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万引きGメンが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第十一章 偽りの勝利

眼を逸らしつづけることは、できなかった。


 観察を職業にした人間にとって、見つけた綻びを見ないふりをするのは、息を止めつづけるのに似ていた。どこかで必ず、限界が来る。詩織の限界は、三日後の夜に来た。


 その夜、出演者たちが寝静まったあと、詩織はひとり、洗面所へ立った。撮影の合間、出演者は決められた時間だけ、外部のスタッフと事務連絡を取ることが許されていた。詩織には、そのための、もう一つの回線があった。潜入者だけが使う、五十嵐への直通だった。


 詩織は短く伝えた。朝凪湊の経歴を、洗ってほしい。生まれた町。学んだ工房。名前も含めて、すべて。


 翌日の夜、五十嵐から返事が来た。詩織は、その内容を聞いて、しばらく動けなかった。


 朝凪湊が番組に提出した経歴は、裏が取れなかった。彼が修業したという工房に、その名前の弟子の記録はなかった。生まれ育ったという町の戸籍にも、その名は見当たらなかった。朝凪湊という名前そのものが、おそらく、本名ではなかった。


「妙な男だ」五十嵐の声は低かった。「素性が、まるで掴めない。応募の経緯も、今思えば不自然でした。あなたの勘は、当たっていたのかもしれない。あの家には、私の知らない嘘が、もう一つあった」


 詩織は、回線を切った。洗面所の鏡に、自分の顔が映っていた。蛍光灯の白い光が、その顔を、八年前の事務室の色に染めていた。


 詩織はしばらく鏡の前から動けなかった。素性が掴めないという事実は決定的だった。人は誰でも過去を持っている。生まれた場所も学んだ場所も働いた場所も。それらは記録として必ずどこかに残る。残らないということは消したということだ。意図して消した過去だけが記録から抜け落ちる。湊は自分の来歴を消していた。消す理由のある人間だけが来歴を消す。詩織はそれを長い経験から知っていた。盗む者は名を偽る。追われる者は過去を捨てる。そして人を食い物にする者は新しい物語を自分にまとう。湊がまとっていた物語はあまりに静かで美しすぎた。壊れたものを直すだけの寡黙な男。その物語そのものが作りものだったのかもしれなかった。


 現認した、と詩織は思った。


 朝凪湊は、偽りの名で、偽りの経歴で、この家にいる。それは、もう、勘ではなかった。年月のずれという綻びから手繰った糸が、確かな事実に行き着いた。選定から隠匿、未精算通過、店外離脱。万引きの現認とは、形が違う。けれど、嘘を一本の線で捉え、揺るがぬ事実に詰めていく手つきは、まったく同じだった。詩織の眼は、外さなかった。今回も、外さなかった。


 勝った、はずだった。


 なのに、勝利の味は、どこにもなかった。あるのは、ただ、胸を内側から削るような、冷たい喪失感だけだった。


 詩織は、修復室のことを思った。古い紙の匂い。糊の匂い。刷毛が紙をなでる音。読まずにいられた、唯一の場所。眼を休ませることのできた、唯一の時間。あの静けさのすべてが、嘘の上に建っていた。湊の穏やかさも、約束の話も、握り込めば壊れると言ったあの言葉も。すべて、本名すら明かさない男の、作りものだったのだ。


 また、だ、と詩織は思った。


 詩織はその夜のあいだに何度も自分の眼を疑い直そうとした。確証バイアスの罠を思い出そうとした。疑い始めれば疑いを裏づける材料ばかりが見える。八年前と同じ過ちをまた犯しているのではないか。けれど今度はただの状況証拠ではなかった。記録の不在という動かぬ事実があった。戸籍にない名。記録にない弟子。それは慌てた老女の指の震えとは違った。解釈の余地のない冷たい事実だった。だからこそ詩織は逃げ場を失った。疑いたくないのに疑う材料が確かな形をしていた。信じたいのに信じる根拠だけがどこにもなかった。


