第十一話 三下くんは良い奥さんになる
水車を作るには、材料がいる。
ベルはそう言った。
木材。
軸に使う硬い棒。
水を受ける板。
支柱。
釘。
縄。
油。
歯車に使えそうな部品。
工具。
それから、流れを測るための杭と紐。
小雪は作業台の前に座り、それらを書き出した紙を見ていた。
項目が多い。
非常に多い。
文明は、やはり大変である。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「水車は木でできますか。」
「最初は木だな。金属で作るには加工が面倒すぎる。」
「魔法で金属を――。」
「やらない。」
「まだ何も言っていません。」
「言う前に分かる。」
「顔ですか。」
「顔だ。」
「金属顔。」
「増やすな。」
「敬語。」
「増やさないでください。」
ベルは小雪の紙を引き寄せると、空いた場所に簡単な図を描き始めた。
丸い車輪。
水を受ける羽根。
中心を貫く軸。
それを支える台。
そして、回転を別の場所へ伝えるための仕組み。
ベルはこういう時、急に静かになる。
琥珀色の目を紙へ伏せ、長い指で迷いなく線を引いていく。柔らかな金色の前髪が額へ落ちると、少し邪魔そうに片手で払った。
線はきれいだった。
特に、丸が丸い。
小雪が描くと、おそらく丸は丸にならない。
前に円を描こうとして、少し歪んだ何かになった。
ベルはそれを見て、「目玉の潰れた魔物か」と言った。
失礼である。
しかし、確かにベルの描く丸は本当に丸だった。
とても綺麗。
だんごみたい。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「図が上手ですね。」
ベルの手が止まった。
「……普通だ。」
「普通ではありません。丸が丸です。」
「おまえの基準が低い。」
「私の丸は魔物でした。」
「そうだな。」
「敬語。」
「そうですね。」
小雪は頷いた。
「やはり、あなたは有能です。」
「急に撃つな。」
「褒めています。」
「分かってるから困るんだよ。」
「困りますか。」
「困る。」
「なぜですか。」
「おまえが真顔で褒めるからだ。」
「笑って褒めますか。」
「やめろ。」
小雪は試しに、少しだけ口元を緩めた。
ベルの描いていた線が、わずかに斜めになった。
「ほら見ろ!」
「何をですか。」
「手元が狂っただろ!」
小雪は斜めになった線を見た。
「ふむ。笑顔には手元を狂わせる作用がある。」
「書くな。」
「重要です。」
「重要じゃねぇ。」
「敬語。」
「重要ではありません。」
小雪は少しだけ残念に思った。
ベルは、小雪が笑うとおかしくなる。
これは生活文明においても科学文明においても、かなり重要な発見に思える。
水車作りの前に、ベルは家の裏へ簡易の作業場を作ることにしたらしい。
これまで小雪は、作業部屋で何でもやっていた。
木を削る。
金属を叩く。
薬品を混ぜる。
火を使う。
寝る。
最後は、もうベルに禁止されている。
今は寝室がある。
床は床になった。
寝床は寝床になった。
危険物は箱に入った。
家は少しずつ、人間の住まいになってきている。
その代わり、ベルは毎日とても忙しい。
今日も朝から、家の裏を掃き、比較的平らな場所を選び、木材を置く台を組み、道具を並べていた。
道具の向きまで決まっている。
使う順番に並べる。
濡れると困るものには布を掛ける。
重いものは下。
刃物は右。
縄はまとめる。
釘は小箱。
小雪は、その様子を眺めていた。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「巣作りが上手ですね。」
「巣って言うな。」
「では、作業場作り。」
