第二十一章 掘り当てる真実
鷹野は追いつめられて、なお笑った。
「みなさん、聞いてください」鷹野は集まった人々へ声を張った。冷たい笑みだった。「この真壁という女が何者か、知っていますか。この人は八年前、無実のお年寄りを万引き犯だと決めつけて、十四時間以上も閉じ込めた。その人はその後、亡くなった。この人のその眼が、罪のない人間を一人、殺したんです」
ざわめきが広がった。出演者たちの視線が詩織へ集まった。疑いと戸惑いの混じった目だった。
鷹野は勝ち誇った。
「そんな人間の言うことを、信じるんですか。見抜くだの現認だの。この女の眼は一度、無実の人を殺してる。今度だって間違ってるかもしれない。僕を陥れようとしてるだけかもしれない」
巧みだった。鷹野は詩織のいちばん深い傷を正確に抉り、それを武器に変えた。八年前の過ちを、現認者の資格そのものを潰す盾に使った。家じゅうの空気が揺らいだ。
詩織は目を閉じた。
逃げたければ逃げられた。否定すればよかった。けれど詩織は目を開けて、まっすぐみなを見た。
「本当です」詩織は静かに言った。「八年前、私は無実の人を壊しました。藤村しずさんというお年寄りです。私の確信が間違っていた。私が一人の人の、最後の一年を奪った。それは本当です。一生、消えません」
言いながら詩織は不思議なほど落ち着いていた。八年間ずっと隠してきた過去だった。誰にも知られたくなかった傷だった。それをいま自分から人前にさらしている。けれど晒した瞬間その傷は少しだけ軽くなった。隠している限り傷は膿みつづける。光の下に開いて初めて傷は癒え始める。湊が破れた紙を明るい光の下に広げていたのと同じだった。痕は残る。残っていい。痕があるほうがその本らしいと湊は言った。詩織はいま自分の最も醜い痕を初めて誰かに見せていた。そしてそれを恥じなかった。恥じないことが八年かけてたどり着いた赦しの入り口だった。
誰も、口を、きかなかった。
「だから、私は知っているんです」詩織の声が震えた。けれど、止まらなかった。「確信がどれほどあてにならないか。自分の眼がどれほど人を壊せるか。だから今日、私は自分の眼だけを根拠にしませんでした」
詩織は五十嵐の方を見た。
「五十嵐さん」
五十嵐が進み出た。手にタブレットを持っていた。
「真壁さんの言うとおりです」五十嵐は言った。「今日の鷹野さんと香田さんのやりとりは、すべて一台のカメラが一度も切れずに記録しています。封筒が渡される瞬間も。二人だけの秘密に、と言った声も。すべて編集されていない、連続した映像で残っている」
五十嵐はタブレットを掲げた。映像が流れた。小部屋での鷹野の声。封筒を内ポケットに滑り込ませるその手。言い逃れのできない記録だった。
「それに」五十嵐は続けた。「鷹野さん。あなたの過去も調べさせてもらいました。別の名前で、別の場所で、同じことを繰り返してきましたね。被害に遭った女性たちの証言もあります。これは警察に渡します」
鷹野の顔から、血の気が引いた。
詩織の眼が捉えた本当の顔。仮面の下の捕食者。それがいま、すべての人の前に晒されていた。詩織の言葉だけなら疑えた。けれど、途切れない映像と過去の被害者の声が揃ったとき、もう誰も鷹野の笑みを信じなかった。
現認は、一人では完成しなかった。詩織の眼。五十嵐のカメラ。被害者たちの勇気。湊の信頼。みなの力が一本の線でつながって、初めて本物の悪意は白日のもとに引きずり出された。
鷹野はもう何も言わなかった。スタッフに促されて、その場を去った。最後まで香田を見なかった。彼にとって香田は最初から人ですらなかったのだ。
香田はその背中を呆然と見送っていた。やがて膝から崩れるようにしゃがみ込んだ。詩織はそっとそばに寄り添った。何も言わなかった。言葉はいらなかった。ただ隣にいることが今は何よりの支えだと詩織は知っていた。かつて湊が修復室でそうしてくれたように。隣にいるだけで満ちていく時間というものがある。詩織はそれを香田に返していた。
けれど、それで終わりではなかった。
「待って」一人の出演者が声を上げた。「そもそも指輪を盗んだのは誰なの。鷹野さんなの。それとも――」
空気がまた、ざわついた。疑いの矛先が行き場を求めてさまよった。そして、誰かの視線が、部屋の隅で青ざめている八重に止まった。八重の手が震えていた。
詩織はすばやく、八重の前に立った。
「待ってください」詩織は言った。
ここで八重を差し出すのは簡単だった。事実を並べればいい。指輪を盗ったのは八重だと。詩織の眼はとうに見抜いていた。八年前なら迷わずそうしただろう。事実を人前に並べて、また一人、壊しただろう。
けれど、詩織はもう、その女ではなかった。
詩織は集まった人々の方を向いてゆっくりと話し始めた。落ち着いた声だった。指輪は必ず持ち主に返ります。でもこの人を責めるのはやめてください。この人がしたことには理由があります。けれどそれは皆さんが思うような悪意ではありません。詩織はそれ以上は語らなかった。八重の病を人前で暴くことはしなかった。それは八重自身のものであって詩織が勝手に開いていいものではなかった。勝手に直せばその人の本ではなくなる。湊の言葉が詩織の胸に静かに灯っていた。
詩織は八重の方を向いて小さな声で言った。一緒に返しに行きましょう。そして帰ったらあの約束のとおり一緒に方法を探しましょう。あなたを助けてくれる人のところへ。八重の目から涙がこぼれた。八重は何度もうなずいた。長いあいだ誰にも言えずたった一人で抱えてきた重荷を初めて誰かと分け合える者の涙だった。
その様子を見て人々の疑いは少しずつほどけていった。詩織が八重を庇う姿には不思議な説得力があった。すべてを見抜く眼を持つ女が裁くのではなく庇っている。その事実が何よりも雄弁だった。見抜く力は人を断罪するためだけのものではない。支えるためにも使える。詩織はそれを身をもって示していた。八年前に壊した償いをこんな形でようやく一つだけ果たせた気がした。藤村しずに見せられなかった優しさをいま八重に向けている。それは遅すぎる償いだった。けれど償いに遅すぎるということはないのかもしれなかった。
指輪の持ち主の女性が静かに歩み出た。そして八重の手をそっと取った。事情はよく分かりませんと女性は言った。でも返してくれるならそれでいいですと。形見は戻ってくればそれでいい。あとはもう責めませんと。八重は深く頭を下げた。その光景に居間の空気がやわらかくほどけていった。誰も八重を泥棒とは呼ばなかった。罰の代わりに小さな赦しがその場に生まれていた。
すべてが終わったとき詩織は窓の外を見た。海はもう凪いではいなかった。白い波が立ち空には雲が流れていた。けれどその雲の切れ間から細く光が差していた。嵐の後にはまた凪が来る。朝凪が来る。湊が妹からもらったというあの名前のとおりに。詩織は岬の下で待っているはずの一人の男のことを思った。会いに行かなければならなかった。詫びるためではなく約束を果たした自分を見せるために。そして信じると伝えるために。詩織は玄関へ向かって歩き出した。八年間閉じていた扉を今度は自分から開けるために。




