第五章 視られる側
車は海沿いの道を、一時間ほど走った。窓の外で、街の灰色が、少しずつ夏の青みを帯びていった。岬に近づくにつれ、空気の匂いが変わる。潮の匂いだった。塩と、海藻と、濡れた岩の匂い。詩織は窓を少し下ろした。海からの風が、頬を強くなでた。まだ午前だというのに、光はもう夏のものだった。
番組の舞台となる別荘は、岬の突端に建っていた。白い壁の、大きな二階建て。三方を海に囲まれ、背後の細い道一本だけが、外の世界とつながっている。逃げ場のない場所、と詩織は思った。この家に入れば、出るときは番組から去るときだ。そして、嘘はこの白い箱のなかに、確かに一つ、閉じ込められている。
玄関の前で、スタッフが詩織を待っていた。手際よく、小型のマイクを襟元に留められる。配線が服の内側を這う感触に、詩織は思わず身を硬くした。これからは、息遣いの一つまで拾われる。声に出さない呟きだけが、唯一、自分のものとして残る。
家のなかに入ると、視線が一斉に集まった。
人間の視線ではなかった。壁際、天井の隅、棚の上。黒いレンズが、いくつもこちらを向いていた。普通の家なら死角になる場所――監視の目が届かない一角――が、この家には一つもなかった。死角を狩り場にしてきた詩織にとって、それは奇妙な眩暈を呼ぶ光景だった。狩る者の聖域が、ここでは存在しない。代わりに、見られない場所が、どこにもない。
観察してきた女が、観察される。立場が、完全に裏返った。
詩織は浅く呼吸を整えた。心拍が、確保のときよりも速い。指先が冷たい。けれど、ここで動揺を見せれば、それも素材になる。彼女は感情の蓋を、いつもより固く閉じた。
「はじめまして」
最初に近づいてきたのは、鷹野蓮だった。写真のままの、隙のない笑みだった。差し出された手は、温かく、乾いていた。
「真壁さん、でしたね。緊張、しますよね。僕も最初はそうでした。でも大丈夫。ここにいる人は、みんな優しいから」
言葉は、完璧だった。完璧すぎた。初対面の相手の緊張を、最初の一言で和らげる。気遣い深い好青年。けれど詩織の眼は、その笑みの下を読んだ。鷹野は詩織を見ていなかった。詩織の向こうにある、カメラを見ていた。彼の優しさは、詩織のためではなく、レンズの向こうの視聴者のために演じられていた。捕食者は、まず観客を味方につける。詩織は背筋がうっすら冷えるのを感じた。
「ご親切に」と詩織は微笑んだ。冷めた微笑みだった。鷹野の目が、ほんの一瞬、彼女の冷たさを値踏みした。攻略しがいのある女、とでも見たのだろう。
「あらあら、新しい方ね」
台所の方から、ふくよかな声がした。八重だった。エプロンをつけ、手には木べらを持っている。写真よりも、ずっと温かい顔をしていた。
「お腹、空いてない? いま、煮物を作ってるの。長旅でしょう」
その言葉の自然さに、詩織は少しだけ、肩の力が抜けた。八重の周りだけ、家の空気が和らいでいた。けれど詩織の眼は、職業の習性で、八重の手元を一瞬、追ってしまった。木べらを握る手が、わずかに震えている。年齢のせいか。それとも――。詩織はその違和を、頭の隅にそっと書き留めた。まだ、何の意味も持たない断片だった。
香田という若い女性は、ソファの端で、膝を抱えるように座っていた。詩織と目が合うと、慌てて視線を伏せ、小さく会釈した。守りたくなる顔、と資料で思ったとおりだった。同時に、食い物にされやすい顔。詩織の胸が、また騒いだ。
他にも、男女が数人いた。明るく振る舞う者、カメラを意識して声の大きい者、すでに誰かと親しげな者。それぞれが、それぞれの恋の戦略を、もう始めていた。恋愛リアリティショーとは、八人ぶんの欲望が、一つの家で同時に煮詰まる場所だった。