「最初からそれを言え。」
「作業場作りが上手ですね。」
「……まあ、そう言われるなら悪くねぇ。」
「やはり有能。」
「だから急に撃つな。」
「撃っていません。」
「撃たれてるんだよ。」
「どこを。」
「初心なハートを。」
ベルは言ってから、固まった。
小雪は瞬きをした。
「自己申告。」
「忘れろ。」
「初心なハート。」
「忘れろ!」
「敬語。」
「忘れてください!」
小雪は頷いた。
忘れる予定はない。
重要な分類なので。
昼前までに、作業場はかなり整った。
小雪は木材を運ぼうとしたが、ベルに止められた。
「おまえは持つな。」
「持てます。」
「持てるのは知ってる。」
「では。」
「力加減が信用ならねぇ。」
「失礼です。」
「昨日、櫛を折ったやつが何を言う。」
「櫛は細かったです。」
「おまえが強かったんだ。」
「そうですか。」
「そうです。」
ベルは太い木材を一本持ち上げ、肩へ担いだ。
軽々と、というほどではない。
だが、安定している。
長い体が少し沈み、歩くたびにシャツ越しの肩と腕が動く。重心の取り方にも慣れていて、足元に迷いがない。
小雪は、それを見ていた。
昨日、川に落ちたベルを思い出す。
肩。
腕。
背中。
腹。
たしかにベルは、思っていたより強そうだった。
「小雪。」
「はい。」
「今、変なことを考えただろ。」
「筋肉。」
「単語で言うな!」
「敬語。」
「単語で言わないでください!」
「ベルは筋肉も有能ですね。」
「何だよ、その褒め方。」
「褒めています。」
「分かってるから困るんだよ!」
ベルは木材を台へ置いた。
顔が赤い。
暑いのかもしれない。
だが、今日は川ではない。
上半身も脱いでいない。
それなのに赤い。
小雪は、暫し考えた。
ベルは筋肉を褒めると赤くなる。
書こうとしたところで、ベルがこちらを見た。
「書くな。」
「まだ何も。」
「顔で分かる。」
「ベルはいつも私の顔を見ていますね。」
ベルが木材につまずきかけた。
「危ないです。」
「おまえが危ないんだよ。」
「私は座っています。」
「発言が危ない。」
「発言用の箱を――。」
「作るな。」
「敬語。」
「作らないでください。」
小雪は少し残念に思った。
発言用の箱は、やはり便利かもしれないのに。
昼食は、家の前で食べることになった。
ベルが朝のうちに作っていたスープと、焼いた薄いパン。それから、干し肉を刻んで野菜と炒めたもの。
小雪は椅子に座り、木の皿を両手で持った。
湯気が上がっている。
よい香りがする。
少し前の小雪なら、豆を噛んで終わっていた。
あるいは、食べること自体を忘れていた。
なんなら、天井に張りついた何かを食べるかどうかで悩んでいた。
今は、皿がある。
椅子がある。
食事の時間がある。
ベルがいる。
小雪は一口食べた。
温かい。
味がする。
「今日も、とてもおいしいです。」
ベルは当然のような顔をした。
「あたりまえだ。」
「敬語。」
「あたりまえです。」
「ベルは料理が上手ですね。」
「まあな。」
「掃除もできます。」
「そうだな。」
「荷造りもできます。」
「うむ。」
「会計もできます。」
「たしかにな。」
「髪も梳けます。」
「毛づくろいじゃねぇぞ。」
「整髪。」
「よし。」
「寝具も選べます。」
「ああ。」
「作業場も作れます。」
「もちろんだ。」
小雪は、暫し考えた。
そして、結論を出した。
「ベルは、良い奥さんになりそうですね。」
ベルが噴いた。
見事に噴いた。
スープではなかった。
水だった。
水でよかった。
ベルは咳き込みながら胸を押さえた。
「なっ……何を、急に……!」
「褒めています。」
「褒め方があるだろ!」
「家事能力が高いです。」
「そういう問題じゃねぇ!」
