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万引きGメンが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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プロローグ 不可視の眼

冬の午後の百貨店は、人いきれと暖房の匂いで満ちていた。地下から押し寄せる出汁の香りと、化粧品売り場の甘い残り香が、エスカレーターの途中で混ざり合う。天井の照明は均一に白く、影をどこにも落とさない。その明るい混濁のなかに真壁詩織は一滴の水のように溶けていた。


 誰も彼女を見ていない。それでいい。彼女の仕事は見られないことから始まる。


 私服保安員という。世間は万引きGメンと呼ぶ。制服を着た警備員が「ここを見ているぞ」と存在を誇示して抑止するのに対し、私服保安員は客に化けて売り場に紛れる。見えないことそのものが武器だった。屈強な体つきも鋭い眼光もいらない。むしろ平凡であるほど、群衆という保護色に深く沈める。三十四歳の地味な女が紙袋を提げて棚を眺めていても、誰も二度は振り返らない。


 足の裏が鈍く痛んだ。今日はもう一万八千歩を超えている。立ち仕事と歩き仕事が一日じゅう続くこの職は、退勤までに身体の芯が削れていく。だが詩織の集中は痛みの外側にあった。痛みは身体のもので、観察は眼のものだ。二つは別の回路で動く。


 手すりにもたれ、二階の婦人雑貨を見下ろす。視線は商品を追っていない。客の挙動だけを掬っている。


 マフラーを巻いた女は値札を二度見した。買うかどうか迷っているだけだ。シロ。ベビーカーの母親は子の口元ばかり気にしている。シロ。スーツの男は腕時計を確かめ、足早に去る。待ち合わせに遅れている。シロ。詩織の眼は人波を一秒ごとに選り分けていく。これは経験で磨かれた索敵だった。身体能力ではない。人を見抜く力だけが、年月とともに研がれていく。


 ひとり、いた。


 灰色のダウンを着た男が、財布売り場の前で三度、天井を見上げた。防犯カメラの位置を確かめている。普通の客は商品を見る。値札を見る。鏡を見る。けれど棚以外の場所――天井の隅、レジ奥の店員、通路の奥――に視線が飛ぶ者は、買い物をしていない。盗む算段をしている。詩織の眼は、その兆しを匂いのように嗅ぎ取った。


 男が動いた。詩織も動いた。距離は四メートル。近づきすぎず、離れすぎず。柱の陰、ワゴンの向こう、客の肩越し。視線は一度も切らない。


 現認、と胸のなかで呟く。


 現認とは、犯行の瞬間を最初から最後まで連続して目撃することをいう。途中で一秒でも見失えば、その間に商品を棚へ戻したかもしれない。だから手を出してはならない。確保には四つの要件がある。対象が商品を選び取る。それを鞄や懐に隠す。精算をせずレジを通過する。そして店の管理が及ぶ範囲――防犯ゲートの外側まで持ち出す。この四つが一本の線でつながって、初めて窃盗は成立する。線が一度でも途切れたら、現場ではリリース、つまり確保中止だ。怪しいというだけで人に触れてはいけない。それが鉄の掟だった。


 男の右手が、革の長財布を一つ掬った。選定。


 ダウンの内ポケットへ、滑り込ませる。隠匿。隠した品を業界の符牒でアンコと呼ぶ。詩織はその湿った響きが昔から嫌いだった。


 男はレジの脇をすり抜けた。未精算通過。


 あとは店外離脱を待つだけだ。詩織は呼吸を整えた。心拍は速くなっていない。指先も震えない。長時間の静かな追尾から、確保という激しい接触へ。静と動の落差は自律神経をすり減らすと先輩に教わったが、詩織の身体はとうに慣れていた。慣れることを、彼女は誇りに思っていない。


 自動ドアの外側、冷たい風が頬を撫でた。詩織は男の前へ回り込み、柔らかな声を作った。


「お客様、精算をお忘れではないですか」


 まず相手の落ち度を装う。万が一の誤認に備えた声かけの定石だった。男の顔が一瞬で崩れた。逃げる気力も、言い逃れる知恵も、その顔にはなかった。


 事務室で、男は急に泣き出した。失業中だと言った。妻が病気だと言った。たった一万二千円の財布で、これだけのことをするのかと、震える声で詩織を責めた。


 詩織は表情を動かさなかった。同情はしない。憐れみもしない。彼女の眼に映るのは、ただ四つの要件を満たした事実だけだ。


 事実の前で迷えば、いつか取り返しのつかない過ちを犯す。彼女はそのことを、誰よりも知っていた。八年前の冬、迷わなかったために犯した過ちを、まだ忘れられないからだ。あのときも、彼女の眼は正しかった。正しかったのに、人がひとり死んだ。詩織は奥歯を噛んだ。記憶の蓋は、こういう瞬間にだけ薄く開く。


「報告書を書きます」とだけ、詩織は言った。


 日時、商品、対応の経緯。一字も曖昧にしない。後の手続きで証拠になる。万引きは微罪に見えて、店と警備会社にとっては信用そのものを賭けた戦いだった。一件の不明ロス――原因の分からない在庫の欠減――が利益を削り、一件の誤認が会社を傾ける。薄氷の上を、彼女は毎日歩いている。


 すべてが終わり、詩織は通用口から冬の街へ出た。日はもう傾いている。アスファルトの匂いと排気の匂いが、暖房で火照った顔に冷たく触れた。


 そのとき、ふと首筋が冷えた。


 見られている。


 観察することを生業にしてきた者だけが持つ、皮膚の感覚だった。雑踏の向こう、横断歩道の手前に、コートの男が立っていた。仕立てのいい外套。手にはタブレット。男は詩織と目が合っても、視線を逸らさなかった。逸らすどころか、薄く笑った。値踏みするような、品定めをするような笑みだった。


 不可視であることが武器の女が、初めて、誰かにまっすぐ見られていた。


 観察する者が、観察されている。立場が裏返ったその一瞬、詩織の足は地面に張りついて動かなくなった。喉の奥が乾く。背中を、見えない指でなぞられたようだった。


 男が一歩、近づいてくる。信号が青に変わる。人波が二人のあいだを横切り、そして引いていく。男はもう、すぐそこにいた。

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