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万引きGメンが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第二章 十四時間半

眠りは、その夜も浅い水たまりのようだった。足首までしか浸からない。深い場所へ沈もうとするたび、八年前の冷たい蛍光灯が、まぶたの裏で点滅した。


 二十六歳だった。保安員になって二年目の冬。配属先は郊外の食品スーパーだった。レジ前の混雑が一段落した夕方、ひとりの女が詩織の眼に留まった。


 藤村しず。後で名前を知った。当時は六十代の半ばだったろう。藤村は買い物かごを持たず、エコバッグを肩から提げていた。総菜の棚の前で、何度も振り返り、店員の位置を確かめるように首を動かした。普通の客はしない動きだった。詩織の眼は、その挙動を不審行動と読んだ。


 藤村が、パックの惣菜を一つ、エコバッグへ入れた。選定。隠匿。詩織の鼓動が速くなった。当時はまだ、確保のたびに鼓動が速くなった。


 藤村はレジを通らずに歩き出した。未精算通過。そして自動ドアを抜けた。店外離脱。四つの要件は、詩織の眼のなかで一本の線につながっていた。線は揺るがなかった。揺るがないと、詩織は信じていた。


「精算を、お忘れではないですか」


 藤村は振り返り、きょとんとした顔をした。それから、ゆっくりと笑った。困ったような笑みだった。


「これはね、さっきレジで先に通してもらったの。袋が小さいから、別にしてもらって。レシート、ほら」


 藤村はエコバッグを探った。けれどレシートは出てこなかった。指が震えていた。後で分かったことだが、藤村は軽い手の震えと、人前で慌てると言葉が出にくくなる持病を抱えていた。あの首の動きも、あの振り返りも、盗みの兆しではなかった。ただ、慌てていただけだった。


 けれど当時の詩織には、それが言い逃れに見えた。慌てる様子が、嘘を取り繕う動きに見えた。一度そう見えてしまうと、眼は反証を拾わなくなる。後に詩織は、それを確証バイアスという言葉で知った。自分の見立てが正しいと信じるほど、目の前の例外が見えなくなる。経験が、罠になる。


「事務室へ、ご一緒いただけますか」


 藤村は防犯カメラを見せてほしいと言った。何度も言った。詩織はそれを、時間稼ぎだと思った。店長も、駆けつけた警察官も、現認した保安員の言葉を信じた。プロの眼を、信じた。


 藤村は、十四時間半、留め置かれた。


 事務室の壁には、安っぽい丸時計が掛かっていた。秒針が、やけに大きな音で時を刻んでいた。藤村はパイプ椅子に小さく座り、両手を膝の上で重ねていた。その手が、ずっと震えていた。詩織はその震えを、罪を犯した者の動揺だと読んだ。本当はただ、寒さと怯えと、誰にも信じてもらえない孤独の震えだった。


「カメラを、見てくださればわかります」


 藤村は、同じ言葉を何度も繰り返した。声は次第に小さくなり、やがてかすれて消えた。詩織は記録を取りながら、一度もその目を見なかった。見れば、迷う。迷えば、現認が揺らぐ。揺らいではいけない。そう自分に言い聞かせていた。事務室には、誰かの飲み残したコーヒーの、酸化した匂いが漂っていた。その匂いを、詩織は今も覚えている。思い出すたび、喉の奥がきつく締まる。


 翌日、レジの記録が照合された。藤村は、惣菜の代金を正しく払っていた。レジ係が混雑のなかで別会計にし、レシートを渡し忘れていた。その紙は、藤村のコートのポケットのなかで、くしゃくしゃになって見つかった。


 藤村は、完全な無実だった。


 その紙が見つかった瞬間のことを、詩織は鮮明に覚えている。店長が照合結果の電話を切り、こちらを見た。その目に浮かんでいたのは、怒りではなく、もっと冷たいものだった。失望でもない。なかったことにしたい、という色だった。詩織の足元が、すっと冷えた。立っているのに、床が抜けたようだった。自分の眼が、一人の人間を一晩じゅう冷たい椅子に縛りつけた。その事実が、遅れてやってきた津波のように、背中から襲ってきた。