「では、良い旦那さん。」
ベルはさらに咳き込んだ。
「それも今言うな!」
「なぜですか。」
「順番がある!」
「また順番。」
「あるんだよ!文明にも!恋にも!」
言った瞬間、ベルが固まった。
小雪も少しだけ止まった。
恋。
今、ベルは恋と言った。
ベルは自分の口を押さえた。
「違う。」
「何がですか。」
「今のは、言葉のあやだ。」
「恋。」
「繰り返すな。」
「敬語。」
「繰り返さないでください。」
「はい。」
小雪はスープをもう一口飲んだ。
温かい。
おいしい。
ベルは顔を真っ赤にして、横を向いている。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「おいしいです。」
「今それを言うな。」
「なぜですか。」
「俺の初心なハートが忙しい。」
「初心なハートは多忙。」
「書くな。」
「書きません。」
「本当か。」
「食事中なので。」
「食後に書く気だろ。」
「善処します。」
「信用ならねぇ。」
小雪は少しだけ口元を緩めた。
食事は、少し面白い。
一人で豆を噛んでいた時は、こんなに面白くなかった。
午後は、水車の縮小模型を作ることになった。
いきなり本物を作ると、失敗した時に材料が無駄になる。
ベルはそう言った。
「まず小さく作る。回るか試す。水の受け方を見る。軸がぶれないかを見る。」
「復元すれば。」
「魔法に頼らない。」
「そうでした。」
「昨日、再現性の話をしただろ。」
「はい。」
「いきなり本番に行かない。小さく試す。」
「順番。」
「そうだ。」
「ベルが得意なものですね。」
ベルが一瞬、言葉を止めた。
「……まあな。」
「有能。」
「今は作業をしろ。」
「敬語。」
「作業をしてください。」
「はい。」
ベルは小さな板を並べ、車輪の形を作り始めた。
小雪は、釘を持つ係になった。
釘を一本ずつ渡す。
簡単な仕事である。
だが、ベルは何度も言った。
「一本ずつ。」
「はい。」
「握り潰すな。」
「はい。」
「曲げるな。」
「はい。」
「刺すな。」
「はい。」
「自分は刺さっても平気とか思うなよ。」
「……。」
「小雪。」
「はい。」
「今、少し思ったな。」
「補填されるので。」
「だから駄目だ。」
「なぜですか。」
「痛いだろ。」
小雪は釘を見た。
細くて、尖っている。
刺されば痛い。
「痛覚はあります。」
「だったら気をつけろよ。」
「はい。」
小雪は頷いた。
それから、釘を一本渡した。
ベルが受け取る。
指先が少し触れた。
ベルの手が止まった。
「どうしました。」
「……何でもありません。」
「顔が赤いです。」
「釘が暑い。」
「釘は冷たいです。」
「気分だ。」
「そうですか。」
次の釘を渡す。
また、少し触れた。
ベルの手が止まる。
小雪は、暫し考えた。
面白い。
もう一本。
指先が触れる。
止まる。
もう一本。
また止まる。
「おい。」
「はい。」
「おまえ、わざと触ってないか。」
「少し。」
「やっぱりか!」
「反応確認です。」
「俺で実験するな。」
「助手なので。」
「助手は実験材料じゃねぇ。」
「初心なハート。」
「それはもっと違う!」
「敬語。」
「もっと違います!」
小雪は少しだけ笑った。
ベルは額を押さえた。
「悪い勇者さまだな、本当に。」
「悪いですか。」
「悪い。」
「どのあたりが。」
「俺の反応を見て、面白がってるところだ。」
「面白いので。」
「認めるな。」
「でも、少しです。」
「少しならいいと思うな。」
「敬語。」
「少しならいいと思わないでください。」
ベルは溜息をついた。
だが、怒りきれていない。
小雪には、少しずつ分かるようになってきた。
ベルは、本当に怒っている時と、そうでない時がある。
