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万引きGメンが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第十二章 確証バイアス

翌朝から、詩織は変わった。


 修復室には、まだ通った。けれど、もう、眼を休ませるためではなかった。観察するために通った。湊の一挙手一投足を、嘘を裏づける材料として、拾い集めるために。


 詩織は、自分が何をしているか、分かっていた。これは、確証バイアスだった。湊は嘘つきだと結論を決めて、その結論に合う証拠だけを、拾っている。八年前、藤村しずにしたのと、同じことだった。分かっていて、止められなかった。一度刺さった棘は、抜こうとするほど、深く食い込んだ。


 詩織は自分の眼の働きを誰よりもよく知っていた。眼はいったん結論を持つと世界をその結論の色で塗りはじめる。湊が朝早く起きれば人目を避けていると見えた。湊が夜遅くまで起きていれば何かを企んでいると見えた。湊が優しくすれば油断させる手口に見えた。湊が黙れば隠し事を抱えているように見えた。何をしても疑いの証拠になった。これが確証バイアスだった。世界が証拠で満ちていくのは世界がそう出来ているからではない。自分の眼がそう見ているからだった。詩織はそれを理屈では完全に理解していた。理解していながら一度傾いた天秤を水平に戻すことができなかった。理屈は感情の坂をせき止める杭にはならなかった。


 湊は、詩織の変化に、すぐ気づいた。


「何か、ありましたか」


 ある日、刷毛を置いて、湊は静かに尋ねた。詩織を責める口調ではなかった。ただ、案じる声だった。その優しさが、今の詩織には、むしろ巧妙な演技に見えた。


「いえ、何も」


 詩織は、冷たく答えた。自分でも、声が氷のようだと分かった。湊は、それ以上、聞かなかった。けれど、その目に、かすかな寂しさが差したのを、詩織は見た。見て、そして、その寂しささえ、疑った。本物の寂しさか。作られた寂しさか。詩織の眼は、もう、何を見ても、裏を探すようになっていた。


 壊れていく、と詩織は思った。せっかく、少しほどけかけた何かが、また、固く凍りついていく。湊の前で息を深く吸えた、あの数日が、遠い昔のように思えた。


 修復室の匂いも変わってしまった。古い紙と糊の匂いは前と同じはずだった。けれど詩織にはもうそれが心を落ち着ける匂いではなくなっていた。嘘の匂いに思えた。刷毛が紙をなでる音さえ作りものの静けさに聞こえた。詩織は同じ部屋の同じ椅子に座りながら以前とはまるで違う時間を過ごしていた。隣にいるのは同じ男だった。変わったのは男ではなく自分の眼だった。それが詩織にはいちばん苦しかった。壊れているのは湊ではなく自分かもしれないという疑いだけは決して証拠を集めようとしなかった。眼は自分の壊れだけは映さないようにできていた。


 その変化を、見ていた者が、もう一人いた。


 鷹野だった。


 鷹野は、人の感情の流れを読むことに、長けていた。詩織と湊のあいだに流れていた、淡い熱が、ある日を境に、急に冷えたこと。それを、鷹野は見逃さなかった。捕食者は、群れのなかの、揺らいだ個体を、決して見逃さない。揺らいだ者は、操りやすい。


 ある夜、庭で、鷹野が詩織に近づいてきた。


「真壁さんは、よく人を見てますね」鷹野は、海を見ながら言った。「いつも、一歩引いた場所から、みんなを観察してる。僕と、少し似てるかもしれない」


 詩織は、警戒した。この男は、何かを探っている。


「買いかぶりです」


「いや」鷹野は微笑んだ。「あなたは、朝凪さんのことも、よく見てたでしょう。最近、あの人との距離が、変わりましたね。何か、気づいたんじゃないですか。あの人の――妙なところに」


 詩織の心臓が、冷たく鳴った。鷹野は、詩織が湊に疑いを持ったことを、見抜いていた。そして、その疑いを、利用しようとしていた。


「あの人は、何かを隠してる。僕は前から、そう感じてました」鷹野は声を落とした。「真壁さん。あなたの眼が、それを確かめてくれるなら、僕は心強い。この家のみんなを、守るためにも」


