第六章 凪の男
階段の途中、踊り場の窓辺に、男が一人、腰かけていた。
家じゅうがざわめいていた。庭から笑い声が届く。ソファのあたりでは誰かが声をひそめて何かを囁いている。恋の夜が始まっていた。けれどその踊り場だけは、別の時間が流れているようだった。静かだった。明かりは廊下の常夜灯だけで、男の足元に薄い影が落ちていた。
膝の上に、古びた本を一冊開いている。ページをめくる指は、ひどくゆっくりだった。周りの喧騒も、点在するカメラも、まるで存在しないかのようだった。男はただ、本だけを見ていた。
朝凪湊だった。
詩織は階段の下から、その姿を見上げた。妙な光景だった。恋を探しに来た男女の家で、この男だけが、恋を探していなかった。誰の気も引こうとしていない。カメラに抜かれようともしていない。ただ、紙の上に沈み込んでいる。
近づくと、本の匂いがした。古い紙の、少し埃っぽい、乾いた匂い。図書館の奥や、長く開かれなかった本棚の、あの匂いだった。
「それ、ずいぶん古い本ですね」
詩織が声をかけると、湊は顔を上げた。驚いた様子はなかった。穏やかな目だった。海が凪いだときの、波一つない水面のような目。
「ええ。背が割れてしまっていて。糸が緩んで、ページが外れかけているんです」湊は本をそっと持ち上げ、見せた。「修復の練習に、持ってきました。手が空くと、つい」
「書籍修復士、でしたね」
「よく、ご存じで」
詩織は内心、しまった、と思った。出演者の経歴は、本来、初対面では知らないはずだった。資料で読んだ、とは言えない。
「自己紹介のとき、聞こえたので」
「そうでしたか」
湊はそれ以上、追及しなかった。嘘をあっさり受け入れた。いや、と詩織は思い直した。受け入れたのではない。気にしていないのだ。人の言葉の裏を取ろうとする気配が、この男にはまるでなかった。
それが、詩織には落ち着かなかった。
人は誰でも、他人と話すとき、無意識に相手を値踏みする。この人は味方か、敵か。得か、損か。その計算が、視線や声の調子に、必ず滲む。詩織はその滲みを読んで生きてきた。けれど湊の声には、計算の滲みがなかった。澄んだ水のように、底まで見えるように見える。
見えるように見えること。それが、何より不自然だった。
八年前のあの人も、こうだった。底まで見えると思わせて、その実、底には別の家庭が沈んでいた。澄んで見える水ほど、深さが分からない。詩織は湊の穏やかさに、かつて自分を欺いた優しさの輪郭を、うっすらと重ねた。だからこそ、警戒した。だからこそ、目を離せなかった。捕食者を探しに来たはずだった。なのに、この男の前で、詩織の索敵の眼は、いつもの照準を結ばなかった。読もうとすればするほど、焦点が、水面の上を滑っていく。
詩織は、自分の手のひらが、いつのまにか軽く汗ばんでいることに気づいた。
「本って、直るんですか」詩織は尋ねた。「そんなに、ぼろぼろなのに」
「直りますよ」湊は即答した。迷いのない声だった。「背を一度ばらして、糸をかけ直して、傷んだ紙を漉いて補う。時間はかかります。でも、直せないものは、めったにない」
湊は本の背を、指先でそっと撫でた。詩織の眼は、その手の動きを追った。節の目立つ、けれど繊細な指だった。爪は短く切りそろえられ、指の腹には、薄く硬くなった部分があった。糊や、紙や、刃物を、長く扱ってきた手だった。
「背の革をはがすと、なかから古い糸が出てきます。何十年も前に、誰かがかがった糸です」湊の声は、低く、ゆっくりしていた。「その糸が切れると、ページはばらばらになる。だから、新しい糸で、もう一度、一折ずつ綴じ直す。元の穴を、なるべく傷つけないように。本にも、過去がありますから」
