第九章 修復室
指輪の件は、その後、宙ぶらりんのまま日々に溶けていった。番組は何事もなかったように進行し、出演者たちは、ぎこちなさを抱えながらも、また恋の駆け引きへ戻っていった。けれど家のなかの澱みは、消えなかった。澱みの底で、詩織の眼だけが、静かに動き続けていた。
翌日の午後、詩織は湊に呼ばれた。
「見てほしいものがあるんです」
連れていかれたのは、別荘の一階の奥、もとは書斎だったらしい小部屋だった。撮影には使われない部屋で、カメラもなかった。この家で唯一、見られていない場所だった。湊はそこを、勝手に作業場にしていた。
部屋に入った瞬間、匂いに包まれた。古い紙の匂い。糊の、つんとした酸の匂い。それから、かすかな墨の匂い。机の上には、刷毛や、細い刃物や、和紙の束や、小さな重しが、整然と並んでいた。窓から差す午後の光が、舞う埃を金色に照らしていた。
詩織は、その部屋に、奇妙な安らぎを覚えた。カメラがない。見られていない。八年ぶりに殻の外へ出て以来、初めて、息を深く吸えた気がした。
部屋の隅には直し終えた本が何冊も積まれていた。詩織は背表紙の文字を順に目で追った。どれも一度は壊れた本だった。それが今はまっすぐ立って静かに棚の順番を待っている。捨てられてもおかしくなかった本たちがここで生き返っていた。その事実が詩織の胸を妙に締めつけた。世の中には壊れたものをそのまま捨てる人間しかいないと詩織は思い込んでいた。壊れたら終わりだと。傷ついたらもう使い物にならないと。けれどこの小さな部屋はそうではないと静かに告げていた。
机の上の道具は一つ一つが古びていた。柄のすり減った刷毛。刃のこぼれた小刀。手の脂で飴色になった重し。どれも長い時間をかけて持ち主の手になじんでいた。湊はそれらを丁寧に並べ直しながら作業を進めた。急がなかった。焦らなかった。一枚の紙を直すのに半日をかけることを惜しまなかった。詩織の仕事は速さと確実さがすべてだった。一瞬の判断が人の運命を分けた。けれどこの部屋では時間はまるで逆向きに流れていた。壊れたものをゆっくりと過去から救い出すように流れていた。詩織はその流れのなかで、自分の張りつめた何かが、少しずつほどけていくのを感じた。
「ここだけ、レンズがないんです」湊は詩織の表情を読んだように言った。「気づいてました? あなた、カメラのある部屋だと、ずっと肩に力が入ってる」
詩織の心臓が、小さく跳ねた。気づかれていた。観察されない場所で、観察する女が、観察されていた。
「……職業柄、です」
「警備の?」
「ええ」
湊はそれ以上、聞かなかった。ただ、机の上の一冊の本を、そっと詩織の前に置いた。あの、踊り場で見ていた本だった。背が割れ、ページが外れかけ、端が茶色く焼けた、古い本。
「これを、直しているところなんです」湊は椅子を引いた。「よかったら、見ていきますか」
詩織はうなずき、隣に座った。
湊の作業は、驚くほど、ゆっくりだった。
まず、傷んだページを一枚、机に広げる。破れた箇所に、霧吹きで、ほんのわずかに湿りを与える。それから、紙を漉いて作った、薄い薄い繊維の膜を、破れの上に、息を止めるようにして重ねていく。膜は、向こうが透けるほど薄かった。湊はそれを、まるで傷口に薬を塗る医者のような手つきで、なじませていった。
部屋には刷毛が紙をなでる音だけがあった。時おり湊が息を整える音がした。それ以外は何もなかった。話さなくてもよい時間というものを詩織はほとんど知らなかった。沈黙はいつも詩織にとって観察の時間だった。相手の隙を測り嘘の綻びを探す時間だった。けれどこの部屋の沈黙は違った。何も測らなくてよかった。何も探さなくてよかった。ただ隣に座って手元を見ているだけで時間が静かに満ちていった。詩織はその満ち方を、不思議な気持ちで味わっていた。