 みんなを守るため。なんと、美しい言葉だろう。詩織は、その言葉の構造を、また、寒々しい思いで見抜いた。鷹野は、湊への疑いを、詩織に焚きつけていた。詩織が湊を告発すれば、家じゅうの目は湊に集まる。そのあいだに、鷹野自身は、完全に疑いの外側へ出る。そして、混乱に乗じて、香田を、さらに深く、自分の側へ引き込む。


 この男は、わたしを、駒として使おうとしている。


 その夜から鷹野はことあるごとに詩織のそばに来た。直接湊を悪く言うことはなかった。ただ詩織の疑いをそっと撫でて温めた。あなたは正しい。あなたの眼は確かだ。みんなのために真実を明らかにしてほしい。言葉はどれも正論だった。正論であるほど断りにくかった。鷹野は人を動かす言葉の選び方を熟知していた。詩織はそれを見抜きながら逆らえなかった。見抜くことと逆らえることは別だった。見抜く眼を持っていても自分の感情からは逃げられない。詩織はその当たり前の事実を生まれて初めて思い知った。人を読む力は自分を守る盾にはならなかった。むしろ読めるからこそ深く傷ついた。何も見えない者なら鷹野の誘導にも気づかず楽に流されただろう。すべてが見えるのにすべてに抗えない。それが詩織の地獄だった。


 分かっていた。分かっていて、なお、詩織は、鷹野の言葉を、振り払えなかった。なぜなら、鷹野の言っていることの、半分は、事実だったからだ。湊は、何かを隠している。それだけは、確かなのだ。詩織の眼が、確かに、現認したのだ。


 悪意のある男に焚きつけられ、確証バイアスに飲まれ、それでも、自分の眼の見たものを、否定できない。詩織は、自分が、いちばん危うい場所に、立っていることを知った。八年前と、同じ場所に。けれど、八年前より、ずっと、坂は急だった。今度、滑り落ちれば、壊すのは、見知らぬ老女ではなかった。


 いちばん、信じたかった、男だった。


 その夜遅く詩織が水を飲みに台所へ降りると湊がいた。湊は窓辺に立って暗い海を見ていた。詩織の足音に気づくと湊は静かに振り返った。眠れないんですか。湊がそう尋ねた。その声にはやはり責める色がなかった。ただ詩織を案じる気配だけがあった。詩織は答えなかった。何か悩んでいるなら聞きますよ。無理にとは言いませんが。湊はそれだけ言ってまた海へ目を戻した。


 詩織はその背中を見ながら喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。あなたは誰なのか。なぜ名前を偽っているのか。本当はこの家で何をしているのか。問えば終わる。問わなければ何も始まらない。けれど詩織はどちらも選べなかった。問う勇気も信じる勇気もなかった。詩織が選んだのは沈黙だった。沈黙は最も安全で最も卑怯な選択だった。おやすみなさい。詩織はそれだけ言って台所を出た。背後で湊が小さくおやすみと返した。その声が暗い海の音にやわらかく溶けた。


 部屋に戻り詩織は布団のなかで膝を抱えた。八年前の坂をまた転がり落ちていく感覚があった。あのときも誰かが正しいと言ってくれた。店長が警官が会社が。お前の眼は正しいと。その正しさが一人の老女を殺した。今また鷹野が言う。あなたは正しいと。同じ言葉が同じ場所から聞こえてくる。詩織は耳をふさいだ。けれど一番恐ろしいのは外の声ではなかった。自分の眼が確かに何かを見たという内側の確信だった。その確信こそが八年前も今も詩織を崖へ押し出すのだった。


 数日後その崖は思いがけない形で詩織の足元に口を開けることになる。鷹野が動いたのだ。詩織が決断する前に鷹野の方が先に盤面を進めた。すべては一枚の写真から始まった。

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