今は、そうでない方だった。
小雪は次の釘を、今度はきちんと渡した。
「はい。」
ベルが受け取る。
「……どうも。」
少し静かになった。
小さな水車の模型は、少しずつ形になっていった。
問題が起きたのは、片付けの時だった。
作業場には、木片や釘、削りかすが散っている。
ベルはそれらを集めながら言った。
「足元に気をつけろ。」
「はい。」
「釘が落ちてるかもしれねぇ。」
「はい。」
「木片も踏むな。」
「はい。」
「返事がいい時ほど危ないんだよな。」
「信用がありませんか。」
「実績だ。」
「実績。」
「昨日まで床で寝てたやつが何を言う。」
「今は寝床があります。」
「俺が用意したからな。」
「良い奥さん。」
「蒸し返すな!」
「敬語。」
「蒸し返さないでください!」
小雪は足元を見た。
木片。
削りかす。
紐。
小さな板。
釘。
確かに危ない。
小雪は避けて歩いた。
避けた。
つもりだった。
足先が、丸い木片を踏んだ。
ころ、と木片が転がる。
小雪の体が傾いた。
倒れる。
そう判断した瞬間、ベルが動いた。
「小雪!」
長い腕が伸びた。
腰を引き寄せられる。
次の瞬間、ベルは自分の体を小雪の下へ滑り込ませた。
どさり、と鈍い音がした。
小雪は、倒れなかった。
正確には。
ベルの上に倒れた。
小雪は彼の胸の上に両手をつき、瞬きをした。
近い。
とても近い。
少し乱れた金色の髪。
寄せられた眉。
すぐ近くにある琥珀色の目。
ベルは自分の痛みより先に、小雪を見ていた。
「おい、大丈夫か。」
小雪は自分の体を確認した。
怪我はない。
痛みもない。
そもそも怪我をしても、補填される。
「大丈夫です。」
「どこか打ったか。」
「打っていません。」
「足は。」
「問題ありません。」
「手は。」
「問題ありません。」
「頭は。」
「問題ありません。」
ベルはようやく息を吐いた。
「ならいい。」
小雪は、ベルを見た。
「ベル。」
「何だ。」
「敬語。」
「何でしょうか。」
「ベルは大丈夫ですか。」
「あ?」
「下敷きになりました。」
「平気だ。」
「本当に。」
「本当だ。」
「敬語。」
「本当です。」
小雪はまだベルの上にいた。
ベルも、そこに気づいたらしい。
急に顔が赤くなる。
「……小雪。」
「はい。」
「そろそろ、どいてくれ。」
「はい。」
小雪は起き上がろうとした。
だが、手をついた場所が悪かった。
ベルの胸だった。
ベルが変な声を出した。
「ひゃっ。」
小雪は止まった。
「今、ひゃっと。」
「言ってねぇ。」
「言いました。」
「言ってねぇ!」
「敬語。」
「言っていません!」
「乙女。」
「言うな!」
小雪は起き上がった。
ベルも体を起こす。
その時、彼が一瞬だけ背中へ手を当てた。
小雪はそれを見逃さなかった。
「痛いですか。」
「少しだ。」
「怪我。」
「大したことねぇ。」
「見せてください。」
「嫌だ。」
「なぜですか。」
「脱がせようとするな。」
「怪我の確認です。」
「おまえの怪我の確認は信用ならねぇ。」
「筋肉は見ません。」
「今言った時点で見る気だろ。」
「善処します。」
「信用ならねぇ。」
小雪は、ベルの前に立った。
そして、静かに言った。
「次からは、結構です。」
ベルが顔を上げる。
「何が。」
「今のように、下敷きにならなくていいです。」
「は?」
「私は補填されるので、怪我をしても問題ありません。これでは、ベルが怪我をします。」
ベルは黙った。
小雪は続けた。
「非効率です。」
その瞬間、ベルの眉がぴくりと動いた。
「非効率。」
「はい。」
「おまえな。」
「はい。」
「怪我しなくても、痛ぇだろ。」
小雪は言葉を止めた。
「痛覚は、まだあります。」
