第十七章 一冊の本
朝の光のなかで、八重が、一枚の紙片を、詩織に手渡した。
「朝凪さんが、置いていったの」八重は言った。「もし真壁さんが、話したくなったら、渡してほしい、って」
紙片には、電話番号と小さな町の住所が書かれていた。湊の几帳面な字だった。詩織はそれを両手で受け取った。指先が震えた。湊は去り際にさえ、扉を半分開けておいてくれた。直したくない人のものは、無理には直さない。けれど、本人が望むなら、いつでも。そういう男だった。
詩織は、紙片を、胸ポケットに、そっとしまった。
その日の午後、詩織は、潜入者だけが使える、五十嵐への直通回線を、取った。
「報告があります」詩織は言った。「家の嘘の、正体が、分かりました。二つ、ありました。一つは、人を傷つけるための嘘では、ありません。だから、報告しません。私の責任で、伏せます」
「もう一つは」五十嵐の声が、低くなった。
「鷹野蓮です」詩織ははっきりと言った。「あの男は、この家で、出演者を、食い物にしています。香田さんが狙われている。たぶん、結婚詐欺の、常習犯です」
回線の向こうで、五十嵐が息を呑む気配がした。
「証拠は」
「まだありません」詩織は答えた。「だから、作ります。現認します。あの男が香田さんから何を、どう奪うのか。その一部始終を、一度も眼を切らずに。選定から隠匿、未精算通過、店外離脱まで。万引きと同じ要領で。私の得意分野です」
「真壁さん」五十嵐は少し、間を置いた。「あなた、変わりましたね。前はもっと、自分の眼を恐れていた。今は、使おうとしている」
「恐れていたんじゃ、ありません」詩織は言った。「逃げていたんです。でも、もう、逃げません」
五十嵐は鷹野の素性を洗うと約束した。番組に提出された経歴の裏を取る。過去に同じような被害がなかったか、調べる。結婚詐欺は足がつきにくい。けれど、同じ手口を繰り返す者は、必ずどこかに痕跡を残している。
五十嵐は結婚詐欺の難しさも口にした。被害者の多くは騙されたことを恥じて訴え出ない。だから事件は記録に残らない。けれど詐欺師は同じ手口を必ず繰り返す。成功した型を人は手放せないからだ。名前を変え場所を変えても口説き方や金の引き出し方は変わらない。同じ種類の獲物を選ぶ。同じ嘘の物語を語る。だからどこかに必ず似た被害が眠っている。五十嵐はその痕跡を探すと言った。テレビの世界には過去の応募者の情報が残っている。出演を断られた者の記録もある。鷹野がこの番組に来る前にどこで何をしていたか。少しずつ手繰っていけば必ず糸口が見つかるはずだった。詩織はその地道な作業に望みを託した。
回線を切ったあと詩織は居間にいる鷹野をそっと観察した。以前と同じ完璧な笑み。以前と同じ隙のない気配り。けれど詩織の眼にはもう以前とは違うものが見えた。前の詩織なら鷹野の完璧さを不自然だと感じてもどこかで自分の疑いを疑った。これは確証バイアスではないかと自分を縛った。けれどいまは違った。湊のことで一度大きく間違えたからこそ詩織は自分の眼の限界を正確に知っていた。眼は表面しか映さない。だから眼だけでは裁かない。眼で見たものを信頼という別の力で確かめる。鷹野が香田に向ける視線にはやはり熱がなかった。値踏みする冷たさだけがあった。それは八重の手の震えとはまるで違うものだった。八重の震えには痛みがあった。鷹野の冷たさには痛みがひとかけらもなかった。痛まずに人を傷つけられる者。それが本物の捕食者だった。詩織はその違いを今度こそ取り違えなかった。
回線を切ったあと、詩織は、胸ポケットの紙片を、もう一度、取り出した。
湊の住所。湊の番号。
詩織は、修復室で見たあの本のことを思った。背が割れ、ページが焼け、糸がほつれた古い本。湊はそれを捨てなかった。直そうとした。痕を抱えたまま、また読まれるように。
あの本は、私だ、と詩織は、ようやく、はっきりと、思った。
八年前に壊れて、棚の奥にしまい込まれた一冊の本。誰にも読まれないように固く閉じて、埃をかぶっていた。湊はその本の背に、そっと手を伸ばそうとしていた。けれど、詩織は許さなかった。勝手に直すな、と突き放した。直されることが怖かった。直されれば、また開かれる。開かれれば、また傷つく。
でも、と詩織は思った。
閉じたままの本は、守られているんじゃ、ない。忘れられていくのを、待っているだけだ。
詩織は、湊の番号を、見つめた。
信じる、というのはこういうことだった。湊が本当のことを言わなかった、その理由を詩織はもう知っている。知った上で、なお彼を信じる。証拠ではなく、人を。事実ではなく、真実を。詩織が八年間、一度もしなかったこと。
けれど、その前に、やるべきことが、あった。
香田を守る。鷹野を現認する。湊に胸を張って会うために。私はもう、無実を壊す女ではない。今度は本物の悪意を見抜いて、本物の人を守る。その姿を見せてから、湊の扉を叩く。
現認するには条件があった。鷹野が香田から何かを奪う決定的な瞬間を最初から最後まで眼を切らずに捉えること。万引きの四要件とまったく同じだった。選び隠し精算せず持ち出す。その一本の線が一度でも途切れれば確保はできない。詩織はこれまで何百回もその線を引いてきた。けれど今度の相手は財布や指輪を盗む者ではなかった。人の心と人生をまるごと盗む者だった。形のないものを奪う瞬間をどう現認するか。詩織は考えをめぐらせた。答えはまだ見えなかった。けれど見えないからといって立ち止まる気はもうなかった。見えない先へ踏み出すこと。それこそが信じるということだった。
詩織は紙片を、再び胸にしまった。鼓動が速くなっていた。けれど、それは確保の前の、あの冷たい速さとは違った。温かい速さだった。
窓の外で、夏の海が光っていた。けれど、岬の風にほんの少しだけ、秋の匂いが混じり始めていた。季節が静かに動こうとしていた。詩織のなかでも、何かが動こうとしていた。
詩織は胸ポケットの紙片の硬い感触を確かめた。湊の住所と番号。それは扉の鍵のようなものだった。叩けば開く扉がこの世にひとつだけ残されていた。八年間詩織はどんな扉も自分から叩いたことがなかった。叩けば中の人に自分を見られてしまう。見られれば見抜かれてしまう。見抜かれれば壊されてしまう。そうやってすべての扉の前で踵を返してきた。けれど今度は違った。詩織はこの扉だけは自分から叩くと決めていた。たとえ向こうで断られても恨まれても叩く。叩くことが信じることだった。信じることが詩織にとって生まれて初めての勇気だった。
ただしその前にやり遂げねばならないことがあった。鷹野の現認。香田を救い出すこと。半端なまま湊の扉を叩くことはできなかった。詫びるためにではなく胸を張って会いに行くために詩織はまず自分のすべきことをやり遂げる必要があった。壊れた本が誰かに直されるためにはまずその本自身が直されてもいいと願わなければならない。詩織はようやくそう願えるようになっていた。長い長い八年の果てにたった一人の静かな男のおかげで。詩織は窓の外の夏の海をもう一度見た。光は強かった。けれど風には確かに秋の気配が混じっていた。最終収録の日が近づいていた。詩織はその日に賭けると決めた。賭けて勝つ。今度こそ誰も壊さずに誰かを救うために。




