第一章 不明ロスの女
「真壁詩織さん。私服保安員の」
男はそう言った。問いではなかった。確認だった。詩織は答えなかった。名乗った覚えはない。なのに男は彼女の職業まで知っている。それが何より気味悪かった。観察を生業にしてきた者にとって、自分の情報を先に握られていることは、丸腰で路地に立たされるのに等しい。
「怪しい者ではありません。いや、こういう言い方をする人間ほど怪しいですね」
男は薄く笑った。仕立てのいい外套の襟元から、香水ともコロンともつかない上品な匂いがした。テレビの世界の匂いだ、と詩織はなぜか思った。男は名刺を一枚差し出した。受け取らずにいると、それをポケットへ戻し、代わりに別の一枚を抜いて、近くの植え込みの縁にそっと置いた。
「気が向いたら。あなたの眼を、買いたいんです」
それだけ言って、男は雑踏に消えた。コートの背中はあっという間に人波に紛れ、追う気も起きなかった。詩織は植え込みの縁に残された名刺を、しばらく見下ろしていた。風が紙の角をめくる。冷えた指で、結局それを拾った。会社のロゴはない。番組制作会社、と小さくあるだけだった。
あなたの眼を、買いたい。気色の悪い言い回しだった。眼を売った覚えはない。けれど胸の奥が、わずかに波立った。誰かに必要とされる感覚を、詩織はもう長いこと忘れていた。その忘却の縁を、男の言葉は不用意に撫でていった。
◇
警備会社の事務所は雑居ビルの三階にある。蛍光灯が一本切れかけて、低く明滅していた。誰も換えようとしない。それくらいの予算もないのか、誰も気にしないのか、たぶん両方だった。床のリノリウムは端がめくれ、足を引っかけないよう誰もが同じ場所を避けて歩く。
詩織は退勤の判子を押し、報告書を提出箱に入れた。今日の確保は一件。財布。一万二千円。デスクの隅で先輩保安員の戸川が、冷めた茶をすすっていた。湯飲みの縁が、長年の指で薄く擦り減っている。
「真壁、また即確保か。お前さんは外さねえなあ」
外さない。その言葉が、詩織の胸の奥で鈍く軋んだ。
「相手、泣いてました」と詩織は言った。
「泣くやつぁ泣くさ」戸川は湯飲みを置いた。「俺たちが見てんのは事実だけだ。事情まで背負ったら、この仕事は一日でつぶれる。お前はそれがよく分かってる。だから外さねえ」
よく分かっている。だからこそ、ときどき自分が人間でないような気がする。詩織はそれを口にしなかった。
無線が短く鳴った。隣のフロアの店舗からの応援要請だった。戸川が受話器を取り、低く復唱する。
「川中様、ね。了解」
川中様、というのは万引き犯を指す店内符牒だった。買わない、がなまってカワナカになったという。店内放送で「川中様、お連れ様がお待ちです」と流せば、客には気づかれぬまま、店員と保安員だけが警戒を強められる。客に化ける者たちが、客に化けた敵を、客に聞こえぬ言葉で呼ぶ。詩織はこの符牒の二重底が、昔から少しだけ滑稽で、少しだけ悲しかった。
壁の貼り紙に、来月の勤務表があった。時給はこの春から十円だけ上がった。十円。月給で働く同僚もいるが、その額は世間の平均をはるかに下回る。学歴も特別な資格もいらない職だ。間口は広い。けれど背負うものは重い。確保のたびに、誤認の賠償という見えない刃が首筋に当たっている。割に合わない、と誰もが言いながら、誰もが辞めずにいる。詩織もそのひとりだった。辞めれば、自分には何も残らない。眼しか残らない。
◇
帰り道、商店街の総菜屋で半額の鯖を一切れ買った。値引きシールを貼られた商品を見ると、職業病で持ち主のいない不安を覚える。閉店間際の駆け込み万引きが一番多い時間帯だからだ。今は客ではないのに、詩織の眼は勝手に通路の奥を探していた。死角――監視カメラも店員の目も届かない一角――を、無意識に地図にしている。盗む者にとっての聖域を、守る者は誰より知っている。