ベルの表情が変わった。
「まだって何だ。」
「……。」
「あるなら、痛いってことだろ。」
「痛みはあります。」
「だったら庇う。」
小雪はベルを見た。
「なぜですか。」
ベルは不機嫌そうだった。
だが、それは怒っているというより、何かを堪えている顔だった。
「おまえが痛いのは、嫌だからだろ。」
小雪は黙った。
風が吹く。
地面の削りかすが少し動いた。
遠くで鳥が鳴いている。
小雪は、自分の手を見た。
痛み。
それは、ずっとあった。
爪が剥げても。
腕が裂けても。
骨が砕けても。
血が出ても。
焼けても。
切り落としても。
痛覚はあった。
けれど、治る。
補填される。
動ける。
死なない。
だから、問題ない。
そう処理してきた。
誰かに「痛いだろ」と言われることは、あまりなかった。
痛いなら嫌だろ。
痛いなら庇う。
痛いなら、避ける。
それは、小雪にとって少し不思議な考え方だった。
小雪はベルを見た。
ベルは背中を押さえたまま、そっぽを向いている。
耳が赤い。
怒っている。
照れている。
たぶん、少し痛い。
「ベル。」
「何だ。」
「敬語。」
「何でしょうか。」
「ありがとうございます。」
ベルの動きが止まった。
「……素直だな。」
「素直に礼を言って終わりでいいと、ベルが言いそうなので。」
「言う前に言われた。」
「はい。」
「そうか。」
「はい。」
小雪は少しだけ口元を緩めた。
なぜかは分からない。
ベルが怪我をしたかもしれないと思った時、少し嫌だった。
ベルが痛いと言った時、少し困った。
ベルが「おまえが痛いのは嫌だ」と言った時、胸の奥が少しだけ変だった。
それが何なのかは、まだ分からない。
けれど。
少し、笑いたくなった。
ベルがそれを見た。
そして、完全に固まった。
「……今のは反則だろ。」
「何がですか。」
「笑うな。」
「駄目ですか。」
「駄目じゃねぇ。」
「敬語。」
「駄目では、ありません。」
「では。」
「でも、今はやめろ。」
「なぜですか。」
「俺の初心なハートが、もう瀕死だ。」
「瀕死。」
「書くな。」
「書きません。」
「本当か。」
「今は。」
「あとで書くな。」
「善処します。」
「信用ならねぇ。」
小雪は、また少し笑った。
ベルは両手で顔を覆った。
「小雪。」
「はい。」
「片付けをする。」
「はい。」
「足元を見る。」
「はい。」
「俺の心臓を、これ以上踏むな。」
小雪は足元を見た。
「ありません。」
「比喩だ!」
「敬語。」
「比喩です!」
「難しいですね。」
「難しいです。」
二人は作業場の片付けに戻った。
今度は、ベルが小雪の近くに立った。
足元の木片を先に拾い、釘を箱へ戻し、紐を丸めていく。
小雪はそれを見ていた。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「近いです。」
ベルが一瞬、固まった。
「……嫌か。」
小雪は、暫し考えた。
嫌ではない。
近いと、木片を踏みにくい。
釘も避けられる。
転びそうになれば、たぶんベルがまた庇う。
ただし。
ベルが怪我をするのは嫌だ。
小雪は自分の中で、その言葉を確認した。
ベルが怪我をするのは嫌。
不思議だった。
「嫌ではありません。」
小雪は答えた。
ベルは、分かりやすく固まった。
「……そうか。」
「はい。」
「そうか。」
「二回目です。」
「うるさいです。」
「敬語は合っています。」
「そういう問題じゃねぇ。」
「敬語。」
「そういう問題ではありません。」
小雪は頷いた。
ベルは近くにいる。
鈴を鳴らさなくても。
それは、少し便利で。
少し、安心する。
その夜。
小雪はいつも通り紙を取り出し、ペンで書き付け始めた。
