第十四章 嘘の正体
夜明け前、詩織は修復室の灯りに気づいた。
眠れぬまま廊下を歩いていて、ドアの隙間から漏れる、細い光を見つけたのだ。詩織は、しばらく、その光の前に立っていた。入る資格などないと思った。けれど、足は、動いた。
湊は机に向かっていた。荷物を、まとめていた。直しかけの本を、布で、丁寧にくるんでいるところだった。詩織が入ってきても、振り返らなかった。
「出ていくんですか」と詩織は尋ねた。
「ええ。もう、ここにいる理由は、なくなりましたから」
その声は、責める色を、少しも含んでいなかった。それが、詩織には何より痛かった。責めてくれたほうが、楽だった。
「……一つだけ、聞かせてください」詩織は声を絞り出した。「あなたは、なぜ、名前を偽っているんですか」
湊は手を止めた。長い沈黙があった。海鳴りだけが、夜明け前の闇に、低く響いていた。やがて、湊は、布にくるんだ本を、机の上に、そっと置いた。
「この本は」湊は、本を見つめたまま、言った。「妹の、ものでした」
詩織の息が、止まった。
「四つ下の、妹でした。体が弱くて、ずっと、病院と家を行き来していました。外で遊べないぶん、本ばかり読んでいて。この本は、妹が、いちばん好きだった本です。子どもの頃、何度も何度も読んで、だから、こんなに、ぼろぼろになった」
湊の指が、傷んだ背表紙を、そっと撫でた。あの、何度も詩織が見た、優しい手つきだった。
「二年前の春に、亡くなりました」
二年前の春。詩織の頭のなかで、本の見返しに書かれた、あの日付が、よみがえった。女性の名前と、短い言葉と、日付。あれは、亡くなった妹への、湊の献辞だったのだ。同情を引くための小道具ではなかった。弟が、姉に――いや、兄が、妹に捧げた、たった一人のための、祈りの言葉だった。
「妹は最後に、二つのことを僕に頼みました」湊の声は静かだった。「一つは、この本を必ず直してほしい、と。自分がもう読めなくなっても、この本だけはちゃんと直して、誰かに読まれるようにしてほしい、と」
詩織は何も言えなかった。
「でも、僕は、本の直し方なんて、知らなかった。妹が死んでから、ゼロから、修業を始めたんです。古い工房を訪ねて、頭を下げて。何年もかけて、ようやく、人並みに、直せるようになりました」
工房に記録がないのは、当然だった。湊は正規の弟子ではなかった。妹との約束を果たすためだけに、頭を下げて、技術を、拾い集めてきたのだ。詩織が、嘘の証拠だと思ったものは、すべて、約束の、痕跡だった。
詩織は自分が集めてきた証拠の一つ一つを思い返した。記録にない名前。戸籍にない過去。語られた年月のずれ。本に挟まれた女性の写真。見返しの献辞。そのどれもが嘘の証拠に見えた。けれど今ひとつの真実の光に当ててみればすべてが正反対の意味を持っていた。記録のない名前は新しく生き直すための名前だった。消された過去は救えなかった悲しみだった。年月のずれは妹の死から始まった独学の時間だった。写真の女性は標的ではなく失った妹だった。献辞は同情を引く小道具ではなく祈りだった。同じ事実が解釈ひとつでこれほど反対の姿になる。詩織はそのことの恐ろしさに今さらながら身を震わせた。事実は真実ではない。事実をどう読むかが真実を決める。そして詩織はいつも最も冷たい読み方を選んできた。
「もう一つの頼みは」湊は初めて、詩織の方を見た。「兄さんは人を遠ざけて生きすぎだ、と。私が死んだら、きっともっと心を閉じてしまう。だから、約束して。もう一度、ちゃんと誰かを好きになる、って」
詩織の視界が、滲んだ。
「妹はこういう番組が好きだったんです。病室でよく見てました。いつか兄さんも、こういう場所で誰かと出会えたらいいのにね、って笑って言ってた。だから僕は、ここに来たんです。妹との約束を果たすために」