古いアパートの二階。鍵を開けると、冷えた空気と畳の匂いがした。物は少ない。テーブルが一つ、座布団が一つ。本棚もテレビもない。来客もない。観察する者は、観察されることを嫌う。自分の部屋にすら、自分の痕跡を残したくなかった。痕跡は、いつか誰かに読まれる。読まれれば、見抜かれる。見抜かれることが、彼女は何より怖かった。
郵便受けから抜いてきた封筒を、テーブルに並べる。一通は弁護士事務所から。八年前の和解で生じた支払いの、残りの督促だった。あと少しで終わる。あと少しが、いつまでも終わらない。詩織は封を切らずに裏返した。裏返したところで、額が消えるわけではない。それでも、見ないでいられる夜が、ひと晩でも欲しかった。
外階段に足音がした。大家の節子が、味噌汁の入った小鍋を持って立っていた。詩織より頭半分ほど小さい、白髪を後ろで束ねた老女だった。
「作りすぎたから。あなた、また何も食べてないでしょう」
「いただきます。すみません」
受け取ると、湯気が顔を撫でた。出汁の匂いが、昼間の百貨店の地下を思い出させた。節子は上がり框に腰かけ、詩織の顔をしみじみと見た。皺の刻まれた目尻が、柔らかく下がる。
「あなたね、人のことはよく見るのに、自分のことは何も見てないのよ」
詩織の手が止まった。
「人の嘘はぜんぶ分かるんでしょう。なのに自分が何を欲しがってるかだけ、分からない。そういう顔をしてる」
「……買いかぶりです」
「そうかしらね。年寄りはね、見るしか楽しみがないから、嫌でも見えちゃうのよ」
節子は笑い、帰っていった。残された小鍋から、湯気が細くのぼっていた。詩織はその場に立ち尽くした。図星を突かれたとき、人はこんなふうに動けなくなる。彼女はそれを、確保のたびに相手の顔で見てきた。今、同じ顔を自分がしている。喉の奥が、また少し乾いた。
テーブルの上に、拾った名刺があった。番組制作会社。あなたの眼を、買いたい。
その文字を、詩織は長いあいだ見つめていた。指先が、わずかに冷たくなっていた。八年前の冬から、ずっと冷たいままの指先だった。
小鍋を火にかけ直し、温め直した味噌汁を一口すすった。豆腐とわかめ。具のひとつひとつが、誰かの手で選ばれている。詩織の食卓はいつも誰かのお下がりで、誰かの作りすぎで成り立っていた。自分のために誰かが時間を使う。その事実の重さに、彼女はいつも少しだけ息を詰める。受け取ることが、苦手だった。受け取れば、いつか返せと言われる。返せないものを抱えるのが、怖い。
味噌汁は、けれど温かかった。冷えた指先が、椀の縁でゆっくりとほどけていく。
督促の封筒と、番組制作会社の名刺。テーブルの上で、二枚の紙が並んでいた。一方は過去の重さで、もう一方は未来の重さだった。あなたの眼を、買いたい。その値段がいくらなのか、詩織はまだ知らない。けれど、もし督促の額を上回るなら――そう考えかけて、彼女は首を振った。うまい話には裏がある。それを見抜くのが自分の仕事だ。なのに今夜は、見抜きたくない自分がいる。
窓の外で、誰かの自転車のライトが揺れて通り過ぎた。畳に薄い光が走り、消えた。詩織は名刺を裏返し、また表に返した。何度そうしても、書かれた文字は変わらない。
眠れない夜になりそうだった。こういう夜には、決まって八年前の冬がよみがえる。あの日の、誰も自分の言葉を信じてくれなかった事務室の、冷たい蛍光灯の色まで。詩織は膝を抱えた。明日になれば、また誰かを見抜く。見抜いて、確保して、報告書を書く。それだけの人生に、急に隙間風が吹き込んでいた。