 八年前と、同じだった。優しいと思った相手が、二重生活の片側だった。底まで見えると思った水面の下に、別の家庭が沈んでいた。詩織が、いちばん近づいた相手は、いつも、いちばん深い嘘を隠していた。学ばなかったのか、と詩織は自分を責めた。あれだけ壊れて、あれだけ誓ったのに。誰も信じないと決めたのに。なのにまた、わたしは、嘘の上で、息を深く吸っていた。


 眠れぬまま、詩織は修復室へ向かった。確かめずにはいられなかった。


 深夜の修復室は、月明かりだけが差していた。詩織は、机の上の、布にくるまれた本を、そっと開いた。湊が、大切な人の形見だと言った、あの本。背が割れ、ページが焼けた、古い本。


 その見返しに、小さな文字で、何かが書かれていた。


 月明かりに透かすと、それは、誰かへの献辞だった。女性の名前と、短い言葉。そして、日付。詩織の眼が、その日付を捉えた。今から、二年前。


 詩織は献辞の文字を指でなぞった。女性の名は柔らかな筆跡で記されていた。その下の短い言葉は月明かりでは読み取れなかった。けれど日付だけははっきりしていた。二年前の春。湊が大切な人を失ったのはその頃なのだろう。本来ならその喪失は詩織の胸を打つはずだった。けれど偽名と作られた経歴を知ったあとでは何もかもが疑わしく見えた。この献辞さえ小道具に見えた。悲しい物語を本物らしく見せるための小道具に。同情を引くための舞台装置に。人は誰かの涙を疑うことを残酷だと思う。だからこそ涙は最もよく効く嘘になる。詩織はそれを現場で何度も見てきた。咎められた者が泣く。失業を語る。病の家族を語る。その多くは本当だ。けれど一部は演技だった。そして演技と真実を見分けることだけが詩織の仕事だった。いまその仕事が詩織自身の胸を引き裂いていた。湊の喪失が本物か作りものか詩織にはもう分からなかった。分からないということ自体が八年前の傷を生々しくなぞった。近くの嘘は見抜けない。近くの真実も信じられない。それが詩織という女の壊れ方だった。


 大切な人は、もう、いない。湊は、そう言った。約束した、とも。


 詩織の頭のなかで、いくつもの断片が、勝手に並び替わっていった。偽名。作られた経歴。女性の名。二年前の日付。果たされていない約束。本物に見える、深い喪失の表情。


 恋を装って、人を食い物にする者がいる。五十嵐は、そう言った。香田を狙う鷹野だけが、その種の人間とは、限らなかった。素性を偽り、悲しい物語を背負ったふりをして、女の同情を引く男。詩織の眼の前で、湊という人物像が、まったく別の形に、組み変わっていった。


 信じたかった。読まずにいたかった。だからこそ、見抜けなかったのかもしれない。


 詩織は、本を閉じた。手が、震えていた。八重の手の震えとは違う、怒りと、悲しみと、自己嫌悪の、震えだった。


 月が、雲に隠れた。修復室が、闇に沈んだ。詩織は、その闇のなかで、ひとり、立ち尽くしていた。眼は、また、勝った。そして、また、いちばん大切になりかけていたものを、壊そうとしていた。


 勝つたびに何かを失う眼など何の役に立つのだろう。詩織は初めてそう思った。これまで眼は武器だった。誇りだった。生きる手段だった。けれど今その眼は自分の手のなかで刃をこちらに向けていた。見抜くことが救いではなく呪いになる瞬間があるのだと詩織は知った。布にくるみ直した本を抱えて詩織は修復室を出た。廊下は冷たく静まり返っていた。どの部屋のカメラも眠った出演者たちを黙って撮りつづけていた。この家のなかで眠れずにいるのは自分ひとりだった。眠れない者だけが見てしまうものがある。詩織はそれを八年間ずっと抱えて生きてきた。

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