第二十章 現認
小部屋のなかで、鷹野の声が変わった。
優しさはそのままだった。けれど、その優しさの奥に別の色が差し込んだ。詩織の眼はそれを逃さなかった。
「実は香田さんに、相談したいことがあるんだ」鷹野は声をひそめた。「番組が終わったら、僕は新しい事業を始める。きみと二人で生きていくための準備なんだ。でも立ち上げに、どうしてもまとまった金がいる。情けない話だけど」
選定だった。
鷹野は香田を選んだ。群れのなかから、いちばん信じやすく、いちばん与えたがる心を。八年前、灰色のダウンの男が財布売り場の前で一つの財布を選んだのと、同じ目だった。
「もちろん、すぐに返す。きみには絶対に迷惑をかけない。ただ――この話は二人だけの秘密にしてほしいんだ。みんなに知られたら、変な誤解をされる。きみと僕の大事な始まりを、汚されたくない」
隠匿だった。
秘密に、という言葉。それは隠すための言葉だった。万引き犯が商品を懐に滑り込ませるように、鷹野はこれから奪うものを、二人だけの秘密というポケットの奥へ隠そうとしていた。隠した瞬間に、それはアンコになる。詩織が昔から嫌いだった、あの湿った響きの言葉に。
香田はしばらく黙っていた。それから、小さな声で言った。
「……少しなら、あります。この番組の前に、おろしてきた、お金が」
香田が鞄から封筒を取り出した。詩織には見えた。半開きのドアの陰から、その白い封筒が香田の手から鷹野の手へ渡るのが。
鷹野はそれを受け取った。中も確かめずに。さも申し訳なさそうに。けれど、その指は迷わなかった。礼を言いながら、鷹野は封筒を自分の上着の内ポケットへ滑り込ませた。
未精算通過だった。
香田は何の見返りも受け取っていない。事業などない。返す気もない。鷹野はただ奪った。正当な対価を何ひとつ払わずに。レジを通らずに店の外へ向かう、あの足取りと同じだった。
あとは、一つだった。
鷹野が立ち上がった。香田の頬に軽く手を添え、もう少しだけ二人の時間を、と囁いて、ドアの方へ歩き出した。封筒を内ポケットに収めたまま、この小部屋から出ていこうとしていた。
店外離脱。
その瞬間が四つ目の要件だった。選定。隠匿。未精算通過。そして持ち出し。四つが一本の線でつながった。線は一度も途切れなかった。詩織の眼は最初から最後まで一秒も切れなかった。八年前の藤村しずのときのような見落としもなく。湊のときのような取り違えもなく。今度こそ詩織は完璧に見届けた。
現認が、完成した。
八年前のあの冬の百貨店がよみがえった。あのとき詩織は群衆のなかからたった一人の万引き犯を選び出し一度も眼を切らずに追いつめた。確保の瞬間相手は泣き崩れこれだけのことで人をと叫んだ。詩織は眉ひとつ動かさなかった。あれが詩織の原点だった。冷たい眼で人を壊しつづけた八年間の始まりだった。いままったく同じ現認をしている。同じ四つの要件を一本の線でつないでいる。けれど中身はまるで違っていた。あのとき詩織が見ていたのは罪だけだった。いま詩織が見ているのは罪の向こうで壊されかけている一人の人間だった。同じ眼で同じ技術で詩織はまったく逆の場所に立っていた。壊すためではなく守るために。冷たい確信ではなく温かい決意で。
詩織は、ドアの陰から、進み出た。
ちょうどドアを開けて出てこようとした鷹野の正面に立った。鷹野の足が止まった。完璧な笑みが一瞬、固まった。
ここから先はもう観察ではなかった。観察者は決して対象に触れない。けれど今日の詩織は触れにいった。隠れて見ているだけの八年間に終わりを告げるためだった。いる けれど いない者であることをやめる。見られることを恐れて殻に閉じこもってきた女が自分から明るい場所へ踏み出す。カメラの前へ。人の前へ。それは現認の最後の一歩であると同時に詩織自身がようやく世界へ出ていく一歩でもあった。膝はわずかに震えていた。それでも詩織は退かなかった。
「鷹野さん」詩織は静かに言った。声は平坦だった。けれど、八年前の感情のない冷たい平坦さとは違った。揺るがない、けれど温かい声だった。「精算を、お忘れではないですか」
鷹野の目が見開かれた。
その言葉の意味を、鷹野はすぐには理解できなかった。けれど、詩織の視線が自分の内ポケットをまっすぐ射ているのに気づいて、顔色が変わった。
「……何の話か分かりませんね」鷹野は笑みを作り直そうとした。「真壁さん、立ち聞きとは趣味が悪い」
「いま、あなたが香田さんから受け取った封筒」詩織は言った。「事業の資金だと言いましたね。返すと言いましたね。二人だけの秘密にしてほしいと。あなたがそれを本気で言っているのか、嘘で言っているのか。私の眼は最初から見ています。そして、この家のカメラはいま、その一部始終を一度も途切れずに撮っています」
鷹野の視線が、初めて廊下のカメラへ走った。レンズは確かに二人を捉えていた。赤い録画ランプが灯っていた。
香田が小部屋から出てきた。何が起きているのか分からない顔で。詩織は香田の方を見ずに言った。
「香田さん。あなたは何も悪くない。あなたが人を信じる力は、美しいものです。それを利用した人間がいるだけ」
香田は封筒のことを問われてもまだ事態を飲み込めずにいた。鷹野さんはそんな人じゃないと香田は震える声で言った。その声には鷹野を信じたい気持ちと信じきれない不安がせめぎ合っていた。詩織はその姿に胸を突かれた。騙された者は最後まで相手を庇おうとする。信じた自分を否定したくないからだ。けれど詩織は香田を責めなかった。あなたは悪くないと繰り返した。信じたことは罪ではない。罪なのは信じる心を狩った者の方だった。香田の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。その涙は奪われかけたものの大きさを物語っていた。
鷹野の顔から、ついに笑みが消えた。
残ったのは、詩織がずっとその奥に見ていた本当の顔だった。計算だけが動く、冷たい捕食者の顔。仮面が剥がれ落ちたその瞬間を、詩織はまっすぐ見つめた。逸らさなかった。
「あなたのその眼、本当に嫌な眼だ」鷹野は低く言った。笑みはもうなかった。「何でも見抜くつもりか。だが――見抜くことと証明することは違う。それに真壁さん。あなただって、叩けば埃の出る身じゃないんですか」
鷹野の声に、毒が混じった。
窓の外で、凪いでいた海が白い波頭を立て始めていた。
鷹野の反撃が始まろうとしていた。詩織はそれを予感していた。追いつめられた者は必ず牙をむく。とりわけ人を操ることに長けた者ほど最後まで盤面をひっくり返そうとする。鷹野は詩織の過去を嗅ぎつけていた。叩けば埃の出る身ではないかと言った。それは当たっていた。詩織には消せない過去があった。八年前に無実の老女を壊した過去が。鷹野はそこを突いてくるだろう。現認した者の資格そのものを潰しにくるだろう。けれど詩織はもう逃げなかった。逃げないと決めていた。最終収録の現場にはいつのまにか出演者やスタッフが遠巻きに集まりひとつの法廷のような静けさが満ちていた。すべての眼が詩織と鷹野に注がれていた。詩織は見られることをもう恐れなかった。見られて構わなかった。むしろ見てほしかった。これから自分が何を選ぶのかを。八年間ずっと隠れて生きてきた女が、いま全員の視線のただ中で静かに背筋を伸ばしていた。




