第二十二章 凪いだ海
収録が終わり、詩織は別荘を出た。
岬を下る細い道。その先に、海が広がっていた。嵐は過ぎていた。風はまだ少し冷たかった。けれど波は、もう穏やかに寄せては返していた。空には、雲の切れ間から午後の光が斜めに差していた。
詩織は一歩ずつ岬を下りた。足元の草が潮風に揺れていた。八年間ずっと群衆のなかに身を隠して生きてきた女がいまたった一人で開けた場所を歩いていた。隠れる柱もワゴンもなかった。死角もなかった。ただ空と海と光だけがあった。それでも詩織はもう不安ではなかった。見られて構わなかった。隠れなくてもいい場所が世界にはあるのだと詩織は初めて知った。潮の匂いが胸いっぱいに広がった。その匂いはもう怖くなかった。
道の途中、海を見下ろす場所に湊が立っていた。
詩織が近づくと、湊は振り返った。あの凪いだ海のような穏やかな目だった。今は、その目の底まで詩織には見えた。読めなかったのではない。読まないことを選んでいなかっただけだった。信じると決めたとき、人の底は、見ようとしなくても伝わってくる。
「終わりました」と詩織は言った。
「ええ。聞こえてきました。すごい騒ぎでしたね」湊は薄く笑った。「あなたは、やり遂げたんですね」
「私一人ではできませんでした」詩織は言った。「五十嵐さんのカメラ。八重さんの勇気。被害者の方の証言。そして――あなたが私を信じてくれたこと」
詩織は一度、言葉を切った。胸の奥で八年間、固く凍りついていた何かが、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
「私の眼は何度も人を壊してきました。藤村さんを。あなたを。眼が確かだから自分は正しいと思い込んで。でも今日、分かったんです。眼だけでは人は救えない。見抜くだけでは足りない。最後に人を救うのは信じる力だった。私にはずっと、それが欠けていた。あなたが、それを教えてくれた」
言葉にしてみると胸の奥がほどけていった。見抜く力は詩織の誇りだった。同時に詩織の牢獄だった。すべてが見えるからこそ詩織は誰も信じられなかった。信じなければ傷つかない。けれど信じなければ誰も近づいてこない。詩織は安全な孤独のなかで八年間ひとり凍えていた。湊はその凍えた手に火を分けてくれた人だった。証拠もないのに信じてくれた人だった。見抜くことではなく信じることがどれほど人を温めるか。詩織はそれをこの男から教わった。見抜く力と信じる力は対立するものではなかった。両方そろって初めて人は本物にたどり着ける。眼を手放すのではない。眼に信じる勇気を一枚重ねるのだ。そのときようやく人は赦されもう一度誰かを愛せる。
湊はしばらく黙って、海を見ていた。それから、鞄から一冊の本を取り出した。
あの古い本だった。背が割れ、ページが焼け、糸がほつれていた、妹の形見の本。けれど今は違った。背はまっすぐに綴じ直され、破れたページには薄い紙が当てられ、傷を抱えたまま、もう一度一冊の本として立っていた。
「直りました」湊は言った。「あなたが家を出る前に、間に合わせたくて」
湊はその本を、詩織に差し出した。
「これは妹の、大切な本でした。でも――もう、僕はこれを握りしめていなくてもいい気がするんです。妹は僕に、もう一度誰かを好きになれ、と言った。その約束は、たぶんもう果たせます」
詩織の視界が滲んだ。
受け取ることが、ずっと苦手だった。受け取れば返せと言われる。返せないものを抱えるのが怖い。八年間、詩織は誰からも何も受け取らないように生きてきた。けれど詩織は震える手でその本を受け取った。表紙は温かかった。湊の手の温もりだった。
本を抱えた詩織の腕にはずしりとした重みがあった。一冊の古い本の重さだった。けれどそれ以上のものの重さでもあった。湊が二年間ずっと抱えてきた喪失と祈りの重さ。妹との約束の重さ。その重さを湊はいま詩織に預けようとしていた。預けるということは信じるということだった。湊もまた詩織を信じてくれていた。互いに最も壊れやすいものを差し出し合う。それが信じ合うということの本当の意味だった。詩織はその本を二度と落とすまいと強く抱きしめた。
「私、この本に似てるって思ってたんです」詩織は本を胸に抱いた。「八年前に壊れて、棚の奥にしまい込んだ一冊の本。誰にも読まれないように。誰にも直されないように」
「知ってます」湊は優しく言った。「だから僕は、あなたの背に手を伸ばしたかった。でも、あなたが許してくれなかった。勝手に直すと、その人の本じゃなくなるから。だから、待ってました」
「もう、許します」詩織は言った。涙が頬を伝った。八年ぶりの涙だった。「直してください。痕は残っていい。残ったまま、もう一度誰かに読まれたい。あなたに」
湊は手を伸ばした。詩織の頬の涙を、そっと拭った。握りしめはしなかった。ただ、そっと触れた。本当に大事なものは、手の中に握り込むと壊れるから。けれど、もう握り込まなくても、詩織はそこにいた。自分の意思で。逃げずに。
これが信頼というものなのだと詩織は思った。鎖でつなぐのではない。握り込んで離さないのでもない。ただそばにいる。相手が自分の意思でそばにいてくれることを信じる。いつか去るかもしれないという不安に耐えながらそれでも信じる。それは見抜くことよりもずっと難しかった。けれどずっと温かかった。詩織は湊のとなりで初めてその温かさのなかにいた。誰かを見張るためではなくただ誰かと共にいるために立っていた。八年間こわばっていた肩の力がようやく完全にほどけていくのを詩織は感じた。
海が、凪いでいた。
遠い空で、海鳥が鳴いた。岬の風に、はっきりと秋の匂いが混じっていた。夏が終わり、季節が静かに移ろっていた。長い嵐の季節が終わり、二人の上に、凪いだ秋の海が広がっていた。
夏のあいだじゅうこの海は強い光に照らされていた。けれど今その光はやわらかく金色に変わっていた。秋の海の色だった。詩織はこの色をきっと一生忘れないだろうと思った。八年間続いた長い冬がいまようやく終わろうとしていた。胸の奥の凍えがゆっくりと溶けていく。溶けた場所に温かい何かが満ちていく。詩織は胸に抱いた本の重みをもう一度確かめた。直された本だった。痕を抱えたままもう一度開かれる本だった。詩織自身がその本だった。
かつて詩織は、冬の百貨店の雑踏のなかで、誰にも見られないように、一人の他人を冷たく見ていた。不可視の眼で。今、詩織は、誰も見ていない静かな海辺で、たった一人の人をまっすぐ見ていた。そして、その人に自分が見られることを、初めて許していた。
見ることと、見られること。その二つが初めて、詩織のなかで和解した。
湊がそっと、詩織の隣に立った。二人は並んで、凪いだ海を見ていた。何も話さなかった。話さなくてもよい時間を、詩織はもう怖がらなかった。
二人のあいだに長い沈黙が流れた。けれどそれは気まずい沈黙ではなかった。満ちていく沈黙だった。波が寄せては返した。光が水面で砕けて散った。詩織はこの静けさをずっと探していたのだと思った。誰にも見られない場所ではなく見られても怖くない相手のとなり。それが詩織の探していた本当の居場所だった。八年かけてようやくたどり着いた場所だった。遠回りだった。たくさんのものを壊した。けれどこの凪いだ海辺にたどり着くために必要な遠回りだったのかもしれないと詩織は思った。
その眼は、すべての嘘を見抜く。
けれど今、その眼は嘘ではなく、たった一つの本物を見ていた。