「破れた紙を、元どおりにはできません」湊は手を止めずに言った。「破れた痕は、残る。でも、繊維と繊維をもう一度つなげば、紙はまた、一枚の紙として、ページをめくられることができる。痕を抱えたまま、また使われる。それで、いいんです」
詩織は、その手元を、瞬きも惜しんで見ていた。
痕を抱えたまま、また使われる。その言葉が、胸の奥の、固く閉じた場所を、そっとノックした。八年間、詩織は、自分の破れを、誰にも見せないようにしてきた。見せれば、見抜かれる。見抜かれれば、また壊れる。だから、破れたページごと、本を閉じて、棚の奥にしまい込んできた。
誰にも読まれなければ安全だと詩織は思っていた。読まれなければ見抜かれない。見抜かれなければ二度と壊されない。それが八年間の生き方だった。けれどそれは生きていることとは少し違った。棚の奥にしまわれた本はもう誰にもめくられない。誰にもめくられない本は埃をかぶってただ古びていくだけだ。守られているのではなかった。忘れられていくのを待っているだけだった。詩織は自分の八年間が急にそういうものに見えてきて、喉の奥が細く苦しくなった。
湊の手のなかの本は違った。傷だらけのまま明るい光の下に開かれている。誰かにまためくられるために直されている。痕を抱えたままもう一度読まれるために。詩織はその本が、ほんの少しうらやましかった。一冊の本に嫉妬するなど、生まれて初めてのことだった。
けれど湊は、破れたページを、机の上に広げていた。明るい光の下で。隠さずに。そして、それを、捨てるのではなく、直そうとしていた。
「この本は」と詩織は尋ねた。「誰の本なんですか」
湊の手が、ほんの一瞬、止まった。
「……大切な人の、持ち物でした」湊は静かに言った。「もう、その人はいません。でも、約束したんです。これを、必ず直す、と。だから、直します」
その横顔に、詩織は初めて、湊の底のようなものを、垣間見た気がした。読めない、と思い続けてきた男の、水面の下。そこには、計算でも、悪意でもなく、ただ、深い喪失と、果たされていない約束が、静かに沈んでいた。
詩織は、何も聞かなかった。聞いてはいけない気がした。それは、握り込めば壊れる種類のものだった。
窓の外で、海鳥が一羽、鳴いた。光のなかを、埃がゆっくりと舞っていた。湊の刷毛が、紙の上を、規則正しく動いていた。詩織は、その静けさのなかで、自分の呼吸が、いつのまにか、ひどく深くなっていることに気づいた。
この男は、危険だ。
詩織は、自分にそう言い聞かせた。読めない男は、危険だ。八年前のように、また、近くの嘘を、見抜けなくなる。
けれど、その警戒の声は、もう、ずいぶん小さくなっていた。代わりに、別の声が、胸の奥で、おそるおそる、頭をもたげていた。直してほしい、という声だった。誰かに、自分の破れた背を、糸でかがり直してほしい。詩織が、八年間、決して認めようとしなかった、その声だった。
夕日が、修復室の壁を、赤く染めていった。光は机の上の刷毛や重しを順に撫で、最後に直しかけの本の上で止まった。傷んだ背表紙が赤い光をやわらかく受けていた。その本はもう捨てられた物には見えなかった。誰かに待たれている物に見えた。湊は、一日の作業を終え、本を、布で丁寧にくるんだ。
「また、見にきてください」湊は言った。「あなたが見ていると、なぜか、手元が落ち着くんです」
詩織は、答えられなかった。ただ、小さくうなずいた。そのうなずきが、八年ぶりに、誰かに心を開く、最初の一センチだったことに、詩織は、まだ気づいていなかった。