水車文明進捗。
一、順番を修正。
二、動力源が必要。
三、水車予定。
四、ベルは図面と作業場作りが上手。
五、ベルは良い奥さんになりそう。
六、転倒時、ベルが下敷きになった。
七、痛いなら庇うらしい。
八、初心なハートは瀕死になりやすい。
ベルはそれを読んだ。
しばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
「小雪。」
「はい。」
「五と八を消せ。」
「重要です。」
「重要じゃねぇ。」
「五は生活文明に重要です。」
「重要じゃねぇ。」
「八はベルの健康管理に重要です。」
「もっと重要じゃねぇ。」
「瀕死なので。」
「瀕死じゃねぇ!」
「敬語。」
「瀕死ではありません!」
ベルは紙を取ろうとした。
小雪はそれを押さえる。
二人の手が重なった。
ベルが固まる。
小雪も手元を見た。
ベルの手は温かい。
自分の手より、ずっと大きい。
釘を渡した時にも触れた。
転びそうになった時にも触れた。
水に落ちた時にも。
上着を渡した時にも。
小雪は、暫し考えた。
ベルの手は、よく働く。
料理をする。
髪を梳く。
図を描く。
木を運ぶ。
釘を打つ。
そして。
小雪を庇う。
「ベル。」
「……何でしょうか。」
「手も有能ですね。」
ベルは、ゆっくりと顔を伏せた。
「……もうやめてくれ。」
「駄目ですか。」
「駄目じゃねぇ。」
「敬語。」
「駄目では、ありません。」
「では。」
「でも、今日はもう無理だ。」
「何がですか。」
「俺が。」
「ベルが。」
「そうだ。」
「初心なハートが。」
「言うな。」
「瀕死。」
「言うな!」
「敬語。」
「言わないでください!」
小雪は紙から手を離した。
ベルも、少し遅れて手を離す。
「五と八は、明日消す。」
「明日。」
「ああ。」
「今日は消さないのですか。」
「今日は、もう疲れた。」
「体が痛いですか。」
「少しな。」
「背中。」
「大したことねぇ。」
「湿布のようなものを作りますか。」
「あるのか。」
「たぶん。」
「たぶんで背中に貼るな。」
「では、温めますか。」
ベルは少し考えた。
「……それは、頼む。」
小雪は頷いた。
「鈴を鳴らしますか。」
「目の前にいるだろ。」
「そうでした。」
小雪は台所へ向かい、布を温めた。
最初は温めすぎて、ベルに怒られた。
少し冷ましてから、背中へ当てる。
ベルが小さく息を吐いた。
「熱くありませんか。」
「ちょうどいい。」
「そうですか。」
「ああ。」
「痛みは。」
「少し楽だ。」
「そうですか。」
小雪はその言葉を聞いて、少しだけ安心した。
ベルが痛いのは嫌。
やはり、そうらしい。
「ベル。」
「何でしょうか。」
「次からは、私も足元を見ます。」
「そうしろ。」
「敬語。」
「そうしてください。」
「はい。」
「あと、俺が庇うのはやめねぇ。」
「非効率です。」
「効率の問題じゃねぇ。」
「では、何の問題ですか。」
ベルは少し黙った。
それから、顔を逸らす。
「……初心なハートの問題だ。」
小雪は瞬きをした。
「瀕死なのに。」
「うるさい。」
「敬語。」
「うるさいです。」
小雪は少し笑った。
ベルはまた顔を覆った。
水車は、まだできていない。
文明も、まだ針一本と図面と木材だけである。
けれど、家の中には夕食の匂いが残っている。
寝床には枕があり、鈴は手元にあり、ベルは背中に温めた布を当てて座っている。
床は床。
寝床は寝床。
食事は温かい。
痛い時は、誰かが庇う。
小雪は、それをまだうまく分類できなかった。
ただ。
人間の生活というものは、面倒で、非効率で、項目が多くて。
そして。
思っていたより、悪くないのかもしれない。
そう思った。




