第八章 消えた指輪
異変は、四日目の朝に起きた。
朝食の席に、一人の女性出演者が、青ざめた顔で現れた。指輪がない、と彼女は言った。亡くなった祖母の形見だという、銀の細い指輪だった。昨夜、洗面所で外して、棚の小皿に置いた。それきり、消えた。
食卓の空気が、凍りついた。
以前のピアスのときとは、温度が違った。ピアスは、どこかに落としたのだろうと笑って流せた。けれど形見の指輪となると、誰も笑わなかった。家のなかに、盗む者がいる。その疑いが、初めて全員の頭に、はっきりと形を持った。
番組のスタッフは、表向き、何事もないように振る舞っていた。カメラは回り続けていた。けれど詩織には分かった。スタッフの何人かが、いつもより硬い顔で、出演者たちを見ていた。事件が表に出れば、番組は終わる。五十嵐の言葉が、現実になりかけていた。
詩織は、自分の眼を、静かに起動させた。
まず、昨夜の人の流れを、頭のなかで再構成した。誰が、いつ、洗面所の近くにいたか。観察の習慣で、詩織はおおよその動きを覚えていた。確保の現場でいう、現認の連続性。犯行を点ではなく線で捉える。盗みは一瞬の出来事に見えて、その前後には必ず、不自然な動線が残る。
洗面所に近づいた者は、何人かいた。鷹野もいた。香田もいた。そして――八重も、いた。
詩織の眼が、八重のところで、わずかに留まった。
昨夜、八重は洗面所の前の廊下で、しばらく立ち止まっていた。何をするでもなく、ただ立っていた。あのとき詩織は、年配の人にはよくあることだと思い、気に留めなかった。けれど今、その光景を思い返すと、八重の右手が、あの木べらを握ったときと同じように、小刻みに震えていたのを、思い出した。
まさか、と詩織は思った。
八重には、動機がなかった。形見の指輪を盗んでも、八重に得はない。彼女は晩年の伴侶を探しに来た、穏やかな寡婦だった。誰より早く起きて、全員のために朝食を作る人だった。盗みと、彼女の人柄は、どうしても結びつかなかった。
八年前の罠が、詩織の頭をかすめた。藤村しずの慌てた仕草を、嘘の証拠だと読んだあの過ち。確証バイアス。一度疑い始めると、眼は疑いを裏づける材料ばかり拾う。八重の手の震えは、本当に盗みの証拠なのか。それとも、ただの老いの震えを、私が疑いの色で塗っているだけなのか。
詩織は、判断を保留した。八年前なら、保留しなかった。震えを見た瞬間に、現認したと思い込んだだろう。けれど今は、違った。見えたものを、すぐに信じない。それが、藤村しずの死から、詩織が学んだ、たった一つのことだった。
その日、家のなかは、ぎこちない捜索で一日が過ぎた。みんなで部屋を探そう、と最初に言い出したのは、鷹野だった。
「こういうときこそ、お互いを疑わないことが大事だと思う」鷹野は穏やかに言った。「だから、堂々と、みんなで一緒に探そう。やましいことがなければ、隠す必要はない」
立派な言葉だった。出演者たちは、深くうなずいた。鷹野への信頼は、この一言で、さらに厚くなった。
けれど詩織は、その言葉の構造に、寒気を覚えた。やましいことがなければ、隠す必要はない。それは、捜索に応じない者を、自動的に怪しく見せる言葉だった。鷹野は、自分への疑いを完全に消しながら、いざというとき、誰かに疑いを向けられる土台を、さりげなく作っていた。仲裁者の顔をして、盤面を組み替えていた。
この男は、と詩織は思った。盗んだ犯人ではないかもしれない。けれど、この騒ぎを、確実に利用している。混乱は、捕食者にとって、最良の狩り場だった。誰もが疑心暗鬼になれば、孤立した者ほど、優しい言葉に縋りたくなる。鷹野は、その瞬間を待っていた。