「……名前は」詩織は、かすれた声で、聞いた。
「朝凪、というのは、僕の、本当の名字じゃありません」湊は薄く笑った。寂しい笑みだった。「妹が死んだあと、僕は、昔の自分の名前で、生きていけなくなった。あの名前の僕は、妹を、救えなかったから。だから、新しい名前で、やり直すことにした。朝凪。嵐のあとの、凪いだ海。妹が、最後に見たいと言っていた、あの、静かな海から、もらった名前です」
部屋の窓の外で、空が、わずかに白み始めていた。海が、夜の色から、夜明けの色へと、ゆっくり変わっていく。凪いだ海だった。
詩織は立っていられなかった。
偽りの名。作られた経歴。深い喪失。果たされていない約束。詩織が、嘘の証拠として並べたものは、すべて、本当だった。すべて、本当の、悲しみと、優しさだった。詩織は、それを、握りつぶした。八年前と、まったく同じように。慌てた老女の指の震えを、嘘と読んだように。妹を悼む兄の祈りを、人を騙す手口と読んだ。
詩織の眼は、また、正しく、間違えた。
正しく間違える。それが詩織の眼の正体だった。眼は事実を決して見逃さない。けれど事実の奥にいる人間を見ようとしない。慌てた老女の奥にあった病と孤独を見なかった。名を変えた男の奥にあった喪失と祈りを見なかった。詩織の眼は表面だけを完璧に捉えそしてその下にある一番大切なものを必ず取りこぼした。見抜く力とは結局のところ人を信じない力だった。信じないと決めた眼にはどんな優しさも策略に見える。どんな祈りも手口に見える。詩織は八年かけて磨いてきた自分の武器が実は自分を守るための殻でしかなかったことに気づき始めていた。けれど気づくのが遅すぎた。気づいたときにはもう湊は鞄に本をしまっていた。
「ごめんなさい」詩織は言った。声が、震えていた。「私は、あなたを……」
「いいんです」湊は首を振った。「あなたは、あなたの仕事をした。それだけです。僕が、本当のことを、言わなかった。それも、僕の選んだことです」
その優しさが詩織を、いっそう打ちのめした。湊は最後まで、詩織を責めなかった。直したくない人のものは無理には直さない、と湊は言った。勝手に直すと、それはその人の本じゃなくなる、と。湊は詩織の罪悪感さえ、無理に消そうとはしなかった。
湊は、布にくるんだ本を、鞄に入れた。そして、修復室を、出ていこうとした。
ドアの前で、一度だけ、振り返った。
「あなたの眼は、本物です」湊は静かに言った。「だから、いつか、その眼で、本物を、見てください。嘘じゃなくて。本物を」
ドアが、閉まった。
詩織は、誰もいなくなった修復室で、ひとり崩れるように椅子に座った。古い紙の匂いだけが、まだ残っていた。夜が明けていく。けれど、詩織の胸のなかは、八年前よりも深い闇に沈んでいた。
窓の外で海が白んでいくのを詩織はただ見ていた。嵐のあとの凪いだ海。湊が妹からもらったという名前のとおりの海だった。けれどその静けさはもう詩織のものではなかった。詩織が壊したのだ。せっかく直されかけていた本をもう一度引き裂いたのだ。湊はあれだけの悲しみを抱えながら誰も恨まず壊れたものを直すことだけを選んできた。その湊を詩織は壊した。八年前は見知らぬ老女だった。今度は心を開きかけた相手だった。坂を転がり落ちるたびに失うものは大きくなった。次に転がり落ちるとき自分は何を失うのだろう。詩織にはもう失うものなど残っていない気がした。残っているのは取り返しのつかない後悔だけだった。詩織は冷たくなった指で机の木目をなぞった。そこにはまださっきまで湊の本が置かれていた温もりが残っているような気がした。気のせいだった。本も男も妹の祈りも全部この部屋から消えてしまった。残ったのは詩織ひとりだった。