夜になり、長い食卓に全員が着いた。八重の作った煮物が、大皿で湯気を立てていた。出汁の匂いが、白い箱のような家のなかに、ほっとするような温度を運んでくる。けれど、その温かい食卓の上にも、カメラのレンズは並んでいた。誰かが箸を取る。誰かが笑う。誰かが好きな相手の隣を、さりげなく取り合う。そのすべてが、記録されていく。
詩織は端の席で、ほとんど喋らなかった。聞いていた。会話の表ではなく、裏を。鷹野は食卓の中心にいて、巧みに話を回していた。誰にどんな言葉をかければ、その人が心を開くか。彼はそれを正確に知っていた。香田が俯けば、すかさず優しく話を振る。八重が遠慮すれば、さりげなく皿を勧める。完璧な気配り。けれど詩織には見えた。鷹野が気配りを向ける相手は、いつも決まって、その瞬間カメラがよく抜いている人物だった。彼は人ではなく、画を見て動いていた。
「そういえば」と、女性出演者の一人がふと声を落とした。「この前、わたしのピアス、片方なくなっちゃって。どこ探してもないの」
食卓の空気が、ほんの一瞬、止まった。すぐに誰かが、どこかに落としたんじゃない、と笑って流した。会話はまた流れ出した。けれど詩織は、その一瞬の静止を見逃さなかった。何人かの目が、無意識にある一点を避けた。触れてはいけない話題、という共通の了解が、この家にはすでにあった。私物が消える。それは噂ではなく、現実だった。
食事のあと、出演者たちは思い思いに散った。二人で庭に出る者、ソファで身を寄せる者。恋の駆け引きは、夜にこそ濃くなる。詩織は一人、窓辺に立った。ガラスに、室内の灯りと、外の暗い海とが、二重に映っていた。手のひらの感触を確かめるように、冷えた窓ガラスに指を当てる。海鳴りが、低く、絶え間なく続いていた。
ここでは、眠っている時間以外、ずっと見られている。見られながら、見なければならない。観察を、観察されながら行う。これほどやりにくい現場は、初めてだった。けれど、と詩織は思った。みんなが演じている家のなかでは、演じていない瞬間こそが、際立つ。素が漏れる一瞬を、私は逃さない。それが、私にできる唯一のことだ。
ふと、窓ガラスの隅に、自分の顔が映っているのに気づいた。冷たく強張った、見慣れた顔。けれど、その奥に、別の何かが浮かんでいた。怖がっている、と節子は言った。怖いのはいいことだ、とも。詩織は自分の映像から、目を逸らした。被写体になるということは、自分の顔と、四六時中、向き合わされることでもあった。逃げてきた相手と、同じ家に閉じ込められたような気分だった。
廊下の角で、カメラを担いだスタッフが、足音を消して移動していた。彼らは家具のように振る舞うよう訓練されている。いる、けれど、いない者。かつての自分と同じだ、と詩織は思った。私もずっと、いる、けれど、いない者だった。客に紛れ、街に溶け、誰の記憶にも残らない。違うのは、私が見る側で、彼らが撮る側だということだけ。この家では、誰もが誰かを、こっそり見ている。
潮の匂いが、開いた窓の隙間から忍び込んできた。海鳴りは、夜が深くなるほど、大きく聞こえた。寄せては返す音は終わらない。詩織はその規則正しい反復に、いつしか呼吸を合わせていた。波が引くたびに肩の力がほどけ、波が満ちるたびにまた身構える。海はこの家の唯一の壁だった。そして海は、何も見ていなかった。カメラのない方角は、その黒い水面だけだった。詩織はしばらく、その見られない暗がりを見つめていた。
詩織は壁際に戻り、その全体を眺めた。索敵の眼で。誰が嘘をつき、誰が傷つき、誰が誰を狩るのか。八人の群れは、百貨店の雑踏よりも、ずっと濃く、ずっと逃げ場がなかった。
そのとき、二階へ続く階段の方で、本のページをめくる、かすかな音がした。
詩織は振り返った。




