第三章 三十秒のオファー
指定されたのは、駅から離れた古い喫茶店だった。煉瓦の壁に蔦が這い、扉を押すと、深く煎ったコーヒーの匂いと、年代物のレコードの低い音が迎えた。客は少ない。話を聞かれたくない人間が選ぶ店だ、と詩織はすぐに察した。
奥の席で、コートの男が立ち上がった。昨日の男だった。
「来てくださると思っていました」
「思い上がりですね」
「ええ。職業病です」
男は名刺をテーブルに置いた。今度は受け取った。番組プロデューサー、五十嵐とあった。会社名は、誰もが一度は耳にしたことのある番組の制作元だった。テレビを持たない詩織でも、その番組の名は知っていた。男女の出演者を一つ屋根の下に集め、恋の駆け引きを延々と撮り続ける。世間が恋愛リアリティショーと呼ぶ、あの種の番組だった。
カメラが、二十四時間回る。その想像が、詩織の背筋を冷やした。彼女の人生は、見られないことの上に築かれていた。客に紛れ、街に溶け、自分の痕跡をどこにも残さない。それが安全だった。誰にも読まれなければ、誰にも見抜かれない。見抜かれなければ、傷つかない。なのにこの男は、その安全な殻ごと、明るい場所へ引きずり出そうとしている。観察する側の女に、観察される側へ回れと言っている。想像しただけで、手のひらに薄く汗がにじんだ。
「単刀直入に言います」五十嵐はコーヒーを一口含んだ。「うちの番組で、ある問題が起きています。出演者の私物が、消える」
詩織は黙って続きを待った。
「最初は指輪が一つ。次にブレスレット。現金も。出演者は全員、撮影中は外部と接触を断たれ、共同の別荘で生活します。つまり、盗っているのは、あの家のなかの誰かだ」
「警察は」
「呼べません」五十嵐の声が低くなった。「事件が表に出れば、番組は終わる。スポンサーは恋を売る番組に、泥棒の影なんて求めていない。撤退は時間の問題です。それに――もっと厄介なものが、紛れている気がする」
「厄介なもの」
「出演者の誰かが、別の出演者を、食い物にしている。金を巻き上げている。恋を装って。私の勘では、ただの出来心の万引きとは、毛色が違う」
詩織の眼が、わずかに細くなった。捕食者、という言葉が頭をよぎった。恋という最も無防備な場所で、人を狩る人間がいる。万引き犯なら、欲しいのは物だ。けれど人を食い物にする者が欲しがるのは、相手の信頼そのものだ。信頼を奪う手口は、物を盗む手口より、ずっと見抜きにくい。なぜなら被害者自身が、最後まで奪われたことに気づかないからだ。詩織はその種の人間を、現場で何度か見たことがあった。柔らかい笑みの奥に、計算だけがある目。あの目は、群衆のなかでもひときわ、よく見える。
「あなたの仕事を、私は見ました」五十嵐は身を乗り出した。「半年前、別件の張り込みで百貨店にいた。あなたが客のなかから一人を選び出し、一度も眼を切らずに追い、確保するまでを、ずっと見ていた。索敵から現認まで、まるで一本の糸でした」
索敵というのは、群衆のなかから不審者を選り分ける作業だ。現認は、犯行を最初から最後まで連続して見届けること。専門の言葉を、五十嵐は正確に使った。下調べをしている、と詩織は思った。
「あなたは、群衆に紛れて人の嘘を見抜くプロだ。うちの別荘は、群衆の代わりに八人の男女がいる。あなたなら、紛れて、見抜ける」
「私に、出演者になれと」
「本物の出演者として潜入してほしい。恋を探しに来た一人として。そして、家のなかの嘘を現認してほしい。誰が盗み、誰が誰を食い物にしているのか」
詩織は笑いそうになった。恋を探しに来た一人。これほど自分から遠い役はない。人を信じることをやめた女が、恋のふりをする。喜劇だった。
「私は、人を演じるのが下手です」
