第四章 問答の夜
契約を交わしてから、季節は二つ移ろった。撮影の準備が整ったと連絡が来たのは、夏のはじめだった。あの冬の喫茶店で「やります」と告げた自分が、ずいぶん遠く感じられた。詩織は再び喫茶店に呼ばれた。今度のテーブルには、分厚いファイルが一冊置かれていた。出演者の資料です、と五十嵐は言った。
番組の舞台は、海辺の一軒家だった。撮影のために借り上げた別荘で、岬の先に建っている。男女合わせて八人がそこで共同生活を送り、惹かれ合い、駆け引きをし、ときに脱落していく。出入りは厳しく管理され、出演者は撮影中、携帯電話を預け、外部との連絡を断たれる。閉じた家のなかで、感情だけが煮詰まっていく。そういう仕組みだった。
閉ざされた空間、と詩織は胸のなかで反芻した。逃げ場のない場所に、嘘がひとつ紛れている。索敵の条件としては、むしろ理想的だった。群衆は八人に絞られている。けれど八人ということは、相手もこちらを八分の一の濃さで見てくる、ということでもあった。百貨店の群衆のなかでは無敵の保護色が、ここでは効かない。
「あなたは、真壁詩織さん本人として参加します」五十嵐はページをめくった。「ただし、職業は伏せる。万引きGメンが恋を探しに来た、では、出演者が身構える。表向きは、警備関係の会社員、とだけ。本当のあなたを知っているのは、私と、現場のディレクター一人だけです」
「他のスタッフにも」
「伏せます。情報は漏れる。漏れた瞬間、あなたの眼は死ぬ」
正しい判断だった。観察は、観察されていないと相手が信じている間だけ機能する。気づかれた瞬間、人は演技を始める。それは万引き犯も、恋人も、同じだった。
ファイルには、すでに別荘で暮らす七人の顔写真が並んでいた。詩織は一枚ずつ、眼を通した。写真からでも、人はかなりのことを語る。
一枚目の男に、詩織の指が止まった。
鷹野蓮、三十八歳。自称、実業家。番組きっての人気者だと、五十嵐は言った。視聴者投票でも、女性出演者からの好感度でも、常に上位にいる。写真の鷹野は、隙のない笑みを浮かべていた。仕立てのいいシャツ。手入れされた指先。けれど詩織が引っかかったのは、その目だった。笑っているのに、目だけが笑っていない。正確には、笑い方を計算で作っている目だった。詩織はこの種の目を知っていた。柔らかい笑みの奥に、計算だけがある目。
「この人、人気なんですか」と詩織は言った。
「ええ。視聴者は、彼を信じています」
「信じさせるのが、うまいんでしょうね」
五十嵐は何も言わなかった。肯定とも否定ともつかない沈黙だった。
詩織は鷹野の写真を、もう一度見た。完璧すぎる、と思った。髪も、シャツの皺の寄り方も、笑みの角度も、すべてが計算の内側にある。本物の人間は、もっとどこかが崩れている。八重の写真には、撮られることへの照れがあった。香田の写真には、目の落ち着かなさがあった。崩れこそが、人が生きている証だった。鷹野の写真には、その崩れが一片もない。完璧さは、ときに最大の不自然だった。
「この番組は、本物の恋を撮ってるんですか」詩織は顔を上げた。「それとも、本物に見える恋を、作ってるんですか」
五十嵐の表情が、一瞬だけ止まった。痛いところを突かれた人間の止まり方だった。
「……編集をすれば、どんな素材も物語になります。喧嘩を恋に、無関心を駆け引きに。視聴者が見ているのは、私たちが切り取った真実です。切り取られた瞬間、真実は、少しだけ嘘になる」
「嘘の番組のなかで、本物の嘘を探せ、と」
「皮肉なものでしょう」五十嵐は苦く笑った。「でも、だからこそ、本物の悪意は、この嘘の海のなかで一番、隠れやすい。みんなが演じている家のなかで、誰が本気で人を傷つけているのか。それを見分けられるのは、嘘を職業にしてきた、あなたしかいない」
