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万引きGメンが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第十章 確信のひび

修復室に通うようになって、詩織の日々には、小さな避難所ができた。


 カメラのない部屋で、湊の手元を眺める時間。それは観察ではなかった。索敵でもなかった。ただ、隣にいる時間だった。詩織は生まれて初めて、誰かといて、相手を読まずにいられる時間を持った。読まなくてよい相手というものが、この世にいるのだと知った。


 湊は詩織に何も尋ねなかった。職業のことも過去のことも踏み込んでこなかった。それが詩織には不思議と心地よかった。人は誰かと近づくとき必ず相手の情報を欲しがる。名前を肩書きを過去を。そうやって相手を測り自分の立ち位置を決める。けれど湊はそれをしなかった。ただ同じ部屋にいることだけで満ち足りているようだった。問われないということがこれほど楽だとは詩織は知らなかった。問われなければ嘘をつかなくてすむ。嘘をつかなくてすめば見抜かれる心配もない。詩織は修復室にいるあいだだけ自分の眼を休ませることができた。眼を休ませるという発想そのものが詩織には初めてのものだった。


 けれど、眼は、簡単には眠らなかった。


 その夜、出演者たちは居間に集まり、めいめいの身の上を語り合っていた。番組ではよくある夜だった。生い立ちを明かし、傷を見せ合い、距離を縮める。カメラは、人が弱さを見せる瞬間を、何より好む。


 湊も、ぽつりぽつりと、自分のことを話した。


 地方の小さな町で育ったこと。本に囲まれて育ったこと。修復の技術は、ある古い工房で、長く学んだこと。湊の語り口は、いつものように穏やかで、淀みがなかった。誰もが、静かに耳を傾けていた。八重などは、目を細めて、我が子の話を聞くようにうなずいていた。


 詩織も、聞いていた。聞きながら、温かい気持ちになりかけていた。


 そのときだった。


 湊が、修復を学んだ工房の話をしながら、ある町の名を口にした。それから、少しあとで、別の話の流れで、自分が生まれ育った町の話をした。詩織の頭のなかで、二つの町の名と、語られた年月が、ひとりでに線で結ばれた。そして、線が、わずかに、合わなかった。


 ほんの小さなずれだった。十年学んだという工房に通い始めた時期と、その町に移り住んだという時期。湊の語る順序のままに並べると、彼は、まだその町にいない時期に、その工房で学び始めていることになった。


 誰も気づかなかった。気づくはずがなかった。ふつうの人間は、他人の話の年月を、いちいち記憶して照合したりしない。けれど詩織の頭は、それを、無意識にやってしまう。報告書を書く仕事だった。日時の矛盾は、嘘の最初の綻びだった。八年間、詩織はそれを、何百回も見つけてきた。


 眼が、勝手に、現認の構えを取った。


 やめて、と詩織は思った。


 今は、やめて。この男だけは、読みたくない。


 けれど、いったん見えてしまった綻びは、消えなかった。湊の穏やかな語りの下に、薄い、けれど確かな、矛盾の糸が、一本、透けて見えていた。湊は、何かを、語っていない。あるいは、語っていることの、どこかが、本当ではない。


 詩織の胸が、冷たく軋んだ。


 ありえない、と詩織は自分に言い聞かせた。年月の記憶違いなど、誰にでもある。話す順番が前後しただけかもしれない。それを矛盾と呼ぶのは、確証バイアスの逆だ。疑いたくない相手の、ほころびを、無理に塗りつぶそうとしている。八年前と、同じ過ちの、裏返し。


 けれど、詩織は知っていた。自分の眼が、こういうとき、めったに間違わないことを。藤村しずのときは、間違えた。けれど、それ以外の、何百件もの現認で、この眼は、外さなかった。だから自分は、外さない女と呼ばれてきた。その眼が、今、湊の話に、確かに、ひびを見つけていた。


