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万引きGメンが恋愛リアリティショーに参加する物語  作者: もしものべりすと


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第十六章 闇夜

空が白み始めた頃、庭に、足音がした。


 八重だった。ショールを羽織り、二つの湯飲みを、盆にのせて運んできた。何も言わず、詩織の隣に腰を下ろし、一つを、差し出した。温かいほうじ茶だった。湯気が、夜明け前の冷たい空気に、ゆっくりと立ちのぼった。


「眠れないのね」八重は海を見ながら言った。


 詩織は、湯飲みを、両手で包んだ。冷えきった指先に、じんわりと、熱が染みた。


「朝凪さんを、送ってきたわ」八重は静かに言った。「あの人、最後に、笑ってた。これでよかったんです、って。あなたを、恨んでなんかいなかった」


 詩織の喉が、詰まった。


「私が、壊したんです」詩織はかすれた声で言った。「あの人の、何も知らないで。私は、いつも、そう。人の、いちばん大事なところを、踏みつぶす。これで、二人目です」


 八重は、しばらく、黙っていた。それから、ぽつりと言った。


「あなたね、人の壊れたところが、見えすぎるのね」


 詩織は顔を上げた。


「私も、壊れてるのよ」八重は海を見たまま微笑んだ。寂しい微笑みだった。「自分でも止められないことがあるの。気づくと、手が勝手に動いてる。誰にも言えなくて、ずっとひとりで抱えてきた。あなたの眼には、たぶん見えてるんでしょう」


 詩織は息を呑んだ。八重の震える手。簞笥の奥の、布の包み。泣きそうな、横顔。詩織は、すべてを、見ていた。けれど、何も、言わなかった。言えなかった。


 八重は自分の手のひらをじっと見つめた。この手が勝手に動くのだと八重は言った。若い頃からだった。寂しくてたまらない夜にどうしても止められなくなる。盗みたいわけではない。欲しいわけでもない。ただ手が伸びてしまう。そして盗ってしまったあとで誰よりも自分を責める。夫が生きていた頃は夫がそばにいてくれたから手は静かにしていた。夫が逝ってからまた手が動き始めた。八重は自分の病をそう語った。詩織はその告白を黙って聞いた。八重の手の震えは欲ではなかった。埋まらない寂しさの形だった。それを詩織の眼はとうに見抜いていた。見抜いていながら罰の言葉には変えなかった。それが八年前の自分との違いだった。詩織のなかで何かが少しずつ変わり始めていたのだ。自分でも気づかないうちに。


「見えてても、あなたは、言わなかった」八重は詩織を見た。皺の刻まれた目元が、優しく下がった。「指輪のことも。私の手のことも。全部、見えてたはずなのに、あなたは、私を、突き出さなかった。なぜだか、分かる?」


 詩織は首を振った。


「あなたが、本当は、人を、壊したくないからよ」


 その一言が、詩織の、固く閉じた胸の、いちばん奥の扉を、そっと、叩いた。


 詩織はずっと、自分の眼を呪いだと思ってきた。人を見抜き、壊す眼。けれど、八重の指輪のときは、現認できたはずなのにしなかった。動機の矛盾の前で、判断を保留した。八年前なら、保留しなかった。なぜ、変わったのか。


 答えは、簡単だった。詩織は、八重を、壊したくなかったからだ。


「あなたの眼はね」八重はゆっくりと言った。「人を壊すための眼じゃ、ないのよ。あなたが、ずっと、そう思い込んでただけ。本当はね、あなたは、誰よりも、人を壊したくない人なの。だから、見えすぎる眼が、怖いの。見えたら、また、壊すかもしれないから。それで、あなたは、誰のことも、信じないことにした。信じなければ、近づかない。近づかなければ、壊さない。そうやって、自分を、守ってきたのね」