詩織は答えなかった。嘘を職業にしてきた、という言葉が、胸の柔らかい場所に刺さった。確かに自分は、嘘ばかり見てきた。けれど、本物を見たことが、いつあっただろう。
別の写真。八重という名の女性。六十二歳。寡婦。晩年の伴侶を探しに来た、と資料にあった。皺の刻まれた目元が、写真のなかでも温かく笑っていた。この人は嘘をつかない種類の顔だ、と詩織は思った。同時に、こういう人ほど、何かを抱えている、とも思った。長く生きた人間に、傷のない者はいない。
香田という若い女性。二十六歳。控えめで、写真でも視線が伏せがちだった。誰かに尽くしてしまう種類の顔。守りたくなる顔。だからこそ、食い物にされやすい顔でもあった。詩織の胸が、わずかに騒いだ。捕食者がいるなら、狙うのはこういう相手だ。
残りの写真を、詩織は淡々とめくった。やがて、最後の一枚で、手が止まった。
穏やかな顔の男だった。朝凪湊、三十五歳。職業の欄には、書籍修復士、とあった。古い本を直す仕事です、と五十嵐が補った。写真の男は、カメラを意識していなかった。作ったところがどこにもない。詩織は写真をしばらく見つめ、それから、かすかな違和を覚えた。
読めない、と思ったのだ。
鷹野の目は、計算が透けて見えた。八重の目には、隠した傷が見えた。香田の目には、怯えが見えた。けれど、この男の目からは、何も裏が見えなかった。裏がないように見えること。それが詩織には、一番、引っかかった。人に裏がないはずがない。裏が見えないなら、それは、よほど深く隠しているか――よほど、上手に。
「この人は」と詩織は写真を指した。
「朝凪さん。物静かな方です。あまり、目立たない」五十嵐は肩をすくめた。「正直、なぜ応募してきたのか、私にもよく分からない人です」
詩織は写真を閉じた。胸の奥で、小さな警報が鳴っていた。けれどその警報が、危険を告げているのか、それとも別の何かを告げているのか、このときの彼女には、まだ分からなかった。
◇
その夜、アパートの外階段で、節子が見送りに出てきた。詩織が数日、家を空けると伝えていた。
「旅行?」
「仕事です」
「そう」節子は詩織の顔を見上げた。「あなた、少し顔つきが変わったわね。怖がってる。いいことだわ」
「怖いのが、いいことですか」
「怖いってことは、失いたくない何かが、できかけてるってことよ」
詩織は答えなかった。失いたくない何か。そんなものは、八年前に全部、手放したはずだった。
節子はビニール袋を一つ、詩織に押しつけた。握り飯が二つ、入っていた。海苔の匂いが、夏の夜のぬるい空気にふわりと広がった。
「向こうで、ちゃんとお食べ」
詩織は袋を受け取った。受け取ることは、相変わらず苦手だった。けれどその夜は、なぜか素直に、ありがとう、と言えた。自分でも意外だった。
布団に入っても、眠れなかった。まぶたの裏に、七枚の顔が浮かんでは消えた。鷹野の計算する目。八重の温かい目。香田の怯えた目。そして、何も読めない、朝凪湊の目。
明日から、観察される側に回る。八年ぶりに、自分の殻の外へ出る。詩織は暗闇のなかで、握り飯の海苔の匂いを嗅ぎながら、ゆっくりと息を吐いた。覚悟は、まだ固まっていなかった。けれど、固める時間も、もうなかった。
暗闇のなかで、詩織は自分に問うた。お前に、人の恋のなかへ潜れるのか。お前は、恋を信じていないだろう。信じていない者が、恋を演じれば、必ずどこかで綻ぶ。綻びは、相手に読まれる。読まれれば、眼は死ぬ。
けれど、と別の声がした。演じなくていい、と五十嵐は言った。乗り気でない女は、あの種の番組にこそ、よくいる。だったら、ありのままでいよう。冷めたまま、群れに紛れよう。冷めていることだけは、嘘ではないのだから。
その夜、詩織は一睡もできなかった。窓の外がまた白む頃、彼女はようやく身を起こし、海苔の匂いの残る指で、小さな鞄の口を閉じた。覚悟は固まらないまま、足だけが、前へ出ようとしていた。