その日の家のなかは、目に見えて澱んでいった。昨日まで笑い合っていた者たちが、互いの手元をそれとなく見るようになった。誰かが部屋に入れば会話がやみ、誰かが立ち上がれば視線が追った。盗まれたのは指輪ひとつなのに、家じゅうから少しずつ温度が失われていった。湊の言ったとおりだった。物より先に、人と人のあいだのものが壊れていく。詩織はその崩れを、ただ黙って見ていることしかできなかった。台所には作りかけの煮物が冷め、誰も箸をつけないまま、出汁の匂いだけが薄く漂っていた。
夕方、詩織は捜索の輪から少し離れた場所で、湊を見つけた。彼は騒ぎに加わらず、いつものように本の手入れをしていた。傷んだ背に、細い刷毛で糊を塗っている。指輪は見つかりましたか。詩織が問うと、湊は静かに首を振った。
「探し方が、少し怖いですね」湊はぽつりと言った。
「怖い」
「みんなで一斉に疑い始めると、家の空気が変わる。失くした物より先に、人と人のあいだにあったものが壊れていく」湊は刷毛を置いた。「物はまた見つかるかもしれない。でも一度壊れた信頼は、糸をかけ直すようには、すぐに綴じ直せないんです」
詩織は湊の手元を見た。物を直す手つきと、人を見る目つきが、この男のなかでは地続きだった。誰も疑わず、誰も裁かず、ただ壊れていくものを惜しんでいる。その視線は、詩織のよく知る索敵の眼とは、まるで違う方向を向いていた。詩織は何も言えず、ただその手の動きを見ていた。
夕方、詩織は一人、二階の廊下を歩いていた。
八重の部屋の、半分開いたドアの隙間から、明かりが漏れていた。詩織は足を止めた。覗くつもりはなかった。けれど、隙間から見えたものに、息を呑んだ。
八重が、小さな布の包みを、簞笥の奥にしまっていた。その手が、震えていた。包みの中身は見えなかった。けれど八重の横顔は、盗みおおせた者の得意げな顔では、まったくなかった。
泣きそうな顔だった。
自分のしたことが、自分でも分からない。そういう顔だった。何かに追い立てられ、抗えず、そして、深く恥じている。詩織はその表情を、確保の現場で、一度だけ見たことがあった。生活に困ってでも、快楽のためでもなく、ただ、自分の意思では止められずに、手が伸びてしまう人。盗んだあとで、誰よりも自分を責める人。
詩織は、足音を立てずに、その場を離れた。
心臓が、重く鳴っていた。指輪を盗ったのは、八重かもしれない。けれど、それは、詩織がこの家で探している嘘とは、何かが決定的に違った。八重の手の震えは、悪意ではなかった。もっと、痛々しい何かだった。
この家には、二つの違うものが、紛れている。詩織は、確信した。一つは、止められない手の震え。もう一つは、計算され尽くした、冷たい笑み。私が現認すべきは、どちらなのか。そして、八重を、どうすればいいのか。
もし八重が指輪を盗ったのだと現認できたとして、それを報告すればどうなるか。八重はこの家を追われる。形見を失った女性は救われるかもしれない。けれど八重のあの泣きそうな横顔が、八年前の藤村しずの姿に、ふいに重なった。誰にも信じてもらえないまま壊れていった人。詩織は自分が今、また同じ天秤の前に立っていることに気づいた。事実を暴くことが、誰かを正しく救うとは限らない。眼が捉えた事実の先で、人は簡単に死ぬ。詩織はそれを身をもって知っていた。
答えは、まだ出なかった。廊下の窓の外で、海が暗く、ざわめいていた。寄せては返す音だけが、夜どおし、家の壁を撫でつづけた。詩織は自室に戻り、灯りを消した。けれど目を閉じても、八重のあの横顔が消えなかった。盗んだ者の顔ではなかった。盗まずにいられなかった者の顔だった。その違いを言葉にできる者が、この家に自分のほかに何人いるだろう。詩織は暗闇のなかで、長いこと天井を見つめていた。