 詩織の視界が滲んだ。八年間、誰にも見抜かれなかった自分の心の、いちばん深い場所を、この老女はまっすぐ言い当てた。


 眼は、人を見抜くための、力ではなかった。


 眼は、人を、信じないための、盾だった。


 詩織はずっと、見ることと信じることを同じだと思ってきた。見抜けば、分かる。分かれば、間違えない。けれど、それは逆だった。どれだけ見ても、人のいちばん大事なところは見えない。藤村しずの病も、湊の祈りも、眼には映らなかった。見ることではたどり着けない場所がある。そこへ行くには、別の力がいる。


 信じる、という力だった。


 見えないものを、それでも信じる。証拠がなくても賭ける。湊はそれを教えようとしていた。壊れたものは直せる。けれど、直すにはその人の許しがいる。勝手に直せば、その人のものではなくなる。信じるとは、相手に自分を直してもらう許しを与えることだった。詩織は八年間、誰にもその許しを与えなかった。だから、誰にも直してもらえなかった。


 詩織はようやく自分の生き方の正体を理解した。人を見抜くことは安全だった。見抜いている限り誰にも騙されずにすむ。騙されなければ傷つかない。だから詩織は誰と会ってもまず相手の嘘を探した。嘘を見つければ安心できた。やはり人は信用できないと確かめられた。確かめるたびに詩織はますます一人になった。見抜く力は詩織を守ると同時に詩織を世界から切り離した。誰も信じない者のところには誰も近づいてこない。八年間の孤独は呪いの結果ではなかった。詩織が自分で選んだ安全の代償だった。安全な孤独と危険な信頼の二つがあるならば詩織はいつも迷わず前者を選んできた。それが間違いだったとは今まで一度も思わなかった。


 空が、明るくなっていく。海が、夜の色から、朝の色へと、変わっていく。


 詩織は、湯飲みを、握りしめた。


 私はまた、間違えた。湊を信じなかった。けれど、と詩織は思った。鷹野のことは間違えていない。あの男の捕食を、この眼は確かに捉えた。私の眼は無価値ではない。間違えたのは眼ではなく、信じる勇気を持たなかった私自身だ。


 眼と、信じる勇気。その二つが揃ったとき、初めて私は本物にたどり着ける。湊が最後に言った。その眼で本物を見てください、と。


 詩織は立ち上がった。


 もう、闇の底にはいなかった。やるべきことが、はっきりと見えていた。香田を守る。鷹野の狩りを止める。そのために今度こそ、眼と信じる勇気を両方使う。


 考えてみれば自分はずっと半分の力しか使っていなかった。見ることだけはした。けれど信じることは一度もしなかった。片方の翼だけで飛ぼうとして地面に落ちつづけてきた。湊が教えてくれたのはもう一枚の翼だった。見えないものを信じる勇気。証拠の向こうへ踏み出す勇気。その勇気を持って初めて眼は人を救う力になる。詩織は自分の両手をひらいてみた。冷えきっていた指先にいつのまにか血の温もりが戻っていた。


 そして、湊に、もう一度、会う。信じる、と、伝えるために。


 朝日が海の向こうから昇り始めていた。詩織はその光を、まっすぐ見つめた。八年ぶりに、まぶしさから目を逸らさなかった。


 隣で八重が静かに笑った。いい目になったわねと八重は言った。詩織は初めて自分の眼を恥じずにいられた。この眼はもう呪いではなかった。使い方を間違えていただけだった。八重の湯飲みはもう空になっていた。二人はしばらく並んで朝日を見ていた。波が金色に光りながら寄せては返した。やがて詩織は八重の方を向いて深く頭を下げた。あなたのことは誰にも言いません。でも一人で抱えなくていい方法を一緒に探しましょう。八重の目にうっすらと涙が浮かんだ。長いあいだ誰にも言えなかった荷物をようやく半分だけ誰かに預けられた者の涙だった。詩織はその涙を見て自分のなかにも温かいものが戻ってくるのを感じた。人を裁くためでなく支えるために眼を使う。それがどんな感触なのか詩織は生まれて初めて知ろうとしていた。家のなかではまだ誰も起きていなかった。けれど詩織の長い闇夜は明けたのだった。

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