 詩織は、こっそりと湊の横顔を見た。


 湊は、まだ穏やかに話していた。嘘をついている人間の顔には、見えなかった。けれど、それこそが、詩織を一番、不安にさせた。裏のないように見える男。読めないように見える男。その水面の下に、もし、巧妙に隠された嘘があるのだとしたら。八年前、近くの嘘を見抜けずに壊れた、あの傷が、ふいに疼いた。


 その夜、修復室で見た、湊の言葉が、よみがえった。大切な人の本を、必ず直すと約束した、と。あの、深い喪失の表情は、本物に見えた。けれど、本物に見える、ということが、この家では、何の保証にもならなかった。本物に見える嘘を作る場所。五十嵐の言葉が、耳の奥で、低く響いた。


 居間の灯りの下で、出演者たちは、まだ和やかに語り合っていた。八重の笑い声。香田の控えめな相槌。鷹野の、よく通る声。そのすべての上に、湊の穏やかな語りが、重なっていた。


 詩織だけが、その和やかさのなかで、一人、凍りついていた。


 凍りつきながらも、詩織の眼は、もう一つの動きを捉えていた。鷹野だった。鷹野は身の上話の輪の中心で誰よりも熱心に耳を傾けていた。相手が傷を語るたびに深くうなずき短い言葉で寄り添った。完璧な聞き役だった。けれど詩織には分かった。鷹野は人の傷を聞いているのではなかった。人の傷を集めているのだった。どこが弱いか何に飢えているか誰が誰を欲しがっているか。弱さは捕食者にとって地図だった。今夜この居間で全員が自分の弱さを自分から差し出していた。鷹野はそれを静かに記録していた。


 香田はその夜とりわけ多くを語った。親に十分に愛されなかったこと。いつも誰かの二番目だったこと。語りながら香田は何度も鷹野の方を見た。鷹野は香田が語り終えるたびに優しく微笑んだ。その微笑みが香田の弱さの地図のどこに印をつけているのか詩織には手に取るように見えた。守りたくなる顔の娘が今まさに狩りの照準の中心に置かれていた。


 いちばん信じたくなった相手の話に、いちばん最初に、ひびを見つけてしまった。それは、詩織の人生で、何度も繰り返されてきた呪いの、新しい一回目だった。眼は、愛したいものほど、よく見えてしまう。そして、見えてしまえば、もう、見なかったことには、できなかった。


 もし湊が嘘をついているのなら確かめる方法はいくらでもあった。詩織は人の嘘を崩す問いを知っていた。さりげなく時系列をもう一度語らせる。細部を変えて尋ね直す。嘘は細部で必ず破綻する。本当のことは何度語っても同じだが作り話は語るたびに少しずつ形を変える。八年間その技術で詩織は何百もの嘘を暴いてきた。


 けれど詩織はその問いを湊に向けられなかった。向けてしまえばもう後戻りできない。確かめて嘘だと分かってしまえばこの修復室の時間も終わる。読まずにいられる唯一の場所が消える。詩織は生まれて初めて真実を知りたくないと思った。知らないままでいたいと願った。それは保安員として最もしてはならない願いだった。そしてその願いの強さこそが詩織に自分の心の在り処を教えていた。自分はこの男に惹かれている。認めたくない事実が冷たい確信となって胸に降りてきた。


 窓の外で、海が、低く鳴っていた。詩織は、膝の上で、両手を固く握りしめた。その手の冷たさを、もう、誰にも、気づかれたくなかった。とりわけ、修復室で本を直すあの男にだけは。明日もまた自分はあの部屋へ行くだろう。行って隣に座るだろう。そして眼を休ませながら同時に眼を逸らしつづけるだろう。見つけてしまったひびから。詩織は自分がもう、ただの観察者ではいられないことを知った。観察者は対象に近づきすぎてはならない。近づけば眼が曇る。曇った眼は必ず誰かを取り違える。それを誰よりも知っているはずの自分が、いま、近づきすぎていた。

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