本にも、過去がある。糸かがり、というその作業を、湊は祈りのように語った。詩織は、本の修復という仕事を、初めて間近で知った。それは、壊れたものを新品に戻す仕事ではなかった。壊れた来歴ごと、その本がもう一度生きられるように、支え直す仕事だった。
「破れた紙は、捨てて新しくしないんですか」
「しません」湊は首を振った。「破れた紙には、薄く漉いた紙を裏から当てて、繊維をなじませる。傷を消すんじゃなくて、傷を抱えたまま、もう一度綴じられるようにするんです。痕は、残ります。残っていい。痕がある方が、その本らしい」
痕は残っていい。詩織はその言葉を、口のなかで小さく繰り返した。喉の奥が、なぜか熱を持った。
「めったに、ということは。直せないものも、ある」
湊は少しだけ、考えるように間を置いた。
「火で焼けてしまったものは、難しい。あとは――直したくない、と本人が思っているもの。本は文句を言いませんが、人は、たまに、壊れたままでいたい、と思うんです」
詩織の指先が、わずかに動いた。何でもない一般論のはずだった。なのに、その言葉は、まっすぐ自分の胸の奥へ届いた。壊れたままでいたい。八年間、自分がしてきたことを、見知らぬ男に言い当てられた気がした。
「直したくない人のものは、直さないんですか」
「無理には。直すには、その人の許しがいるので」湊は本に目を落とした。「勝手に直すと、それはもう、その人の本じゃなくなる」
詩織は黙った。返す言葉が見つからなかった。
窓の外で、月が雲を抜けた。踊り場に、青白い光が差した。湊の手元の本の、傷んだ背表紙が、その光に照らされた。確かにそれは、ひどく傷んでいた。ページの端は茶色く焼け、糸はほつれ、表紙は今にも取れそうだった。それでも湊の手のなかで、その本は、捨てられた物には見えなかった。直される途中の物に見えた。
潮の匂いが、わずかに鼻をかすめた。窓のどこかが開いているらしかった。湊はそれに気づくと、本のページに薄い紙をはさみ、静かに閉じた。湿気は紙の敵なんです、と独り言のように言った。守られている本だ、と詩織は思った。守られている、という状態を、詩織は長いこと忘れていた。
詩織は不意に、自分がその本のように見られているような、奇妙な感覚に襲われた。
「あなたは、なぜここに」と詩織は問うた。「恋を探しに来た顔には、見えない」
湊は薄く笑った。困ったような、けれど穏やかな笑みだった。
「同じことを、あなたにも聞きたいですよ」
その一言で、詩織の心臓が小さく跳ねた。見抜かれた、と思った。観察してきた女が、この物静かな男に、たった数分で見抜かれた。
ありえない、と詩織は自分に言い聞かせた。偶然だ。あてずっぽうだ。この男に、人を読む眼などない。
けれど、湊の凪いだ目は、まだこちらを見ていた。底まで見えるはずのその目の、本当の底が、詩織にはどうしても、見えなかった。
その夜、詩織はなかなか寝つけなかった。
与えられた寝室は二階の端だった。天井の隅にも小さなレンズがあった。詩織は灯りを消し、布団のなかで壁の方を向いた。眠っている顔まで撮られている。それでも闇のなかでなら、表情は読まれにくい。海鳴りが遠く続いていた。波の音はこの家のどこにいても聞こえた。
目を閉じても、いくつもの顔が浮かんだ。鷹野の計算する目。八重の震える手。香田の伏せた視線。けれど一番長くまぶたの裏に残ったのは、ページをめくる、あのゆっくりとした指の動きだった。
壊れたままでいたい人もいる、と湊は言った。痕は残っていい、とも言った。あの男は、私の何を知っているのだろう。何も知らないはずだ。今日、初めて会ったのだから。
詩織はそう自分に言い聞かせた。けれど胸の奥の小さな警報は、鳴り止まなかった。それが危険を告げる音なのか、それとも、もっと別の音なのか。彼女にはまだ、聞き分けられなかった。