「いや」五十嵐は首を振った。「あなたは演じなくていい。ただ、見ていればいい。恋に乗り気でない女は、あの種の番組にこそ、よくいる。むしろ自然です」
その言い方に、詩織は一瞬、言葉を失った。乗り気でない、という形容が、自分の人生そのものに思えた。
「報酬は」
五十嵐は、一枚の紙をテーブルに滑らせた。そこに書かれた数字を見て、詩織の指が止まった。
それは、藤村の遺族への支払いの残額を、一括で清算できる額だった。一円の狂いもなく。
心臓が、肋骨の裏で一度、大きく跳ねた。喉が詰まる。その数字は、八年間、詩織の首に巻きついていた鎖の重さそのものだった。この男は、鎖の長さまで測っている。
「……なぜ、その額を」
「人を探すのが私の仕事です」五十嵐は薄く笑った。「あなたが何を背負っているかくらい、調べます。失礼は承知の上で。でも、悪い話ではないでしょう。あなたは眼を売る。私は番組を守る。あなたの過去には、けじめがつく」
詩織は紙の数字を見つめた。心臓が、いやな鳴り方をした。喜びではなかった。見透かされている、という不快だった。観察する者が、また、観察されている。
詩織は顔を上げ、五十嵐を見た。今度は、商品を選り分けるときの眼で見た。指の組み方、まばたきの間隔、声がわずかに上ずる箇所。人は嘘をつくとき、必ずどこかに綻びを残す。気づかない癖が、本心を漏らす。けれど五十嵐の表面は、磨き上げられた硝子のようだった。読めない。職業柄、人前で本心を隠すことに長けた男だ。テレビという、本物に見える嘘を作る世界の住人。彼の差し出す善意の何割が、視聴率という別の欲のためなのか、詩織には測りきれなかった。
測りきれないことが、逆に詩織を惹きつけた。久しぶりに、手応えのある相手だった。
「枠が一つ空いた、と言いましたね」詩織は静かに言った。「辞退した出演者は、なぜ辞めたんですか」
五十嵐の眉が、ほんの一瞬、動いた。気づかぬほどの揺れだった。けれど詩織は気づいた。
「……体調を崩した、ということになっています」
「なっている、と」
「あなたは、本当に鋭い」五十嵐は苦笑した。「だからこそ、来てほしいんです」
その綻びひとつで、詩織は確信した。この家のなかで起きていることは、五十嵐の想像よりも、おそらく深い。誰かがすでに、傷ついている。
「考えます」
「三十秒で結構です」五十嵐は腕時計を見た。「明後日、撮影が始まる。今いる出演者の一人が急に辞退して、枠が一つ空いた。偶然か、それとも――。とにかく、今しか入れない。三十秒、差し上げます」
時計の秒針が、八年前の事務室の丸時計と、同じ音で時を刻んでいるように聞こえた。詩織は、自分が逃げられない場所へ立っていることを知った。
三十秒。頭のなかで、二つの天秤が揺れた。一方の皿には、督促の封筒と、藤村の墓と、八年ぶんの冷たい指先が乗っていた。もう一方には、二十四時間回るカメラと、恋を演じる屈辱と、また誰かを見抜いて壊すかもしれない恐れが乗っていた。どちらも重い。どちらを選んでも、何かが軋む。
レコードの針が、曲の終わりで小さく跳ねた。店の奥で、店主がカップを布で拭く乾いた音がした。コーヒーはもう冷めていた。
見抜きたくない、という昨夜の自分の声が、よみがえった。けれど見抜くことしか、自分にはできない。それなら、その力で、せめて一つだけ筋を通せるなら。藤村しずに、八年遅れの詫びを、形にできるなら。
「やります」
詩織は言った。自分でも驚くほど、静かな声だった。
五十嵐は腕時計から目を上げ、満足そうにうなずいた。けれどその満足の奥に、ほんのわずか、安堵とは違う色がよぎったのを、詩織は見逃さなかった。獲物が罠に入ったときの、狩人の目に似ていた。
誰が、誰を狩るのか。この時点では、まだ誰にも分からなかった。




