第十五章 また、壊した
翌日、番組から、湊の姿は消えた。
スタッフは、出演者には、体調不良による途中辞退と説明した。けれど詩織は本当の理由を知っていた。誰よりもよく知っていた。なぜなら、それを作ったのは、自分だったからだ。
修復室は、空っぽになっていた。机も、道具も、片づけられていた。古い紙の匂いだけが、まだ、かすかに残っていた。詩織は、その部屋に、何度も足を運んだ。誰もいないと分かっていて、それでも、通った。眼を休ませることのできた、唯一の場所。それも、自分の手で、壊した。
詩織は誰もいない机の前に座ってみた。さっきまで湊がいた椅子だった。木の座面にはまだほんのりと体温が残っているような気がした。気のせいだと分かっていた。それでも詩織はしばらくそこを動けなかった。この部屋で過ごした時間だけが八年間で唯一誰も傷つけずにすんだ時間だった。誰かの隣にいて相手を疑わずにいられた時間。眼を休ませて息を深く吸えた時間。その時間がもうどこにもないという事実が詩織の体から少しずつ力を奪っていった。人は失ってから初めてそれが何だったかを知る。詩織が失ったのは恋という言葉だけでは足りなかった。もっと根の深い何かだった。信じてもいいのかもしれないという生まれかけの希望そのものだった。
報酬のことを、詩織は思った。
潜入の目的は、果たしていなかった。家の嘘を、現認する。それが、五十嵐との契約だった。詩織が現認したのは、捕食者の嘘ではなかった。妹を悼む兄の、悲しみだった。報酬は、まだ、詩織の手のなかにない。藤村しずの遺族への支払いは、終わらない。けれど、もう、そんなことは、どうでもよかった。
お金のために、八年前と同じことを、繰り返した。無実の人を、自分の眼で、壊した。それが、すべてだった。
その日から、家の空気は、目に見えて、鷹野のものになった。
湊という、唯一、群れの論理に染まらない男がいなくなった。家のなかの均衡が、崩れた。鷹野は、その隙間に、するりと入り込んだ。落ち込んだ者を慰め、不安な者に寄り添い、いつのまにか、全員の心の真ん中に、座っていた。とりわけ、香田との距離を、急速に縮めていた。
詩織はそれを見ていた。見えていた。鷹野が香田の心を、少しずつ自分のものにしていく手口が、手に取るように見えていた。
けれど、詩織は動けなかった。
動く資格が、なかった。自分の眼を、もう、信じられなかった。眼が見たものを、人前で言えば、また、誰かを壊すかもしれない。湊のときのように。藤村しずのときのように。詩織の眼は、確かに、鷹野の捕食を捉えていた。けれど、その確信こそが、いちばん、危険だった。八年間、詩織を崖から突き落としてきたのは、いつも、その確信だった。
見えているのに、動けない。動けば、また壊すかもしれない。詩織は自分の眼を、自分で封じた。眼を封じられた保安員は、ただの何もできない女だった。
夜、詩織は、庭の隅に、ひとり座っていた。
潮風が、頬を撫でた。海の音が、絶え間なく、続いていた。詩織は節子のことを思った。向こうで、ちゃんとお食べ。そう言って、握り飯を、持たせてくれた。海苔の匂い。あの夜、節子は言った。怖いってことは、失いたくない何かが、できかけてるってことよ。
失いたくない何かは、できた。そして、失った。自分の手で。
詩織は膝に顔を埋めた。涙は、出なかった。八年間、詩織は、泣き方を、忘れていた。泣く資格すら、ないと思っていた。藤村しずを壊した自分が、泣いていいはずがない。湊を壊した自分が、悲しんでいいはずがない。詩織は、自分の悲しみさえ、自分に、禁じた。
目を閉じると八年前の藤村しずの顔が浮かんだ。事務室の冷たい椅子に小さく座っていた老女。震える手。誰にも信じてもらえなかった乾いた声。あの人は半年で痩せて一年と経たずに亡くなった。詩織はその死を八年間背負ってきた。背負うことが償いだと思っていた。けれど償いにはなっていなかった。なぜなら詩織は何も変わっていなかったからだ。同じ眼で同じように人を裁き同じように人を壊した。背負うだけで変わらないなら背負う意味などなかった。藤村しずは詩織のなかで一度も赦してくれなかった。当たり前だった。赦されるはずがなかった。詩織が自分自身を一度も赦していないのだから。赦していない者は同じ過ちを何度でも繰り返す。罰を受けることと変わることはまるで別のものだった。
いっそ、ここを、出ていこうか。
そう思った。報酬などいらない。藤村の遺族への支払いは、一生かけて自分の給料で払えばいい。この家にいても、もう何もできない。眼を封じた女に、できることなど何もない。
けれど、立ち上がろうとして、詩織の足は、止まった。
庭の向こうの窓に、香田の姿が見えた。鷹野と、二人で、何かを話していた。香田は、嬉しそうに、笑っていた。その笑顔が、桜貝を差し出したときの、あの無防備な笑顔と、同じだった。
詩織の胸が、軋んだ。
窓の向こうの香田を見ながら詩織は鷹野の手口を順に思い描いた。まず特別だと思わせる。次に誰よりも自分を理解していると信じ込ませる。そうして相手が完全に依存したところで少しずつ奪い始める。お金を時間を判断する力を。被害者は奪われていることに最後まで気づかない。気づいたときにはもう逃げられない。それが結婚詐欺という狩りの形だった。恋という最も無防備な場所で人を狩る者の形だった。詩織はその輪郭をはっきりと見ていた。見ているのに声をあげられなかった。声をあげる資格を自分で捨ててしまったからだ。
ここを出れば、香田はどうなる。鷹野の狩りは、止まらない。誰も、それを、見抜けない。見抜けるのは、この家で、自分だけだった。眼を封じて逃げれば、もう一人、壊れる。今度は、自分のせいではない、と言えるだろうか。見えていたのに、見ないふりをして、逃げた。それは、壊すのと、同じではないのか。
詩織は、その場に、立ち尽くした。
逃げることもできない。動くこともできない。眼を使えば、誰かを壊す。眼を封じれば、誰かが壊れる。どちらに転んでも、人が傷つく。詩織は生まれて初めて、自分の眼が心の底から憎かった。
海が、暗く、ざわめいていた。その夜、詩織は、人生で、いちばん深い、闇の底に、いた。
詩織はその夜ずっと庭に座っていた。家のなかの灯りがひとつずつ消えていった。出演者たちが眠りについていく。鷹野も香田も八重も。みな今日という日を当たり前のように終えて明日を信じて眠る。詩織だけがどこにも帰れなかった。眼を使うことも封じることもできず動くことも逃げることもできない。あらゆる選択肢が誰かを傷つける方向にしか開いていなかった。これが八年間かけてたどり着いた場所だった。人の嘘をすべて見抜く力を磨いた果てに詩織は誰一人救えない場所に立っていた。見抜く力は人を遠ざける力だった。遠ざけた果てにいるのは完全な孤独だった。潮が満ちて庭の石段の下まで海が迫ってきた。詩織はその黒い水面をただ見ていた。何も見えない方角だけが詩織には優しく思えた。けれど詩織は立ち上がらなかった。海を見つめながらも体はその場から動かなかった。心のどこかで何かがまだ終わりを拒んでいた。香田の無防備な笑顔が瞼の裏でちらついて消えなかった。その小さな灯りだけが詩織を闇の底につなぎとめていた。その灯りが消えない限り詩織はまだどこかで立ち上がれるはずだった。