 詩織の眼は、正しくなかった。けれど、詩織は最後まで「正しい」と思い込んでいた。それが何より恐ろしかった。間違っているとき、人はたいてい、自分が間違っているとは感じない。確信は、正しさの証明にはならない。確信ほど、あてにならないものはない。


 藤村はその後、家から出なくなった。近所の目が怖いと言った。誰も自分を信じてくれなかった、と娘に漏らしたという。半年で痩せ、一年と経たずに亡くなった。直接の死因は病だった。けれど詩織は、自分があの人の最後の一年を、冷たい蛍光灯の下に閉じ込めたことを知っている。


 遺族が会社を訴えた。会社は和解金を払った。詩織は現場の担当者として、その一部を個人で背負った。給料は安く、支払いは長く続いた。八年経った今も、終わっていない。


 藤村の娘は、和解の席で一度だけ詩織を見た。憎しみではなかった。憎しみなら、まだ救われた。娘の目にあったのは、ただの疲れだった。母を信じてもらえなかった疲れ。世界を一度信じることをやめた者の、乾いた目だった。詩織はその目を、自分のなかに飼うことになった。鏡を見るたび、同じ目がこちらを見返してくる。



 その冬は、もう一つのものも詩織から奪った。


 当時、詩織には付き合っていた相手がいた。優しい人だと思っていた。詩織が藤村の件で会社にも世間にも責められ、心を削られていったとき、その人はそばにいてくれた。だから余計に、見えなかった。


 別れの日、初めて知った。その人には、別の家庭があった。詩織と過ごす時間も、優しい言葉も、すべて二重生活の片側だった。半年も、詩織は気づかなかった。人の嘘をぜんぶ見抜くはずの眼が、いちばん近くの嘘だけは、まるで素通りしていた。


「君に見抜かれないように、ずっと気を張ってたよ。疲れた」


 最後にその人は、笑ってそう言った。詩織の眼を、ゲームのように攻略していたのだ。優しさは餌だった。寄り添う言葉は、観察を逸らすための煙幕だった。半年ものあいだ、詩織は最も近くの嘘を、自分の手で見ないようにしていた。信じたかったから、見なかった。信じたいと思った瞬間、自慢の眼は、ただの飾りになった。


 その夜、詩織は鏡の前に立ち、自分の目をのぞき込んだ。何も見えなかった。他人のことなら一瞬で読めるのに、そこに映る女が何を欲しがっているのか、まるで分からなかった。


 二つの傷は、詩織のなかで一つの嘘になった。私の眼は、無実の人を壊す。そして、本当に近づいた相手の嘘だけは、見抜けない。だから、もう誰も信じない。自分の眼も、自分の心も。人を見抜くことはできても、人を信じることは、二度としない。それは決意というより、傷口を覆うかさぶたのようなものだった。剥がせば血が出る。だから誰にも、触らせない。


 詩織は布団のなかで、膝を抱えた。窓の外が、うっすらと白み始めていた。テーブルの上の名刺が、夜明けの薄い光のなかで、ぼんやりと浮かんで見えた。


 藤村の遺族への支払いを、一括で終わらせられたら。あの人の墓前に、せめて筋を通せたら。その思いが、ふいに胸の底でひとつの火種になった。


 眼を、買いたいという。


 いいだろう。売れるものなら、売ってやる。


 詩織は身を起こし、名刺の番号を見つめた。指先は、まだ冷たかった。


 番号を押す指が、途中で何度も止まった。電話をかければ、また誰かと関わることになる。関われば、また見抜いてしまう。見抜けば、また誰かを壊すかもしれない。それでも、と詩織は思った。藤村しずの墓前に、せめて一度だけ筋を通したい。その一点だけが、八年間こわばった胸のなかで、小さく熱を持っていた。


 窓の外で、最初の電車の走る音が遠く聞こえた。詩織は息を吸い、通話のボタンに触れた。

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