路も勝手に変えるな。」
「善処します。」
「そこも約束しろ。」
「難しいですね。」
「……そんなに難しいですか。」
ベルは濡れた前髪をかき上げた。
小雪は、その琥珀色の目を見た。
水に濡れると、少し色が濃く見える。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「あなたは濡れると、目の色が濃くなりますね。」
ベルの動きが止まった。
「……また急に。」
「飴を少し焦がしたみたいです。」
「焦がすな。」
「焦げ飴。」
「変な名前をつけるな。」
「おいしそうです。」
「食うな!」
「食べません。」
「当たり前です!」
小雪は少しだけ笑った。
ベルは顔を覆った。
「……水車より先に、俺が回されてるな。」
「回りますか。」
「回らねぇ。」
「敬語。」
「回りません。」
「そうですか。」
二人は小さな水車を間に置き、川辺に座った。
次に直すところをベルが説明する。
小雪は聞く。
支柱を太くする。
羽根の角度を揃える。
流れを受けすぎないようにする。
軸のぶれを減らす。
ベルが水車の軸を持ったので、小雪も反対側を支えた。
指先が触れた。
釘でもない。
川を渡る時でもない。
ただ、同じものを一緒に持っただけだった。
それでも、少し温かい。
小雪は今度は口に出さなかった。
言うと、ベルが止まる。
ベルが止まると、水車の説明が進まない。
文明は大変である。
そして。
ベルの初心なハートも大変である。
夕方、家に戻ると、小雪はいつものように書き付けを始めた。
水車文明進捗。
一、小型水車、完成。
二、川で回った。
三、流された。
四、ベルが回収した。
五、固定が課題。
六、羽根の角度が課題。
七、ベルの目は焦げ飴。
ベルはそれを読んだ。
そして、七を指さした。
「消せ。」
「重要です。」
「どこがだ。」
「観察結果です。」
「水車と関係ねぇ。」
「川辺で判明しました。」
「関係ねぇ。」
「敬語。」
「関係ありません。」
「残念です。」
「残念がるな。」
小雪は紙を見た。
水車は回った。
流された。
直すところは多い。
けれど、前より進んだ。
針一本。
水車一つ。
温かい手。
焦げ飴の目。
分類は、非常に難しい。
だが、生活も文明も、少しずつ進むらしい。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「次は、流されない水車ですね。」
「ああ。」
「順番は。」
「俺が考える。」
「はい。」
「任せるか?」
「はい。ベルは順番が上手です。」
ベルは少しだけ黙った。
それから、視線を逸らす。
「……任された。」
「はい。」
「なら、引き続きやるしかねぇな。」
「はい。」
「だから、勝手に川をいじるなよ。」
「善処します。」
「約束。」
「……約束します。」
「よし。」
ベルは満足そうに頷いた。
小雪は、その顔を見た。
怒っていない。
赤くもない。
少しだけ嬉しそう。
小雪は、なぜか自分も少し嬉しくなった。
水車が回ったからだろうか。
ベルが嬉しそうだからだろうか。
どちらかは、よく分からない。
小雪は自分の手を見た。
川を渡った時の温かさが、まだ少し残っている気がした。
そっと、手を握る。
鈴は鳴らしていない。
それでもベルは、すぐそばにいた。




